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2 河内村の研究

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 河内とは、河谷にそった平地の意である。河内川にそった一帯の地を河内村という。河内川は成河に起こっている。『地下上申』によれば、
  右小名之内成川と申所ハ、河内川の川上に川ニ成始りの序故、成川と申ならわし候
と記されている。河内川を成す処の意であろう。河内川は、ついで小野を通り出合・中戸原・大河内・八口・八丈に出て、西豊井村を通り海に注いでいる。河内村の一番奥の来巻も、また河内川の源流をなす。来巻の大蔵及び中の迫は『地下上申』によれば
大蔵村には
  尤小川水垰迫村え出、下松え出申候
中ノ迫村上ノ中迫には
  尤川水下松え出申候
とあって、いずれも久保市を通り出合に出て河内川に合流している。そうした点より、来巻も久保市も河内村の中に入っているのではあるまいか。しかし後世になると、来巻は成河・黒巻・小野方面との関係はうすくなり、久保市方面と交流が密接になり、自然に来巻は河内村をはなれ、来巻村として独立したのである。これは一つには来巻・久保市の川が、河内川の支流に当たるためではないだろうか。久保市即ち国道に沿った文化圏と、河内川に沿った文化圏との間には、異質のものがあるように感じられるのである。古来、久保市は河内村の枝村といわれていた。
 河内村の小字のうち、八口は『地下上申』には
右小村の内八口村と申ハ、下松・末武・花岡・生野屋・山田・窪市・吉原・八条、此八ケ村より入つとひ申よしにて、往古ヨリ八口と申ならわし候
とある。即ち八方に通ずる交通の要衝と思われる。また八丈については、『地下上申』に
右小名之内八条と申ハ、吉原の南の山高き所にて御座候、然所ニ当村之内石城山・末武之鷲頭城山・徳山栄谷城山・富田建咲院の城山・富田上村城山・矢地之若山城山・戸田村之湯野々之城山・富海茶臼山之城、此八ケ所の城山はるかに見え候故、八城と申たるよし申伝へ候、此山に千人塚と申、于今土塚御座候、往古乱勢之節戦場ニて御座候哉、刀なとのおれ中古まてハ数多有之候、此山麓故八城と申をいつの頃か書あやまり、今八条と書来り申候事
と記されている。現地に立って望見すると、戸田・富海の城山は見ることはできないが、遙かに遠方までは見ることができる。これは八城でなく、むしろ八条ではないかと思う。条は條に通じ道の意で、八方に道が通じている意ではあるまいか。昔は人の往来により、道が自然にできたのである。八口と同じ字義かと思う。
 『元和検地帳』の岡二郎右衛門の給領地に
  下河内塩入但開作
   田二反四畝十歩 米一石八斗八升 六右衛門
  同書塩入右同シ
   畠一反     米五升     同人
と記されているのを見れば、下河内即ち河内村の下(しも)に当たる八丈の辺りまで海水が入っており、開作されていたと思われる。このことは昔より言い伝えられ、また、この地域を掘れば貝殻が出てくることからも言えよう。大河内辺りまでは舟でのぼり、大河内で舟より降りて奥地にいったという伝説もある。
 この地は地区からいえば西豊井村殿ケ浴である。現在この地に住んでおられる弘中益次郎・弘中捨松両家は、会合(かいごう)は昔から八丈であったと言われる。弘中家の記録には「かわら八丈」と記されているように、昔は八丈であったと思う。また殿ケ浴の地勢をみるに、道路が山際を通じ湾曲しているが、昔は海に沿ってあったものかと思う。豊井村熊より通じる道も、熊より山を越して殿ケ浴にきており、鷲頭氏の住居趾と考えられる土地が、河内川の河岸の殿ケ浴にあったと考えられ、河内村・豊井村との境界線を考えても、殿ケ浴まで海水が上っていたと思う。伝説によれば、三十三間堂の棟木を切山村より切り出し、河内川を下り船で運んだといわれているが、切戸川の河口の浅所寺・正福寺等の寺院より考えても、古代の河内川は大きな川であったと思われる。また、八丈には鷲頭氏の菩提寺があったという伝説がある。経蔵・大門といった地名も残り、鷲頭氏が破れたとき寺に火をつけて逃げたが、地下に金銅仏を埋めたという伝説がある。
 毛利氏が妙見山に鷲頭寺を建てたのはその後である。
 河内川の源流は成河で、次は黒杭・小野であるが、この地域は焼畑の地で、焼畑農業が行われていたと思う。
『元和検地帳』の屋敷数について調べると
  かわら十四 そり十三 はつこう八
とある。そりは焼畑のことである。黒杭については『地下上申』に
右小村之内黒杭村と申ハ、先年雑木の杭数多くろくくさり、それえ黒き茸物の見事に出候ニ付、世間より人々見物に来り詠め居候時分、有人のいわく此茸のどだひは黒杭のと申ニ付、それより申ならわし候
 とあって、この黒い杭は焼畑に残されたものと思う。この地方では焼畑が行われていたものであろう。黒杭につづく小野は、昔より小野黒杭とつづけていわれているように、地勢や風習がよく似ている。小野もまた焼畑地帯であると思う。
 焼畑は原始林を焼き払い、そのあとに播種して数年間畑作を行い、地力が減耗すればその土地を放棄し、再び山野になれば焼畑を行っていた。あとは地勢によって焼畑を普通の畑にするとか、川に沿った平地は河水を利用して水田とし、水稲を栽培した。そり田の地名がしばしば出てくるのは、このことを証する。厳密にいえば、焼畑からできたのは畑(ハタ)で、火扁であることも、火に関係しているからという。普通のを畠(ハタケ)といい、畑と区別して使っている人もいる。焼畑では主にヒエ・アワ・ソバ・アズキ・里芋等を作っていた。本格的な焼畑農業者になると在所(村)より山(焼畑)に入り、何年間も山生活をしていたという。
 こうした焼畑農耕をする一方、次第に水田耕作に移っていった。畑を水田にするため、延々と四粁にも及ぶ水路が山際に築かれているのをみると、古人の水田への愛着と米作への魅力を感ずるのである。『元和検地帳』には、そりの地名が十三ケ所出ているが、『寛永検地帳』には一ケ所になっている。これは焼畑から水田に転換されたためであろう。
 左に『新南陽市の民俗』に所載されている焼畑の耕作方法を摘要しよう。
 カズラや雑草は鎌で刈り、雑木などはナタガマ(エナタ)で切り倒し、刈った後は十日ぐらいそのままにして天日で乾かす。火をつける時は山の上の方からつける。火がじわじわと燃えておりるので、山の土がよく焼け、草や木の根を焼く。焼け残りはもう一度集めて焼く。ソバは二百十日までには植えてしまう。種まきをしてハタの下の方からチョウグワで土を耕してゆくと、ソバの種は土の下にかくれる。ハタは山の急斜面につくるのでウネをたてない。ソバは成長が早いので十一月のはじめには収穫するが、一反から四、五斗もとれた。ソバを刈るとナタネが芽を出す。これは種をまいたのでなく自然発芽である。ナタネの種は七年位前のものでも自然に芽を出す。ナタネの後には日当たりのよい高い所にはアワを植え、アズキは低い日当たりの悪い所に植えた。アワもアズキも稲と同じころ収穫したが、アワは一反で二~三斗、アズキは一~二斗とれた。タカキビは大正、コキビは昭和になってから作りはじめたという。
 焼畑の耕作は重労働であったが、収入はよかったと昔からいわれている。
 小野黒杭の河内川は、出合で奥からの久保市川と合流(出合の意)した。
 出合の次は中戸原である。戸には狭い意がある。中戸原は中位の広さの原である。次は河内村で一番大きい大河内である。上より小さい野の小野、ついで中位の原の中戸原、大きい河内の大河内と考えると、小、中、大と順次に並んでいるのが興味をひく。次の八口・八丈については前述のとおりである。
 河内村全体は鷲頭山の麓にあって鷲頭庄といわれていた。鷲頭氏の勢力下にあり、妙見社の氏子である。鷲頭氏は大内氏の分かれである。大内氏の守護神である北辰尊星王大菩薩を祀る妙見社は、大内氏の尊崇篤き社であった。鷲頭氏の由来について考えるに、鷲頭氏の名が始めて史上に出たのは、『玉葉』治承二年(一一七八)十月八日の条に
  被召還流人 多々良盛保伊豆
とあって伊豆国より召還されている。
 『防長地名淵鑑』によれば
盛保は系図に但馬守鷲頭三郎とありて鷲頭氏の祖なり。此庄を食みて氏に負へるなり。按るに鷲頭庄は大内氏の始祖琳聖太子守護の為に北辰尊星降臨の地と伝えられ、北辰尊星王大菩薩の社鎮座あり。此庄を食みて神社に奉仕することは甚だ重き事とせられ、特に宗室を置きたるなるべし
とある。鷲頭氏・鷲頭山・鷲頭庄・鷲頭寺とあるが、いずれも鷲頭氏の名が起源と思われる。
 鷲頭山の附近の山名をみると、高鹿垣・畠岡・白坂山等がある。いずれも自然の地形より名づけられたもので、古い時代のものと思う。鷲頭山は鷲の頭と書かれているが、鷲はこの地方では珍しく、猛禽類である。群鳥に君臨している鷲、他の鳥を支配している王者(頭)の意があるように思う。
 大内氏の庶流についてみるに、宇野・右田・間田・益成・黒川・江木・末武・矢田・冷泉は平凡な姓名にすぎない。
 こうした点より考えて、鷲頭の名は特異であるのに気付くのである。権力を自負する者によって名づけられたものであろうと思う。こうしたことが尊星降臨の伝説にも関わってはいないだろうか。また、こうした野望から流罪といった事件が起きたのではないだろうか。これは全く私の空想的な憶測にすぎないのである。
 妙見社について『鷲頭山旧記』により記してみよう。
抑日本最上北辰尊星王之降臨者、人王三十四代推古天皇之御宇三年乙卯九月十八日、周防国都濃(ツノ)郡鷲頭(ワシノヅ)庄青柳浦(アオヤキウラ)松樹、大星天降(アマクタリ)而七日七夜赫々而不輝、郷人奇異之成疑慮、于時託巫人吾是北辰也、今経三年百済国之皇子可来朝、為其ノ擁護北斗于此為下降云々
と記し、ついで
同秋(推古天皇五年)琳聖太子、当国都濃郡青柳浦桂木山嶺に宮殿御建立、九月九日参籠ありて、百済国より持来の北辰尊星之御神体を之に納め、琳聖日本に於て始て北辰星供を修せらる、是より北辰妙見尊星王と称し奉る、九月十八日祭日と定め、鷲頭庄氏神と崇敬し奉るなり
ここ桂木山に宮殿を建てられ、琳聖太子御持来の北辰妙見尊星王をお祭りになったのである。
  桂木山之麓に下宮あり、御霊者北辰妙見尊星勧請之御宮也、氏子之に参籠す
桂木山の麓に下宮が建てられ、北辰妙見尊星の分霊が祀られ、一般の氏子が参籠していた。
  推古天皇十一年癸亥秋、高鹿垣之嶺星宮御建立是を上宮と云ふ。御霊者北斗七曜石を之れに納めらる。
高鹿垣に上宮が建てられ北斗七曜石が祀られたのである。
  桂木山之麓社坊一宇御建立閼伽井坊と号す、此処に井あり閼伽井と号せり、是井妙あるを以て後世豊井と云々
海に囲まれた桂木山周辺の真水(まみず)の湧水によって、ここが住民の定住地となり、この湧き水は神仏の恩恵と考えられたにちがいない。このため社坊も建てられたのである。ついで
推古天皇十七年己巳、琳聖太子鷲頭山頂星堂御建立上宮中宮也、高鹿垣之宮桂木山之宮を移されしなり、上宮者星檀と云ふ、北斗七曜石并七宝之玉を納之、中宮者妙見星之像納之
これによれば、上宮には高鹿垣の宮を移され、北斗七曜石が祀られた。また、中宮には柱木山の宮を移されたもので、妙見尊星王像が祀られたのである。
 この宮殿の移転は、鷲頭氏の勢力の伸張と考えられる。即ち鷲頭氏が奉ずる妙見社が奥地に前進していったことは、鷲頭氏の政治力の範囲が奥地に浸透していったことを意味している。
 鷲頭山の上宮は、周りの連山より一きわ遠方より望まれる。妙見山は祭祀の山であると共に、軍略の山であったと思う。高鹿垣・旗岡山・末武城山・来巻嶽山が鷲頭山を取り巻き、妙見山は軍事上の要塞をなしているように思う。
 移転の年数を考えるに、推古天皇五年(五九七)(桂木山創建)、推古十一年(六〇三)(高鹿垣山建立)、推古十七年(六〇八)(鷲頭山建立)で、六年ごとに移転になっている。これは勢力の伸張によるか、たんなる建物の移築によるか、いずれにしても、転移があまりに短日月であるように思われる。後日の研究にしたい。
 この妙見社の移築を記した『鷲頭山旧記』は
  于時天正三(一五七五)乙亥三月吉祥日 妙見山別当 宮司坊現世 権大僧都源嘉在判
と記され、また
鷲頭山旧記一巻蠧損之跡多 而恐伝故再奉書写畢 于時文化四(一八〇七)丁卯七月二十一日 妙見社別当 鷲頭寺現住 権大僧都法印恵実在判
即ち天正三年(一五七五)、宮司坊源嘉が記し、文化四年(一八〇七)、鷲頭寺恵実が補訂したもので僧職の記録である。
 これに対し鷲頭山妙見縁記がある。神職金藤左衛門の家に伝わる控の写である。両書の間には多くの異同があるが、これは社僧と神職との間に確執があったためと思う。これらの問題について両書を比較してみよう。鷲頭山妙見縁起では
  推古天皇三年(五九五)(桂木山建立)元明天皇和銅二年(七〇九)(高鹿垣山建立)村上天皇康保元年(九六四)(鷲頭山建立)とある。
 この妙見縁起は
  于時長元二年(一〇二九)己巳六月十五日神主十五世藤原友益謹写
と記されている。古来、『鷲頭山旧記』の説が流布しているが、縁起の説も参考にすべきであろう。
 尊星降臨について旧記に
  推古天皇三年(五九五)、鷲頭庄青柳浦松樹に大星天降り百済国の皇子を擁護するため
とあるが、妙見山縁起には
  敏達天皇七年(五七八)、豊井かなはの松に光り、高天原にまします神が、国土草木の豊壤のため
とされている。
 前書は琳聖太子擁護のためであり、後書は国土豊壤のためとある。
 また、降臨松の由来について旧記では
  降臨之松、連理之松、相生之松此三松之鼎松と謂ふ習也
とあるが、縁記には
かなはというは、降臨松、連臨松、相生松とて、三所に有て鼎足の如き故に鼎松と云しを訛て、かなはと云けむといへども、其連理相生の古跡もなければ偽也。又御社に懸る願の叶ふ故に、叶ふ松と云しも訛けむといふも皆非言也。按するに洲屋と申すも地名なれば、かなわも同しく地名にて上繩手の省ならむ。此辺繩手を繩といふ所多し。中繩手ハ今の大小路にて、下繩手ハ今の柳道にて有けむ。倶に森前といふ所にて出合北ハ一筋になる道也。
と記されている。
 大内茂村のとき妙見社を大内村氷上へ勧請された。ついで大内弘世(一三五二―一三八〇)の時に、七坊を鷲頭山に御建立になった。七坊は中之坊・宮之坊・宝樹坊・宝積坊・宝蔵坊・宝泉坊・別当閼伽井坊、別名宮司坊という。
 この七坊御建立は、弘世が白坂山で大内長弘・貞弘を破った後である。白坂山・高鹿垣の戦にも鷲頭山は攻撃せず、鷲頭山を戦場より避けたことは、鷲頭山の妙見社が大内家にとっては、家祖琳聖太子を祀る聖地であったからであると考えられる。
 大内義弘の時には、旧記に
七州ノ太守従四位上左京太夫大内之助多々良義弘、防長石筑豊之外内野合戦之賞紀泉両国和州宇多郡ヲ賜ハリ、御武運長久ノ宿願ニ因テ、義弘公鷲頭山ヘ五重塔、二王門、新ニ御建立
 于時応永元年甲戌歳(一三九四)
     社奉行  佐波六郎隆貞
とあり、中宮を囲み五重塔・二王門が建立された。現在、仁王門より中宮の間に礎石があるが、昔の社坊や五重塔の礎石と思われる。
 次のことは大内政弘の代で応仁元年(一四六七)に
法泉寺殿禁制
 周防国都濃郡鷲頭庄妙見山
右甲乙人等、当山にをいてかりの事、菟苗田狩等に至て永禁断せしめ畢、自今以后、若此制符にそむき、違犯のやからあらば、罪科に処すべきの状如件
 応仁元年四月二日(一四六七)
     法泉寺殿 多々良朝臣
とあるように、聖地妙見山では些少の殺生も禁ぜられていた。
 大内氏の開祖琳聖太子を祀る妙見社に対する鷲頭氏・大内氏の尊崇は厚く、中宮を囲む七坊の社坊の僧は、朝夕に鷲頭氏の護持繁栄を祈ったことであろう。
 上宮・中宮につぐ下宮は、もと桂木山の麓にあって、上宮・中宮の御神霊を勧請し、土民が参詣していた。大内弘世の時、下宮を吉原の赤坂に移し、ついで元和年中に毛利就隆は今の吉原の若宮の地に移し、一般善男善女が参詣した。上宮は女人禁制の霊地で女人は参拝できず、男子も参拝して帰るときは、中宮まではあとすだりして帰ったという。女人はすべて中宮裏の遙拝所より拝したと古老は語っている。
 弘治二年(一五五六)四月十八日、毛利氏は「妙見社の営をとり、大内氏亡び下松は毛利氏の下に平定された」と史書にある。これによれば、戦火は妙見社にも及んでいる。「妙見社の営」とあるからには、妙見社にも幾分かの防備がほどこされ、僧兵に類することも行われていたのではあるまいか。このたびの戦いは毛利氏対大内氏の戦いであった。以前の白坂山の戦いは、大内氏内部の争いであったので、鷲頭氏・大内氏ともに琳聖太子、妙見社を尊崇した。この弘治の戦の後、毛利氏も妙見社を大内氏の時代と同様に尊崇した。旧記によれば
多々良ノ家滅亡ノ後鷲頭山既ニ可廃ノ所、今公ノ高祖大江元就公、尼子御退治ノ宿願ニ依テ、社頭御修覆アリ、永禄年中之比 社奉行大庭加賀守平賢兼
また
 閼伽井坊を宮司坊と改め、今公高祖大江元就公鷲頭寺と改めり
また、古き『大般若奥書』に
 此全部六百巻事、或令勘得、或加書写、御本尊相添え、周防国都濃郡妙見山鷲頭寺常住奉寄付畢
  天正二年(一五七四)甲戌七月十三日吉日
                         檀越大庭加賀入道桃岳宗分 在判
                           勧進沙門当山前閼伽井坊[于時宮司]
                              権大僧都 源嘉 在判
とある。
 妙見山鷲頭寺の寺名が史書にあらわれたのは、永禄十二年(一五六九)が最初である。弘治二年(一五六六)の戦以後、妙見社の修覆、神輿の新造、上宮の造立、大般若経の奉納、鷲頭寺の改寺名等、妙見社に対しての寄進、崇敬が相つぎ、殊に天正三年(一五七五)には『鷲頭山旧記』がつくられた。
 旧記の末尾に
 当山雖千載之星霜大内家之系聯綿有之大江之高祖元就公御末孫繁栄御武門長久之所奉祈念者也
  鷲頭山妙見社旧記 畢
   于時天正三乙亥三月吉祥日
                           妙見山別当
                             宮司坊現世
                               権大僧都源嘉 在判
と記されている。この旧記が下松の古事記ともいわれ、古来より尊重されている。
 このことについて梅原猛氏の法隆寺論によれば、「時の権力者は敵のたたりを鎮め、自己の政権を安泰にするためにたたりの霊を手厚く祭る」といっているが、毛利氏の妙見社に対してもこうした感がする。また鷲頭寺の住持には、鷲頭氏の後裔を遠く萩より探してきたという。
 また、鷲頭寺の社奉行、壇越として事業の中心となった大庭加賀守について述べると、『防長人物誌』によれば
初め大内義隆に仕へ、図書允と称す。小奉行衆たり。義隆薨じて、義長に仕へ、奉行に列す。義長滅びて毛利家に降る。加賀守と受領名す。歌を能くするを以て元就の愛顧を受く。
元亀二年六月十四日(一五七一)元就薨ず。賢兼哀悼、その遺骸沐浴の水を以て髪を削り、名を宗分とせり歿年知れず。
賢兼は大内氏・毛利氏両氏につかえ愛顧をうけ、また晩年には出家し仏教に深く帰依していたので、常に大内家・毛利家に仏教の因果の理をとき、滅罪をすすめていたと思われる。こうしたことも因縁となって、大内氏も毛利氏も妙見社の修復、鷲頭寺の建立となったと思う。
 賢兼の住居は寺迫の大庭山といい、善正寺山とも伝えている。寺迫の地名も古くは、寺廻りから寺迫となったが、善正寺と関係あるように思われる。晩年を寺院に隠遁し、静かに世を去った(歿年不知)。賢兼に、哀悼の意を表する次第である。
 霊松寺については、下松地方史研究第三輯に記している。また、霊昌寺についても同書に記しているが、両寺は同じ寺と考えられる。
 この霊昌寺と善正寺を同一と考えることは一考を要するが、当時、東豊井において大内氏及び毛利氏と関係のある寺院としては、この善正寺しかないと考えられる。また善正寺については、正確な史料に寺名がなく、ただ口伝によるだけである。霊松寺については正しく史書に寺名が書かれている。この三寺は同一の寺院と考えるが、後日の研究にまとう。
 鷲頭氏・大内氏・毛利氏の各時代にわたり尊崇をうけた妙見社も、慶長十三年(一六〇八)二月六日火災をうけ、一山灰燼と化した。
 旧記は次のように記している。
誠ニ当山繁栄ニ及トイヘトモ、天然尽テ慶長十三年(一六〇八)二月六日夜火災アリ、山中一同ニ煙トナリ上宮残リナク、中宮・拝殿・二王門・五重塔・七蔵・宝蔵・経蔵・神主ノ家悉ク焼失ナリ、然リト雖モ中宮本社ハ今ニ残レリ
このことについて縁記には
此火災治世に何者のわさか、其中に怪しきハ、彼谷此谷に飛々に隔たりしといふ七坊、及上宮迄焼つるに、中宮の拝殿ハやけす、本社の残たるそいともいとも怪し
熟思ふに、昔琳聖及弘世・義弘か立しといふ上宮、及七坊・経蔵・宝蔵・五重ノ塔・二王門・光近の家々、やかては元よりなき証拠と成て済ぬ故に焼尽し云々
と記している。このように、縁記は旧記の記事に一々反論している。反対のための反対もあるが、正偽については後日の研究に譲りたい。
 当時の妙見社について考えるに、妙見山の上宮・中宮等全域を妙見社といい、宮司坊が別当となり全山を総べていた。後、宮司坊が鷲頭寺になるに及び、妙見社の別当には鷲頭寺の現住がなった。慶長の火災後は七坊が全部再建されたのではなく、多くの坊は名のみで、坊名は肩書として使われていた程度であったのではあるまいか。
 その後、『地下上申』には
「妙見社本宮 同社中宮 同社若宮」として妙見社とあり、「真言示 妙見山鷲頭寺 吉原村ニ有」とあって社坊鷲頭寺と書かれている。
 鷲頭氏の後、大内氏、ついで毛利氏によって河内村は領有されたのである。
 毛利時代になると史料も豊富になり、史実もいよいよ分明になった。ことに、当地方には貴重な史料である『元和検地帳』が残っている。この検地帳には地名・穂の木が全部書かれ、石高・作人が書かれていることは、他に見ることができない貴重な史料である。次に『元和検地帳』、ついで『寛永検地帳』によって河内村について研究してみよう。
 毛利元就は、防長進攻戦の最中から、両国内の地を新知行として家臣に分与し、大内氏に代って新しい体制の樹立を志した。河内村には福原越後・玉置源允・粟屋市兵衛・糸賀真作・山田但馬・井上小左衛門・河野太郎兵衛・かぢ佐右衛門・曽根源次郎・岡二郎右衛門十氏と妙見社の給領地があり、それに御蔵入地があった。給領地について記す。
 お蔵入とは支藩領及び藩士の給領地以外の土地はすべてその貢租は直接に本藩庫に収納されるのでこれをお蔵入といった。給領とは藩主より諸士に給領として与えられた土地。
河内村給領地内訳(元和検地)
給領主田数(反)同石数(石)畠数(反)同石数(石)屋敷数同面積(反)
福原越後二八〇、六〇〇三五八、五七〇五四、九〇〇二四、一〇一三四一二、三一〇
玉置源允二九〇、九二〇四二七、六二三一三六、五一五五八、二一七三七一二、五二〇
粟屋市兵衛四四、六二〇八九、四九〇一七、四二〇一二、一八〇一、七二〇
糸賀真作六四、八一〇一〇九、六三〇一八、一一〇一〇、四三四一一三、六二〇
山田但馬二六、四一〇四八、三六〇六、六〇〇三、九八〇三、六〇〇
井上小左衛門九、四一〇一七、一五〇三、五二〇二、〇五〇〇、六二〇
河野太郎兵衛八、八一〇一五、〇八〇〇、六〇〇〇、二七〇〇、四〇〇
かぢ佐右衛門一〇、九〇〇一八、四五〇三、五〇〇一、二〇〇〇、三二〇
妙見社一〇、七一〇一八、五〇〇〇、八二〇〇、一八〇一、五〇〇
曽根源次郎五、九二〇八、七〇〇
岡二郎右衛門二、四一〇一、八八〇〇、一〇、五〇〇
七五八、八二〇八五九、一五〇二〇四、八二五一一三、一一二一〇二三六、八二〇
平均数七、五〇四八、四〇三二、〇〇八一、一〇九 〇、三六一
 
給領主同石数(石)小成物同石高(合)総石数(石)
福原越後一二、七五〇茶一二二合、樹木四八本 一七九合〇、六六二三九六、〇八三
蜜柑一本 三〇〇合、漆二本 一〇
桑二七本 五一合
玉置源允一三、二六〇茶一一七合〇、九〇〇五〇〇、〇〇〇
桑二六三本 六一八合内二八八合
樹木一六五不足
粟屋市兵衛二、〇九茶二〇合、樹木三本 七合〇、一三二一〇三、八九二
楮五合、桑三六本 一〇〇合
糸賀真作四、三一〇茶二合、桑八二本 二五三合〇、三〇〇一二四、六七四
樹木二二本 四五合
山田但馬三、七〇〇茶一七三合、桑三八本 九六合〇、三一二五六、三五二
樹木一二本 四〇三合
井上小左衛門〇、七九〇桑一五本 四〇合六三二〇、〇五三
樹木一一本 二三合
河野太郎兵衛〇、四八〇桑一本 三合一五、八三五
樹木二本 二合
かぢ佐右衛門〇、三五〇  二〇、〇〇〇
妙見社一、二〇〇桑二本 五合一九、八八五
曽根源次郎   
岡二郎右衛門  二、三八〇
三八、九三〇 二、三七九一、二六七、八五四
平均数〇、三八一 〇、〇二三一二、四二九

 この各給領地について、屋敷数で田畠高を平均してみると、大体当時の戸別ごとの田畠高が分かる。勿論屋敷主が他の給領地を作っている場合も考えられるので、正確な数ではないが、前表で大体の戸別の田畠高を知ることができるので参考のため掲げた。
 屋敷の面積については、最大は寺院で一反四畝、民家では最大一反二畝、最少では二十歩であった。
 小成物について考えるに、各家に二、三本の茶の木が植えられていたようであるが、全然茶の木のないところもあるのは、代用茶ですましたものであろう。特に桑がたくさん植えてあるのは、農民は絹は着られなかったので、繭を売って必需品を買っていたものと思う。蜜柑もほとんど植えられていない。これは石付も高く、ぜいたく品とみられ、普通の家には植えなかったと思う。柿・桃・栗等は一本も書かれていないが、樹木の中に入れてかぞえられていたのではなかろうか。
 福原越後守は、毛利元就の宿将福原貞俊の孫に当たり、毛利輝元に仕え慶長移封の後、吉川広家と心をあわせ能く内外の難事を処理し、毛利氏の基礎を強固にした。
 その給領地は来巻に多かったが、その中に
  中すか寺敷四畝米四斗    万願寺
という寺があった。万願寺の所領地は他に
  九筆田畠椿等九反七畝 米十一石二斗五合
を領していた。万願寺は寺敷もあって多くの所領を有していたので、福原家の菩提寺と思われる。福原氏が換地になると菩提寺も廃寺になった。そのためか、宝林庵といった地名が残っている。
 玉置源允の来歴については不明である。給領地に「せう庵(昌庵)の所領地一筆、畠一反六畝」がある。また地名として明喜庵・寿福寺がある。
 粟屋市兵衛の来歴についても不明である。給領地に「中坊の田一筆、一反七畝」がある。作人に吉原・谷・中戸原の人が多いので、鷲頭山麓の辺りを受領していたと思われる。給領地に吉原の自清寺の地名が残っている。
 糸賀真作は始め芸州尼子氏に仕え、後、毛利輝元に仕えた。公儀人本座役を勤め、知行高五百石で河内村に一二〇石六斗四合を領していた。明暦三年(一六五七)六月十日八十二歳で死した。生前、仏門に入り松斎と称した。
 所領地に「中ノ坊、一筆、田一反一畝」がある。地名として「れうせん庵、西楽寺」があるが、いずれも現存していない。
 山田但馬は但馬守といい、毛利輝元公に仕え、寛永七年(一六三〇)十一月七日に死している。物頭役であった。河内村に居住し自作もしていた。
 『元和検地帳』によれば
  すき崎
   屋敷六畝廿歩 米一石 山田但馬 居屋敷
  同所
   畠四畝    米四斗      自作
  同所
   畠一反一畝  米五斗五升    同人
  まつば畑        山但馬
   畠五畝十歩  米三斗二升    手作
  同所
   畠八畝    米六斗二升    同人
と記されているように、給領地の一部を自作、手作りしていたと思われる。また、給領地に永興寺があって、岡の原左右畠共に
   寺敷一反四畝 米一石一斗  永興寺
他に田畠五筆、三反五畝あった。永興寺は小野にあった。山田家の菩提寺ではなかったかと思う。
 井上小左衛門の来歴については不明で他に記すこともない。
 河野太郎兵衛は河野伊賀守元房といい、伊予の産で慶長九年(一六〇五)十月十六日に八十五歳で歿した。百五十人の足軽頭をつとめ、知行高五百三十九石七斗六升であった。その所領地は各地に散在し、「五十六石三斗三升九合、周防国都濃郡」と記されている。輝元公のとき給領地が変わり、知行高も四百石に減じ、給領地も河内村より熊毛・美祢二郡に替地になっている。
 河野太郎兵衛の河内村の給領地についてみるに、給領地に屋敷数は一ケ所で、他に小作人は八人いた。小作高の多い者が屋敷を持ち家を建てていた。小作人は他の給領地の小作もしていた出作者も多かった。
 かぢ佐右衛門については来歴不明である。
 曽祢弥次郎は寛文四年(一六六四)七月晦日に死んでいる。譜録によれば
  萬治四年(一六六一)五月廿八日都濃郡久米村知行所之内百二十石被取上、美祢郡大嶺村ニ而百二十石替地被下候御奉書賜下
の記録があるばかりである。当時は、給領地の替地は不断に行われていたようである。
 岡 二郎右衛門は三十人通であった。慶長十三年(一六〇八)に死去、知行高は十三石二斗であった。
 妙見社についてみれば、毛利氏が関ケ原敗戦後最初に行った元和三年(一六一七)三月の検地帳の給領地には
  めうけん山古屋敷
   寺敷七ケ所 跡荒所    妙見山
  末長
   寺敷一反四畝 米一石一斗 中ノ坊
  寺の上
   畠二畝    米一斗   同人
   田(二筆)三反五畝米六斗三升 宮ノ坊
   他に田畠十筆(百姓持)屋敷一筆(百姓持) 中ノ坊
とあり、このほか前述の給領地に中の坊の所領として「田二筆、二反八畝」がある。当時の妙見社を考えてみるに、七坊のうち中ノ坊が寺敷もあり寺領もあって、すでに火災後いち早く再興していたと思われる。宮の坊は寺敷はなく所領のみあった。中ノ坊は中心の坊の意とも考えられ、勢力があったと思われる。
 次に河内村給領地の屋敷の所在地について調べてみよう。(次表)
慶長検地給領地の屋敷数調
河原9柿木田1中や1
さやの木5ちゃうちいん1てつなふ1
たに5おつかきのうち1ふろの木1
ひわの木4そり田1れうせん庵1
引地(ひきち)4大かた1ひひのきえ1
やまね4十二町1あん田1
中すか3かうか迫1ふえき1
阿か迫3もつてん1岡原1
自清寺3いしゃち坊1はは口1
さやの道2田中1たなた1
右近2かけのこり1もち田1
よこ道2万正庵1ニノセ1
御供田2長迫1末長1
持田2金近1一ツね1
えき2よこ田1となり垣内1
かに立野2から竹1丸山1
あて田2ケタミ1  
石文2寿福寺1  
すき崎2くほ田1  
山のおく2くりつへ1  
出本1八口1  
立野1まへ田1102
(地名の字の読み方がちがっているところも多いと思う。大体を参考にされたい。)

 これらの地名について考えてみるに
 さや(小川)びわ(崖をもつ谷川 人里から遠い所)ひき(低い)すか(砂川のある所)あか(崖)
一番多いのは河原である。それ以外のところも、谷川の岸や崖など不毛の地が多い。昔は平地で地味の肥沃の地は田とし、家などは農耕に適しない土地に建てていたことが分る。
 次に河内村の御蔵入について述べよう。
 御蔵入での最大の屋敷は、寺院では寺敷一反五畝、民家では地方四反二畝、町方で九畝、最少は地方、町方ともに二〇歩である。
 御蔵入の屋敷の地名別を次頁に掲げよう。
慶長検地御蔵入の屋敷調
そり12ふろの峠2ひわの木1
八口7吉原2山手かき1
かわら5和田2山かと1
岡かいち4あせた1山さき1
はかの前4一藤1よこた1
土井4石のもと1下川1
こえき4くりもと1井手口1
田なた3くら本1さない1
峠迫3こみとう1  
いたとり3白木垣内1101
たん正3しゆほく1  
おさき2梅ノ木田1  
国友2ちんしや免1  
さと坊2山根1  
竹の下2新田1  
長や2原田1  
はは2八投田1  
はまた2八條1  
平岩2はりま垣内1  
ふくてん2番匠給1  

 この表でそり(焼畑)が特に御蔵入に多いのは、御蔵入の方が積極的に開墾を励んだためと思う。そして、そりの地や八口・かわら等の名称は、河内川に沿った地に集落をつくっていたからであろう。
 『慶長検地帳』と『寛永検地帳』の地名をくらべると、その大部分が変っている。僅かの間に、このように変動があるのはなぜであろうか。実測によって寛永検地が行われたのでなく、検地帳が作成されたとき、生産高や地名の確認検討が行われたのでその際に、地名の変更が行われたものではないだろうか。
寛永検地の屋敷調
くぼ市27八条3えのきた2為正1
たお市11ふろ峠3大かいち2あせた1
岡市9くほた3大かた2いたとり1
計(市屋敷数)47蔵次3おく迫2うら竹1
  神花3河原2お迫1
神田12しやか迫3三むら2かいち1
出合93三とろ2かたやま1
栗つか7あんた3むの木2河原田1
下河原7神倉3吉原2かねのふ1
かわら6たたちか3寺の下1北山1
くろくい5出口2とうめん1むらの本1
萩の尾5長迫2奈久庵1むむ江1
中戸原4原田2ねふの木1山根1
しいの木迫4この寺1
1
八口1よく道1
宮司坊4さないの2半ノタ1礼の本1
むら4せな長2風呂ノ木1れんかいち1
持田4竹下寺1
1
まつの木1  
山崎4田中2丸山1  
なりまへ3
寺1
江の尾2きれ戸1177
野中3えき2そり1総計224

 御蔵入の寺院について述べると
  中ノ坊
   田十九筆 一町三反一畝廿五歩
   畠十一筆 六反七畝二十歩
  昌庵
   田二筆 二反九畝 畑二筆 一反七畝
  浄庵、田一筆 四畝廿歩、畠一反(浄庵は昌庵か)
中ノ坊の妙見山給地に寺敷がある。昌庵については寺敷は見当たらない。
  浅処寺
   長ヤ十六間ノ跡、寺敷一反五畝
 長屋十六間ノ跡とあるのは、浅処寺の長屋があったものであろう。この長屋は、焼畑・開墾のための浅処寺の作人の長屋であったものではなかろうか。集団で合宿して開作したと考えられる。
  連開寺 明(あき)寺敷六畝(あきやになった寺屋敷の意と思う)
右のように、すでに廃寺となっていたと思う。れんげ寺の地名があるのは連開寺のことであろうか。
 御蔵入では、寺院として寺敷のあるのは浅処寺の一寺だけである。しかも所領地はない。この御蔵入に、長嶺河内守の所領が出てくる。「田畑七筆一二反二畝、屋敷六畝」それに福越州給領地に「畠一反七畝」がある。長嶺河内守政信については左の記録がある。
輝元公御代より奉属御当家、防州都濃郡下松村ニ而知行三十石被下置候由申伝候(年月日不知)。就隆卿御分領之節右之領地被召上、長州阿武郡嘉袮村ニて替地被下候由申伝候
河内村(ここでは下松村とある)にあった給領地は、就隆の分領の節に阿武郡に替地になったのである。
 元和三年(一六一七)の『元和検地帳』より、十年後にできた寛永三年(一六二六)の『寛永検地帳』を調べてみよう。
 元和検地の河内村の給領地はすべてなくなり、全域が御蔵入になっている。毛利氏の政策として、生産性の高い地域は直轄地(御蔵入)とし、または一族の所領としたのである。寛永二年(一六二五)には寛永知行替があった。
 次に『寛永検地帳』の寺院について述べてみると、
 宮ノ坊 寺敷一反四畝、所領田五筆四反二畝、畠二筆六畝二十歩(他に宮ノ坊分、吉兵衛として畠二筆四畝)
 永興寺 寺敷一反四畝、所領田三筆三反十歩、畠三筆九畝、(小野にあり)
 万願寺 寺敷四畝、(所領なし 来巻にあり)
 浅処寺 寺敷一反五畝、所領畠二筆六畝
これらは寺敷のある寺である。寺敷はなく地名として残る寺名には自清寺・地福寺・宮司坊がある。
 これを『元和検地帳』と比べてみると、『寛永検地帳』では万願寺はすでに所領もなく廃寺に近い。蓮開寺・昌庵(浄庵)はすでに地名にもない。永興寺・浅処寺は昔のままで異同はない。永興寺は明治五年の村名明細書には小野の養光寺となり、吉原の自清寺は儀清寺となっている。永興寺が養光寺、自清寺が儀清寺と変っている点より、古来の寺名並びに地名の変遷がどんなものであったか考えられよう。中ノ坊は妙見社の給領地や御蔵入に寺敷(一反四畝)や莫大な寺領があったがここでは一切なく、中ノ坊の地名すら見られない。また地名にも残っていない。代りに宮ノ坊が寺敷もあり広大な寺領も有している。これは中ノ坊が宮の坊と名を変えたのではあるまいか。のち元就の時代には妙見社の別当は宮司坊、妙見山鷲頭寺になった。
 寛文八年(一六六八)五月に出されたお触れに、「往古より有来候寺々の外、雖為小庵新儀建立停止の事」とあって、以後には堂庵等すべて造建は一切禁止されたので、河内村においても新しい寺庵はないのである。
 『地下上申』には河内村の惣家数三三三軒が記されている。『慶長検地帳』には二六四軒、『寛永検地帳』には二二四軒である。この屋敷数の変遷は当時の政情を物語っている。
 河内村を山麓として聳える鷲頭山は、四方に雄大な風光を持ち、一方周囲に多くの支城をもつ要地である。昔より鷲頭山の風光を歌った詩歌は多い。
 和歌水の伝説がある。
 琳聖太子七世の孫という大内正恒は、鷲頭山上に上宮・中宮を建て、成就の日には自ら参籠したが、山中に水が乏しいのを嘆き、山の東の溪にむかい和歌を詠んだところ、霊水が出たのでここを和歌水浴と名づけたという。そのときの歌は
  あめつちの水はつきしとおもひきや
    溪の草木のうら枯れんとは
と記されている。これは湧き水から和歌水となったものであろう。
 水と住居の関係は深い。桂木山には麓に閼伽井坊があって、海ぎわに清水が出たことは桂木山にとって神仏の恵であった。妙見山の和歌水浴の豊富な清水も、鷲頭山発展の基礎になったのである。この点からいえば、高鹿垣が早く鷲頭山に移ったのも高鹿垣に豊富な水がなかったためと考えられる。
 鷲頭寺所蔵の妙見社伝に、鷲頭山十景が記されている。作者は不明である。
 1 桂木山帰帆宮洲
    めも遠くうかぶしら帆の数みえてけしき秀しかつらきの山
 2 斗橋螢火
    夕されハ乙女の袖に打むれてほたるすずしき橋の茅原
 3 高鹿垣雪嶺
    ふみわけてたとうかたなきみねの雪しかの足あとこなたかなたに
 4 降臨松蒲雁
    かせさゆる木きは鼎のまつたへて田面に落る蒲雁の群
 5 下宮夜雨
    松風のおとをも静にしめりおふけにこの岡の栄なるらし
 6 和歌水幽谷
    したたりてその玉水もかぎりなくむすふ命の誠嬉しき
 7 上宮雲峰
    峰高み白雲わけてあまくたる(この間不明)かよふ国民
 8 坊跡晩鐘
    むかしたれかすみぬる跡は入相のかねもかすかにひひくつれづれ
 9 塔尾秋月
    (不明)
 10 中宮寂林
    しげりおふ緑もふかくよろつ代は中つみやしろ尊やこれやしろ
また明治初年に、徳山太華の雅人温品魚彦も、鷲頭山八景の歌を詠じている。
 1 若水春曙
    久方の星の御影を若水に汲たや瑞垣の春の曙
 2 青柳帰帆
    青柳の糸長き日に漁りてほてうち帰る海士の釣舟
 3 夏池遊亀
    いもとせの名はいくよろづ白亀の契りは深し底ゐなつ池
 4 御手洗川螢
    たれも来てみたらし川の川風に浪のほみだれもゆる螢火
 5 高鹿垣驟嵐
    よもに名に高垣遠くふきこえて嵐をおくる虹の松原
 6 宮之洲驟雨
    わたり舟苫ふくひまも荒浪の龍の宮の洲雨きわふなり
 7 鷲頭寒月
    鷲の峰つき夜に遠くすみ染の袖さえ氷る冬の月影
 8 山田積雪
    としあれと神に手向けむ小山田につもるも清し雪のしらゆき
このように古人は鷲頭山の景観を詠んでいる。鷲頭山上からの眺望を眼前に髣髴として見る思いがする。
最近、河内村某寺の田畠証文控を見ることができたので、これについて述べてみよう。
 一反三畝   高四石五升八合
  此代米二十石土貢
   内
  五石九斗土貢
  貴様抱之内下寄田七畝廿歩高一石八斗
  四升九合之所替地ニ被遣候
  残十四石一斗土貢現米
右享保十六年御公納米大分御未進仕御調不相成ニ付、各々様頼右之内替地ニ被成被下、お米請取御上納申上恭奉存候、此田地之儀ニ付後年出入之儀無御座候、為堅証人市太右衛門殿・又右衛門殿、其上畔頭三左衛門殿奥判取進申所如件
 享保十六年(一七三一)亥十二月十九日
                                     三之充
                                     穫作
       原田清右衛門殿
この証文は土地を替地にして、その差額を納めたのである。この一反三畝の田も、後日売り渡した。
右前書之田一反三畝高四石五升八合所代米土貢十四石五斗ニシテ、貴寺江永代売渡代米請取申処実正也、然上前書之田地永代御下地可被召抱候、後年ニ至少も聊無御座候、為念書次仕証人其上畔頭奥判取付ケ進置申所如件
  元文五(一七四〇)申十一月九日
                                   竹屋善十郎
 当時、納米に窮し土地を手ばなさなければならなかった農家は多かった。その頃、富裕な生活をしていた寺院や地主から銀子を借りた。その時、多額の高利(普通一割五分)と莫大な抵当物件(質)を要した。その後未納地はほとんど質流れとなり、土地は貸主に没収された。次の証文はその例である。
  借用申米之事
米四石土貢、但し利足一割五歩
此質物私抱大坪一反二畝廿五歩米三石九斗四舛九合、同所八畝二十五歩米三石九斗二合、同所田六畝米一石四斗、丸田畠一畝米一石五升一合、同所楮四杷米三舛六合、同所畠五畝米六斗六舛八合、楮四杷米三升六合
  以上右筆数書入置申候
右宝暦五年分御米銀未進仕候付、前書之通かり請御上納仕処実正也、御調之儀ハ元リ共来秋貴僧様御年貢同前ニ御蔵調可仕候、万一少成共不足仕候ハハ別紙不及渡状、此書文を以永代ニ可被召取候、於其時ニ一言御理リ立無御座候、為後日正人として次兵衛殿、其上畔頭善兵衛殿奥判取付ケ進申候所如件
  宝暦五年(一七五五)                      かり主 善兵衛
   亥十二月十六日                       証人  治兵衛
こうした「永代売渡申田畠事」「借用申米之事」の書状が多数あった。このようにして金を貸し、一方質流れによって土地を得て資財をふやした寺院もあった。このほかに門徒よりの寄進もあった。
    御寄進申畠之事
一平原畠十歩  高二升七合
一同所畠十歩  高二升一合
右之畠私先祖より抱来申候、此度依私志貴寺様ヘ指上申候、御寺永代之御下地ニ可被召抱、以後ハ私月牌料詞堂ニ被成置可有候、向後於子孫ニも否申者無御座候、後年為堅揚状如件
  享保十三年(一七二八)                   当市   小左衛門
   六月十五日                       証人男子 惣左衛門
これに反し貧困な寺院もあった。
 永代売渡申田地之事
下松田六畝  米一舛
 代金子六両一歩定
右先住法印病死之節借用多ク有之候付、右之田地貴様江売渡シ代銭慎ニ受取彼方相添候所実正也、然上ハ来作より植付成候証人トシテ相立後日為メ証文如件
 天保十二丑年(一八四一)九月
このように同じ河内村でも田地を売払った寺院もあった。
 こうして幾多の変遷を経て、大東亜戦争後の農地改革により、寺院は大きな痛手をうけたのである。左は河内村の寺院が農地買収をうけた額である。
  鷲頭寺(真言宗) 田 二反一畝二七歩
          畠 四反三畝十歩
          宅地八畝五歩
  西蓮寺(浄土宗) 田 七反一畝一六歩
          畠 二反一畝二歩
          宅地八畝
  松心寺(曹洞宗) 田 四反三畝十歩
          宅地二畝二四歩
  浄念寺(真宗)  田 一反八歩
  円成寺(真宗)  田 三畝二七歩
          畠 一反五畝五歩
  西念寺(真宗)  田 二畝二一歩
          畠 一反一三歩
  降松神社    田 四反二畝歩(山田村も含)
  泉所寺(真言宗) 田 二反一畝一歩
この農地改革によって致命的な打撃をうけた寺院もあったが、多少の影響は全部の寺院が受けた。それに戦後宗教心の衰微とともに、寺院は全く昔日のおもかげを失った。盛者必衰は仏教においても然りである。仏教も他に依存せず、自立してゆく途を考えねばならない。有力な壇越と、寺財に依存した時代は終った。仏教の最後のとりでである門信徒の離反する時代を、考えておかねばならない。時勢は移っていくことを、銘記しなければならない。
 終戦後、寺院・神社は農地改革により多大の影響をうけた。左に下松市内の各社寺の所有していた田畑の面積を記そう。
  寺院  田 八町八反三畝十六歩
      畑 一町六反四畝四歩
      宅地一、八四六坪
  神社  田 三町五反一畝二歩
      畑 一町二反
      宅地一三〇坪
 明治初年の下松妙見社の神仏分離について述べると、明治三年九月生野屋村の庄屋、松村伴五郎の記録によれば、(生野屋村は下松妙見社の氏子)
下松妙見社之義
此度朝廷より御沙汰相成候ニ付、仏体仏器は来ル十日鷲頭迄御下リ被仰付候間、此段御知せ申上候也
 九月九日                               鷲頭寺
  松村伴五郎様
 これにより鷲頭寺は降松神社となり、黒神氏が神官となったのである。
河内村妙見社は降松神社と御改号被仰付、御社頭引受取計拙者え被仰付ニ付、来ル十六日任常例、何風興も無之候得共廉茶進度候間、乍御苦労清木源太郎方御出可被下候、右為御案内如是候以上
 九月十二日                               黒神
六ケ村御庄屋
   畔頭衆中
これは黒神神職の庄屋、畔頭への就任披露の案内状である。当時の記事によれば
 明治元年三月政府神祇官の指令により、全国的に因襲久しい神仏習合の弊を改め、神仏分離の措置を進めた。諸神社において僧侶が社務に服することを禁じ、また権現・大明神・牛頭天王・妙見・菩薩・祇園など、今まで仏語をもって神号としたものは、その由緒をただして神仏を分離せしめた。
と記している。この地域の各部落にある金比羅社が、琴平神社となったのはこの時であった。
『山口県政史』には
都濃郡下松の妙見社は北辰尊星を祭るところで、上宮・下宮および若宮があり、下宮・上宮を奥の院と称していた。また、社坊に宮司坊以下の七坊があったが神仏を分離し、社号を降松神社、祭神を天御中主神と改め、宮司坊を鷲頭寺としたごときがその例である。
と記されている。ついで『徳山藩記』には
明治三年庚午九月四日妙見尊体神仏之義、朝廷江御伺出相成御差図之旨を以て、来ル十月より神祭被仰付、依之社坊鷲頭寺被差除社頭引請之義、追而御詮義相成迄黒神直敬江当分被仰付之間、同四年辛未九月十日直敬取計被許之、原田・金藤両神主ニ被仰付之
同年九月七日妙見社号降松神社ト改号成
こうして日本に伝来して風土に定着し、習合していた神仏を分離することになった根源は、次の法令である。
神祇事務局第百六十五
      明治元年三日十七日
  諸社ヘ
今般王政復古旧幣御一洗被為在候ニ付、諸国大小ノ神社ニ於テ僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候、若シ復飾ノ儀余儀差支有之分ハ可申出候、仍此段可相心得候事
 大政官第百九十六
       明治元年三月廿八日
一中古以来某権現或ハ牛頭天王之類其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細ニ書付早々可申出候事
一仏像ヲ以神体ト致候神社ハ以来朝改可申候事
 長い歴史をもち、下松妙見社を中心として盛んであった妙見信仰は、各地で殊に遠く石州地方からの信者の参詣者が多かった。現に吉原若宮の周辺には、昔の宿屋のおもかげの家も残り、徳山遠石とならんで芝居小屋もあったという。神仏分離に続いて鷲頭寺が下松の町に移ることになった。明治十二年十二月のことである。巷間では鷲頭寺の移転が神仏分離と関係し、下松の町に移されたように思われているが、これも一因であるが、むしろ寺の方も町に出たい意向があり、町の方からも誘致したのが実情ではなかったかと思う。昭和通河村家の言い伝えによると、一度町に移ったが、条件が違うといって河村家(住職の実家)に御本尊を奉じて帰られたと伝えられている。移転に莫大な費用を要したと思われるので、移転のための条件もあったことと思われる。移転後の妙見社(鷲頭寺)の繁栄は、たしかに町の繁栄をもたらし、寺の参道に飲食店が並び、二階建や三階建の宿屋が建った。しかし妙見信仰は昔のままで、神仏混淆で参道には大きな鳥居も建てられている。
 しかしこの移転は吉原の衰退をもたらすので、河内村住民の反対ははげしかった。いま松心寺にある宝篋印塔は鷲頭寺にあったもので、町に移そうとしたのを村民の実力行使で出させず、遂に松心寺の裏藪に投げこまれ、鳥居も途中で運搬を妨害され、柳の河に投げこまれたという。後日、宝篋印塔は松心寺に、鳥居は泉処寺に建てられ、現存している。
 尊星降臨の鷲頭庄時代から今日まで、河内村を中心とした周辺の存亡興廃の歴史に、人の世の有為転変の哀愁を感じるのである。
 『慶長検地帳』に書かれている河内村の地名(穂ノ木)のうち、読解できるものについて左に掲げよう。
 これらの地名によって大体のこの地域の地勢が知られよう。
あお    湿地
あか    (1)田畑 野良 (2)土地が赤土のこと 明けること
あて    谷に面した山の斜面
あせ    水の浅い所
いか    (1)谷を登りつめた所 (2)洪水の起り易い所 (3)山越え
いの    (1)井戸のある野 水路のできている野 (2)いな即ち砂地
いま    新しくできた集落 新 今
うら    川の上流 畑
うめ    埋 梅
え     海や湖の陸地に入りこんだ所
えき    小谷 谷間 谷間の低湿地
えひす   恵比寿神の祭地等から来る
お     尾 山の峰 丘などの高いところをいう 山すその方にのびた尾根もいう
おだ    せまい田 砂田 沼田 尾根の田
おち    人が集まって物品の交換などをする小さな市
かい    (1)峡谷のこと (2)開墾 開拓
かいと   土豪の垣の内 小部落 小区画の田畑 一区画の山間未開地
かき    柿 垣即ちかこい 一定の領地 日かげの土地
かじ    (1)鍛冶に関係ある土地 (2)梶の木の繁殖地 神木としての梶に関係のある地名
かんの   焼畑
かんだ   神田 神社維持にあてられた田
かわたけ  川岸ぞいの平地 タケはカケの訛りか
かんのん  観音
きり    桐 切り開く即ち開懇 新開
きゅうでん 京往きの夫役を世襲的に勤めていた者の屋敷給田の地 給田
きょうでん 読経料として寺へ寄付された田即ち経田
ぎおん   祇園
くま    (1)熊 (2)山麓から峰へ続く稜線 (3)曲がった谷間 (4)すみ
くら    (1)岩や崖 (2)倉庫
げんや   二軒屋九軒屋などという。無住地にはじめて居住した居住者の戸数から起った地名
こな    古名 小名 小あざ 二毛作地
こうしん  庚申信仰にちなむ
ごま    狭い土地
さこ    迫 ほそく迫った谷
さと    古代の大村(大化年間は六町四方)
さや    小川 溝のこと
さる    アイヌ語ではサルは葦原 湿原 やぶなどを意味する
しり    (1)後方 後部 (2)アイヌ語で土地 山がけの意
しんかい  新開 新たに開かれた土地
すき    砂礫地 村
すか    砂地 川海の砂地をいう
すえ    端 末野
ずり    くずれる すべる すそ野 荒れ地
そり    焼畑 休閑耕地
そお    瀧 暗礁
たや    田の中にある小屋や家屋 田の番人・管理人の居所
つくだ   人のつくった田の意
てんのう  天王信仰
で     イデともいう。本村から別れた新村
どい    土居 鎌倉時代の豪族や武士たちの屋敷のまわりに土塁や堀などを築いて防禦体制を整えたところからおこる
なや    納屋
な     土地 水
ぬた    湿地 湿田 沼沢地 ぬは沼
はぎ    萩 開墾 原
はりま   開墾(はり)された土地(ま)
ばんしょう 番所 見はり場所 番をする所
はりた   泥田 年中水が張っている麦作不能の田 はるたともいう
河内村の地名(これらの字名(あざな)はこの書が書かれた時代から使われていたのである。)
地下上申
寛延二年(一七四九)
明治五年大小区村名明細書明治八年大小区村名明細書明治十八年
山口県地誌原稿
明治二十年
地籍図
明治三十四年
山口県風土誌
河内村第二小区都濃第七大区河内村河内村河内村
八口村(はつこうむら)郡ノ内三村第二小区久保市出迫山口県地誌
吉原村(よしはらむら)河内村河内村大毛(ダイモ)城ノ腰原稿と同じ
大河内村(おうかいちむら)久保市久保市二ノ瀬
仲戸原村(なかとわらむら)大毛(ダイモ)成川(ナルカワ)小原(コバラ)向八口
出合村(であいむら)二ノ瀬(ニノセ)黒杭平原(ヒラバラ)高根
小野村(このむら)小原(コバラ)上小野(コノ)熊ガ市筵岩
黒杭村(くろくいむら)平原(ヒラハラ)下小野二ノ谷西蓮寺
岡市(おかいち)畠田吉原一ノ谷狐塚
窪市(くぼいち)二ノ谷(ニノタニ)八口丸田大河内
八条(はちぜう)一ノ谷(イチノタニ)大河内大迫(サコ)宮ヶ浴
粟太郎(あわたろう)丸田(マルタ)中戸原松ノ下(シタ)浦竹
奥吉原(おくよしわら)大迫(オオサコ)出合成川越路口
絵尾(えのふ)松ノ下(マツノシタ)岡市松尾山(サン)赤田
馬場(ばば)成川(ナルカワ)佐内坂土黒
 
平岩(ひらいわ)松尾山(マツオサン)綾ガ谷念仏田
原田(はらだ)佐内坂(サナイサカ)桜ガ谷花ヶ迫
風呂峠(ふろのたお)綾ガ谷(アヤガタニ)黒杭越路
富田夫(とんだぶ)桜ガ谷(サクラガタニ)野中常楽
谷(たに)峠黒杭(クロクイ)惣木屋(ソウゴヤ)道祖神
土井ノ内(どいのうち)惣木屋(ソウゴヤ)笠松中戸原
長迫(ながさこ)野中(ノナカ)硫黄田
丸山(まるやま)笠松(カサマツ)迫頭油免
倉継(くらつぐ)嶽(ダケ)宮風呂舞正庵
花の木(はなのき)迫頭(サコガシラ)岩崎出合
久保田(くぼた)宮風呂(ミヤブロ)上小野(カミコノ)石ヶ迫
九ノ辻(くのつじ)岩崎(イワサキ)日ノ迫上ノ浴
笠松(かさまつ)小野入道カ迫桑ヶ迫
寺河内(てらかいち)日ノ迫(ヒノサコ)おも迫細迫
成川(なるかわ)入道ガ迫(ニフドウガサコ)中村大坪
どと六(ろく)ヲモ迫(ザコ)道京ガ迫(ドウキョウガサコ)相本
為政(ためまさ)中村下小野京田
五反田(ごたんだ)道京ガ迫(ドウキヨウガサコ)養光寺松ノ下
養光寺(イヤウクワウジ)迫田蟹ヶ迫
迫田(サコダ)和田東市ヶ市
西下小野平原す通
 
平原(ヒラハラ)岡ノ原岡市
岡ノ原(オカノハラ)長羽山(ナカハヤマ)穴ヶ迫
長羽山(ナガバヤマ)吉原久保市
吉原(ヨシハラ)高ノ倉(コウノクラ)迎山
高倉(タカクラ)聞庵(キクアン)大毛
聞庵(キクアン)吉原谷二ノ瀬
吉原谷(ヨシハラダニ)江ノ尾福田
江ノ尾(エノオ)神花(ジンガ)八反田
神花(ジングハ)儀清寺五反田
儀清寺(ギセイジ)八口為政
八口(ハツコウ)粟太郎二ノ谷
粟太郎(アワタロウ)八丈
八丈(ハチジョウ)出迫(イデサコ)
出迫(イデサコ)
迫(サコ)筵岩(ムシロイワ)
筵岩(ムシロイワ)大河内
大河内(オオガハチ)宮ガ浴
宮ガ浴(ミヤガエキ)孤塚
狐塚(キツネヅカ)中戸原
中戸原(ナカトハラ)
谷(夕ニ)いおう田
 
イヲフ田(ダ)恋地
恋地(コイヂ)出合
出合(デアイ)丸山
丸山(マルヤマ)田中
田中(タナカ)本重(モトシゲ)
本重(モトシゲ)辰ガ迫
辰ガ迫(タツガサコ)辻山
辻山(ツジヤマ)長迫
長迫(ナガサコ)猿田
猿田(サルダ)石ガ迫
石ヶ迫(イシガサコ)上ノ浴
上ノ浴(カミノエキ)細迫
細迫(ザコ)岡市
岡市(オカイチ)岡ノ原
岡市(オカイチ)東寺ガ市
東市が市(トウジガイチ)蟹ガ迫
蟹が迫(カニガサコ)実政(サネマサ)
実政(サネマサ)洲通(スドウリ)口
小僧山(コゾウヤマ)大浴
す通(ドウリ)小僧山
穴田
洲通


下松市大字河内小字綜合図