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5 山田村の研究

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 鷲頭山(特に上宮・中宮)より望むと、山田村が一番よく目につく。連山の間に浮ぶように見え、村全体が陽あたりよく明るく豊かに感ぜられる。
 鷲頭山八景の中にも、「山田村の積雪」として詠まれているが、山田村の遠望は昔から鷲頭氏族の心に深く印象づけられていたと思われる。
       山田積雪
  としあれと神に手向けむ小山田に
    つもるも清し雪のしらゆき
 『地下上申』には山田村について
  但当村之儀由来地下讃談仕候得共、往古より山田村と地下人申伝、格別由緒無御座候事
と記されている。山田の字義からいえば山の田、山を切り開いた田、山に囲まれた田の村の意である。陽あたりのよい土地、豊富な水に恵まれた自然と、村人の辛抱心によって豊かな村になったと思う。また、こうした辛抱強い村民性は、一つには恵まれた自然に原因していると思う。働けば働くだけ収入が入ってくる。働けば働くほど目に見えるように生産があがり収入がふえてきた。しぜんと労働に意欲が湧き、働き者といわれるようになったと思う。
 山田村の『慶長検地帳』には垣内の地名が多い。垣内は開墾地をさしている。畑井弘氏の説によれば、垣内とは現開地と未開地との境内につくられた垣根といわれる。この場合の垣は、はっきりと境界を明示し、私有権の表示であったといわれている。
 私がシベリヤに抑留されていたとき、シベリヤの田舎では家の周りに木材で垣をつくっていた。ソ連人の話によれば、これは自分の所有地を確認させ、一方では狼などを防ぐためであるといっていた。鏡味完二氏は
  この地名の日本における形成は三〇〇~六〇〇年の間と考える。
といっておられる。
 垣内時代に先立つ古墳時代の遺跡は山田村にはないので、この垣内時代から山田地域の開発は始まったと思う。『慶長検地帳』にある垣内、かいち、を左にあげよう。この地名が現在、山田村のどこにあたるか不明であるのは遺憾である。
慶長検地帳の垣内かいち
地名給領主田数同石高畠数同石高屋敷面積同石高小成物同石高作人
東垣内中川与左衛門反畝石斗升      彦左衛門
一、七三、八五
〇、七一、六五      
〇、五一、一      九兵衛
 
東垣内中川与左衛門一、八三、七      清左衛門
〇、八一、四      
南垣内  三畝二斗    
北垣内一、九四、〇一      神兵衛
一、〇二、二      善左衛門
二、五五、八五      孫作
〇、三〇、三三      善左衛門
向垣内一、七二、二六      清左衛門
  二〇歩二升    
上垣内一、六二、六      与介
畝歩石斗升  四畝  杢左衛門
五、二〇一、二四〇、四五
かん垣内三、七三    清左衛門
二、七一、〇
    一反一畝一、三五山椒、梅、柿四本二、五
茶一升五合
ほう垣内反畝二、一      善左衛門
一、三
 
東かいち曽根源二郎反畝歩二、六      三吉
一、一 二〇
    三畝〇、四二桑四本三合 源四郎
畝歩〇、六    椿一本二合 
三、一〇
  三畝  茶二合 六右衛門
四、二
反畝歩五、一    桑二本五合 善三郎
二、二 二〇
    三畝一〇歩〇、四五桑十本五升 
反畝三、〇七      神六
一、四
一、一二、四      善三郎
福原 越後守一、三二、八      助十郎
  一畝二升    
南かいち曽根源二郎反畝石斗升      彦七郎
一、四一、六五
畝歩〇、七五      乙若
六、二〇
福原 越後守反畝一、六      善三郎
一、六
  一畝三升    
 
南かいち福原 越後守五畝〇、五五      善三郎
  一畝三升    
北かいち曽根源二郎    四畝茶二升、桑一合 善左衛門
四、八柿三本 三合
  畝歩四斗  茶一升 刀法
三、一〇
    一畝一斗茶三合 善左衛門
前かいち反畝四、九五      友五郎
二、三
中川与左衛門一、一一、八      彦三郎
二、二三、五六      
内かいち曽根源二郎  三畝一斗八升  茶三合 
  四畝五斗二升  柿一本 三合 
漆一本 一升
一反石斗升      善吉
一、六五
  畝歩二斗五升  茶三升 又二郎
五、一〇椿四本 五合
    五畝五斗  
上かいち  畝歩三斗八升    五郎
六、一〇
 
上かいち曽根源二郎八畝一、一      善五郎
中川与左衛門九畝一、九      作介
畝歩一、三七      久五郎
六、二〇
一反一畝二、一      三十郎
六畝一〇歩一、三      杢左衛門
六畝一、二八      
下かいち曽根源二郎反畝歩二、五七      与介
一、五 二〇
    畝歩二斗  
二、二〇
  三畝一斗五升  茶三合 善五郎
  二畝六升  桑一本 一合 
二〇畝石斗升      与介
〇、〇六
  二畝八升  茶一升五合 
四畝〇、五五      
  二〇歩二升  柿一本 二合 
 
下かいち曽根源二郎  畝歩八升  漆二本 二合 与介
一、二〇茶一合
畝歩〇、一三      
一、一〇
くほかいち三反六畝六、一六      善兵衛
林かいち一反五畝三、六七      熊松
八畝一、五三      猿若
一反三畝二、五      弥三
里かいち  一反八斗四升    三郎左衛門
溝かいち二畝〇、三二      いせ若
ほうかいち  九畝三斗八升  桑一本 二合 善左衛門
柿二本 三合
猿かいち五畝〇、九六    桑三本 三合 六郎
    畝歩二斗椿十本 一升 
一、二〇
五郎丸かいち中川与左衛門一反一畝石斗升      吉兵衛
二、四
田屋かいち一反二畝一、九七      与八
三をかいち福原 越後守反畝歩〇、七六      弥三郎
〇、四 一〇
 
林かいち福原 越後守一、二二〇二、三三      三郎左衛門
一、五二、八八      善五郎
    三、二〇   
くほかいち〇、三一〇〇、五五      刀法
〇、八一、一      宇作

 以上が『慶長検地帳』に出ている垣内・かいちの全部である。垣内と漢字で書かれている地名の全部が、中川与左衛門の給領地にあることは、この地域が中川氏によって早く開発され最も古い開発地域であったと思う。特にこの中のほう垣内には、平安時代の自墾の私田の意があるというが、注意すべきことであろう。また、これらの垣内に西垣内・下垣内の名がないことは、垣内の地域を推定する上で大事なことと考えられる。
 垣内については、カイト・カキウチ・カクチ・カキツ・カイツ・コウチ・カイチといわれているが、この検地帳にカキノウチといわれているのが一番最初の読み方であった。
 ついでかいちといわれるが、かいちは開地の意で土地を開くことで、周囲の開発も進み周りに垣を造作する必要もなくなり、垣を取り去った開発地であろう。
 『慶長検地帳』の山田村の垣内の地名は、全部前記につくされているので、これによって垣内の面積や、田・畑・屋敷・小成物・作人等の状況も知ることができよう。
 垣内の時代から、かいちの時代となり山田村の開発は進んできたのである。
 毛利時代の最初の『慶長検地帳』が山田村に残っていることは、山田村の古い歴史を知る上に最も貴重な史料である。
 当時は山田村は左のように給領主によって治められていた。
給領主名
検地年次給領主田数同石数畠数同石数屋敷数同面積
慶長一五
(一六一〇)
曽根源二郎    二五 
二七、四、六〇三八五、九五〇七四、四〇〇二六、一〇〇一〇、五二〇
     
中川与左衛門    一五 
二四三、一一〇三六五、九九〇三五、六二〇一六、九三〇八、九一〇
     
福原 越後守     
一〇一、四〇〇一三三、九九〇一五、八一〇六、二四五一、八一〇
木村又蔵     
四五、六一〇五六、二四〇四、九一〇一、六九〇〇、五二〇
     
    四六 
六六四、七二〇九四二、一七〇一三〇、八一〇五〇、九六五二一、七六〇
     
 
検地年次給領主同石数小成物同石数総石数
慶長一五
(一六一〇)
曽根源二郎   石  
茶 一、一八四、桑六〇本 〇、一四二
一二、六〇〇漆 一二本 〇、〇六二 蜜柑一本 〇、四五〇一、九九七四二六、一〇七
 樹木六一本 〇、一五四  
中川与左衛門   石  
茶 〇、二四〇 蜜柑二本 〇、〇五〇
一一、二四〇桑 八四本 〇、二三三 漆一本 〇、〇〇三一、〇三〇三九五、一九〇
 樹木一一五本 〇、五〇四  
福原 越後守   石  
茶 〇、一〇七 桑六一本 〇、一〇八
二、一八〇樹木七本 〇、〇一四〇、二二九一四二、六四四
木村又蔵   石  
茶 〇、〇二八 桑一本 〇、〇〇二
〇、六五〇漆 一本 〇、〇〇二〇、〇三四五八、六一四
 樹木二本 〇、〇〇二  
   石  
茶 一、五五九 漆一五本 〇、〇七二
二六、六七〇桑 二一一本 〇、四八五 蜜柑三本 〇、五〇〇三、二九〇一〇二二、五五五
 樹木一八五本 〇、六七四  

 『慶長検地帳』には垣内・かいちの地名(全部前に掲ぐ)であったが、『寛永検地帳』では垣内(一ケ所)、かいちと坪内・坪となっている。左に掲げよう。
寛永検地帳の垣内・かいち・坪内
地名田数同石高畠数同石高屋敷面積同石高小成物作人
東垣内わり田二反一〇歩     六郎左衛門
四、六八
北かいち一反三、二     
三畝〇、五二     
一畝〇、〇三     
    四畝七斗二升茶 三升五郎
桑 一本 二合
上かいち    四畝六斗九升 慶順
一反四畝三、一八     神左衛門
四畝〇、八     
二〇歩〇、〇八     
一畝一〇歩〇、二     
 
下のかいち一反七畝三、八     神三郎
内かいち  一〇歩二升九合   善兵衛
  三畝二斗五升三合   
    三畝一〇歩五斗八升茶 一升八合源六
前のかいち一反六畝     彦兵衛
二、二四
一反一畝二、五     万然
たやかいち一反二畝二、九     角左衛門
  二畝一斗四合   
橋かいち一反二畝一〇歩三、二     佐左衛門
一反一畝二、七     
ほうかいち一反三畝一、九八     
  四畝一〇歩五斗六升八合  茶 三合
桑 一本 一升五合
  九畝四斗三升八合   
かん坪内一反七畝五、五     仁左衛門
 
東坪内一反七畝五、五四     五郎左衛門
七畝二、四     
一反一畝二〇歩三、八     勝九郎
一反八畝五、二     善三郎
一反三畝三、九     助十郎
北坪内二反五畝     善兵衛
八、三八六
一反九畝五、七六     神兵衛
  五畝二〇歩    
前坪内二反三畝〇、六五     
一反一畝二、四四     彦兵衛
内坪内二反四、六四     善兵衛
一反二、五八     
九畝二、九八     
三畝〇、六二     
 
内坪内一反八畝四、四四     善兵衛
  二畝三斗二合  茶 四升九合
    四畝七斗六升茶 七合
むかい坪内一反七畝五、五     仁左衛門
上坪内六畝一〇歩一、八     仁兵衛
さかや坪内一反五畝四、六二     喜左衛門
林坪内一反三畝     三郎兵衛
三、七二
八坪二、四     
かん坪内一反七畝五、五     仁左衛門
むかい坪内一反七畝四、二四     
柳坪一反一、五四     吉左衛門
一反一、五六     
  一畝一升五合   
小坪八畝一、七     仁兵衛
 
小坪一反三畝一、九     仁兵衛
八畝一、二     惣左衛門
九畝一、〇五     
そうの坪八畝一、六     
一反二、〇     
八畝二〇歩一、三六     次ノ助
岡道坪    七畝二〇歩九斗二升桑 二本 七合五左衛門

 以上は『寛永検地帳』にある垣内・かいち・坪内・坪の地名の全部である。
坪について、大辞典によれば
  殿中の間、あるいは垣内の庭など一区の窄(セマイ)(狭隘地)地の称、土地区画の称
と解してあることから見れば、垣内・かいち・坪内・坪となったと思う。
 『寛永検地帳』には、垣内・かいち・坪内・坪の開墾に関した地名のほかに、新田・土居がある。これについて鏡味完二氏著『日本の地名』によれば、土居は古代地名、新田は近世地名といわれ、土居は鎌倉時代、新田は江戸時代の発生といわれている。土居については下松地方史研究でもふれ、水害を避けるために築かれた土塁とも考えられると述べたが、『寛永検地帳』に「土居の内」と書かれ、四筆「田 四反一畝二十歩」あることは一考を要する。こうして、山田村の大部分は開発によって形成されたと思われる。
 山田村の中心部である梅ノ木原は埋(うめ)ノ木原で、木原を埋(う)め開墾してできた意と考えられる。この地が山田村の最古に開け、村の中心となっている。
 山田村の『慶長・寛永検地帳』の地名に、崖の語が多いのは驚くべきことであって、次の語句にはいずれも崖地の意が含まれている。
あか あふ あせり せり あふか いかかり くろ おか かし がけ きた きり とも くわ こし すく せり そり たけ たて とき とも つばき つつ ひえ ふるや くら
このように崖に関した語句が多いが、実際山田村の地勢は崖が多く、石垣で築かれている田が多い。
 山田村の古老の話によれば、「山田村の者は昔より辛抱強い。毎日三回は下松の町に馬で荷を運び、帰りにはまた馬に荷をつんで帰っていた。この馬をこんだ馬(うま)といっていた」と話していた。この「こんだ馬」とは墾田馬のことであろう。田の開墾に、馬をつかっていたのである。田を開墾し川岸を築いたのは、すべて馬の背で土砂を運んだことであろう。山田村の水田をうるおしているのは添谷川・梅ノ木原川・水落の大堤であるが、これらの水田・水路・堤等の大土木工事は、墾田馬によって完成したのである。
 山田村にはそねの地名がないが、そねは焼畑である。水が豊富であったから焼畑は必要としなかったからと思う。
 『慶長検地帳』より約一四〇年後にできた『地下上申』によると、『慶長検地帳』のときの戸数より七七戸(門男を除く)ふえている。これに反し、戸別石高は約六石減じている。これは村内で分家して戸数がふえ、戸別の石高がへったためと思われる。現在、山田村では同姓の家が多く縁戚で結ばれており、本家は土地を与えて分家させた。このため、他姓の者は山田村では土地を求めて農業で一家を興すことはむつかしかった。そのため他の職業によるか、村内の荒地を開き家をおこすよりほかに途はなかった。私の知った人は、山田村に移住し大工と水車業を営み家をおこしている。
 次に山田村の『慶長・寛永検地帳』に載る屋敷の地名を調べてみよう。(次頁参照)
山田村慶長検地帳の屋敷の地名表
地名戸数地名戸数
畠田4ふるや1
東垣内2かん垣内1
北かいち2川原田1
田中2西河内1
いかや田2あふした1
梅ノ木原2あみためん1
あふき21
うへおか丸1つかえ1
川原1地蔵面1
下かいち1上垣内1
内かいち1小田1
猿かいち1堂ノ下1
このち1二反田1
せり原1新田1
土井ノ内1木舟1
福万寺1林かいち1
みくち1つく田1
めんせん1かしわき1
山崎146

山田村寛永検地帳の屋敷の地名表
地名戸数地名戸数
川原4正次1
北かいち3正田1
つ田立2宮ノ下1
田中2わふした1
見口2三をの上1
前田21
こいち2せり原1
上かいち2叶松1
一ノ王市2岡道坪1
寺迫1古や1
山崎1かね国1
大塚1平松1
ほうくめん1木船1
1不明3
竹たく1  
めんてん1  
溝の上1  
大木1  
岡田147

 『慶長検地帳』と『寛永検地帳』の屋敷の地名とは、大変にちがっている。わずか十五・六年の間に、これほどのちがいが出ることは、この間に大きな変動があったのではあるまいか。寛永二年(一六二五)の寛永知行替や『寛永検地帳』の作成等にあたり、地名の変更や新地名の決定が行われたためであろう。
 『慶長検地帳』には山田村では約二六〇、『寛永検地帳』では約二一〇の穂の木の地名がある。田の面積を穂の木の数で割れば、穂の木の面積は『慶長検地帳』では約二反五畝、『寛永検地帳』では約三反となる。小字の下にある穂の木はこの位の面積であったと考えられる。また一個人の耕作地は『慶長検地帳』では約一町四反四畝であり、『寛永検地帳』では約一町三反六畝であるので、穂の木は所有地の一部分にあたると考えられる。穂の木の地名は、私的なものと考えられていたのではあるまいか。そのため、地名の変更も簡単に行われていたのであろう。後日の研究に譲りたい。
 次に、『慶長検地帳』に記されている山田村の寺院について考えてみよう。慶長十五(一六一〇)年に作成された『慶長検地帳』に載る寺院は、山田村では古い寺院である。(次頁参照)
慶長検地帳以降各書にある寺名
 慶長検地帳寛永検地帳地下上申明治五年明治二十年明治二十四年
村名書分間図山口県風土誌
地名に残る寺名浴村万福寺  万福寺 
万福寺
利光寺利光(香)寺利光寺利光寺利光寺
利光寺
西光寺西光(音)寺    
 一ノ王寺 一ノ王寺梅ノ木原市納寺
市納寺
   梅ノ木原八王寺八王寺
八王寺

 香林寺は中川与左衛門給領地にあり、梅ノ木原前ノ田共ニ寺敷九畝二十歩をもつ広大な寺院であった。寺領も山田村内各地にあり、田三筆二反一畝・二石七斗六升、畠三筆一反二斗三升、小成物四斗二升、桑五合あった。中川氏の菩提寺と思う。
 他に保月として寺敷二畝米二斗、小成物三升四合とある。寺敷二畝とあるから寺院と考えられるので、寺号を持たない庵であったと思う。
 『慶長検地帳』に地名として残る寺名は、万福寺・西光寺・利光寺がある。また、あみだめん・妙見田・地蔵免・観音免・神田といった地名は、すでに廃された阿弥陀堂や妙見社・地蔵堂・観音堂等に関係した地名であろう。
 『寛永検地帳』には寺敷のある寺院はない。『慶長検地帳』にあった香林寺は、『寛永検地帳』には最早や寺敷もなく地名にも残っていない。
 なお、山田村に現存する寺院は真宗光円寺・真言宗蓮台寺であるが、いずれも『慶長・寛永検地帳』にはなく、寛延二年(一七四九)の『寺社由来』に載っている。(両寺の由来について下松地方史第五輯を参照)
 地名に残る寺名について考えるに、利光寺と利香寺、一ノ王寺と市納寺(いちのうじ)のように発音が同じであり、西光寺と西音寺のように、一字のちがい位は許されていたのであろう。また、万福寺・利光寺は浴村にあり、市納寺・八王寺は梅ノ木原にあって、浴村・梅ノ木原が山田村の文化の中心地帯であったと考えられる。とくに古蓮台寺や香林寺、後蓮台寺のあった梅ノ木原、また垣内の地名の多い中川与左衛門の給領地であった梅ノ木原が、山田村での一番古い開発地であったと思う。梅ノ木原より東方に開拓してゆかずに、西の浴方面に進んだのは、東の奥地にはすでに切山村よりの氏族が入りこんでいたためであろう。現在でも添谷は切山村に属し本藩領で、山田村が徳山領であるのは、古代に氏族の開拓発展の経路をあらわしていると思う。
 山田村が史書にあらわれた最初は、貞和三年(北朝 一三四七年)三月の陶越前守盛政文書に、「周防国鷲頭庄山田郷中村」と出ている。山田村は鷲頭庄で、鷲頭氏の支配下にあったのである。
 前述のように、鷲頭山より眺める山田村は、陽あたりのよい豊かな村である。そのため、鷲頭氏がこの村に目をつけたのも当然であろう。
 古蓮台寺も現在の蓮台寺も、鷲頭寺の唯一の末寺である。山田村の氏神の大歳神社は、妙見社の末社である。神仏ともに鷲頭氏と深い関係がある。これは古くから山田村が、鷲頭氏と深い関係があるためである。
 大歳神社の神楽の祝詞の中に、北辰妙見社のことがあることから考えても、古くから妙見社の末社であったことがわかる。社伝によれば、宝暦五年(一七五五)の創建といわれているが、その年頃は暴風雨・疫病が流行した時代であったので、国家安穏・五穀豊穣を祈願するため、穀物守護の神である大年神が祭られるようになったと考えられる。
 このことは、蓮台寺についても考えられるのであって、最初は鷲頭寺末寺としてあったが、後鷲頭氏が滅ぶに及び、大内弘世の信ずる観世音菩薩を祀るようになって蓮台寺といい、以前を古蓮台寺と称えたのではあるまいか。古蓮台寺は、時代の古いこととともに、信仰の対象が妙見大菩薩より観世音大菩薩に変ったためではあるまいか。
 古蓮台寺の地は、現在の蓮台寺より奥地にあり眺望のよい高地である。鷲頭氏防衛のための要地で、鷲頭氏を大内弘世の軍勢から護る四周の連山の一つである。麓に千人塚という鷲頭部将の墓といわれる聖域があると山田村の古老は伝えているが、大内氏と鷲頭氏の戦があった白坂山の戦のものではあるまいか。
 古くから蓮台寺の麓に玉井氏の一族がいて、蓮台寺を篤く護持している。古より玉井氏は鷲頭氏の後裔かもしくは部将の後裔といわれている。鷲頭氏の菩提を弔うために、蓮台寺を護持していたのであろう。
 蓮台寺の寺伝によれば
往昔、梅ノ木原蓮台寺山頂より金色の光明輝けるを、往古の村人不思議を感じ、附近一帯の人々御光明を拝し、日夜礼拝し心中の諸願を祈り、皆其の感応にふれ病魔諸難を除き利生にあずかる。人々御光明の根源を尋ね、深山に分け登り不思議の地跡を問いしに、不思議なるかな峯より東北に取り少しく下りたる処に、スリバチの如き石あり、其の上に二十五文(もん)位の足跡深く残りたるを見る。是如意輪観世音菩薩様の足跡なり。此処に立ちて御光明の体を「はなたれ」有を拝せり。遠近一円の人々小路を難山に開き、一寺を建立し一般の信仰重厚たり。されと老幼婦女の参拝も仲々かない難く、多くは其の光明のはなたれし山頂を拝すのみなり。人心のなげき深く愛愍され、現今の山田紫雲山の老松に又々黄金色の御光明輝き、ある夜附近山田一円、日中の如く明るめり。村人不思議の事に驚き、一村をあげて言語を忘れ礼拝せり。それより蓮台寺山の光明転滅せり。依て山田に蓮台寺を再建せりとの伝説に依る。「尚、老松は寿令六百年位なり。」其の間、幾星霜を経て明治十三年九月諸官の手を煩わせて、官許を得て蓮台寺と称す。
と蓮台寺の由来を語っている。しかしこの中には、蓮台寺が鷲頭寺の末寺となった由来はみられないが、深い関係があったことと思われる。この寺伝には、仏足石崇拝の伝説と、観音菩薩の功徳が説かれている。仏足石崇拝は、仏の足うらの形を石の上に彫りつけたもので、このように仏の足跡を拝する信仰は、インドでは仏像崇拝よりも起源が古いとされている。古老のある人は、「幼時のころの蓮台寺の仏足石をみた」といっている。また古蓮台寺より観音菩薩は再び飛び、現在の蓮台寺に来臨されたといい、「ここにも仏足石があったが、道路改修のとき所在がわからなくなった」と話している。古蓮台寺の開創は相当古いものと思われる。
 この蓮台寺の寺伝には、妙見山信仰と仏足石信仰、さらに観音菩薩信仰の三つの伝説が混じってできたものではあるまいかと思う。
 先に古蓮台寺は鷲頭山防衛の要処と述べたが、そうした防備の点は蓮台寺跡にはみられない。常識として鷲頭山を守るには、今少し四囲の連山の防備が必要であったと思われる。そうした点からいえば、鷲頭氏が大内弘世に破れたのは、鷲頭氏の鷲頭山防衛計画の欠陥にあるといわねばならない。
 『寺社由来』にある蓮台寺・光円寺に関しては、その後大した事件もないが、光円寺の過去帳には、当時の社会情勢を知る上に参考になる。(下松地方史研究第五輯参照)
 明治二年四月十八日に、梅ノ木原田尻、瀬來道助の戦死の記事があるので左に掲げよう。
当藩山崎隊ヘ出、昨年九月ヨリ出国ニテ北国ニ出陣ス、戦争之節鉄鉋ノ玉ヲ受二日経テ死ス。死骸ハ松前ニ於テ従 朝廷招魂所開地有之、其地ヘ埋之。早速塚相立石塔三重台ニシテ仏石二尺八寸有之由、遺物下リ其後道助依戦功金十二両ト二人扶持永代下ル。奉書又兄房次郎伜ヲ道助ノ相続人トシテ是ニ下サルナリ。又房次郎宅ニテ千部読経致シ、当所ニモ墓ヲ立。又富田政所ノ上ノ山崎隊中ノ招魂有之。其地ニ於テモ神祇ニ祭トカヤ。当年二十七齢也。又勇蔵息男ナリ。
こうした明治維新の志士の来歴を知ることができたが、寺院の過去帳にはこのような重要な史料の記載がある。
 次は、昭和九年の山田村事件(下松地方史研究第十二輯)の中心人物であった今田家の史料に
   御請書
今般特典ヲ以、無禄ノ拙者為就産、都濃郡山田村字亥ノ迫下田一反四畝合反別三反八畝、此代価八十五円地所御下付被成下、恭拝受仕候、然ル上ハ深ク御趣意ヲ戴認シ、向后奮テ家業相励ミ、屹度自活ノ生路ヲ得、子孫ニ至ル迄此恩志忘却セス、他日必奉謝ノ実効相立度志願ニ付、将来遵奉スヘキ条々左ニ掲載奉呈仕候也
一今般御下付相成候田山林合反別三反八畝之地ハ、来ル明治三十三年六月年賦上納皆済迄ハ、典売等之儀ハ勿論、書入抵当タリトモ決シテ仕間敷、為其地券ハ郡役処エ悉皆差出置候事
一田山林等漸次改良ヲ加エ、其収獲ノ増加ヲ得幷物ノ景況等、夏秋両度毎年報道可仕事
一貢租幷地方税等延滞不納決シテ仕間敷、万一右様不覚悟之処業有之節ハ、何様ノ御処分ヲ受候共苦情申上間敷候事
一政府御貸与金額一万五千円ノ内、五千百円別途ニ除置、右ヲ以返納之儀県ニテ御取扱被下候趣、恭敬承仕候也
 右為後日御請書如件
    都濃郡山田村八十三番地居住秩禄士族
   明治十六年七月                        今田誠司 印
   山口県令 原保太郎殿
 これは明治初年の士族が生計のため、田畠・金子を政府より貸与されていた実情を知る上の史料として興味がある。
 降って明治十八年山口県地誌原稿の山田村の田畑等の調査によれば
検地年次田数同金高畠数同金高
明治十八年町反畝歩丁畝歩
六七、九、四、六二七、〇七五 五四、七一三、六、六一、二五一 五〇、一

屋敷面積同金高山林・原野同金高総計地価
丁反畝歩丁反畝歩丁反畝歩
二、八、三、一六六四八、八二、九一二七、八、四、一四〇六、四九二一一、六、七、二九二九、三九二、三八、七

本籍
一五四戸三三九人三二七人  
士    七士   九人士   八人牡 一九匹牡馬 二五匹
平民 一四七平 三三〇人平 三一九人牝 五一匹 

地区名調査年次田数畠数樹園数戸数人口
 昭和五十五年  ブドウ、梅、昭和五十八年調一、〇一九人
下松市町畝町反畝ナシ園等専、兼農 一三〇戸
大字山田六〇、六四、三、八二一反他    一九二戸
    計    三二二戸

右の戸別平均数
地区名調査年次田数畠数樹園数一戸当たり
下松市昭和五十五年反畝歩畝歩畝歩
大字山田昭和五十八年四、六、六三、一一一、九三、一

 なお、旧山田村の一部に造成された久保団地の開発の起因は、(1)そばに国道二号線が通っている、(2)工事のやりよい地質である、(3)移転を要する家屋がない等によって、団地建設が行われたという。久保団地が将来の旧山田村に与える影響を思うとき、山田村の古き歴史を知り、山田村に深い愛着を感ずる私には、ただ旧山田村の新しい将来の発展を祈るばかりである。
 時代も次第に現代に近づき、情報も多くなったので、一先ず山田村に関連した次の事項を摘録して、この稿を終り他日の研究に譲りたい。
 ○山田村の孝子・篤行者
 ○山田村の寺子屋
 ○山田小学校・山田村役場
 ○明治九年の山田村事件(既述)
 ○山田村の道路改修事業
 ○久保団地の開発
 最後に、久保村郷土誌を監修発刊された故河村八郎先生に感謝の意を捧げたい。先生は東陽小学校にながく御在職であったが、その間久保村郷土誌を発刊された。本誌は久保村唯一の郷土誌として、多年多くの人々に読まれ、また史料とされた。郷土史研究の初期にあたる当時として、これほど多くの史料を集められた先生の御努力には、全く敬服のほかはない。先生の多年の御研鑽に深く感謝の意を表する次第である。
 次に『慶長・寛永検地帳』に出ている古い山田村の地名(穂の木)のうち、読解できるものを左に掲げよう。これらから、山田村の古い地勢が大略理解できるように思う。
あみだめん 阿弥陀如来を祀る堂の免税地
あお    湿地 青 湖沼 海面
あかはね  あかは崩崖 赤土 はねは粘土
あふ    崩れやすい崖 自然堤防
あせり   あせはあさに通し低湿地 崖地 せりは崖地
あい    湧水 鮎
あせ    水の浅い所
あか    屋根 岬 崖 田地
あふか   崖地
いかや   いかは谷を登りつめた所 洪水の起り易い所 やは谷
いの木迫  いのは井戸のある野 水路のできている野
いしなべ  なべは鍋形の地形 滑らかな地形
いわなめり いわは岩 山 なめりは川底の石がこけ等ですべる意
うめ    埋めの意 梅
えき    浴 小谷 谷間の低湿地
おほふけ  ふけは深い意 深田
おだ    小さい田 沼田 湿地
かき    垣すなわちかこい
観音めん  観音堂の免税地
かのう松  追加した開墾地 焼畑
神田    神社維持にあてられた田
かりまた  かりは崖 山畑焼畑 または沼地
きり    切り開く 開墾 新開
こいぢ   越路
こうち   河谷にそった平地
こうはら  荒原 興原 新田開発によってあらたに発生した原
さの    せまい野
さと    里 古代の大村 郷 さと
すえ    古代陶器の製造地
すく    崖
そり    焼畑 休閑耕地
たや    田屋 田の中の小屋 田の管理人の居所
たけ    岳 崖 高い所
たけた   高所の田 他の田と区別するため所有者が境地に竹を植えた
たて    まわりに田畑をひかえ屋敷に適し なお敵の攻撃にそなえる土地
つくだ   人のつくった田
つつみだ  堤でつくった田
てらだ   寺田 寺で領有している田
てらうち  寺の管理内の土地
とど    沢や谷のとどろく水音
どい    鎌倉時代の豪族や武士たちの屋敷のまわりに土塁や堀などを築いて防禦体制を整えた所
とき    崖
とも    崖地 まわりが崖状の丘陵
はんだ   粘土質の田
はやし   神の森
ひえ    寒冷地 高く聳えた地 崖
ひしやだ  仏教の毘沙門天にゆかりの田 湿田
ふるた   古田 もとの田 新田に対する語 フリはふるに同じ
ふじ    ゆるい傾斜地
ほりた   堀り田 開墾された田
ほう    平安時代の自墾の私田
みくち   みは水
みお    船の通る水路
みのこし  ミは接頭語で野のこと こしは崖
めん    租税免除の田
もと    新村 分村に対し親村 本郷 元村
もり    神社の杜 森など地の高い所
山田村の字名(これらの字名(あざな)はこの書が書かれた時代から使われていたのである。)
地下上申
寛延二年(一七四九)
明治五年大小区村名書明治八年大小区村名明細書明治十八年
山口県地誌原稿
明治二十年
分間図
明治三十四年
山口県風土誌
山田村山田村第七大区仝上切掛上記の大小区村明細書と同
中村第七大区第一小区 西松口
梅ノ木原第一小区山田村 東船口
合か原小迫(コザコ)小迫(コザコ) 割石
小迫中村地蔵免(ヂゾウメン) 神田
付田浴村(エキムラ)立石(タテイシ) 
後迫郷村(ゴウムラ)中六(チュウロク) 北河口
大江後浴(ウシロエキ)桑原(クワハラ) 四郎丸
古屋梅ノ木原石カ谷(イシカタニ) 寺ヶ迫
田尻 高下(カウゲ) 田中
かん垣内明治四年辛未四月戸籍法改正ノ公布アルあせり谷 内河内
一のふうし中村(ナカムラ) 東河内
利光寺  こいぢ
 
天王ニ依リ、明治五年壬申周防長門十二郡ヲ百二十七区ニ制画シ、戸長制ヲオキ族属ヲ分チ戸数ヲ計リ人員ヲ算ヘ邸宅ヲ逐フテ番号札ヲ給ス三反田(サンタンダ) 前田 
林河内(ハヤシガウチ) 池ノ尻 
内河内迎殿(ムカイデン) 久保 
こいぢ免田(メンデン) 上久保 
桐が迫中原(ナカハラ) 見口 
四郎丸五郎丸(ゴロウマル) 南ヶ浴 
山添堂ノ前(ドウノマエ) 平畑 
后浴浴村(エキムラ) 長尾 
 元折(モトオリ) 万福寺 
 平畑(ヒラバタケ) 五反田 
 五反田(ゴタンダ) 天王 
 久保(クボ) せり原 
 神ガ原(ジンガハラ) 竹組 
   上竹組 
   溝ノ下 
   光威 
   上河内 
   利光寺 
   浴ノ奥 
   岡ノ上 
   免田 
   筒井 
   片山 
 
    神河内 
    打丸 
    中原 
    五郎丸 
    林河内 
    下河内 
    丸拾渉 
    岡元 
    上田中 
    大代 
    高下 
    はなぐり 
    あせりヶ谷 
    石ヶ谷 
    桑原 
    宮ノ下 
    中六 
    三反田 
    竹ノ内 
    堂ノ前 
    梅ノ木原 
    寺道 
    八王寺 
 
    東迫田 
    西迫田 
    水落 
    西ヶ浴 
    はかのふ 
    法次 
    市納寺 
    北迫 
    藤堂 
    青ヶ浴 
    大平原 
    時貞 
    小平原 
    宮ノ後 
    大ふけ 
    堤田 
    山添 
    いの木迫 
    石こそ 
    石ノ口 
    西三反田 
    越峠 
    切ヶ迫 


下松市大字山田小字綜合図