但切山村古ハ高山とも申之由ニ御座候処ニ、其昔琳聖太子当国青柳浦御着岸之節、此村北へあたりたる山に夥敷霧かゝり候を御遠見有、あれに見ゆる霧山は何と云山かと御問せ候時分、あれ則霧山と申之由相答、それより霧山村と申之由ニ御座候処ニ、いつの比より霧と申字書誤り候哉、此あたり委ク存たる者無御座候、猶又京都三十三間堂建立之時、三十三間有之棟木当村より仕上せ相成、それより切山とも申之由両説之申馴御座候へ共、両名共ニ慥成所の伝へ為存者ハ無御座候事
と記されている。次に『地下上申』より九二年後に著された『風土注進案』に、切山村の由来を記し
当村名之義ハ、往昔八幡宮境内山桐の木立ニ而御座候処、和銅年中豊前国より八幡宮勧請之砌、桐ノ木切払社地ヲ開キ神祠を建産砂神と崇敬し、当時ハ松雑木繁茂仕居候、此謂を以桐山と呼来候由申伝候、然にいつの頃よりか切之字ニ書改申候
郡庁評
桐山ト申スヘキヲ切ト書替タルコト別字同訓ニシテ、字画モ少ク書キ安キヨリイツトナク里正ナトトカキ略シタルカ、又ハ素ヨリ山林勝ナルヲ漸々キリ払ヒテ開ケシ村里ナルヨリ、切ノ字ニ改タルモ宜ナルヘシ
と記されている。
後世になり昭和六年に発刊された御園生翁甫の『防長地名淵鑑』には
切山保
今、久保村の大字切山村是なり。由来書に「後白河上皇蓮華王院御建立の時棟木を本村より切りて奉るを以て切山村と云ふ」とあり。蓮華王院は俗に三十三間堂と称す。長寛三年(一一六五)後白河法皇平重盛に勅し、三十三間の堂を営み、観音金像一千一軀廿八部衆を安置し、蓮華王院又は新千手堂と云ふ。法皇法住寺殿を其側に移して徒御す。又、群書類従に「仁和寺諸堂蓮華寺、号二周防堂一鷲頭庄北堂領也。(中略)周防堂号者若周防国司建立歟、将又鷲頭庄之故歟、可レ尋レ之」ともあれば、蓮華寺又は蓮華王院の如き帝都の名刹を創建せらるゝに当り、或は其用材を周防に課して伐出したることなしとも云ふ可らず。注進案に切山鎮座八幡宮和銅年間創建せらる。其地桐山なりしにより名づくとあり。近藤清石是説やゝ是に近しと云へど甚だ覚束なし。
正中二年(一三二五)国衛文書周防国法華寺免田切山保あり。波多野勝兼切山保内二十石の地を知行す。享禄四年(一五三一)養子彦九郎勝実相続伝領す(古文書)
と記されている。以上は切山の地名並びに由来についての古来からの諸説である。
桐と切山について考えるに、下松沖より切山の地を望めば、切山の辺りの上、高山に霧がかかってみえ、私の小学校時代に校庭に古い桐の木があったのを思いだす。
次の三十三間堂の棟木や用材についても、昔からの伝説が今も残っている。木材を河を流し、海により京に送ったという伝説が残っている。憶測をたくましくすれば久保より海に注ぐ大河を切戸川というが、山を切り河を切るといったことに、不思議な関係を感じるのである。次に二、三の愚見を述べてみたい。
この地域が開発された当初は、焼畑農業によったと考えられる。これは隣村の小野・黒杭・来巻村と同じである。切山には焼畑に関連した仮畑・そり田の地名がある。
地名辞典によれば
切山
キリ(断)は「崖」のことであろう。つまり「崖のある山」の意か、あるいはキリは「限り」の意で「山の端」を示した地名か
といい、また他の辞書によれば、「(1)開墾地 焼畑 (2)霧(霧山 桐山 切畑山)」とある。即ち(1)切り開いた地 (2)崖のある山 (3)霧の深い山 (4)桐の茂った山と、その土地の地勢、気候等によってつけられた地名である。即ち切山の地名伝説もみなこれに関連している。
こうして山野開発の一歩が印せられると、次に八幡宮が勧請されたと思う。現在の八幡宮の地に、八幡宮を中心として宮地・宮の脇・宮の前・宮ノ下の地名がある。八幡宮を中心として、次第に開発がすすめられていったことがわかる。
切の字には崖の意味があるが、開発をすすめてゆくに当っては崖との戦であった。崩壊したと考えられる地名が、切山には非常に多い。大崩・大崩山・沓ぬき・そえ・あき・あら・いか、はみな崖地や崩壊に関係した地名である。このことは、『古代地名語源辞典』には
崖および崩壊地形を意味すると思われた地名の絶対数の多いことと、その用語の豊富なことは、日本列島の自然環境によるところである。
と書かれている。切山村においても、このことがあてはまるのである。
妹背の地名について『久保郷土史』には
注進案に、大和境紀伊の国境妹背山に地形の似たるを以って名づけし故にいひ、由来書には藤井内蔵といふ浪人の女を某恋ひ、遂に妹背の語らひをなしけるより名づける由、それより名としける由にいへり。防長風土誌妹背村の儀は、中に渓川あり東西に小高き山あり。先年は橋も無之、洪水の節は渡ることも出来ず、紀伊大和の国境に似たれば妹背と申伝候
と記されている。また、現に伝説としてこれらのことは語られている。しかし、イモセのイモはウモの転で「土砂などで埋もれた川」の意か、あるいは「今井」の転で新しく流れの変わった川の意との解釈もある。従って、イモセは土砂などで埋もれた瀬と考えてよかろう。そのためか、イモセの近くに砂子田・古川の地名があり、また砂入・古川の屋号の家もある。また、イモセにつづいて二ノ瀬があるが、これはイモセにつづく第二の瀬の意であると思う。また、イモには「斎」の意があるといわれるが、イモセを斎戒の瀬と考えてはどうであろうか。
切山は切山八幡宮の氏神を中心とした一大斎戒地であった。切山の地名が、「霧山」に由来した琳聖太子降松浦着岸の伝説より発していることも、この地に尊星王大菩薩にゆかりのある神社があるべきと考えられたためであろう。また、切山は驚頭庄であったので、妙見社に関係した末社があるべきと思われるが、この社がないことは、切山村が切山八幡宮一氏神に結ばれた強い信仰のためと思われる。こうした関係から、切山村は八幡宮を中心とした斎戒地になったのであろう。こうした斎戒地の入口に当たる瀬が、妹背と考えるのは憶測であろうか。古来より切山村民の八幡宮への尊崇は極めて篤いものがあった。
このような、八幡宮に対する極めて篤い崇拝心と共に、寺院に対しても信仰が篤かった。切山村には三寺院があり、上地に秋林寺、中地に桃林寺、下地に誓教寺と縦に位置してほぼ三分されている。昔の仏教は教義による宗派の相違よりは、祖先崇拝を根底にした仏教であったと思う。したがって、神仏混淆が容易に行われたのであろうと思う。
切山村の寺院について述べると、古く廃寺になった寺院や不明な寺院は少ないことである。ただ一寺、光明寺が廃寺になっているが、寺名も寺所も寺跡も明らかにされている。現存の三寺院は、昔よりの寺院である。
桃林寺
寛保元年(一七四一)九月、桃林寺より出された『寺社由来』によれば
此寺之儀ハ及中絶、桃林寺ト申観音堂計有之、此内ニ昆沙門不動以上三体有之来候得共、右往古開基開山扨亦仏ノ作者共ニ知レ不申候、尤行基之作ト申伝候
元禄十三(一七〇〇)辰年ニ御庄屋善衛門再建立御願申上御免許之上、熊毛郡小周防月渓月院十六世石峯和尚開山ニ請シ、本寺ニ相頼長州大寧寺明山和尚之弟子上藍と申和尚請待仕、此僧中興二世現住泰龍迄三世ニ相成候事
と寺の沿革を記している。これによれば桃林寺の開基は古く、中絶して堂塔は毀れて、桃林寺の寺名と観音堂のみ残っていたのを、庄屋善衛門が再興したと考えられる。
誓教寺
『寺社由来』によれば
但、開基玄西と申僧、寛永十二年(一六三五)亥八月、寺号并木仏の阿弥陀仏相調
また土地の言い伝えによれば、誓教寺は昔来巻村横道に庵としてあって、現に跡も残っていて、玄西のとき切山に移したといわれている。当時は現在の位置より東の丘にあったが、裏山の山崩れで寺がつぶれたので、現在地に移転したといわれている。
この弘化元年五月(一八四四)の天災は、山崩れと鉄砲水による山崩れによるものと思われる。弘化三年(一八四六)二月再建のため、木村権右衛門によって奉加帳が出されたが、その口演として
防州都濃郡善宗寺門徒
木村権右衛門
法名釈 良心
右切山村誓教寺去辰五月洪水ニ付、本堂門庫裏長屋等ニ至迄崩損シ、其上御仏具幷家財道具等大痛ミ千万難渋之事奉存候、雖然于是不思議成哉御本尊様多分ノ御難渋も無御座……
この奉加帳をもって、山口県東部の各町村を廻っている。これには、寺の建物は大破したが、御本尊は無事であったと書かれている。遠方の地では、寄進も米一合位であった。この奉加帳は
弘化二年(一八四五)乙巳四月
切山村誓教寺本堂再建奉加施主記牒
世話方 木村権右衛門
として、寄付額・住所・氏名が連記され現存している。
誓教寺現存の書類で目にとまるものをあげると
往来
防州都濃郡何村 何衛門
同人さい
右此度依出願ニ四国遍路仕候、宗門之儀は代々真宗拙寺且那ニ無相違御座候間、国々御関所無障御通可被仰付候、若シ病死等仕候ハハ其所御作法を以御葬可被下候、御異儀不申候、依而往来手形如件
何々年何月 周防都濃郡切山村
所々御関所御役人衆中 誓教寺
秋林寺
『寺社由来』によれば
当寺往古光明寺の古跡有之、何之年号之比建立ニ而、其節之開山幷歴代等一切知不申候、然処ニ自当領主四代前草刈太郎左衛門就氏息男戒名詠月院秋林童霊為菩提、去寛文九丁酉(一六六九)年公儀御願出之上建立相成、法花宗山号日海山秋林寺と改名仕候、其時之開山京都妙満寺三十八代精進院僧都日英上人勧請仕候
と記されている。『風土注進案』も大略これに同じである。『久保郷土誌』に
光明寺といひしは真宗にして、昔今の松永季吉の森の所にありしといふ
とある。また、秋林寺寺誌によるも真宗光明寺と書かれている。真宗寺院はこうした古い時代、ことにこうした高山のような、村落をはなれた深山にあるとは思われない。下松の真宗寺院は江戸時代の創建であり、また村落に近く門徒衆によって建てられたと思われる。憶測すれば、鷲頭氏の縁故者による真言宗派の寺院であったのではあるまいか。
秋林寺創建施主草刈家については後述するが、寛永三年(一六二六)給領御配石高によると、「六百石草刈対馬」と記されている。
切山村にはこの禅宗桃林寺・真宗誓教寺・日蓮宗秋林寺の三寺が並立し、切山村をほぼ三分して伝道し、切山村の教化に当たっていた。これらの三寺の創建について考えてみるに、桃林寺は観音堂を昇格して寺院になったもの、誓教寺は来巻横道時代の庵を拡張改築し寺院にしたもの、秋林寺は豪族が個人で家の菩提寺として建てた寺である。このように、仏像を尊崇した部落や講の人々により仏堂が建てられ、信仰の人があれば迎えて庵主とし庵をつくる。そのうち、庵が昇格して寺院になるといった過程をとった。または地方の豪族が一寺を建立して、自分の一家の菩提寺にした寺も多かった。
秋林寺は草刈家の菩提寺であった。また、下松市内では唯一の法華宗の寺院であった。法華宗の開祖は日蓮で、法華一乗の教を説いた。同宗は四箇格言を唱え、烈しい日蓮の風格と共に熱烈に布教をしていた。秋林寺のある高山は切山より孤立し、全戸秋林寺の門徒であった。自分達は、「本藩の者である、草刈家の作人である、法華宗秋林寺の門徒である、」といった自負心をもっていた。法華宗の宗義の上からも、高山部落は団結していた。他部落に移住しても秋林寺の門徒を変らず、各地に秋林寺の門徒が存在するのが現状である。
終戦後農地改革の時、秋林寺の寺有地は田地八反九畝十八歩、畑地八畝十八歩、山林一町余あったが没収された。最初の頃は門徒は十戸位であったと思われるが、草刈家の加護をうけ寺有地もあり、裕福な寺院であった。そのため門徒への福祉を常に考え、端境期には米を門徒に貸し、秋の収穫期に祠堂利子米として寺に納めさせ、祠堂法要を行うなど門徒の福祉に意を注いでいた。
こうした低利による融資は、隣寺の誓教寺でも行われている。切山村では、寺院と門徒とはあらゆる点で強く結ばれていた。
この大原の地に厳島大明神がある。『防長風土注進案』に由緒が記されている。
右当社之儀は、芸州佐伯郡御鎮座之厳島大明神、本朝御着船之折柄此処ニ立寄せ玉ひ、須叟御足を休め玉ふに………有夜之夢中ニ神霊顕れ玉ひ、汝我を信する事年久し、願くハ此所に宮居を結ひ信仰せハ、蒼生擁護せんこと冠懸石の有ん限りハと御託宣を蒙り………往古之於大原ニは火災流行病等之愁無之、弥厚く崇敬をなし奉り候事
このように、高山は神の宮島様・仏の秋林寺と神仏によって守護され、村民は一致団結し他の村落より隔離し、平和な里を形成していたのである。
切山村落は本藩(萩藩)であるため、他の藩のものよりも気位が高かった。また部落民も本藩としての自負心をもっていた。昔の人の話によれば、切山では下着類を家の前に干すようなことは、村の品位をさげるといってしなかったそうである。そうした気位が、常に村民の日常生活にみられたのである。
こうしたことは、切山村につちかわれていた長い伝統の結果とみられる。
切山村に初めて入植した人々により切山村は開墾され、やがて鷲頭氏が統治することになり、ついで大内氏・陶氏となり、その後毛利氏の統治することとなったのである。
切山村には、あまりはげしい政争はなかったように思う。隣村の山田・来巻・河内・末武・豊井にはいずれも千人塚があり、古戦場の言い伝えがあるが、切山村にはないのは、村内で戦もなく平和な村であったためであろう。
三卿伝編纂所編「毛利元就卿伝」によれば
然るに周防の徳地・富海・富田方面においては、遂に強力なる大内氏残党の蜂起を見るに至った。これに対し大内氏の降将にして周防切山保の豪族たる波多野彦左衛門尉勝美は、兵を率いて防府の西北に聳える右田嶽に籠城し徳地方面の一揆を防いだ。
と記されている。
切山村は切山保といい鷲頭庄に属し鷲頭氏の治下にあり、ついで陶氏となった。これについては享禄四年十月廿八日(一五三一)付で、波多野勝兼より勝実への譲状があり、陶晴賢の証文がある。
養父勝兼給地周防国都濃郡切山保内二十石地事、任去享禄四年十月廿八日譲状之旨、被成跡目御判候事
波多野勝美は勲功により、陶氏よりすでに二十石の地を領していたと思われる。その後前記の如く毛利氏に降り、右田城の戦で毛利氏に勲功をたてている。
去春再乱之砌、於蓮花山敵動之時、毎度被遂馳走之由、慥令承知候、神妙馳走之至祝着候、重畳可申候、猶粟屋弥兵可令申候、恐々謹言
弘治二年九月十日 隆元 御判
波多野彦左衛門尉殿
陶氏に叛して毛利氏に降り戦功をたてた波多野氏には、多大な論功行賞が行われたと思われるが、波多野家は『譜録』にみられる波多野勝兼家以外には見当たらない。この波多野家は、熊毛郡塩田村に移っていることが『譜録』によって知られるだけである。
慶長十二年(一六〇七)から同十五年にかけて、防長両国の総検地が行われた。いわゆる慶長検地である。検地奉行は三井但馬・蔵田与三兵衛であったので、三井・蔵田検地ともよばれている。これによって領内郡村の実態をつかみ、財政経済の基盤を確認することができたのである。
次に慶長検地に記されている切山村の村勢について記そう。
切山村
総石高九百三十九石七斗二升一合
内
田数 六十二町一反二畝十歩
米 八百三十七石五斗一升
畠数 二十一町二反三畝二十歩
米 七十八石三斗五升
百姓屋敷 六十八軒 二町五反九畝
米 二十二石四斗五升
小成物 一石四斗一升一合
これを表(慶長検地)にしてみると
切山村 |
一戸平均 | 一戸平均 | 一反 | 一戸平均 | 一戸平均 | 一畝 | 一戸平均 | 一戸平均 | 百姓屋敷 |
田反数 | 田石数 | 田生産高 | 畠反数 | 畠石数 | 畠生産高 | 屋敷坪数 | 小成物 | |
九反 | 一六石 | 一石三 | 二反 | 一石 | 五升四 | 八畝八 | 四升 | 六八軒 |
一一〇 | 五五二 | 九〇九 | 六〇九 |
慶長五年(一六〇〇)十月、関ケ原の合戦に敗れた毛利家は、中国八ケ国から防長二ケ国に減封された。元和三年(一六一七)四月、毛利就隆は父輝元より高三万一四七三石を分与されて一家をたてた。その領域は、切山村・山田村・河内村等二六ケ村にわたっていた。その領域に山村が多いのを不服として、就隆は元和七年(一六二一)十二月、父に請うて切山村等九ケ村石高一万五八五九石余を宗藩に返し、福川・富田等石高一万五四五七石余を得たのである。この時から、切山村は宗藩となり明治維新まで続いた。山田村・河内村は、始めより就隆の所領であった。
この慶長検地を初回とし、その後三回の検地が実施される。慶長検地は防長両国の財政・経済の基盤となった。
この『慶長検地』は毛利家の最初の実測検地であった。当時の農民にとっては、実測されることは大変なショックであったであろう。地積を実際に測定して反別・石高を記し、茶・桑・楮等にいたるまで調べたのである。
右表のように、一反の田の出来高は一、三石前後で三俵程になる。現在切山の村人の話によれば今は六俵前後という。現在の半分と考えるとよい。二、三百年前の農業は、堆肥を十分にほどこし、土壌の深耕等の作業を主体にしていたが、今は農薬・金肥など十分に使い、農業技術も格段に発達しているので、一反に倍の収穫があるのは当然であろう。
慶長検地より約十五年後にできた寛永二年(一六二五)の寛永検地を記そう。
切山村
一高千百七十五石二斗二升二合
内
田数 五十七町五段五畝二十歩
米 千四十二石八斗四合
畠数 十八町四段七畝二十歩
米 百一石三斗九升五合
屋敷 六十三ケ所 二町七段一畝二十歩
米 二十九石五斗八升一合
小成物 米 一石五斗四升二合
この寛永検地は実際の検地ではなく、過去四ケ年の平均貢租額を申告させ、租率を五つ成に下げて、その五つ成の租額が以前の七つ三歩成の租額に見合うように石高を算定したという。藩は検地の完了とともに、給人知行地の総入れ替えを断行したのである。
寛永三年(一六二六)に行われた給領地所替えについては、寛永三年給領御配郡別石高名付附立によれば
切山村
一高千百七十五石三斗二升二合
内 熊野藤兵衛村一紙石辻
五百石 繁沢監物
六百石 草刈対馬
七十五石三斗二升二合
木原左近先地
と記され、切山村には繁沢・草刈・木原三氏の給領地となり、山田・河内村は毛利日向守即ち徳山毛利の藩地になっている。
繁沢監物については、譜録によれば阿川毛利家元次の次男に当たる。
過年毛利飛彈守元景、為証人江戸差上、数年在府罷被下候、新知五百石被下置之、御近習御奉公仕候事、元和七年(一六二一)九月七日被任監物
草刈対馬については『譜録』に
寛永二年(一六二五)八月十三日領地所替被仰付、改長州大津郡三隅、於防州都濃郡切山賜領也
長州三隅者重継以来領地也、故頻還賜官許其事漸返旧領之半、自是長州三隅与防州切山両所領知之
なお、草刈対馬の妻は、繁沢監物の妹にあたっている。
木原左近については不明である。後日に譲りたい。
日向様は、毛利日向守就隆で徳山藩主である。
次は『地下上申』について述べるが、これは享保年間から宝暦年間にわたり、萩本藩が本藩・支藩の全領域の村庄屋から差出させた、村絵図を含む統一的村明細帳の総称である。藩内での村の歴史を調べるときは、必ず先ず第一に本書を調べるものである。
切山村(地下上申)
田畠惣高千五百三十一石八斗四升一合
千二百六十六石九斗六升 御蔵入
田 千百一石一斗三升六合
畠 百六十五石七斗七升
二百六十四石九斗三升五合
右草刈三左衛門殿知行所高山ニ有之
田 二百十石七斗九升三合
畠 五十四石一斗四升二合
外ニ
高二斗六升
右秀岳院開作之分
田畠五町六反余
右草刈三左衛門殿開作場取之分
前記の寛永三年(一六二六)の給領石高に記されていた繁沢監物・木原左近については記されていないが、これは所替になったと思われる。また草刈氏の領地が半減しているのは、前記の通り長門三隅に所領を得たためであろう。
切山村(地下上申) |
一戸平均 | 一戸平均 | 軒数 | 人数 | 一戸平均 | 本軒 | 半軒 | 四半軒 | 門男 | 牛馬数 | 一戸平均 | |
田石数 | 畠石数 | 人数 | 牛馬数 | ||||||||
御蔵入 | 七石七五 | 一石一六 | 軒 | 人 | 人 | 二〇 | 一九 | 一六 | 八七 | 匹 | 匹 |
一四二 | 三九一 | 二・七五 | 五八 | 〇・四 | |||||||
草刈家 | 八石七八 | 二石二五 | 軒 | 人 | 人 | 四 | 四 | 〇 | 一六 | 匹 | 匹 |
二四 | 一一三 | 四・七〇 | 一五 | 〇・六 |
なお、秀岳院とは毛利元就公の兄興元公で、永正十三年(一五一六)逝去されている。公の法名は秀岳院と号し、のち秀岳院の一寺が追善のため建立された。
これによって気付くことは、切山村(本藩の御蔵入)の人口が特に少ないことである。また、切山村は本軒の数が少なく、門男の数が多いことである。これは貧富の差のはげしいことをあらわしている。しかし、一戸平均石高は各村ともほぼ同じであることを知れば、村として何か原因があるのであろう。
また、他の村は本軒と門男の二階層であるが、切山村は本軒・半軒・四半軒・門男と細分化している。これは、階級の差がはげしかったことを意味すると思う。
『地下上申』から八九年後、天保十二年(一八四一)頃に出た『風土注進案』は、本藩のみで支藩がないことは残念である。この注進案の切山村の記事を表にしてみると
切山村(一)(風土注進案) |
田町数 | 田石数 | 一戸平均 | 一戸平均 | 畠町数 | 畠石数 | 一戸平均 | 一戸平均 | 田一反 | 畠一反 |
田町数 | 田石数 | 畠町数 | 畠石数 | 出来高 | 出来高 | ||||
六六町 | 一〇三八石 | 三反 | 七石 | 三九町 | 二五六石 | 二反 | 一石 | 一石 | 六斗四 |
二三一七 | 一九一 | 九二五 | 八八〇 | 八三一二 | 二〇六 | 三二九 | 五四三 | 九七 |
切山村(二) |
家戸数 | 総人数 | 一戸平均 | 本軒 | 七歩 | 半軒 | 二歩 | 門男 | 牛馬 | 一戸平均 |
人数 | 五朱軒 | 五朱軒 | 総数 | 牛馬数 | |||||
一六六 | 六三五人 | 三・八人 | 一五 | 五 | 六 | 三五 | 八五 | 一四五匹 | 〇・八七匹 |
男 三三六 | |||||||||
女 二九六 |
この表で気付くことは、農民の階層に七歩五朱軒が加わっていることである。これは『地下上申』時代よりもさらに階級細分化が進んだことをあらわすように思う。
『風土注進案』後四四年たって、明治十八年に『山口県地誌原稿』ができた。この間に明治維新があり政治・経済あらゆる面に大変動が行われた。
地誌原稿の当時を、表によって考えてみよう。
切山村(山口県地誌原稿、明治十八年) |
田町数 | 一戸平均 | 畠町数 | 一戸平均 | 宅地町数 | 一戸平均 | 山林原野 | 一戸平均 | 戸数 | 人数 | 一戸平均 | 牛馬数 | 一戸平均 |
田町数 | 畠町数 | 宅地数 | 町数 | 原野数 | 人数 | 牛馬数 | ||||||
六六町 | 三反 | 三四町 | 一反 | 三町 | 一畝 | 一四二町 | 七反 | 戸 | 人 | 人 | 匹 | 匹 |
二三二九 | 五一九 | 六四一 | 八一七 | 八二七 | 一九歩 | 二一歩 | 八一六 | 一八六 | 七八三 | 四・二〇 | 一六六 | 〇・八九 |
次に切山村の現況(昭和六十年十月下松市役所調)について述べよう。
田地数 | 畠地数 | 宅地数 | 戸数 | 人口数 | 牛馬数 | 一戸平均 | 一戸平均 | 一戸平均 | 一戸平均 | 一戸平均 |
田面積 | 畠面積 | 宅地面積 | 人数 | 牛馬数 | ||||||
六九町 | 二一町 | 一三町 | 二七二戸 | 九二〇人 | 八七匹 | 二反 | 七畝二五 | 五畝一八 | 三・三人 | 〇・三一匹 |
八八四 | 一二八五 | 二八一一 | 五二〇 |
切山の字名(これらの字名(あざな)はこの書が書かれた時代から使われていたのである。) |
地下上申 | 風土注進案 | 山口県大小区 | 切山村 | 土井 |
寛延二年(一七四九) | 天保十二年(一八四一) | 村名明細書 | 芋迫 | 栗ヶ迫 |
切山村 | 切山村 | 明治八年 | 長尾 | 蓮ヶ迫 |
妹背村 | 添谷 | 第七大区 | 妙ヶ迫 | 岡畠 |
中村 | 上ヶ原 | 第一小区都ノ郡 | 鳴滝 | 羽山 |
大原村 | 高山 | 内 | 梅ノ木原 | 久保 |
上ヶ原村 | 仮畑 | 三ヶ村 | 屋弥ノ内 | 向ヶ迫 |
高山村 | 大原 | 山口県地誌原稿 | 二ノ瀬 | 弥ヶ迫 |
添谷村 | 宮ノ前 | 明治十八年 | 帯田 | 七日町 |
甲か垰 | 長迫 | 棚迫 | 沖田 | |
馬場 | 棚田 | 山口県風土誌 | 観音堂 | 上後迫 |
長尾 | 柳ヶ坪 | 明治三十四年 | 大道 | 小新川 |
宮ノ前 | 大西 | 切山村(キリヤマムラ) | 童子ヶ浴 | 正ノ坪 |
北迫 | 二ノ瀬 | 大原(オオバラ) | 砂子田 | 水木ヶ迫 |
光時 | 甲ヶ垰 | 住吉(スミヨシ) | 妹背 | 上二本木 |
御堂浴 | 古川 | 長迫(ナガサコ) | 沓ぬき | 二本木 |
樋迫 | 妹背 | 川尻(カハシリ) | 山ノ神 | 棚田 |
伊生丸 | 郷田(ゴウデン) | 屋根ノ内 | 五反田 | |
太郎丸 | 假畑(カリハタ) | 井手ノ上 | 古川 | |
石風呂(イシブロ) | 西河内 | 膳無 |
四郎丸 | 中郷(ナカガウ) | 小深 | 神田 | |
六郎丸 | 芋が迫(イモガサコ) | 迫 | 樋ノ口 | |
宮本(ミヤモト) | 竹ノ下 | 束大原 | ||
佃(ツクダ) | 橋ノ本 | 加屋ノ木 | ||
大神田(オオジンデン) | 吉原給 | 手張 | ||
棚田(タナダ) | 畑ヶ迫 | 川尻 | ||
五反田(ゴタンダ) | 灯屋 | 地秋 | ||
迫(サコ) | 秋地 | 北長迫 | ||
四郎丸(シロウマル) | 茶ノ本 | 菅ヶ谷 | ||
宮地(ミヤヂ) | 宮ノ脇 | 東田 | ||
相河内(アイガワチ) | 後迫 | 平原 | ||
垰市(タオイチ) | 三反田 | 湯免 | ||
沖田(オキダ) | 魚ノ湯 | 丸山 | ||
弥が迫(イヤガサコ) | 大神田 | 木戸口 | ||
山ノ神(ヤマノガミ) | 北連角 | 御堂 | ||
下郷(シモガウ) | 佃 | 又良 | ||
古川(フルカワ) | 中ノ坪 | 狭間 | ||
砂入(スナイリ) | 長迫 | そり田 | ||
出店(デミセ) | 畠田 | 川久保 | ||
妹背(イモセ) | 岩ヶ迫 | 西大原 | ||
岡河内(オカカハチ) | 窪ふた | 大原 |
羽山(ハヤマ) | 上石風呂 | えこ畠 | ||
光時(ミツトキ) | 下石風呂 | 五郎丸 | ||
二ノ瀬(ニノセ) | 空山 | 西光明寺 | ||
棚迫(タナザコ) | 東仮畑 | 高山 | ||
帯田(オビタ) | 仮田 | 原畠 | ||
長尾(ナガヲ) | 奥ヶ迫 | 西川久保 | ||
西ガ浴(ニシガエキ) | 明光田 | 火の迫 | ||
柳が坪(ヤナガツボ) | 東上ノ原 | 大年 | ||
坂ノ本(サカノモト) | 弥ヶ垰 | 権田 | ||
坪ノ本(ツボノモト) | 正反田 | 神ヶ崎 | ||
松ノ前(マツノマヘ) | 上ノ原 | 上帯田 | ||
向鳶ノ毛(ムカヒトビノケ) | 黒畠 | 土用迫 | ||
長尾(ナガヲ) | 立畠 | さやの森 | ||
大西(オホニシ) | 箒ヶ谷 | 北野 | ||
桂坊(カツラバウ) | 空上ノ原 | 北迫 | ||
上ガ原(ウヘガハラ) | 石惣迫 | 原信 | ||
古庵(フルリョウ) | 堤本 | 宮地 | ||
明光田(ミヨウコウダ) | 蔵ノ前 | 下松尾 | ||
高山(タカヤマ) | 東光明寺 | 坪ノ本 | ||
光明寺(クオウミヨウジ) | 五反田 | 越藤 | ||
神ガ崎(シンガサキ) | 松尾 | 垰畠 |
伊生丸(イシヨウマル) | 光時 | ちさの木 | ||
松尾(マツヲ) | 氏ノ本 | 下柳ヶ坪 | ||
権田(ゴンダ) | 茄子ヶ浴 | 大崩 | ||
火ノ迫(ヒノサコ) | 森ヶ後 | 西柳ヶ坪 | ||
原ノ奥(ハラノオク) | 鳶ノ毛 | 上柳ヶ坪 | ||
横深(ヨコフケ) | 西長迫 | 上長尾 | ||
添谷(ソヒダニ) | 番定給 | 西横深 | ||
芳ガ浴(ヨシガエキ) | 梅ノ木迫 | 五郎次郎 | ||
東河内(ヒガシカハチ) | 松ノ前 | 上五郎次郎 | ||
大清水(オホシミズ) | 上桂坊 | 龍ノ口 | ||
岩川(イハカワ) | 下桂坊 | 芳ノ浴 | ||
空田(ソラタ) | 草ヶ迫 | 佐屋ノ本 | ||
長迫(ナガサコ) | 森金 | 潜り岩 | ||
岡畑(オカハタ) | にかい | 洗川 | ||
潜岩(クグリイハ) | 伊正丸 | 手川 | ||
龍ヶ迫 | 堂ノ木 | |||
九文 | 山崎 | |||
中長尾 | 瀧村 | |||
大西 | 瀧畑 | |||
赤羽根 | 上田 | |||
大桐岡 | 空田 |
小竹 | ||||
岡畑 | ||||
谷村 | ||||
大迫 | ||||
小野 | ||||
森ヶ浴 | ||||
東河内 | ||||
家ノ前 | ||||
風呂ヶ迫 | ||||
源太河内 | ||||
垰ノ前 | ||||
岩川 | ||||
半田 | ||||
上舟木 | ||||
舟木 | ||||
浅ヶ迫 |
切山村の地名しらべ
古書類(地下上申・風土注進案)にある切山の地名伝説
切山 妹背 前述参照
中村 村の中程にあたる故
大原 広き野原の意
上ケ原 高き所の意
高山 高い山ある故
添谷 高山に添った谷の意
馬場 氏神が御神幸になる所
宮ノ前 氏神の前にあたる所
光時 往古九州侍大木主計と申浪人光時と名乗り屋敷した故
御堂浴 以前此所に寺があった故
腰掛石 往古、厳島明神大原村の小川にて腰をかけられ足を洗われし故
烏帽子岩 右の石の傍に烏帽子を掛け置かれたためという
鞍掛岩 明神御馬のくらを掛候故
(以上、地下上申)
甲が峠 往昔太閤秀吉公九州御下向之節、此所江御本陣止メ玉ひ、切山と言地名御称美被遊、軍陣にては切と言事吉瑞なり迚、当所之氏神八幡宮を御拝被成候由、夫より甲ケ峠と呼来り候。
(風土注進案)
(私見を述べると、甲が峠は越が峠からでているのではあるまいか、越が浜→鯉が浜、越し路→こい路になったと同じように思う。越が峠(こしがたお)から越か峠(こうかたお)、甲峠(こうがたお)となったのではあるまいか。)
伊生丸 太郎丸 四郎丸 六郎丸
往古、高山と申所に、当村の地頭職光井亀千代と申人居住致居を便り、九州の浪人大木主計光時来る。
大木之子供有りその居住地に地名とする。
(風土注進案)
切山村地名の読解
あかはね アカはアクタの転で「湿地」の意 ハネは「粘土質の土地」
あき アキはアクで湿地 アゲの転で「高所」又は「崖」
あさ アサはアズ(崩崖)に通じ「崖」の意
あらい 川筋の変化により新たに流路となった地 イは「井」の意 荒れ川とも考えられる
いか けわしい山などにイカのつく地名がよくみられる イカは角ばっているさま いかめしいさまを意味する
いわのさこ けわしい山の谷間
いしゐ 石の多い川 その水辺
いや 古語イヨヤカには「高く聳える地」という意味がある 美称「弥」(イヤ)
いも イモはウモの転で「土砂などで埋もれた川」あるいは「今川」の転で「新しく流れの変った川」の意か、「斎の川」で「斎戒地の川」という説あり
うえふなき 上の「舟型の窪地」
えご 小さい谷(湧水ある湿地)
おび 細長い地
おほはら 大きな原 何か特定の意味を持つ重要な原をさしていることもある
おほみづ オホは美称 ミヅとは湿地 川沿いの地
かりしま カリは山裾の草地 山畑焼畑 又は崖崩壊地 カリは刈ル切リ 切り取られたような畑
かりはた 「カリ」は切などと同じで「崩崖」を示し「崩壊しているところの畑」の意
かや カは上を意味する ヤは野 湿地
かはしり 川の最下流部でとくに年々土砂が堆積され新たに開拓された地の意
かや カは「上」の意 ヤは野
かむた 神社の維持のために当てられた郡 郷
きりやま キリ(断)は崖で崖のある山 又はキリは「限」の意で山の端を示した地名 開墾地 焼畑 霧
くつぬき クツは口 崩れ 崩壊地 ヌキは崖地崩壊地
くり えぐられたような地形 川などの屈曲した地
くさ 湿地 崖地 草
くら 谷や崖
さこ 九州各地で谷のことをいう 語源は「裂ク(さく)」「狭処(さこ)」に出ず
さや サは接頭語 ヤは湿地 「騒ぐ」に由来する地名から命名されたものか 「崖などの障害物がある土地」の意か
すが 州処 河岸砂丘をさす語 神聖な場所ですがすがしいところ
そり 焼畑
そえ 支配する 沿っている 「荒ビ」の約で荒川の意とも考えられる そえ谷は荒びた川の意か
たかやま 高い山にある集落 山の幸(生産物)のある場所 ヤマはまた墳墓の意
たけ 高 嵩 崖
たて タテ タツは台地 小丘陵
たき 断崖 瀧 急流 台地
ちや チ(千)ヤ(谷)で多くの湿地の意
つくだ 中世領主の直轄田 ツクは断崖 急傾斜地 ダは田
てはり テはトの転で「突出し高くなったところ」の称で高地 ハリは開墾地
とびのけ トビは崩れ地の称 ケは「崩崖」「草木をいう」
なかを 中の意 国の中心部や河川の間の地を指す例が多い。谷などが長く入りこんでいる地 ヲは丘で高地をいう
なす 平坦地
はし 川沿の地 丘の端
はち ハシの転 崖などという
ひ 水路
ふる 朝鮮語で「集落」を意味する語からきたという説が支配的だが「古くから開けた地」という意 地形地名としては「降る」の意で「崖地」の意
ふなき 舟木を伐採するのを業とした品部であろう フナのつく地名は舟型の形 キは場所を示す接尾語
ほほき 湿地
みやぢ 宮のある土地 自然の地名とすればミは美称あるいは水 ヤチは湿地のことで谷間の湿地
みき ミは接頭語 キは湿地
よしはら ヨシは美祢 原には山間の小平坦地 芦の茂った湿原
(昭六〇・一二、二二輯)

下松市大字切山小字綜合図