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4 生野屋村の研究

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 下松市内の地名で、歴史に最初に現れてくる地名は生屋である。『延喜式』(九〇一―九二二)には
  周防国駅馬 [石国 野口 周防 生屋 平野 勝馬 八千 賀宝各廿疋]
とある。
 『和名類聚抄』(元和本)には
  周防国
   都濃郡
    久米 都濃 富田[止無多] 生屋 駅家
    平野 駅家
 とある。また、同書(高山寺本)には
  周防国
   都濃郡
    久米 都濃 冨田[度无多] 生屋 平野
   山陽駅(道)
    石国 野口 周防 生屋 平野 勝間 八千 賀宝
とあるが、御園生先生の『防長地名淵鑑』には
生屋駅家郷の条に
和名鈔訓闕ぐ当に伊久乃夜と訓むべし。延喜兵部式諸国駅伝馬周防国生屋駅馬廿疋とあり。山陽大路駅家を兼ぬる郷なり。和名鈔生屋、駅家の二郷とするは非なり。花岡村の内、生野屋村、久保村の内、山田、久保市、来巻、切山並に米川村古郷域なるべし。花岡村字生野屋郷名の遺なり
と書かれている。要するに生野屋は郷で、駅馬が置かれていたところと考えられる。
 生野屋の地名について考えるに、生(イク)はいきいきとした意である。野は野原の意、屋(ヤ)は感嘆の意で、生野屋は、「生き生きとした野原だなあ」の意ではないだろうか。
 生野屋の三字が生屋の二字の地名になったのは、『続日本紀』和銅六年(七一三)の詔に
  畿内七道諸国郡郷名着好字
また、『延喜民部式』に
  凡諸国部内郡里等名、併用二字必取嘉名
とあるので、古くは生野屋の三字であったのを生屋の二字にしたと思う。しかし生屋の読みは古の「いくのや」によったと思う。
 大化改新の新制度によって国郡の下に里がおかれ、里は収公した公地の田畑を条里に分けて、各戸の人別に給せられたという。末武の猿振里(サブリノサト)をこの大化改新の条里の制の里とすれば、和名鈔の地名の生屋の時代には猿振里があったのである。条里の制の猿振里、駅馬のあった生野屋は、当時この地域の繁栄の中心地であったと思う。
 当時の生野屋の中心になった地点は、駅を中心とした地域であろう。駅とは大化改新以後鎌倉時代以前においては、官使のために人馬の継立をなし、宿舎や食糧の供給をなすために、官道におかれた宿場である。山陽道は大路であるため、三十里(現在の五里)ごとに駅がおかれ、都濃郡では久米・都濃・冨田・生屋・平野にあった。
 駅には駅長がおり、下に駅戸があって駅馬を飼養し、駅田を耕作していた。駅戸の駅子は、駅路を往返するのはもとより、駅田の耕作や貢物輸送の補助などもしていた。生野屋駅は山陽道(大路)の駅であったから、駅馬が二〇匹常備され、駅には四町の不輸租田が給されていた。
 また山陽道は外国の使臣の往来もあったので、駅館も相当立派であったと思われる。当時の生野屋は周防の東部の要衝で、また現在の新幹線の停車駅にも比すべき交通の要地であったと思う。
 山陽道行還の今まで長い旅路の間、山路を通り抜け海の見える生野屋に出て、条里の制で開発されている猿振里に近い生野屋を見たとき、旅人は生き生きとした喜びを感じたに違いない。この駅のおかれたところは、現在の生野屋の中村と思う。中村とはまん中の村の意で、生野屋の中心地の意味である。また現在、宮本にある松尾八幡宮は、松尾神社と宇佐八幡宮を合祀したものと思う。松尾神社は、京都山城の松尾神社の分霊を生野屋駅の守護神として、都より駅の役人が奉じて下り、この地に祭ったものと思う。この神社は中村の鬼門にあたるところに祭られている。古代の地下図によれば、中村より宮本の松尾神社に直接に一本道が通じている。
 松尾八幡宮は『寺社由来』によれば、文徳天皇天安元年(八五七)八月に、宇佐八幡宮の神霊を勧請して、この地の鎮守として祀るとある。この年代については一考を要するが、この八幡宮を松尾神社に加祭したので松尾八幡宮と称したと思う。
 生野屋中村の地域には、尾宿・茶屋垣内・湯免の地名があり、薬師堂(多聞院に属し明治六年十二月、熊毛郡岩田村に遷る)も祭られていた。いずれも駅に関係がある地名と思う。傍に平田川も流れており、この地域は駅馬の手入れや馬の飲用水・飼料としての水草もあり、駅の設置場所として最適の条件を備えていた。こうした点から考えても、この中村が生野屋駅のおかれた地であるように思う。
 生野屋から花岡に通じている道を古い地図でみると、後世に道路が改修されたように考えられるが、これは後日の研究にまつことにしたい。
 生野屋郷は、生野屋がその郷域に当たり駅家を兼ねた郷であったが、郷には郷司がいて郷内の戸籍・公安・土地・賦役などのことを管掌した。一郷五十戸が郷戸の数であった。郷戸は戸籍の編成上の一戸で一家とは限らず、戸主の妻子の外兄弟・伯叔父・従兄弟およびその妻子をも含めた家の集団だったようである。従って一戸十人以下という少人数の家もあったが、中には百人に及ぶのもあったようである。延喜八年(九〇八)の玖珂郡戸籍によれば、一戸の人数は十六人から四十八人まであって、平均二十二人になっている。大体一戸二十人から二十五人位と考えられるようであるが、生野屋郷五十戸として千人から千三百人位になる。これが、当時の生野屋郷の人口であろう。
 当時の生野屋には、郷司・駅長が居り、それに付随した役人等を考えると、かなりの人員がいたことになり、生野屋は政治・交通の中心で、周防地域では早くより開け、下松地方史上で最初に史書に地名が出たところである。
 其の後、生野屋の駅はいつ頃花岡に移ったのであろうか。花岡の駅については『風土注進案』に「駅の事」として
馬建場一ケ所 四間ニ五間半 三間ニ半間之外共ニ惣茅葺 目代役平生住居仕 御除畠弐畝高四斗一升七合御普請取繕ハ郡配当より被立下候
人馬継立丁数 久保市弐拾八丁 久米市弐拾丁 下松弐拾八丁 自道手当人馬六十人弐拾疋 其余御先触到来人馬相増候節は、末武三ケ村より加勢夫罷出候て継立仕候事
と記されている。和名鈔から風土注進案まで、約六百年の間、生野屋の駅に関する記事はない。その間に生野屋の駅が廃され花岡に駅がおかれたと思う。花岡の駅について
郡庁評ニ曰
当駅ハ古延喜式ニノセラルヽ所ノ生野ノ駅家也 今花岡ヘツヽキテ東ニ隣レル生野屋トイフ 是往古生ノ屋ノ名残レルコト顕然タリ
右生野屋ハ当時徳山領ナリ
とある。
 六百余年間に起った重大事件としては、鷲頭氏・大内氏の興隆と滅亡、毛利氏の興隆、朝鮮攻略の際の豊臣秀吉の山陽道の整備等を考えることができるが、こうしたある時機に駅の移動が行われたのではあるまいか。あるいは花岡より上地・坂本を通っていた山陽道が、現在の西河原・久米を通るように改修された頃に、生野屋から花岡に駅が移されたのではあるまいか。このことは今後の研究にしたい。
 鷲頭氏と生野屋との関係についてみるに、生野屋は下松妙見社の氏子で、祭事はすべて現在も妙見社によって行われており、生野屋村は鷲頭氏の勢力下にあったのである。
 陶越前守盛政文書正平十六年(一三六一)十一月十三日に、鷲頭庄生屋郷松尾八幡宮と書かれている。考えるに、鷲頭氏は白坂山につづくこの生野屋の地を、鷲頭氏の本拠地鷲頭山を守るに必要とした。鷲頭氏の相手である山口の大内弘世の軍勢は、鷲頭氏を攻めるために陶氏を冨田若山城におき、ここを鷲頭氏攻略の前線基地とすべく着々と戦備をととのえていたのである。こうした弘世に対するには、生野屋の防備は当然のことと考えられる。
 当時、鷲頭氏の遠戚に当たる末武氏は、末武の地に居て城山に拠っており、末武の西部の台地にいた内藤氏も鷲頭氏に加担していた。鷲頭氏としては、鷲頭山を中心としてかなり堅固な態勢にあったと思う。
 『地下上申』によれば生野屋村に若宮が祭られているが、これは妙見社の若宮で、鷲頭氏と深い関係がある。
 また、『元和検地帳』には生野屋村に新庄という地名があるが、これは本庄に対し追加開懇地の新庄の意で、生野屋は鷲頭庄の新庄であったと思われる。また、検地帳に出ているたて原・たて番の地名のたてには、屯田集落の意があることを考えると、この新庄を守ったたての人々が住んでいた防衛の地で、外敵弘世の軍勢に対する防衛の地であったと考えられる。
 また、鷲頭氏と末武氏の関係を考えるに、両氏は同じ大内氏の血縁で、互に土地を接しているため、特に関係が密接であったと考えられる。
 鷲頭氏が生野屋より更に西の末武に勢力を伸ばそうとしなかったのは、末武は末武氏に防衛さすためであったと考えられる。
 毛利氏の代に生野屋村は徳山藩領となり、末武村は萩本藩領になっているが、地勢上からいえば、当然、生野屋村は末武につくべきものと考えられるが、藩を異にした理由としては、昔鷲頭氏と末武氏とに分れていたためであろう。
 その後、明治二十二年市町村制がしかれたとき、はじめて生野屋村は末武上村・末武中村と合併して末武北村となった。ついで、昭和四年四月一日末武北村は花岡村と改称した。さらに、昭和十四年十一月三日、花岡村・末武南村・久保村・下松町が合併して下松市制をしくことになった。
 生野屋村は現存する検地帳で、最古の『元和検地帳』の末尾に記されている元和三年(一六一七)四月二十八日の総計によると
  田数六十六町九段二畝十歩
   米千二石八斗八升
  畠十八町八反
   米八十一石一斗一升
  屋敷九十九ケ所 三町一反八畝
   米三十六石四升
  茶米九斗二升一合
  椿米五合
  漆三本米一升五合
  桑二百五十九本米六斗九升一合
  ミカン八本米二石二斗五升
  楮木二百三十六本米七斗四升三合
   以上四石六斗二升五合 小成物
  幷千百二十四石六斗五升五合
これが毛利氏としては関ケ原戦後最初の検地帳で、毛利氏治政の基礎となったものである。
この検地帳からまとめてみると(平均)
  一戸の敷地 三畝六歩
  一戸所有の田面積 六反七畝十八歩
  一戸の田収穫高  米一〇石一斗三升一勺
    (田一反の収穫高  米一石五斗七勺)
  一戸所有の畠面積 一反八畝二九歩
  一戸の畑収穫高  米八斗一升九合三勺
    (畑一反の収穫高  米四斗三升一合四勺)
  一戸の小成物   米四升六合七勺
  一戸総収穫高  米一〇石九斗九升六合
これが生野屋村の一戸の経済であった。(平均)
 幕末の調査によれば、山口宰判の貢租は田租と雑租を合せて高一石当たり六斗一升八合で、六公四民であったといわれている(下松地方史研究第十六輯参照)。これと同率にすれば生野屋村では、税米六石七斗九升五合となり、四石二斗一合が一戸の一年の生活費となる。
 『元和検地帳』にのる九十九軒の屋敷について、地名別にすると次のようになる。
元和検地屋敷数調
 (軒) (軒)
伊東田4(1)木ふね1
茶や4倉のつほ1
時正4こんとう給1
はいかき内4こうなか1
あか二郎3さめ石1
石畠3さこ1
大畠3しついかさこ1
河原3新六1
くね石3下庄原1
たんしょうかいち3すみ畠1
竹の下3(1)瀬山1
長おん寺3そり田1
つねしげ3たて番1
古やかいち3とき原1
えき2長えき1
かちや2ひへ垣内1
くちやかいち2ひえた1
そうか迫2ふろの迫1
たう正2丸林1
大王2丸山1
ちかひろ2みなひと1
時宗2右田1
にしかえき2むねひら1
2もりの迫1
あかの木1山そへ1
有ひろ1ゆめん1
いのこかいち1渡り町1
おか1  
大道199(2)
かねつき免1(カッコ内は寺院数)

 次に、この『元和検地帳』に出ている寺院については、生林寺と多聞院の二ケ寺がある。
 伊東田(前の小畠共ニ)  生林寺
   寺敷四畝廿歩 米五斗
   茶      米一斗三升
   ミカン一本  米二斗五升
   柿二本    米五合
   椿二本    米五合
生林寺の所在地、敷地、敷地内の樹木がこれで分かる。また
 きしの下   生林寺ノ助左衛門
   田六畝十歩  米一石一斗一升
これは生林寺の寺男であろう。
 多聞院については『元和検地帳』に
 竹ノ下          多聞院
   寺敷九畝    米一石八升
   柿五本     米二升
   梅三本     米一升
   サンショウ一本 米三合
   みかん一本   米三斗
   茶       米二升
   椿三本     米八合
とある。多無院とあるのがあるが多聞院の誤字かと思う。
 かねつき免        多無院
   田一反六畝  米三石一斗五升
 この多聞院・生林寺の二ケ寺は、寺敷として敷地も書かれている。寺敷がなく寺名だけ検地帳に残っている寺は、長楽寺・長音寺がある。長楽寺については『寺社由来』に
周防都濃郡生野屋村真言宗多聞院、寺号ハ長楽寺山号ハ松尾山、往古ヨリ仁和寺末寺何之開基と申儀知不申候、本尊は毘沙門天、木仏長キ一尺三寸ニシテ其作知不申候、多聞院四間半間数六間御座候
とあって、長楽寺は多聞院の寺号であるとある。
 しかし、長楽寺の地名が多聞院以外にあることより考えると、長楽寺・多聞院は別々にあることになる。辞書によると
院とは寺に従属する別舎をいう。七堂伽藍の域内にあって小規模な仏堂・庫裡をそなえているが、伽藍に従属しその支配下にあるもの、伽藍全体を寺というのに対す。
と書かれている。これによれば多聞院は長楽寺の院と考えられる。後述の『寛永検地帳』に地名に残っている福地院・北院・中院も松尾八幡宮の社坊であったのではあるまいか。
 『元和検地帳』より九年後の寛永三年(一六二六)に出された『寛永検地帳』によれば生野屋村は
  田数  六十三町九反八畝二十歩
   米   千百八十九石三斗三升九合
  畠数  十四町九反四畝
   米   百三石五斗六升七合
  屋敷数 九十六ケ処 二町七反五畝十歩
   米   四十九石五斗二升九合
  桑三百三十五本 米四十九石五斗二升四合
  幷千三百四十四石七斗八升九合
これによれば(平均すれば)
  一戸の敷地 三畝三十三歩
  一戸所有の田面積 六反六畝十九歩
  一戸の田収穫高  米十二石三斗八升九合
    (田一反の収穫高 一石八斗七升)
  一戸所有の畠面積 一反五畝十七歩
  一戸の畠収穫高  米一石七升八合
    (畠一反の収穫高 米七斗二合)
  一戸の小成物 米二升四合
  一戸総収穫高 米一四石八合
 『元和検地帳』と『寛永検地帳』を比較検討すれば、いろいろ研究に価する問題がある。他日の研究に譲りたい。
 『寛永検地帳』にある寺院は多聞院だけである。
これについては
  たもいん 寺敷三畝 米五斗五合 義左衛門
と記してある。これについて不明の点は後日の研究に譲りたい。
 『寛永検地帳』に地名に残っている寺名としては、長音寺・長楽寺がある。他に、福地院・北院・中院・地福寺・黒林寺がある(福地院・北院・中院については前述した)。このように、『元和検地帳』に地名として寺名が記されていないのは、寺名が地名にならず、土地の地名の中に含まれていたからと考えられる。
 『寛永検地帳』の人家を地名別にすれば次頁のようになる。
寛永検地帳
 (軒) (軒) (軒)
むね国5国か1とも米1
長音寺3くす本1時正1
有とう2このかみ1ゆめん1
井のこかいち2さか田1とも久1
かね石2実石1中や1
きふね2さこ田1ないし田1
立石2さやの木1成本1
時宗21中そね1
泊夜2下太国1西かえき1
ひへかいち2新治11
樋の上2せやま1ひて田1
風呂か迫2そうか迫1ふかや1
丸林2竹の下1福地院1
めんかいち2田中1南かいち1
持田2ためひろ1見立ふ1
有ひら2たもいん1水口1
板の本1大とう1三月田1
いよ尾1竹藤1三なくち1
石囗11むねひろ1
うしなり1大王1宗弘1
え田1茶や1むくの木1
1下つき田1下むねひろ1
河原田1寺の下1むへ木1
下かいち1時国1柳木田1
かちや1とき竹1  
かちやかいち1とのかいち196

 『元和検地帳』と『寛永検地帳』の屋敷の地名をみるに、両検地帳は僅か九ケ年の差しかないのに、屋敷の地名がほとんど異なっているのは、理解のできないところである。これは当時の地名の大部分は、何等根拠があってつけられたのでなく、人々の思い出すままに勝手につけられたものであるからと思う。また当時の家が簡単な造りで、容易に移転ができたためではなかったかとも思う。
 『元和検地帳』には約一七五ケ処の地名があり、『寛永検地帳』には約一五〇ケ処の地名が残っている。両検地帳で地名が同じなのは次の六七ケ処である。
秋長 有ひろ いのしり いの丸 石丸 石田 いのこかいち 石の口 池の内 石畠 えほし岩 おくが迫 おか 岡畠 大畠 尾の上 大くほ 柿の木畠 神田 河原田 かちや かねつき免 木ふね さめ石 さやの木 さこ しょうぶ すなこ 瀬山 そうか迫 竹の下 たて原 茶や 長楽寺 長音寺 寺の下 時正 友村 時宗 中ノ迫 中そね にしがえき 西垣内 二町田 原かきの内 富田 ひへ垣内 ひえた ふろの迫 古や垣内 ほうしょうえ 正もち 松ノ口 丸山 まつか后 三月田 宮山 むねひら 宗国 めんかいち もりの迫 元兼 山そへ 山神田 ゆめん よこ道 よこなて わきの田
このうち、現在も小字として市役所で地籍に使われている地名は、次の二五ケ処である。
秋長 石丸 池の内 石畠 岡畠 大畠 柿ノ木畠 神田 木船 実石 砂子 瀬山 惣ケ迫 蓼原 長音寺 時正 時宗 中ノ迫 西ケ迫 原垣内 稗田 風呂ケ迫 森兼 湯免 横撫
これらの地名は、元和検地以来使用されている古い地名である。
 『元和検地帳』の三百余の地名を吟味してみると、「もりの迫・もりのかいち・もりかね」の地名は森に関連している同一の土地の地名ではあるまいか。「おか・岡畠・岡のたん」の地名も岡に関連している。このように考えていくと、相当数の地名が整理され少数の地名になるであろう。
 生野屋村の地名でよく言われていることは、昔の公卿や武人の人名が多いことである。元和・寛永検地帳からとりだし、氏別に調べてみると(かながきを漢字になおした。氏の名も筆者がしるした)
 ときまさ(北条時政)  ときむね(北条時宗)  ありひら(藤原在衝)
 つねしげ(藤原経重)  ともなが(藤原資長)  むねひら(藤原宗平)
 まさもち(藤原政基)  ときくに(平 時国)  むねくに(藤原宗国)
 むねひろ(藤原宗弘)  もとかね(藤原基兼)  むねくに(藤原宗国)
 ともとき(藤原資時)
 かなでかいてある地名を漢字に直し氏をつけてみた。
 これらの公卿武人の名が当時の地域の人々には京より下(くだ)ったという伝説があったので興味があったのではあるまいか。古い歴史のある多聞院、県の指定文化財星宿図、宿場のあった地、下松で一番古い地名をもつ生野屋等を考えると、生野屋に古い伝説があったと考えられる。
 『寛永検地帳』より一一四年後の元文五年(一七四一)にできた『地下上申』によると、生野屋村は宮本村・中村・下村の三ケ村にわけてある。生野屋村が大字に分かれた最初であろう。しかし、どの地がどの大字につくか不明であるのは遺憾である。しかし、宮本が中心にあったと思われる。
 『地下上申』によれば
  惣高千九百六十九石四斗二升八合六勺
       内
    田方千七百十二石一斗四升
    畠方二百五十七石二斗八升八合六勺
  惣家数二百二十四軒
       内
    本軒二百一軒
    門男二十三軒
  惣人数九百五十一人
       内
    男四百七十四人
    女四百七十七人
  惣牛馬数百十四疋
       内
    馬二十九疋
    牛八十五疋
と記されている。これによると左のようになる。
 一戸の田収穫高 米七石六斗四升三合
 一戸の畠収穫高 米一石一斗四升八合六勺
 一戸の総収穫高 米八石七斗九升一合六勺
 一戸の人数 四・二人
 一戸の牛馬数 〇・五疋
元和・寛永の検地帳と比べると、年数もたっているため戸数が大変多くなったことがわかる。そのため一戸の総生産高は減少している。
 『地下上申』の寺院について調べてみると、多聞院と真宗教応寺がある。
 多聞院については下松地方史研究第五輯に大略述べているが、多聞院所蔵の星宿図(昭和五十二年三月山口県文化財に指定)もあり、歴史も古く、多聞院については更に深く研究する必要がある。
 教応寺についても同研究第五輯で大略述べているが、近世の古文書がよく保存整理されている点は市内随一である。前述以外の古文書を二、三ここにあげよう。
 御請状の事
一 耶蘇切死丹宗門誓紙血判之者相違無御座候
一 旅人其外ノ行衛不知者一人ニても抱置不申候
一 乞食等ニ至迄札を以出入申候事
右之通手堅申付、若不心得之者有之、御法度之旨相背候ハハ、其者は不及申、私如何体ニも曲事被仰付候、為後日御請状差上申処如件
 萬延二年(一八六一)辛酉正月十五日
                               庄屋  清水弥三右衛門
   井上河兵衛殿
 右は切支丹宗禁制について、庄屋より藩に出された請書である。また旅行者の旅行についての往来手形は左のようで、これを旅中所持していた。
  往来手形
       松村丈助
          伜
           政二郎
右之者浄土真宗拙寺門徒ニ付、宗門無紛者ニ御座候、此度高祖聖人二十四輩為巡拝罷出候所、御関所無煩勘過被仰付止宿渡船之御沙汰、若病死仕候ハハ国本江不及御付届、其所之御作法を以身隠可被成下候、仍て宗門手形如件
     防州都濃郡生野屋村
安政三年(一八五六)二月廿一日                  教応寺
  所々御関所
     御究衆中
 また、明治初年頃の治安警備は厳しく、寺院の説教についても届書を出していた。
   説教届
本年九月十一日ヨリ同十五日マテ五日間讃仏会説教致仕度、教師之義は熊毛郡曾根村教相寺住職宝城潤道ヘ依頼仕候間、此段及御届候也
    都濃郡生野屋村教応寺住職
 明治十八年八月十六日                     内山龍渓
    下松警察署御中
以上は教応寺の古文書より、当時の世相を反映している記録を二、三摘録したものである。
 次に『地下上申』で、生野屋村にて特に目立ったことは、堤の多いことである。堤が六ケ所(大蔵迫堤・友石堤・藪口堤・弥八田堤・原垣内堤・深ノ田堤)あるということは、生野屋村には川が少ないためである。昔から「生野屋の日やけのんこ」といっていたが、これは日やけした田畠に働いている日やけしたのんこ(農家の常傭の若者)をいったものと思う。これらの堤のうち、友石堤については、幸に生野屋村の庄屋であった松村家に、明治三年一ケ年間の記録が残り、この堤の記事が多数記されているので、友石堤に関する一ケ年の記録を摘録することにした。他の堤の記事はないがこれに類するだろう。
        生野屋村庄屋
              松村伴五郎
    札銀三貫五百目
右生野屋村友石堤御普請御入用之内江、為御国恩献納仕度候、願出奇特之儀ニ付被拝受之候間、支配役所え可相納候事
右之通御沙汰相成候条、此段被相心得可被宜沙汰、為此申達候、以上
 明治三年三月廿九日  兼崎寛九郎
       松村伴五郎殿
  札銀七百五十目 生野屋村畔頭 木原源之進
  札銀七百五拾目 生野屋村畔頭 田村七郎左衛門
  札銀七百五拾目 生野屋村畔頭 田村重左衛門
  札銀一貫目          石井重松
  米一俵            友蔵
  米一俵            想左衛門
右生野屋村友石堤御普請入用之内ヘ、為御国恩一ツ書之通銘々献納仕度御免被仰付可被下候、願出奇特之儀ニ付願之通リ被差免候条、早々支配役座ヘ可相納候、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
  三月             兼崎寛九郎
    生野屋村庄屋
        松村伴五郎殿
      生野屋村畔頭
           田村稲十
  札銀三貫目
右生野屋村友石堤御普請被仰付候ニ付、右御普請銀之内江為 御国恩献納仕度段願出候ニ付、願出之通リ被差免候事、右之通御沙汰相成候条、此段被相心得可置沙汰、為此申達候、以上
  閏十月廿六日         難波要之進
    生野屋庄屋
       松村伴五郎
このように、庄屋をはじめ畔頭等によって友石堤の普請代金は献納された。このように、友石堤の普請は大変な出費であった。
  御願申上候事
一人夫八百人
  但右之人夫山田村来巻村河内村西豊井村東豊井村より加勢相成候様御願申上候事
右生野屋村友石堤御普請ニ付、当村人夫相労候節ニ前書之通リ、村々より加勢相成候様御願申上候間、御免被仰付可被下候様、左候て被掛次第差出方相成候様御沙汰被成可被下候、此段宜敷様偏ニ奉願上候、以上
   午四月                      庄屋
                                松村伴五郎
 兼崎寛九郎殿
  右は願出之通
右願出之通被差免候条、此段可被相心得為此申達候、以上
  四月廿六日
以上のように、大勢の労力が動員された。また米も支給されていた。
       生野屋村
 一米拾俵
右友石堤御普請料の内ヘ乍纔前書之通リ被下立候間、此段可被相心得、為此申達候、以上
   六月廿一日                        兼崎寛九郎
   生野屋村庄屋
      松村伴五郎殿
友石堤の用水について左の記事がある。
    生野屋村畔頭木原源之進組
                五郎左衛門
右持分葛之木畠一畝拾歩米三升之処、先年畠掘仕一升三合三勺三才増石被仰付、自力堤天水を以作方仕候得共、行足不申候ニ付友石堤懸リ被仰付候ハハ、是迄之石江六升六合七才増石被仰付、左候て堤御普請向江札銀一貫五百目献納仕度候、旁願出ニ付願出之通差免候間、無相違相調可申候事
水不足を友石堤の水で補うよう願出て、献納もいたし許可されている。しかし、修理に伴って事故もおきている。
    生野屋村畔頭木原源之進組
                庄二郎
右は難渋者ニ御座候処、当春友石堤御普請之節、石工手子ニ罷出候処、怪我仕体不計難渋仕候ニ付、此度休養として山口え入湯罷越候得は、諸遣ひ辻も無御座候ニ付、何卒格別之以御慈悲御恵米被仰付被下候趣願出候ニ付、乍纔前書之通先達て御沙汰相成候内、被下候条難有頂戴仕候様、此段被相心得可置沙汰、為此申達候、以上
 十月十九日                病気ニ付井上唯右衛門代判
                                兼崎寛九郎
    生野屋村庄屋
        松村伴五郎殿
 以上は、友石堤一件についての一年間の記録である。
 次に当時の福祉についてみるに
 一米 十俵  生野屋村
 一米九十七俵 徳山村外七村
右御藩内在町之者共、当節米価沸騰旁飯料乏敷令難渋候ものも有之趣ニ付、格段之以御憐愍、其者共江御米少々宛前書之通、札一匁ニ付二合替ニシテ御売下ケ被仰付候間、在町役座ここニおゐて正路ニ売渡可申候事右之通御沙汰相成候条、此段被相心得候ハハ、遂御沙汰為此申達候、以上
  明治三年正月十六日                     兼崎寛九郎
   村々庄屋中
 明治三年の当時は、幕末前後のインフレの時代であったので、藩札の価値がさがりクズ紙同様でしかなかった。藩札一匁も無価値であったから、無償同様で米が支給されたと思われる。明治三年の米価の公定は正銀一匁で二合七勺であった。
一米五升 生野屋村畔頭
       某組
        某 家内五人
一米三舛        一人
一米五升 某組 庄吉家内三人
右之者共溢ニ難渋ニて当節難凌趣ニ付、為御恵乍纔前書之通被下之候条、此段被相心得可
   ×   ×   ×
被遂沙汰、為此申達候、以上
 一月十八日         兼崎寛九郎
  生野屋庄屋
右之者以下は以下同文である。
一米三舛 某組 三人
 正月廿四日
一米六舛 某組 六人
一米三舛 某組 三人
 二月十四日
   ×   ×   ×
一米五舛 某組
一米五舛
 二月廿一日
一米五舛 某組 五人
一米三舛 某組 三人
 三月廿一日
救米のほか六朱の利足で貸付米制度もあった。
   ×   ×   ×
一米三斗 某組
  但利足六朱一ケ年限り御貸下可被仰付候
右願出之通リ被差免候条、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
 三月廿六日
一米三升 某家内三人
一米二升
 四月三日
       生野屋村
一米二拾五石
   内
  八石九斗一升但籾拾六石二斗を以
右其村難渋百姓中より作飯御貸下被仰付願出候得共、願通ニは不被仰付、格段之思召を以一ツ書之通リ利六朱一ケ年限御貸下被仰付候条、此段被相心得可被置沙汰、為此申達候、以上
 四月九日          兼崎寛九郎
このように、生野屋村全体より二十五石という大量の貸下げ米を願出、利足付きでこれを難渋百姓に貸下げていた。
 また、救恤米として下された額については左の記事がある。
一米三斗三升
  但一人日別一合ヅツノコト
  五月中被仰付候
救恤米は一日一合宛であった。
一米一斗 某家内三人
  六月十九日
一米一斗 某組 庄吉
  七月十一日
一米八升 某組 家内三人
  八月三日
一米一斗 某組 家内三人
  九月四日
一粉米五升 某組
  九月十三日
一粉米五升 某組 家内三人
  十月十一日
 次は火災にあった罹災者が、貸下米を救恤米にと願出たものである。
一米三斗 木原源之進組 六郎吉
右極難渋者、当正月八日居宅不残焼失仕、猶々極難立相成候ニ付、無拠御厄書申出仕候処、前書之御米利足六朱一ケ年御貸下ケ被仰付、難有其節相凌以及候、然処当秋御返納可仕筈之処、方便無御座候付、恐多奉存候得共、何卒格別之以 御慈悲、前書之御米御恵米として被仰付被下候之様依出願出願通被下候条、此段被相心得可宜沙汰、為此申達候、以上
 十二月十七日
一米二斗 木原源之進組 政右衛門
右之者極難渋者、当節凌方相成候処、纔之居処昨夜之風相破れ、誠に難渋仕候間、乍恐御救被仰付被下候様願出候ニ付、前書之通被下候条、此段被相心得可被遂御沙汰、為此申達候、以上
 十二月四日
 右は当時の福祉についての記録である。生野屋村は古来より下松市内でも富裕な村といわれていたのであるが、このように救米を得ていた家が相当あり、村全体として二十五石も貸付米を借り受けて窮乏者に貸していたこと等を考えると、昔の人々の生活状態が知られる。
 次に、参考までに当時の家屋についての記事をあげよう。
     田村重左衛門組 熊次郎
一居家(おりや)一軒
   但三間梁五間ニシテ
 右願出之処
右願出之通リ被差免候条、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
                            兼崎寛九郎
 生野屋庄屋
     松村伴五郎殿
     木原源之進組  岩蔵
一居家一軒
   但二間三間ニシテ
 右願出之処
右願出之処、容易ニ難被及御沙汰候筋ニ候得共、格別之了簡を以被差免候条、此段被相心得可被沙汰、為此申達候、以上
  二月晦日
     清木長次抱  七兵衛
一居家一軒
   但二開梁二間ニシテ
右房吉と申者江貸家入作市右衛門田地の内、田一反六畝拾歩四石五斗之内江建調仕度願出之処
右願出候趣容易難被及御沙汰候得共、格別之以御了簡被差免候条、此段被相心得可被沙汰、為此申達候、以上
  三月十六日
     田村稲十組 武平
一貸家一軒
右の者前書の貸家損ニ付、触払跡作方仕度奉存候間、触払御免被仰付可被下候、御願申出候間宜敷沙汰
右願出之通被差免候条、此段被相心得、可被宜沙汰、為此申達候、已上
  九月六日
これは、明治三年一ケ年に生野屋村で建築された家屋である。貸家が二軒も建てられているが、当時貸家があったことは注目すべきことである。また二間と三間、二間と二間といった貧弱な家屋も多かったのである。
 最近、よく小字名について尋ねられることが多いので、左に下松で古い検地帳とされている『元和検地帳』にのっている地名を挙げよう。読みにくい字が多いので、誤読されている地名も多く、またその地名がどの辺りにあるか不明である点は遺憾である。
あか二郎 ありの木 秋長 あかの木 有ひろ 淡かきよう いのしり 岩まつかう いの丸 石丸 石田 いわのたん 石の口 いのこかいち 伊東田 池の内 いよ丸 石畠 後迫 うろなり えき えほし岩 おくが迫 おちへ おか 岡畠 大畠 尾の上 小の田 岡のたん 大くほ 大道 大坪 柿の木畠 神田ノ上 神田ノ下 上荢瓦 河原田 柿木田 上友田 河原 門田 かくい かちや 神田畠 かねつき免 木ふね きしの下 きよ市上 きよ市下 きたはし 蔵の下 口のより くね石 くちやかいち 桑田 倉のつほ 口ノ口 五反畠 こんとう絵 小神田 こうなか さかやかいち さゐのもと さめ石 さやの木 さこ さたとし 三郎丸 迫道 しついかさこ 白泊 四郎畠 新六 新六田 志覚田 下庄原 新庄 霜月田 しょうぶ すなこ すみ畠 せうぶが原 せうの木 瀬山 そり田 そうか迫 たて番 ため仏 たう正 大王 立石 多々 竹久 たんしようかいち 竹の下 たて原 長おん寺 ちかひろ 茶や 長楽寺 堤かえき つかた つりえき ついたち神田 つねしけ 天王神田 寺の下 とうほうしか迫 時正 友時 時宗 堂ノ上 鳥やか迫 とき原 長えき 中ノ坪 長とろ 中ノ迫 長田 中そね にしがえき 西垣内 二大 二町田 袮ん垣内 原かきの内 原 はさこ は袮田 八郎丸 畠田 はいかき内 ひえご ひやけた ひの本 ひへ垣内 引地 ひえた 藤司かいち ふろの迫 藤下 古や垣内 ほうしようえ ほうかいち ほほ本 丸柿 丸は中 丸林 正もち まさ持 松ノ口 まさね 丸山 まつか後 三なひと 右田 三月田 宮山 むねひら 宗国 もちのかいち もりの迫 元兼 柳た 山そへ 柳迫 山神田 行束 ゆめん よこ道 よこなて わきを 渡り町 わきの田
生野屋村の大字・小字・穂ノ木一覧(これらの字名(あざな)はこの書が書かれた時代から使われていたのである。)
地下上申明治五年
大小区村名書
明治八年
大小区村名明細書
明治十八年
山口県地誌原稿
明治二十年地籍図明治三十四年山口県風土誌
寛延二年(一七四九)
生野屋村第七大区第七大区生野屋村生野屋村生野屋村
宮本村第一小区第一小区宮本庄原大歳
中村生野屋村生野屋村立原石風呂中ノ迫(さこ)
下村大歳大歳竹下東畠西カ浴
宮本中迫弘安丸橋亥ノ爪(いのつめ)
大江中村西浴田中実石宮本
西為弘亥ノ爪時竹木船立原(たてはら)
湯免時政宮本中屋尾竹竹ノ下
脇之田下村立原大江宗弘弘安(ひろやす)
木船時宗竹ノ下溝ノ下南垣内田中
餅田長音寺弘安中村柿ノ木田時竹(ときたけ)
茶屋垣内友石田中藤立砂子中屋(なかや)
尾宿西村時竹六本松恋地大江
中之坪 中屋天王藤次ヶ迫溝ノ下(みぞのした)
横道 大江枝折峠正実中村
砂子 溝ノ下石風呂中ノ迫藤立(とうりつ)
時政 中村木船為弘六本松
八郎丸 藤立実石長弘天王
国威 六本松茶屋日光寺枝折峠
竹久 天王脇田上河原 
 
塚田 枝折峠湯免中河原石風呂
時宗 西風呂中曾根才ノ原木船
長音寺 木船池内原垣内実石(さねいし)
大王 実石為弘稗田茶屋
為弘 茶屋西浴白迫脇ノ田(わきのた)
夕林 脇田奥迫下河原湯免(ゆうめん)
原垣内 湯免藤次迫亀崎中曾根(なかぞね)
  中曾根日光寺鶴崎池内
  池ノ内砂子新徳為弘
  為弘時政石丸西カ浴
  西浴大王国成奥(おく)カ迫(さこ)
  奥ヶ迫神田樋ノ口藤次(とうじ)カ迫(さこ)
  藤次ヶ迫萬ノ木遠政日光寺
  日光寺遠政等地垣内砂子(すなご)
  砂子三本松大王時政
  時政地福寺湯面大王(だいおう)
  大王樋口猿田神田
  神田ハネ田安藤万ノ木(ばんのき)
  萬ノ木藤宇ト池の内遠政(とおまさ)
  遠政下村国友三本松
  三本松惣ヶ迫藤立地福寺
  地福寺堀池四反田樋(ひ)ノ口
  樋口八郎丸氏永 
  ハネ田亥ノ尻蓼原 
  藤宇ト才ノ木惣ヶ迫 
 
  下村国威三月田ハネ田
  惣ガ迫原垣内宮本藤カウト(ふじかうと)
  堀池ヒエ田時竹下村
  八郎丸白迫新屋恋カ迫(さこ)
  亥ノ尻下垣内弘安堀池(ほりぢ)
  才ノ木新徳田中八郎丸
  国成森兼中尾亥ノ尻(いのしり)
  原垣内時宗森ノ上才ノ木
  ヒエ田有木大年国成(くになり)
  白迫秋永中ノ迫原垣内(はらかわち)
  下垣内西浴亥ノ爪新徳(しんとく)
  新徳竹藤弥八田森兼(もりかね)
  森兼長音寺柳ヶ迫時宗
  時宗力手風呂ヶ迫有ノ木(ありのき)
  有ノ木大迫堂ノ上秋永(あかな)
  秋永友石行市西(にし)ヶ浴
  西カ浴道々少田竹藤(たけとう)
  竹藤大道瀬山長音寺
  長音寺羽山岡畠力手(りきで)
  力手西村神田大迫(おほさこ)
  大迫風呂迫大畠友石
  友石柳迫立石道々(どうどう)
  道々大畠石畠 
  大道立石横撫 
  羽山高尾羽根田 
 
  西村横撫万ノ木大道(だいどう)
  風呂迫石田地福寺羽山(はやま)
  柳カ迫弥八田時政西村
  大畠 有惣風呂迫
  立石 八郎丸柳カ迫
  高尾 猪ノ尻大畠
  横撫 貞乗立石
  石田 惣ヶ迫高尾
  弥八田 秋永横撫(よこなで)
    森兼石田
    竹久弥八田(やはちだ)
    兼石 
    竹藤 
    時宗 
    西ヶ浴 
    力平 
    長音寺 
    大道 
    下友石 
    上友石 
    先山 
    丸尾 
    尾郷浴 
    長尾 
    万刈音 
    平野 

生野屋村の地名で、意味の解読できるものについて左にあげてみよう。
あか    (1)屋根 崖 (2)田畑 野良 (3)仏教の閼伽 (4)赤の意 明けること
いの    (1)水路ある野 (2)砂礫地 (3)小さい
いと    磯 糸 伊東
うろ    空 洞 中がからになっているところ 河谷
うと    低くて小さい谷 連峰 崖
えき    谷間の低湿地 谷間 小支谷
おの    野原の小地域 山野 尾野
おだ    小さい田 砂田 沼田
おうち   日陰地 湿地 山奥の谷
おちあい  川の合流点 落合
かち    河谷のこと
かき    かこわれたところ
神田    神社維持にあてられた田
きた    北方に分住した集落
きふね   き(茅 岩 土台 松) ふね(船 舟形)
けた    崖の上
さいの神  塞神 道祖神 わざわいをさえぎるために村の入口などに祭る
しんじょう 本荘に対する追加開墾地(初期荘園時代) 新しい荘園 古庄に対す
しか    鹿 干潟 砂州のこと
しら    シロ(城)に適用 白色 山の斜面
しろ    城塞 丘上や山腹の平坦地
しようぶ  菖蒲の茂生地 細流の水地
しお    楔形の谷の奥 川の曲流部 塩
くち    入口 山や川の口にあたるところ
くら    岩や崖 倉庫
くね    山麓 交通にじゃまな高地 生垣
くわ    桑 鍬
くぼ    くぼ地
さい    さいぎる意 狭谷
さや    小川 溝 狭い平地
さだ    「先に立つ」意 定める意
さこ    狭谷 迫 湿地 砂地
さいでん  斎田 神田
すな    砂に関係のある地名
すなこ   砂 コは粉
すみ    奥 角 住む 奥をあらわす
せ     石の多く水の浅いところ 瀬
そり    焼畑 休開耕地
そだ    湿地 沼地
そが    砂地
そね    石の多いやせ地 山の峰
ごう    律令時代の地方行政区画の里を奈良時代に改めた名称、のち郷のもとに村ができた
ごたんだ  五反の面積のある田
たお    峠の意
たて    奈良朝以後の屯田集落 まわりに田畑をひかえ屋敷に適しなお敵の攻撃にそなえることのできる土地
たま    山頂 頂上 水 淵 湿地
たけ    高所のこと 岳
だん    段 台地のこと
たち    立 館 砦(トリデ)のこと
ちゃや   旅人の休む茶や
つか    古噴 小丘 畑の単位面積(五畝)
つる    水路 水路のある低地 野原のこと
つぼ    条里制からきた土地の区画単位(一町歩) 町村などの小地域 庭くぼみ
てんのう  天王信仰(牛頭天王 素盞嗚尊)
てらもと  寺院のふもと 門前 寺下
と     沼 湖 場所 狭いところ
とき    斎で神を祭る 杯 土器づくり
とろ    水流のよどむところ 泥土
にた    湿地
ね     ねもと 峯
のろ    野呂 野のこと ろは接尾語
はね    粘土地 羽根
はねだ   粘土質の田の意 粘土
はら    広く平らかなところ 原
はやま   はしの山 山のはし 端山
はい はえ 岩礁・暗礁の意
はた    機物に関係のある居住地 畑に関係のある地
はえ    小平地 岩礁
ひえ    寒冷 稗(稗田)
ひき    低い ひきがえる
ふる    古 元 本の意をもつ土地
ふじ    ゆるい傾斜地 藤の生えているところ
まる    丸形の山や地形
みつき   古代徴税に当たった調の職名を居住地につけたもの
みやた   神社所属の田地
むれ    集落 山の意
もち    鏡餅形の土地
もり    あたま 中心にたつ山の意
もと    古い 親 昔 木
や     谷 家 小屋 湿地 感嘆詞
やた    底湿地の田の意
やな    柳に関係のある地名
ほり    中世の武家屋敷をとりかこんだ堀
わたり   渡し場 渡河を職業とした人
(昭五六・二、第一八輯)


下松市大字[生野屋 末武上]小字綜合図