この末武の地名が、史書に始めてあらわれたのは『吾妻鏡』の文治三年(一一八七)三月一日の俊乗坊重源の公家への訴状である。
為得善・末武地頭、筑前太郎家重令横行都乃一郡、打開官庫、押取所納米、狩猟為宗、駈寄公民堀城堰、任自由押妨勧農事
末武は古より国衙領であったが、文治二年四月五日東大寺に寄進され東大寺領になった。『吾妻鏡』に
文治三年(一一八七)四月廿三日甲午、周防国者、去年四月五日、為東大寺造営、被寄進
ついで俊乗坊重源は、阿弥陀寺建立の際、寺領として阿弥陀寺に寄進した。
当時の状況を説明すれば、三坂圭治氏は『周防国府の研究』に
鎌倉時代の周防の国衙領を知るに足る一貫した史料は存していないのであるが、文書・記録に個別に見えているものを総合し、また南北朝時代以後の文書に現わるるもの、あるいは地名等によって類推し得るものを郡別に列記して現地と対比し、なほ知り得る限りにおいて鎌倉時代の状況を説明すれば次のとおりである。
と記して
都濃郡
末武保
千代次保
……また末武保は、花岡村大字末武上及び末武中・末武南村大字末武下の地に相当する。なほ末武保の内に千代次保があった。
とのせている。また同書に
重源が阿弥陀寺に寄進した寺領は二十五町九段で、正治二年(一三〇〇)十一月重源の認めた田券がある。これは啻に同寺領の詳細を示すのみならず、当時における一般の田制を知る上にも頗る貴重な参考となるものであるから、次にその全文を掲げることにする。
と記し
末武、一丁
猿振里(さぶりがさと)
十九坪二段 西依 太郎丸
二十坪三段 西依 近末
二十七坪二段 西山 垣重
二十八坪三段 北西下 吉末
と記されている。以上が、諸書にみられる末武に関する記事である。
この猿振(さぶり)里の坪・段・西依などの語は、大化改新時代の条里制が行われていたことを示すものと思う。
猿振里の所在について考えるに、猿振里の猿(サル)には葦原の意があり、振(ブリ)には古い丘の意があるので、猿振は葦原の古い丘であろう。即ち猿振里は現在の末武の猿川の流域と考える。
末武上地(アゲジ)の地域は古くより開けており、山口県教育委員会により埋蔵文化財調査のため、昭和四十六年十二月より三次にわたり発掘が行われ、その結果が「上地遺跡」に詳述されている。それによると、
1 上地遺跡は、末武川により形成された末武扇状地の扇頂付近にあり、南北の長さ約八〇〇米東西の幅約一〇〇米の範囲にわたる広大な遺跡である。
2 今回調査を実施した地区の周辺に、かなり広範囲にわたる遺跡の埋存が予想されるにいたった。特に上地遺跡の東側の台地上及びその傾面には、集落跡等の埋存が予想され、今後の組織的な調査が待たれる。
3 調査を実施した第一堆積層から、下松地区では最初の発見例である繩文式土器の破片を検出したほか、弥生式土器・土師器・須恵器等を検出した。
と報告されているが、地名等について具体的には何も述べられていない。
しかし、今まで下松で発掘されたことがなかった繩文式土器が発掘されたことは、この地域が下松で最も古く開けた地域であることを証している。また近くには宮原古墳や先年発掘された円型周溝墓があるが、これは、猿振里の住民の墳墓の地ではあるまいか。
猿川については、古くから上流から猿が流れてきたので猿川といったという伝説があるが、末武川の氾濫によってできた河床を利用し、一の井手より給水して申川となったものと思う。
一説に条里制の際の用水路として申川を開設したものといわれているが、それにしては計画的に設けられたとは考えられない。
『周防国府の研究』に「千代次保」が末武保の中にあると記してあるが、これは千代次保(チヨジホ)の千(チと読む、たくさんの意)代次(ヨジと読む、茅などの生えている土地)で、たくさんの茅などの生えている土地である。これは猿振里の末武川の対岸にある高橋の蓼原地域ではないだろうか。
末武上地に「古所(こそ)」の地名があるが、これは猿振の振に古い丘の意があることからきており、高橋に「蓼原」の地名があるのは、千代次の茅のたくさん生えている地の意からきているのと関連があるのではないだろうか。
千代次保と末武保とは相並んで記されており、千代次保は末武保に併合されていない。このことは、現在も高橋は遠石八幡宮の氏子であって、花岡八幡宮の氏子でないことと、何か深い関連があるように思う。
当時の官道山陽道は、上地・高橋を通り馬屋に出ていた。現在の中村・和田を通り遠石に出る道は、まだ開通していなかったのである。そのため末武川をよこぎる上地の踏石には、特に巨大な石がおかれていると土地の人々はいっている。
古い末武は、現在の末武上村・中村・下村全域をさしていた。徳山酸素前道路より東部の地名を、川下・川尻といっているが、これは猿川の川下・川尻のことで、猿川はここで終っていたと思われる。この川下・川尻の地区の中に青木・蓼原の地名がある。青木には青緑の樹、湿地の意があり、蓼原は水辺に生ずる一種の草の原の意であるから、この地は湿草原であったであろう。そうして猿川はそこから直接海に注ぎこんでいたと思う。大体、徳山酸素前の道までが古代の末武であった。また、この地域は末武川の一の井手によって灌漑されている。
花岡八幡宮前より下る道も、現在のようにまっすぐに大海丁までいかず、徳山酸素前の道より東に曲り、尾尻を通って下松方面にいっていた。
徳山酸素前より下の末武下村に、条里制のあったことはこれまでにすでに発表されている。しかしながらこれは大化改新時代の条里制ではなく、後代に上村の条里制にならって行われたものと思う。また一度に形成されたものでなく、年代を異にして行われたものと思う。
猿川が徳山酸素前の道の下で堰によって下に流れ、東繩の溝になっている。中繩・西繩の溝は、一の井手の水がかりである。仏念繩・大頭繩・筒井繩・森重繩は、二の井手の水がかりである。大体、一の井手で末武上村の地域が灌漑され、一の井手及び二の井手によって末武下村の地域が灌漑されていることによっても、末武下村は二の井手の竣工後にできたものと思う。
昔は浄蓮寺(地名石田)の前まで海であって、寺参りは舟が運航していたので、浄蓮寺には大島・粭(すくも)島の門徒が多いと言い伝えられている。また、浄蓮寺の横を四、五尺掘ると、砂地になり貝などが出て、昔は海であったと古い人はいっている。東光寺にも舟が着いていたとの伝説がある。
『地下上申』に
末武上村と申儀ハ、東西江通ル道境にして両村わけ有之ニ付、上村下村と申候事
として、東西に通ずる道路によって上下両村に分けたとされている。この道は、徳山酸素前の道と思う。即ち、この道を境にして上村と下村とは分かれている。
花岡八幡宮は、古くは豊後浴にあって上地方面から参拝したので、この参道が現在も残っている。同社の氏子は当初の上村に加え、やがて中村・下村も氏子になるにつれ、八幡宮は一眺のもとに全氏子を見渡すことのできる現在地に、豊後浴より移されたのであろう。やがて多宝塔もでき、一段と神威も高まった。岡の端(ハナ)の端岡の地名も雅字の華岡と改まったと思う。
豊後浴に八幡宮を奉祀したことについて、豊後の民が宇佐八幡神を奉じて移住し、地名を豊後浴と称し、八幡宮を祭ったと考えられないだろうか。
上地村について『風土注進案』には
上地村と申ハ往古此所八幡宮御鎮座之地ニ而神事村と申所、いつの比よりか上地村と申伝候事
と書かれている。神事村からカミジ村、ついでアゲジ村となったものと思う。
末武上村・下村ができたのちに末武中村ができた。ことに末武中村は三の井手の竣工により、香力地域が拡大するにより末武中村ができたと思う。一の井手により末武上村、二の井手により下村、三の井手により中村ができたのである。
『地下上申』には末武中村は出ていないが、『風土注進案』にはこの中村が記されているのを見ると、この間に末武中村ができたと思う。
また、末武中村には東河原村・堀・鳥越、末武上村には中村・西河原村、末武下村には大入海・香力村・和田村、が加わってできた。東河原村・堀・鳥越の地名は『地下上申』にはなかったので、『風土注進案』までにできた地名と思う。この地域の開作がおくれたのは河原であり堀(河原で水のたまった処)であったためであろう。前述の如く末武川は二度にわたり大氾濫したので、そのため上村の条里もそのたびに決潰し、河原になったところもできたであろう。河原・堀・大頭・大入海は、当時の洪水の水筋に当たっていたと思う。大頭は海水の湾入していた頭にあたっていたので、その地名ができたのであろう。
河川は長年にわたる流域の住民の共同体で維持されたのであって、農民にとっては水は生命であった。水域によって地割も行われ、地名もかわった。末武と末武川水域との関係は興味ある問題であろう。
平田開作は『地下上申』にはなく『風土注進案』に出ている。『風土注進案』に平田開作村について
当村名之儀ハ元来惣名末武ニテ御座候ヘトモ、貞享五辰年(一六八八)御給主毛虎槌様御拝地ニテ于潟江開作御築立相成候故、則当村之地方ハ平田ト申、御蔵入江引続之所故平田開作ト号来候事
と記されている。また平田については
平田村と申ハ往古平砂之観音と申鎮守有之、由来往古寺号醍醐庵と申し由ニ候、先年及絶破ニ只今ハ少庵有之、古平砂と申平之字を片取平田村と申ならハし候由申伝候事、尤醍醐庵ニ付一首の歌御座候
よしやその都に遠き里の名に
ただむすびおく法のえにしを
醍醐庵が廃庵になったとき、本尊は花岡法静寺に移され今も祭られている。平田は平砂からきているという。往古の平砂は平らかな砂地であったが、やがて田が開かれて平田となり、地名も変わったのであろう。この平田村は平田開作の平田村でなく、末武下村の内の平田である。
『風土注進案』には平田村(平田開作村)は、大呑町・下開作村・下香力村・平田浜よりなっていると書かれていることから考えると、貞享五年(一六八八)に給領地となった時には、すでに各地が開作されていた洲浜の地であったと思われる。
平田村は『風土注進案』以後、明治五年・明治八年・明治十八年の記録には、大呑町(大入海)・東開作(浜ノ内・竜神堂・塩浜)・西開作(六反穂ノ木・沖原・塩浜・米沢・内開作)が記されているが、明治二十年の分間図によれば全く地名が一変している。そこにみえる武運・長久・紅葉・初霜・延命・安楽・千秋・萬蔵・須磨・明石・梅枝・尾上等は、ほとんど佳名である。地形地勢に応じた地名が除かれ、佳名ばかりがつけられたことは、古い地理を知る上にまことに残念である。このようなことが行われたのは、当時末武地区は非常に俳句がさかんであったため俳句の季語が用いられたと思われる(郷土文芸としての俳句の昔噺、清水早太、第七輯所載)。また平田村が新開作の土地であるため、あまり古地名に執着がなく、思いのままに地名が変更されたものと思う。
末武下村西市の正福寺は、終戦前までは下松市内で一番多くの田畠を有し、富裕な寺院であった。往時も大寺であったであろう。付近に湯免・金屋・鎮守免等の地名があるが、正福寺に関係したものと思う(正福寺については第二輯参照)。
この頃、隣の下松の地は、切戸川の土砂の堆積により形成されていた時代であり、末武でも西市が平田川の土砂によって細長く形成されていた。当時西市は下松西市といわれていた。その後下松では、内側にあたる土井地域が開発されていったが、末武でも末武川の土砂の堆積地が開発されていった。両者の開発の比較考究は、興味ある課題と思う。
正福寺が創建された時代、下松では浅処寺が建てられたと思う。両寺は切戸川をはさんでいるが、浅処寺は切戸川系、正福寺は平田川系に属する。
正福寺は、末武の地頭であった筑前太郎家重と深い関係のある寺院であろう。同寺が家重の建立したものか、末武の他の豪族の建立したものかは不明であるが、家重と深い関係があったことは事実であろう。正福寺は、遠くはなれている(約十五粁)神上神社の社坊であった点について、私はかねがね疑問をもっていた。しかし、家重が末武村と富岡村の地頭であった関係で、正福寺は富岡村の神上神社の社坊となったと考えられる。
そのため、運航に便利な下松湾の切戸川の河口に正福寺が建てられ(正福寺の正門より玉鶴川に通ずる道がある)、富田港との交通が行われていた。また、正福寺が神上神社の社坊であったことより考えれば、家重はきっと富岡村に本拠をかまえていたものと思う。
正福寺の傍を流れる玉鶴川については伝説(下松市の民話・伝説参照)はあるが、玉鶴川は玉(タマ、湿地、水の意)鶴(ツル、水路のある低地の意)の意で、湿地にある川の意である。玉鶴川は悪水川であるので、湿地にある川の意である。
金屋は鑪師の神を祭った土地であって、鑪師が居住していたと思われる。花岡八幡宮の大剣や花岡勘場跡にある大砲も、末武で鋳造されたと伝えられているが、この地で造られたのではあるまいか。
城山の麓に殿垣内・上寺垣内・下寺垣内・上座主・下座主・天皇の地名があって、かつての城下町の姿が偲ばれる。
『地下上申』に
末武城山 高塚村之内
但往古末武何某と申人之居城にて御座候由申伝ヘ候、彼山岑ニ壱町四方程平地之段之井之跡も御座候、且又東ニ当テ馬乗馬場と相見ヘ候て往来有之候事
とあって、末武氏が居城として末武をおさめていたと伝えられている。麓の専明寺は当時の末武氏の菩提寺で、現在は浄土真宗であるが、当時は真言宗であったといわれている。寺の周りには累々として五輪塔があったという。これらの五輪塔は明治維新後、舟で海にすてたといわれている。
末武の豪族内藤氏については、住居地として『徳山市史』には
城山の西部平地(末武中)には堀・土井繩の地名が遺っている。ここが内藤氏の館址ではなかろうか。
とあるが、前述のように堀はもと河原で、開発もおくれていた地と考えられるので、豪族の居住地としては不適当と思われる。近くの宮原の地は、昔から居住に適する地と考えられ、宮原の地名は公家の出である内藤氏の居住地であったのではあるまいか。近くに受天寺・永城院・福円寺等の古刹もある。
『防長地名淵鑑』によれば
内藤肥後彦太郎藤時末武庄より来り、貞弘を援く。廿日又、戦ふ。閏二月十七日弘世高志垣城を攻む、藤時また赴援す。
これは、藤時が城山に拠っていたという説によるものであるが、藤時が拠っていたのは天神山か末武の岩熊山辺りではあるまいかと思う。白坂山と城山とは目と鼻の間であることを思えば、末武庄より来るというのは少しおかしいと思う。私達が子供の時即ち大正の初め頃、陸軍の連隊対抗の秋季演習が行われていたが、いつでも天神山と城山との対抗戦になり、末武平野を戦場として演習は展開された。当時岩熊山は重要な拠点であった記憶がある。藤時が拠ったのは城山でなく岩熊山ではあるまいか。
大内弘世は、陶弘政を陶村から富田に移して若山城に拠らし、鷲頭氏に対する前線基地としていた。これに対し、鷲頭氏が鷲頭山を守るためには城山でなく、少なくとも宮原・岩熊山・天神山の線を固めていたであろうということが考えられる。
『増補周防記』には末武村之内城山大内家末武某居城としており、また『地下上申』、河内村のところに
右小名之内八条と申ハ……当村之内石城山、末武之鷲頭城山、徳山栄谷城山、富田建咲院の城山、富田上村城山、矢地之若山城山、戸田村之湯野々之城山、富海茶臼山之城、此八ケ所之城山はるかに見れ候故、八城と申たるよし申伝へ候……
とあって、末武之鷲頭城山といって、末武の城山は鷲頭氏と関係の深い末武氏の城山の意であろう。
『防長地名淵鑑』によれば
大内氏廿世弘貞の子助三郎弘藤入道道如、此地を以て采邑となし、末武氏と称す。末武氏の祖なり。末武城は弘藤の築く所か、或は又、内藤藤時か、何れとも決定し難し
とある。『大内実録』によるも、末武助三郎の年代については不明である。弘貞については寛元二年(一二四四)九月十八日卒とある。白坂山の戦は正平七年(一三五二)四月であったので、弘貞歿後一〇八年になる。この頃には末武氏も、末武城の基礎も、固く定まっていたにちがいない。
該書には末武城は弘藤の築く所か、内藤藤時かとされているが、私は末武弘藤の築く所と考える。やがて白迫城も弘世の軍に破れ落城するが、ついで末武城も陥ち末武氏も滅んだ。
山本一郎先生は「末武の条里制は、戦国時代の領主か、大内時代末期の領主がやったのではあるまいか」と申されていたが、末武氏のやったものではあるまいか。末武の地に条里制を行うには、大きな財力と権力をもったものでなくてはならないと思うし、大事業である。一族に当たる鷲頭氏が、下松に大開作をつくったのに刺激され、末武氏は末武の地に条里制により開発を行ったと思う。
私の推理をすすめてゆけば、花岡八幡宮の多宝塔も末武氏によって建立されたものではあるまいか。多宝塔に要した財力と、こうした工事を完成するための権勢を持った者、そして仏教に対する知識と信仰を有していた者をこの地域で求めると、末武氏ではないかと思う。大胆な結論であるが一石を投じ、今後の研究にまちたい。
隣地の鷲頭氏は、周防の守護として一時は西国に権勢を振るっていた。その鷲頭氏と遠戚にあたる末武氏については、政治的にあまり名が知られていないが、これは末武氏が民政に力をそそいだためと思う。条里制を行って域内の開発につとめ、多宝塔を建立して精神的なものを培い、末武氏は常に民政に力をつくし、それ以後も武力の闘争にはあまりかかわらなかったように思う。鷲頭氏と対照して研究すれば面白いと思う。これはあまり推測しすぎであろうか。
末武の地名をみて感ずることは、垣内の地名が多いことである。このことは、鬼武利夫先生がすでに第十三輯末武「垣内」考で述べておられる。先生は、特に城山西がわに面する殿垣内付近に多いと指摘しておられる。城山の麓には垣内の地名が多いと共に、殿垣内・寺垣内・堂垣内・上座主・下座主等、重要な殿塔も多かったように思われる。ここは末武でも文化の栄えていた地域であった。
また、「標高五米以下の地域には、通称平田の字垣内を除く外は、全くそれらの小字名やそれらに類する地名がみ当たらない」と鬼武先生は述べておられるが、当時の家屋は平地の作物ができる大事な田地には建てず、山際等の荒地に建てられていたように思う。
城山の麓の下(しも)に田屋垣内がある。これは管理人の宿舎であり、今でいえば工事監督の現場に当たるが、末武下村の条里制の際のものと思われる。猿振里の条里制の時の田屋とすれば、もう少し上にあったであろう。鷲頭氏によって開作された下松の田屋は、かのう社の近くにあったが、田屋は開作地の中心の近くにあったように思う。
末武の地名には、上・中・下・東・西・南・北の地名が多いが、これは平田の地が平地であるため、上・中・下・東・西・南・北の見分けがはっきりとするためである。また、このことで村落が分かれていった状態が分かる。鏡味完二先生は「その地方の開発がすすみ、地域が広くなり、土地が盛んになっていった過程がよくわかる」と言っておられる。
末武中村の東河原・堀は河原より開発し、鳥越は山際を開発した地である。また中村の地が河原を開発した土地であることは、上河原・下河原・小河原・東河原・西河原等、河原の地名が多いことでも知られる。堀・土井繩・東繩・西繩も、大字の東河原・西河原の小字であるので、もとは河原であったことが分かる。末武中村の地は繩の地名から考えて、河原に小規模の条里の制がしかれたものと思う。
『風土注進案』にも
西河原・東河原と申ハ、往昔一面之河原を開き田畠となしたる也、大入海之儀も入海をハ開作せしゆへ斯ハ号し申と伝候事
と記されている。
垣内の地名についで多いのが田・河原の地名である。この名は、川水を縦横に灌漑して田をつくり、河原を開発して田とした土地であることが分かる。東西豊井村には堤河原・塩入・迫・田の地名が多いが、これと比較すれば興味がある。
氏子は神社の氏神を奉じ、それを精神的な糧として分村し移住してきた。大海丁の後野神社は、都濃郡長穂村より天保十五年(一八四四)に今の地に移り、平田開作の埴安神社は、玖珂郡下畑村より移されている。塩竃神社は疫病退散や風雨鎮めのため、開作の年に今のところへ開作の神として創建された。
下松市の民話と伝説にある末武八天王の話は、土地を守護し疫病を防ぐ神として、牛頭天王が末武の開作と関連した土地に主に祭られていることを明らかにしている。
寺院においても、現在平田開作に豊井の正立寺の門徒が多いのは、先祖が豊井地区から開作のため移住したのである。また切山誓教寺の過去帳にも、下松香力村の地名が出ている。これをみても、開作地を求めて周辺の地から多くの人々が集まったことが分かる。ことに平田浄蓮寺の過去帳には、貸家にて死亡した人が多く書かれているが、このことは家ができるまでは借家住いで開作にはげんでいたためだと思われる。
大自然を相手にする開作と宗教との関係は密接なものがある。ことに潮止めに当たっては、特に関係が深く(下松市の民話、伝説、東開作の獅子舞)百八燈の松明(たいまつ)をたき、獅子舞も奉納されたといい、鐘や大鼓を打ちならして潮止めを祈願したという。また豊井の児島開作のときは、東西二ケ所に潮の出入口を開いておき、東西互にきそって潮止めをさせたという。
大海丁の東の角を浜開作といっている。百姓小浜ともいわれ、平田の本軒百姓だけで所有していた塩浜であった。塩焼場も共同で、専売制になったときも今までの事情を訴え、これまで通りの共有を許してもらっていた。そのため、この地域だけは末武下村の管轄であった。
また荒神の近くに古開作の地名があるが、この辺りは古い開作地であった。久米村慈福寺所蔵の元亨二年(一三二二)七月二十日の文書に、「周防国都濃郡香力浜内荒神二町」とあり、正平九年(一三五四)四月二十二日の文書にも、「周防国香力浜荒野田地二町」とあって、古くからこの地域は浜や荒野であったと思われる。海水も香力辺りまできていた。
この元亨・正平の年号は南朝の年号である。北朝を奉じていた鷲頭氏との関係については後日に述べたい。
時代は下がるが、大正のはじめ久原工場誘致の際、末武南村は買収に応じた。しかし工場は建設されぬままになったため、村民は工場誘致期成会をつくり委員をたびたび上京させて久原氏と交渉をした。しかし工場は建設されず、久原氏は最後にお詫びの意をこめ、末武南村の地に下松工業学校を創立したといわれている。
また校地については、三丘の富豪坂本家一個人の土地であったので、割合順調に買収された。末武下村は藤井茂一氏宅まで条里制が行われ、それより下(しも)は個人によって自由に開作されたので、坂本家の開作地であったものと思う。茶びんころがし(下松市の民話、伝説所載)の伝説は、当時の周辺の荒地の状態をあらわしている。
久保田の地名は、国郡の役所や荘園の役人に給せられた田のことと記されているが、末武上村・中村・下村各村の主要な場所に、久保田の地名があるのは末武の条里の制の大工事が行われたときの役所跡と考えられないだろうか。また管理人の宿舎であった田屋(たや)があるのをみても条里の制のことが実証される。
『増補周防記』に花岡八景が次のように記されている。
花岡山晩鐘 和田橋夕照 城山峰月 白斧山暮雪 高塚夜雨 下松帰帆 平田落雁 高橋晴嵐
なお当時は、俳人・歌人によってさかんに詩歌が詠まれ、こうしたことからも平田村の地名が他に類を見ない文学的な語句による地名がつけられたのであろう。
次に末武村の経済について述べてみよう。
『地下上申』によって元文五年(一七四〇)の末武上村の村勢をあげると、
家数 八〇三
御蔵入 七七二
本軒 一二五
半軒 一六八
四半軒 一六八
町屋敷 八五
門男 二二六
給領 三一
(毛 市正殿知行所之分)
本軒 一五
半軒 一〇
門男 六
人数 一六九五
内
御蔵入 一五二九
内
[寺院社人 盲人ともに] 二七
男 七九六
女 七〇六
給領 一六六
(毛 市正殿知行所之分)
盲人 一
男 八〇
女 八五
牛馬 二六八
御蔵入 二四八
牛 二一九
馬 二九
給領
(毛 市正殿知行所之分)
牛 二〇
田畠惣高 八、三八二石三斗八升八合
但海上石、塩浜石、山川石共ニ
内
御蔵入 七、七二〇石六斗八升二合
先年以来永否石之分を含む
但先年以来永否石之分を含む
七九石九斗一升九合
1 七、六四〇石七斗六升三合
(永否石分を除く)
田方 六、九八一石八斗二升六合
内諸御除 五四石五斗九升七合
畠方 四八八石八斗五升三合
内諸除 一八石八斗六升七合
[鉄砲山 川役石] 五石五斗二升
浦屋敷石 五六石六斗二升六合
塩浜石 九四石五斗五升二合
海上石 一三石三斗八升六合
2 給領 六六一石七斗六合
(1) 六四七石八斗三升七合
右毛 市正殿知行所之分
平田香力開作之分
田方 五八五石二斗
左の諸除永否を含む
内 一五五石一斗六升五合
畠方 六二石六斗三升七合
笠戸深浦端々ニ有之
左の諸除永否共に
(2) 田方 一三石八斗六升九合
右山根六右衛門知行所之分
一軒当たりの人数を調べると二・一人となる。これは非常に少ないように思うが、多分労働できる人数をあげたもので、老幼者で労働のできない人は除き六歳以上の者と思う。
次に田畠総高を求めると(地下上申)
田総高 七、二六四石五斗六升八合
畠惣高 五三六石六斗二升九合
これより一軒当たりの石数を求むれば
田は九石四升六合 畠は六斗六升八合となる。
『地下上申』より百年後につくられた『風土注進案』をみると、天保十二年(一八四一)の末武村の村勢は
家数 |
総家数 | 末武上村 | 末武中村 | 末武下村 | 計 |
三四三 | 二四六 | 五九六 | 一、一八五 | |
(笠戸島一四七ヲ含) | (笠戸島ヲ含) | |||
本軒百姓 | 一一一 | 一四 | 三一 | 一五六 |
七歩五朱軒 | 二三 | 一九 | 七 | 四九 |
半軒 | 五二 | 四七 | 四一 | 一四〇 |
二歩五朱軒 | 三五 | 六七 | 一四〇 | 二四二 |
亡土百姓 | 一二二 | 九九 | 三七七 | 五九八 |
口数 |
一、三四八 | 九五九 | 二、四五九 | 四、七六八 | |
男 | 六九七 | 五二四 | 一、二六三 | 二、四八四 |
(笠戸島三六四ヲ含) | (笠戸島ヲ含) | |||
内 | ||||
僧七 社人一 庄屋一 年寄一 | 庄屋一 畔頭三 | 庄屋一 年寄二 | ||
御茶屋番一 医者一 畔頭四 | 米汁一 | 畔頭六 目代一 | ||
目代一 米汁一 盲僧一 | 米汁一 僧二三 | |||
盲僧一 | ||||
地下医者一 | ||||
酒造人三 | ||||
紺屋三 大工七 | ||||
柏屋二 問屋二 | ||||
商人三五 | ||||
カジヤ五 | ||||
質屋一 左官二 | ||||
船一 | ||||
女 | 六五一 | 四三五 | 一、一九六 | 二、二八二 |
(笠戸島三五四ヲ含) | (笠戸島ヲ含) | |||
在宅御諸士 | 四 | 一 | 五 | |
武弘太兵衛 | 佐伯源兵衛 | 沓屋浪江 | ||
松本忠五郎 | 葉若太吉郎 | |||
宮木勝七郎 | 河野善九郎 | |||
勝浦源治右エ門 | 村田信平 | |||
三分一恒右エ門 | ||||
足軽己下之事 | 七 | |||
御蔵元付 | ||||
十吉 | ||||
吉田藤左エ門組 | ||||
三郎兵衛 | ||||
天下御物場中間 | ||||
八左エ門 | ||||
同 | ||||
興三右エ門 | ||||
新陸尺 | ||||
治右エ門 | ||||
栄助 | ||||
鶴松 |
末武上村
田畠石高 二、六三一石二斗二升五合
1 給領 一石七斗五升
2 御蔵入 二、六二九石四斗七升五合
(諸引方を除く 七二石二升)
残 二、五五七石四斗五升五合
田方 二、三六七石五斗五升一合
畠方 一八七石六斗八升四合
鉄炮川役石 二石二斗二升
末武中村
田畠石高 二、二三七石五斗一升七合
(諸引方を除く 一七一石九斗三升四合)
御蔵入 二、〇六五石五斗八升三合
田方 一、九二六石一升六合
畠方 一三八石四升
鉄炮石 六斗六升四合
川役石 八斗六升三合
末武下村
田畠石高 三、〇〇一石六斗四升二合
(諸引方を除く 八四石二斗五升七合)
御蔵入 二、九一七石三斗八升五合
田方 二、六一八石八斗五合
畠方 一二五石二斗六升九合
鉄炮川役石 一石七斗七升三合
浦屋敷石 五六石五斗七升四合
塩浜石 一〇一石五斗七升八合
海上石 一三石三斗八升六合
末武上村
田方畝数 一二四町一反一畝十七歩
畠方畝数 二三町五反八畝廿八歩
末武中村
田方畝数 一〇七町二畝二十一歩
畠方畝数 一七町五畝二十歩
末武下村
田方畝数 一四八町七反二畝
畠方畝数 一五町六反二十三歩
一戸の人数 |
末武上村 | 末武中村 | 末武下村 | |
一戸の人数 | 三・九 | 三・八 | 四・一 |
一軒当たりの石数 |
末武上村 | 末武中村 | 末武下村 | |
田方 | 六石九〇七 | 七、八二九 | 四石三九三 |
畠方 | 五斗七一 | 五斗六一 | 二斗一升 |
計 | 七石四七八 | 八、三九〇 | 四石六〇三 |
一軒当たりの畝数 |
末武上村 | 末武中村 | 末武下村 | |
田方 | 三反六畝 | 四反三畝 | 二反四畝 |
畠方 | 六・八畝 | 六・九畝 | 二・六畝 |
藩への租税は田租を主とし、その税率は時代によって変遷があって、藩初は七ツ三歩即ち高一石につき七斗三升という高租であったが、漸次修正されて寛永二年(一六二五)以降は五ツ成即ち五公五民となった。さらに貞享検地(一六八六~一六八八)以降は四公六民となり、高一石の正租が四斗即ち四ツ物成が明治維新まで続いた。幕末の調査によれば、山口宰判の実際は田租と雑税で高一石当たり六斗一升八合で、六公四民というかなりの重税であった。
これを末武下村についていえば、田租・雑税を合せ一石につき六斗一升八合とすれば、一戸当たりの生産高六石九斗七勺に対して四石二斗六升八合の税負担となり、残高は二石六斗八升九合となる。これが一年の一戸の生活費とすると、一戸当たり四人家族で月二斗二升四合となり、これで衣食住すべてを賄わねばならなかったのである。現時(昭和五十五年)玄米価格一升四三〇円として、二斗二升四合は九、六三二円になる。現在(昭和五十五年)では四人家族の生活扶助料は約十四万円であるが、これから考えてみても、昔はほとんど米は現金にかえ、平時は麦飯ですごし、病気のときしか米は食べなかったという昔話もうなずかれ、当時の農民の窮乏も偲ばれる。このため、仕組・頼母子・借米等の救貧制度も設けられていた。
当時の米価について、参考までに左の記事をあげよう。
五斗二升八合 亀蔵
但九月朔日より正月十三日迄日数百三十二日別四合宛にして有之
七升六合一勺五才
但右之者塩薪代米日数百三十二日分、日別十文宛ニシテ八十文銭一貫三百二十文
これは日傭の計算書であるが、大体一日玄米で四合から五合位であったようである。
末武下村には僧が二十三人もおり、非常に多いと考えられる。この下村の寺院としては正福寺・浄蓮寺・専明寺観音堂がある。各寺より藩へ書出した『寺社由来』には、寺内の人数等について書かれていないので人員は不明である。正福寺は戦前市内で最大の田畠を有していた大寺であるので、多数の寺僧がいたかもしれない。浄蓮寺には学寮があったことから考えると、各地より来た多数の学問僧がいたと思う。
また、下村には各種の職人が多いのは、西市の商業地区に職人が各地より集まったためと思う。末武上村には、古くは樋物垣内・大工垣内・鍛冶屋垣内等があって、職人がいたと思われるが、風土注進案時代に職人がいないのは、下村の西市等の商業地区に移ったものと思う。上村の僧七人は花岡八幡宮の社坊(地蔵院・楊林坊・常福坊・千手院・閼伽井坊・香禅寺・惣持坊・長福寺・関善坊)の僧と思う。
末武村の地名について各時代の変遷について調べてみよう。
末武上村(これらの字名(あざな)はこの書が書かれた時代から使われていたのである。) |
地下上申 | 風土注進案 | 明治五年 | 明治八年 | 明治二十年地引絵図 |
寛延二年(一七四九) | 天保十二年(一八四一) | 大小区村名書 | 大小区村名明細書 | |
末武上村 | 末武上村 | 第七大区 | 明治十八年 | 石合 禅定寺 西ヶ谷 中佐古 山神 大崩 佐古 上佐古 上横谷 滑 上坂本 坂本 大地 中尾 山崎 犬丸 屋袮下 小林 屋敷 是光 風呂ノ上 中坪 岸田 宮ノ首 林 古馬場 上馬場 下馬場 宮田河内 早内屋 馬上 八幡山 垰 上地 宮田 宮ノ下 井口 下福寺 上福寺 信常 橋本 大王 大崎 上古所 遊丁 久保 井手 菊市 北大浴 高井 高橋 田村 山本 平佐 大畠 西樋口 東樋口 東蓼原 向河原 西蓼原 坂本 上王蔵 東坪 東神原 手水川 下王蔵 上河原 下中嶋 上中嶋 末武上 河原 兼光 中古所 高木 西花岡 花岡 東花岡 東田 鎌崎 向河内 菜莄迫 向迫 石城 南大浴 山添 青木 常森 上高塚 開楽 樋物垣内 来方 中高塚 大工垣内 殿垣内 上垣内 下河原 田屋垣内 高光 牛頭 東大木 葛五郎 高石 垣内 武新 国相 久保田 東申川 西申川 中毛坂 河角 岸下 毛坂 古所 森本 二井手 堂垣内 十念 中村 下中村 素鯉 西垣内 弘石 助松 石城 為上 川下 来垣内 土簗 下垣内 下高塚 前村 流田 川尻 蓼下 高柳 |
花岡市 | 山崎 | 第五小区 | 山口県地誌原稿 | |
高塚村 | 馬上 | 末武上村 | 明治三十四年 | |
向河内村 | 樋物河内 | 浴 | 山口県風土誌 | |
馬場浴村 | 毛坂 | 花岡市 | 末武上村 | |
上地村 | 古所 | 高塚 | 浴 | |
高橋村 | 吉馬場 | 弘石 | 花岡市 | |
蓼原村 | 宮ノ首 | 上地 | 高塚 | |
広石村 | 長渡呂 | 高橋 | 佐古 | |
古所村 | 高塚 | 上浴 | ||
中村 | 白河内 | 下浴 | ||
西河原村 | 菊市 | 犬丸 | ||
上地 | 花岡町 | |||
蓼原 | 新市 | |||
高橋 | 上市 | |||
高井 | 中市 | |||
永城院 | 小路 | |||
高柳 | 下市 | |||
菜草迫 | 毛坂 | |||
下河原 | 古所 | |||
石倉 | 高塚 | |||
禅定寺 | 鎌崎 | |||
佐古 | 上高塚 | |||
花栗 | 常森 | |||
花岡市 | 閂 | |||
城山 | ||||
下高塚 | ||||
上阿弥 | ||||
猿川 | ||||
弘石 | ||||
十念 | ||||
永田 | ||||
玉堂 | ||||
上地 | ||||
高禅寺 | ||||
中郷 | ||||
御宿 | ||||
遊丁 | ||||
高橋 | ||||
梁 | ||||
蓼原 | ||||
茶木段 | ||||
手水川 |
末武中村 |
地下上申 | 風土注進案 | 明治五年 | 明治八年 | 明治二十年地引絵図 |
大小区村名書 | 大小区村名明細書 | |||
末武中村 | 第七大区 | 明治十八年 | 末武中村 岸下 上阿弥 上和田 徳本 牛ノ頭 荒太郎 久保田 西垣内 鼠垣内 東中 石仏 鍛冶 行楽 東河原 堀 市仏 西福 西毛 西方 上土井 土井 堂ノ本 常光 竹西 堂免 生毛 永城院 上永城院 川手 井手口 西河原 橋本 弥垣 安重 小狭 藤内 対面 渦 東藤内 西馬生 香力 東渦 石堂 下馬生 上馬生 上久伝 中久伝 下久伝 上小堤 東今岡 西今岡 河原 新粕田 稗田 久保 小河原 西粕田 船付 銭尾 立川 下小堤 土橋 汐入 古川 粕田 向香力 乗国 荒神 大浴 角瀬 下和田 貸山 弥平 鳥越 西香力 下香力 松本 連仏 源八 東源八 下河原 稗尻 下和田 上河原 和田 岩崎 引地 年中 玉掛 尾崎 宮崎 宮原 筑穴 堂ノ口 古橋 玉堂 天王 東中 荒太郎 東渦 立田 上小堤 | |
中村 | 第四小区 | 山口県地誌原稿 | ||
和田 | 末武中村 | 明治三十四年 | ||
東河原 | 香力 | 山口県風土誌 | ||
西河原 | 荒神 | 香力 | ||
堀 | 貸山 | 上香力 | ||
香力 | 鳥越 | 石堂 | ||
鳥越 | 第五小区 | 渦 | ||
大入海 | 末武中村 | 藤内 | ||
東中村 | 中香力 | |||
東河原 | 稗田 | |||
西河原 | 今岡 | |||
和田 | 川原 | |||
下香力 | ||||
立田 | ||||
船付 | ||||
沖 | ||||
粕田 | ||||
荒神 | ||||
角瀬 | ||||
貸山 | ||||
山崎 | ||||
岩熊 | ||||
鳥越 | ||||
松本 | ||||
山根 | ||||
東中村 | ||||
久保 | ||||
中村 | ||||
東河原 | ||||
堀 | ||||
土井繩 | ||||
西河原 | ||||
東繩 | ||||
西繩 | ||||
橋本 | ||||
古橋 | ||||
和田 | ||||
堂ノ口 | ||||
下河原 | ||||
岩崎 | ||||
原 |
末武下村 |
地下上申 | 風土注進案 | 明治五年 | 明治八年 | 明治二十年地引絵図 |
大小区村名書 | 大小区村名明細書 | |||
末武下村 | 末武下村 | 第四小区 | 明治十八年 | 末武下村 貫抜 下貫抜 上山根 藤光 美ノ越 新開 丸山 寺垣内 大年 下山根 下寺垣内 西曽根 天皇 奥ヶ浴 東石城(ひがしいしじょう) 中曽根 上座主 南山 藤行田 中尾 水ヶ迫 膝行田奥(いざりだおく) 下膝行田 下座主 今田 下歌ヶ浴 岩崎 大代岡本 楠木 東尾尻 五ノ神 河東 尾尻 伊藤 中尾尻 野町 下尾尻 西玉曽根 七反田 上濱田 西堤 玉曽根 六反田 富永 乙房志(おとぼうし) 湯免 玉釣 堂免 菰房 鎮守面 浜田 西金屋(かなや) 金屋 東浜田 五反田 西市 土井 東御開作 中筋潮入 西潮入 蔵田(くらた) 中開作 潮入 西土手添(にしどてぞい) 西沖 浜開作 樋之内 塩屋本 地蔵免 切寄 伯耆 大入海 切貫 清水 小堤 姻田 久保 向田 上市 下市 吉清 中繩 慶萬 垣内 平田 石田 長畔 中屋 伊府田 曽利 仏念 東大頭 西大頭 筒井 西沢田 沢田 卯月 西高柳 東高柳 忠四郎 田ノ峯 猿川 伊正丸 下青木 東青木 中青木 西青木 梶田 蓼原 実兼 屋セ河内 美壮殿 久保田 関伝 長畔 小林 石城 天皇 大年 堂子迫 南山 西堤 |
平田村 | 平田 | 末武下村 | 山口県地誌原稿 | |
大入海 | 筒井 | 尾尻 | 明治三十四年 | |
大呑町 | 根 | 平田 | 山口県風土誌 | |
筒井村 | 尾尻 | 下松西市 | 第七大区 | |
山根村 | 下松 | 開作 | 第四小区 | |
尾尻村 | 大呑町 | 第五小区 | 末武下村 | |
香力村 | 東光 | 末武下村 | 尾尻 | |
下松西市 | 仏念 | 遠光 | 七反田 | |
和田村 | 平田 | |||
東繩(ひがしなわ) | ||||
猿川 | ||||
中繩(なかなわ) | ||||
二反田 | ||||
吉清 | ||||
西繩(にしなわ) | ||||
下河内 | ||||
仏念(ぶつねん) | ||||
高柳 | ||||
久保 | ||||
沖田 | ||||
大頭 | ||||
筒井 | ||||
西市 | ||||
野町 | ||||
乙房志 | ||||
六反田 |
平田村 |
地下上申 | 風土注進案 | 明治五年 | 明治八年 | 明治二十年地引絵図 |
大小区村名書 | 大小区村名明細書 | |||
平田開作村 | 第四小区 | 明治十八年 | 平田村 萬蔵 千秋 二本松 守重泉 梅枝 薄 扇 下武運 上武運 長久 金沢 紅葉 初霜 鴨沢 延命 安楽 須摩 吉凶 明石尾上 錦 米沢 古開作 神力 西潮上 東潮上 鶴ヶ浜一ノ桝 鶴ヶ浜二ノ桝 | |
大呑丁村 | 平田村 | 山口県地誌原稿 | ||
下開作村 | 大呑町 | 明治三十四年 | ||
下香力村 | 西開作 | 山口県風土誌 | ||
平田浜 | 東開作 | 第七大区 | ||
第四小区 | ||||
平田村 | ||||
大呑町 | ||||
大入海 | ||||
東開作 | ||||
浜ノ内 | ||||
龍神堂 | ||||
塩浜 | ||||
西開作 | ||||
六反穂ノ木 | ||||
沖原 | ||||
塩浜 | ||||
米沢 | ||||
内開作 |
次に末武村に関係のある地名について解説してみたい。
あお 湿地 青緑色
あおき 青緑の樹 大樹
あげし 高地の水田
あらた 開墾地 荒田
いわき(岩城) 上代防禦設備
いま(今) 今 あたらしくできた集落
いぬ 低い 小さい 犬
いくち 砂礫地にみられる地名
いもじ 鍛冶屋 鋳物師
いと 磯 川辺の物洗場 井戸 糸
うば(姥) 山姥や姥神の伝説のある所
うた(歌) 砂 砂浜 泥田 低湿地
かなや(金屋) 金工 金鋳護神を祭る鑢師
かめ 神 亀の象形語 沢田や沢辺を開墾した所
[かきうち(垣内) かいと] 土豪の垣の内 小部落 平地の字の名にも転用 峡戸
きれと(切戸) 切れ目(砂州や堤防の) 切堤(切戸) 山と山との間の切れ目
くぼでん(久保田) 国郡の役所や荘園の役人に給せられた田のこと
こもり 沼地 干拓地 洞 窪地
さす 砂地 焼畑
さこ(迫) 狭間 小さい河谷 湿地 砂地 雑戸
ざす(座主) 一山を統べる僧職
さる(猿) 葦原 湿原 やぶ
しろ 城塞 丘上や山腹の平坦地
しんかい(新開) 開懇地
しお(塩) 楔形の谷の奥 川の曲流部 食塩 海水
そり(曽利) 焼畑 休閑耕地
そね(曽根) 局地的に砂地 石地をなす疲地の所 海中の礁石山の背
たま 山頂 頂上 水 淵 湿地 霊魂の宿る神霊なもの
たや 開懇地においた管理人の家 田の中の小屋 田の番人の居所
つる 鶴 野原 水路 水路のある低地
つか 古墳 小丘や円丘 畑の単位 面積(五畝)
てんのう(天皇) 天王信仰(牛頭天王、素盞嗚尊)
どい 鎌倉時代の豪族や武士たちの屋敷のまわりに土塁や堀などを築いて防禦した
なわて 畔道 古代の条里制によってできた道筋の地名
のま 沼地 野原はノマチか
ばば(馬場) 崖 馬の訓練所 広場
ひ(樋) 水路の出入口に戸を設け之を開閉して水を出入させる所
ほり 開懇地
ほりのうち 豪族の屋敷
ほう 大化改新のとき五戸の家を単位とした一組織 平安時代の自墾の私田
めん 貢租を免ぜられた土地
りょうけ 本所に対してその保護者が一般の勢家である場合は彼等を領といい、その荘官の領家職の居住した所
竜王 竜王は雨乞の水神
や 湿地 小屋
やくし 薬師如来のまつってある所
最近、都濃宰判の書類をみる機会があったので、参考までに左の記事をのせる。
一、宝暦十三年(一七六三)三月十二日
都濃郡末武下村私存内御百姓次郎左衛門と申者、尾尻村之内ニテ瓦焼調申度之通御願申出ニ付、地下讃談仕候所、右之取柄水不如意ニ付、年々及干損候ニ付瓦土取候ハハ、自然ニ地下相成用水行届候………
下松市大字[末武中 末武下 平田]小字綜合図