但当村の儀は往古よりいか様之儀ニて来巻村と申候哉、由緒申伝無御座候事
と記されている。他書にも来巻の地名の発生について見るべきこともない。私見にすぎないがその理由を次に述べてみよう。
クルマキを「クル マキ」「クルマ キ」に分けて地名辞典をみると、「クル」には適訳なく、「マキ」は牧場・部落の意がある。「クルマ」には、「クル」「メ」「クルミ」と関係があって、「小さい谷の平地・盆地」に多い地名である。「キ」は、単に「所・場所」と解されている。
高橋文雄氏は『続山口県地名考』に
クルマキとは、焼畑の第一年度の畑(クロヤキともいう)のことか。あるいは畠の周辺に沿って一畝だけ輪状の畝(ウネ)を立て、次にその内側に小口から畝を並べて行く耕し方をした所のことか。
といっておられる。
楠原佑介氏の『古代地名語源辞典』等より考えると、クルはクレの転で微高地、また微高地の端の屈曲をクルといったものといい、マキは川や谷などの屈曲した地というといっておられる。
以上の諸書の解説と来巻村の地勢より考えると、「来巻は微高地よりなり、微高地の端の川や谷が屈曲しているところ」となるように思われる。
来巻村の『慶長検地帳』によると、迫の地名が多いのが目立つ(当時は来巻村は河内村に含まれていたので、この調査にも河内村が含まれている)。それを書き上げると、
奥迫 後迫 西迫 風呂迫 柿木迫 中迫 勝負迫 楠迫 亥ノ木迫 甲迫 西方迫 穴迫 垰迫 松ケ迫 迎迫 蛇カ迫 仏ケ迫
がある。迫とは狭谷で、ほそく迫った谷、小さい河谷である。山あいの細長い谷間で出水のため湿地帯をなし、山かげで陽あたりも悪い土地のことである。また、
歌船(うたふね) 小森(こもり) 勝負(しょうぶ) 婦計(ふけ)
これらの地名は、いずれも湿地帯をあらわしている。
これらの迫や、いわゆる、微高地によって来巻の交通はさまたげられ、東西を結ぶ大きな道もなく土地の開発発展はおくれがちであった。
来巻村の来巻の地名は、穂ノ木(ほのき)→小字(こあざな)→大字(おおあざな)と発展して来巻村になったのではなく、村全体を見渡してその景観上からつけられた村名であると思う。地下上申提出の際、村全体の調査をおえて名づけられた村名であると思う。ただし『慶長検地帳』に穂ノ木二ケ所に「くるまき」の地名が出ていることを、参考のため記しておこう。
『地下上申』の絵図をみると、鷲頭山頂の妙見社上宮より山々の頂を結び、来巻村に通ずる道があって、この道は来巻の妙見社末社で終っている。また、この絵図によれば、鳥居並びに社殿は道に面して建てられ、妙見社上宮に向いている。これは妙見社上宮と来巻村の妙見社末社との、深い関係をあらわしているようであり、またこの道に面して建っていることは、この道を守護していられるように思う。この道は妙見社上宮と妙見社末社を結ぶ道であったが、吉原と来巻を結ぶ重要な道でもあった。最初に来巻村が河内村の一部であったのは、こうした点からも考えられる。来巻村は河内村と一体となり妙見山・鷲頭山を護る重要な拠点であった。また、来巻においては嶽山を足場にして、山麓地帯に開発・発展していったと思う。
来巻の嶽山についての言い伝えを左に掲げよう。
その昔、星が降ったと伝えられ、この頃から烏帽子岳(えぼしがだけ)を岳様(だけさま)と尊称し、信仰し始めたものである。河内村の妙見社を勧請する以前の数百年前の昔から、岳様は山岳信仰として崇拝されていたと思う。
星の降った伝説は諸所にあるが、特に下松では下松最古の伝説である尊星降臨による下松妙見社の伝説がある。朝に夕べに仰ぎみる霊山烏帽子岳は、住民の崇敬の的であった。古代より神々は山に住んでおられ、山は神聖なものとされていた。西国の石槌山、木曾の御嶽山などのように山嶽信仰の的となっていた嶽様も、山嶽信仰より由来していると思う。
降松神社の記録には、「嶽の宮」(来巻第一番地)と載っている。これが正式の社名である。巷間では今も嶽様といっている。嶽山は来巻村民にとって、朝夕仰ぎみる嶽神、雨水の恵みをくださる嶽の神として、村民の生活の中にとけこんでおり、嶽権現・嶽明神を神格としては尊敬せず、様として親しく人間なみに敬まったのである。来巻の人々には、神・人一体の感情があったと思う。嶽様という言葉には親近感が感じられ、村民は、神と一体であった。そこに下松唯一の神舞(かんまい)が生れたものと思う。神舞によって人々は神がかりの状態となり、託宣を発するようになっていったという。このように神人一体の境地になって行われる神舞も、来巻の人々には容易に行われたことと思う。
古書によれば
天文二十三年(一五五四)河内村妙見社を勧進し、来巻村妙見社として祀り、元禄十六年(一七〇三)に石堂を建立しその拝殿を建立す
と記されている。その二年後の弘治二年(一五五六)に、毛利氏が鷲頭山妙見社の社殿を毀している。鷲頭山の山つづきに当たっている嶽山は、軍事的に重要な地点である。鷲頭氏が逸早く来巻に軍事的意図から、先ず妙見社を奉祭したことはうなずかれることである。また、その時代は相当古い年代であったであろう。
来巻の大蔵山に千人塚があるが、これは毛利氏が鷲頭氏を進攻した合戦の死者をほうむったものと思う。
現在、下松の地名に残る千人塚は、旗岡山の千人塚、高塚の千人塚、山田の千人塚がある。いずれも鷲頭山を取りまき、古戦場の言い伝えがある。毛利氏が、鷲頭氏の本拠であった妙見山を陥すについては、大攻勢をかけたにちがいない。周辺にのこる千人塚とその伝説は、今もそのことを伝えている。
毛利氏の時代に来巻村は河内村の一部となり、御蔵入・給領地ができた。その頃の福原越後の給領地に、万願寺がある(万願寺については下松地方史研究第十九輯参照)。万願寺は、福原家とは深い関係のあった寺と思う。万願寺について『来巻万覚え書』によれば、現存の万願寺の小鐘の銘に
防州都濃郡来巻村仏頂山満願禅寺ハ、吾が渓月十五世枯外禅和尚ノ開闢ナリ。(中略)住僧一日吾山ニ来リテ銘ヲ需ム。予拒辞ニ堪ズ、茲ニ之ノ銘ヲ為ス。
とある。
満願寺は、明治六年に熊毛郡浅江村の廃寺になっていた祇園寺に引寺し、浅江の満願寺となり現在も続いている。一方、来巻の満願寺跡には、徳山の総持院を明治十二年に引寺した。のち昭和三十二年、第五世原田周岳師を最後にして総持院は廃寺となる。総持院の本仏や寺有財産及び門徒は、花岡閼伽井坊に引き継がれた。
総持院の廃寺については、経済的にたちゆかなくなったのが原因といわれている。終戦後農地改革によって、寺有地が小作人に買収されるに及び、原田師は当時多数の子女をかかえておられ、家計が苦しく遂に廃寺されることになったという。
考えてみると、一寺を維持するために、一年間に門徒はどの位の負担を要したであろうか。法要についていえば、真宗の寺では報恩講・春彼岸・降誕会・泥落法会・盆会・秋彼岸・永代経法要が行われる。部落では降誕会・お取り越しを行っていた。これらの法要のたびに、門信徒は応分の布施をあげていた。また、これ以外に盆・正月には、年米(お米とお祝餅)・お鉢米(はちまい)を持って寺に参った。その上、奉加(ほうが)といって世話人が各戸を廻りお米を集めていた。勿論、僧侶も一諸に同行し、各戸で読経していた。奉加に秋奉加(米)・麦奉加・大豆奉加(味噌用の大豆)・もち米奉加があり、草ぶきの屋根の寺では、かや奉加・わら奉加など、家屋の修繕まで寄付を請うた。寺によっては、寺の長男(後継者)の学資金を集めていた寺もある。勿論、時代により寺院によってまちまちである。寺院の方では、毎月、門徒近親者の忌日には月参り(月忌)をし、盆やお取り越しには全戸を廻り読経した。昔の寺壇関係は親戚以上であったので、こうした寄附行為も持続できたものと思う。
来巻村について考えてみるに、来巻村の庄屋をしていた木村家・宮田家の両家は、明治時代に木村家はキリスト教に改宗し、宮田家は昭和時代に皇大神宮教に変っておられる。両家とも代々、寺の総代の家柄であることを考えると、来巻村仏教の住民への浸透度について考えさせられるものがある。
其他の来巻の仏寺について述べよう。
法覚寺
信友明氏は、『来巻万覚え書』に『地下上申』の「庵一ケ所大蔵にあり」とは法覚寺のことといわれ、庵に残る銅鑼(ドウラ)の銘によると
都濃郡下松周慶寺末法覚寺、什物施主当村中庄屋木村十良右衛門代安永六丁酉(一七七七)六月吉日、世話人山本長蔵外、京大仏師西村上総大〓宗春作
とあって、庵の前の宮田幸雄氏の老母の話によると、寺はアミダ堂といっていたようである。
信友氏は、「住職コウジン師が昭和十年頃に死去され、寺は廃寺となった。仏像は下松周慶寺に引き取られ、神体は岳様に合祀された。その時、境内にあったお地蔵様は県道寄りに移された。」と詳しく語っておられる。このように、法覚寺・アミダ堂・庵といろいろよばれていたようである。
法堂寺
信友明氏は、「法堂寺は廃仏毀釈により廃寺になったものといわれているが、実際には慶応四年(一八六八)の神仏判然令以前のことと伝えられている。仏像一体と観音菩薩像二体は、山門伊吉氏に引き継がれて今日にいたっている。」といっておられる。山門家は、法覚寺の近くの同宗派の篤信者であった関係からと思われる。
地名にのこっている寺名として、元和三年(一六一七)の検地帳には、来巻村はまだ河内村より分れずにあったが、来巻村に在ったと思われる寺名に万願寺と宮司坊がある。万願寺については、すでに述べた通りである。宮司坊は、妙見山の宮司坊の寺領と思われる。妙見山には七坊があり、各坊が寺領を有していた。そのうちで、なぜか宮司坊だけ来巻に寺領を持っていた。来巻村の富豪の宮田家が、宮司坊と関係があったためではないだろうか。
地名に残る寺名について考えると、第一にその地に寺院が建立されていたのが廃寺になり、寺名が地名として残ったと考えられるのと、第二にその地が寺領であって、そこに寺名がついたと考えられるのがあるように思われる。その地方に残る言い伝えと、寺名をあわせて考える必要がある。
来巻村の地図には八王寺がある。同寺の来歴については、何ら伝わっていない。今後の研究にまとう。明治八年の地籍図によれば、来巻村に「寺ノ前」の地名があるが、この「寺ノ前」の地名の寺は八王寺に当たり、字「寺河内」「西寺河内」の寺は万願寺に当たると思う。
現在切山村にある誓教寺は、もと来巻村横道にあって、後に切山に移ったのであって、来巻にあった寺跡については、すでに明らかにされている。来巻村横道時代は庵としてあったのが、初代玄西法師の時に切山村に移り、寛永十二年(一六三五)寺号公称を許されたと思う。何故、来巻村より切山村に移ったのか、その原因については不明であるが一考を要する。
来巻の各寺院の所在地を図示してみると奥迫を軸としており、来巻の文化も開発も、この奥迫地域を中心に発展したものと思う。来巻村の新しい地番は、嶽様を第一番地としてはじまっている。
現在の来巻村における各寺院の門徒分布の概要をかかげよう。
誓教寺 三五、浄念寺 三〇、西善寺 七、桃林寺 五、円成寺 三、他 五
これによると、近隣者が同じ寺院の門徒になったと思われる。それとともに、先祖よりの家の宗旨を重んじ、他所に移ってももとの寺院に属して他宗他寺に替らなかったようである。
嶽山を対象とする山嶽崇拝は、古くより来巻住民の間に強く根づいていたと思う。そこへ河内妙見社を勧請して来巻妙見社となり、嶽の神は妙見社(当時は仏教)と合体して神仏混淆色が強くなったと考えられる。これが今日まで来巻住民の宗教的感情として、住民の心底にあるのではあるまいか。
来巻降松神社は奥迫にあって、岳様の出社(デヤシロ)である。降松神社の記録には、「嶽ノ宮」つづいて「下ノ宮」とあり、いずれも天之御中主神を祭るとある。これは神仏分離後のことであって、古くは北辰妙見尊星を祭っていたのである。『地下上申』にも、降松神社はなく「妙見一ケ所妙見山にあり」と記されている。
稲荷神社 中ノ迫にあり。同社の由来書に
元当所に安鎮マシマシ候所、一節中絶ニ及ブト雖モ、宮田吉三郎ニ夢想ノ告有リ、仍而文政六癸未(一八二三)二月初、手改中ノ迫惣祭ト定寄奉修稲荷大明神安鎮
とある。
稲荷神社 奥迫にあり、奥迫の惣持院の境内社としてあったのを、総持院廃寺後規模を大きく奉修して祭った。
次に来巻村の生産について述べると『地下上申』に
村名 | 検地年次 | 田石数 | 畑石数 | 平均田石数 | 平均畑石数 | 総戸数 | 惣人数 | 一戸平均 | 牛馬数 | 一戸平均 | 門男数 | 本軒門男比 |
人数 | 牛馬数 | |||||||||||
来巻村 | 寛保元 | 石 | 石 | 石 | 石 | 一二三戸 | 五七二人 | 四・六人 | 八四匹 | 〇・六八匹 | 三人 | |
(一七四一) | 八九九、九五三 | 一四四、七〇四三 | 七、四九九 | 一、二〇五 | 本軒一二〇 | 男二八四 | 牛 六〇 | 〇・〇二五 | ||||
門男 三 | 女二八八 | 馬 二四 | % |
来巻村の一戸当たりの田地の平均石数は、三ケ村(来巻村・山田村・河内村)で最も少なく、一戸の平均人員は最も多い。しかも、戸数に比して牛馬数は多く、本軒に対する門男数(租税が免除された家)は少ない。これらによって考えるに、来巻村は生産高が少ない割には人も牛馬も多く、労働力は豊かであった。また、納税を免除された家は最も少なかったのである。即ち来巻村全住民はよく働きよく勤め、貧民階級は少なかった。一方、生産は上らなかった。これは、灌漑用水の不足といった点にあるのである。
来巻村で最初に感ずるのは、村にそびえる嶽様、微高地に点在する迫と堤である。
この村では、焼畑農業に関した地名が見当たらない。このことは、小野・黒杭には焼畑農業が行われ地名にも残っているが、来巻では焼畑農業はあまり行われなかったためではあるまいか。昔より多量の水のいる水田耕作や広い焼畑農業もせず小規模な畑作をしていたことが推測出来る。迫地帯での少量の水は、湧水や堤等で補い耕作したのであろう。
信友明氏の『来巻万覚之書』で水方帳をみると、「一滴の水も農家にとっては極めて貴重な存在であった」とある。こうした水方帳は他の部落にもあったと思われるが、来巻村に現在まで保存されていることは、水方帳が昔からどこの部落よりも、大切に取扱われてきたためであろう。
水方帳に書かれている一部をあげると
○二の谷
畠掘 四畝程 東山付五町
此分算用除之 松治郎
右依年水沢山ニ相成年田作仕候、安衛門元来水行届不申ニ付、来年から畠作仕候
○水口十二番(大蔵川筋)
大蔵 堤付 豊蔵
田二畝 五まち
米三斗
以内一町水無之ニ付畠作仕候
○水番無之ニ付除之
同所畠四畝廿歩 米五斗一升四合 権治郎
田一畝程 堤付一町
このように農地用水について定められていた。『来巻万覚之書』には、旱魃の逸話がいろいろと載せられている。明治二十年の調べによると、来巻村の堤の数は四十五ケ所、面積は二町一反五畝(堤一ケ所の面積は四畝二十三歩)とあって、小さい堤が多かったことがわかる。
光市浅江の満願寺の鐘は、旱魃の時は海にかつぎ海水で洗って雨乞いしたというが、これは満願寺の来巻時代から行われた行事であろう。また、大蔵の立岩(地神様)の汐汲みの話など、旱魃の伝説は多い。
地下上申以後のまとまった史料として、明治十八年の『山口県地誌原稿』をあげ、来巻村・山田村・河内村・切山村の明治十八年度の村勢について掲げてみよう。
村別地籍等の状況(山口県地誌原稿) |
村名 | 検地年次 | 田数 | 畠数 | 宅地 | 山林・原野 | 戸数 | 社寺 | 男女 | 牛馬 |
来巻村 | 明治十八年 | 四一町八段 | 八町八反 | 三町一反二歩 | 一四五戸 | 社 二 | 男三四四 | 一一一匹 | |
一五〇町五反四二 | 士 一 | 寺 一 | 士二、平三四二 | ||||||
四二七 | 平一四四 | 堂宇一 | 女三二八 | ||||||
士一、平三二七 | |||||||||
山田村 | 〃 | 六七町九反四六 | 一三町六畝六 | 二町八反三一六 | 一二七町八反四一 | 一五六戸 | 社 六 | 男三三九 | 牛 七〇 |
士 七 | 寺 一 | 士九、平三三〇 | 九五匹 | ||||||
平一四九 | 堂 一 | 女三二七 | 馬 二五 | ||||||
士八、平三一九 | |||||||||
河内村 | 〃 | 一〇三町四反七一三 | 三四町六反八畝二六 | 八町六反九一二 | 三六一町四反四三 | 三九八戸 | 社一四 | 男九九七 | 牛一七八 |
士 一三 | 寺 五 | 士二三、平九七四 | 二一一匹 | ||||||
平三八五 | 堂 一 | 女八一八 | 馬 三三 | ||||||
士二一、平七九七 | |||||||||
切山村 | 〃 | 六六町三反三二九 | 三四町六反四畝 | 三町八畝 | 一四二町二一歩 | 一八〇戸 | 社 二 | 男平三九九 | 牛一三三 |
平 〃 | 寺 三 | 女平三八四 | 一六六匹 | ||||||
堂 一 | 馬 三三 |
以上述べてきたように、来巻の人々は、朝な夕なに秀麗な嶽様を仰ぎ、神と人と一体の里(サト)であった来巻の村落は、必ず将来発展することを信じたのである。久保団地開発の前に来巻村の開発が論議され、この開発にあたって成川・小野地域に道路を通じて来巻と下松市街地を結び、来巻の繁栄に役立てようと計画されたのであるが、その後沙汰やみになったようである。しかし、将来必ず下松・光両市の住宅地帯となり、都市近郊農業地帯となる可能性が強いと信じる。将来の来巻村の発展を期待してやまない。
終りに当たり信友明氏(西宮市在住)・井川岩夫氏・田中豊氏に大変お世話になり、特に本書をかくに当たり、信友明氏(西宮市在住)の『来巻村万覚書』におうところが多い。異境の地にあって、遠く故郷を憶い、旧友知己を訪れ、『来巻村万覚書』を作られた信友明氏のご労苦を感謝し、併せて今後とも後輩の御指導をお願いいたす次第であります。
(昭五九・一二、第二一輯)
(これらの字名(あざな)はこの書が書かれた時代から使われていたのである。) |
地下上申 寛延二年(一七四九) | 明治八年山口県 大小区村名書 | 明治十八年 山口県地誌原稿 | 明治二十年 地籍図 | 明治三十四年 山口県風土誌 |
来巻村 | 第七大区 | 来巻村 | 来巻村 | 来巻村 |
横道村 | 第二小区 | 明治八年山口県 | 嶽 | 明治八年山口県 |
奥迫村 | 都ノ郡ノ内、 | 大小区村名書に | 中のふけ | 大小区村名書 |
高畑村 | 来巻村河内村 | 同じ | 生籔 | 来巻村と同じ |
大蔵村 | 土村 | 来巻村と同じ | 鳴戸尾 | |
来巻村 | 上勝負ヶ迫 | |||
奥迫(オクサコ) | 勝負ヶ迫 | |||
畔田(アゼタ) | 西地 | |||
後迫(ウシロザコ) | 奥河条 | |||
両京(キョウ) | 河条 | |||
平田(ヒラタ) | 下河条 | |||
石代(コクダイ) | 西ヶ浴 | |||
八王寺(ハチオウジ) | 上二ノ谷 | |||
柿久保(カキクボ) | 迎ヶ迫 | |||
寺河内(テラガワチ) | 中二ノ谷 | |||
水上(ミズカミ) | 下二ノ谷 | |||
中婦計(ナカノフケ) | 下為政 | |||
政弘(マサヒロ) | 為政 | |||
岡原(オカノハラ) | 后ノ迫 | |||
本国(モトクニ) | 中ノ迫 | |||
西迫(ニシザコ) | 小森 | |||
茶木田(チャノキダ) | 柿ノ木迫 | |||
高畑(タカハタ) | 蛇ヶ迫 | |||
後河原(ウシロガハラ) | 法堂寺 | |||
風呂迫(フロガサコ) | 角源 |
水落(ミゾオチ) | 上山 | |||
半坪(ハンノツボ) | 大蔵 | |||
宮司坊(ミヤジボウ) | 西大蔵 | |||
友貞(トモサダ) | 奥ノ土井 | |||
菅本(スゲノモト) | 穴迫 | |||
萩尾(ハギノオ) | 後 | |||
須賀(スガ) | 四万迫 | |||
新所(シンジョ) | 丸田 | |||
京尾(キョウノオ) | 垰迫 | |||
河本(カハモト) | 田ヶ迫 | |||
浴(エキ) | 米田 | |||
萠成(ツエナリ) | 畑分 | |||
大蔵(オホゾウ) | 亥ノ木迫 | |||
与一坊(ヨイチボ) | 大本 | |||
垰前(タオノマエ) | 横田 | |||
原土井(ハラドイ) | 垰ノ前 | |||
岡河内(オカカワチ) | 切戸 | |||
上山(カミヤマ) | 東大蔵 | |||
柿ノ木迫(カキノコザコ) | 原ノ土井 | |||
庵木原(アンキハラ) | 須賀 | |||
横田(ヨコダ) | 椎ノ木 | |||
中迫(ナカノサコ) | 新所 |
角原(カクゲン) | 菅ノ本 | |||
須賀尻(スカノシリ) | 友貞 | |||
法堂寺(ホウドウジ) | 浴 | |||
小森(コモリ) | 宮司坊 | |||
惣木屋(ソウキヤ) | 後河原 | |||
兼弘(カネヒロ) | 高畑3 | |||
勝負迫(ショウブザコ) | 風呂ヶ迫 | |||
二谷(ニノタニ) | 赤崩 | |||
為政(タメマサ) | 岡ノ原2 | |||
后迫(ウシロガサコ) | 仏ヶ迫 | |||
垰迫(タオザコ) | 友田 | |||
樋迫(オケガサコ) | 政弘 | |||
畑分(ハタブン) | 西寺河内 | |||
米田(ヨネタ) | 水上 | |||
亥木迫(ヰノキザコ) | 寺河内 | |||
甲迫(カクガザコ) | 土別当 | |||
穴迫(アナザコ) | 柿ノ久保 | |||
四万迫(シマンザコ) | 奥迫 | |||
丸田(マルタ) | 田中 | |||
大畠(オホバタケ) | 丸山2 | |||
横通(ヨコミチ) | 本国 | |||
松迫(マツガザコ) | 寺ノ前 |
婦計(フケ) | 西迫 | |||
大切(オホギリ) | 桜2 | |||
天王原(テンオウバラ) | 平田 | |||
歌船(カブネ) | 賀々ノ木 | |||
岩廻(イワマハリ) | 八王寺 | |||
垰市(タオイチ) | 石代 | |||
岡原(オカノハラ) | 後迫2 | |||
嶋田(シマダ) | 両京 | |||
家国 | ||||
横道 | ||||
大切 | ||||
天王原 | ||||
長地 | ||||
岩廻2 | ||||
歌船3 | ||||
松ヶ迫 | ||||
岡ノ原 | ||||
垰市3 |
下松市大字来巻小字綜合図