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8 旧豊井村の地名の研究

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 地名によって下松の歴史を少しでも解明することができればと考え、地名の研究をはじめた。幸に下松のうち徳山藩領であった村々には、慶長十五年(一六一〇)の検地帳が徳山毛利家文庫として山口県文書館に所蔵されている。この検地帳に豊井村の地名が詳細に記されているのであって、これが史料としては最も古い。慶長五年(一六〇〇)にも検地されているが、慶長五年御朱印兼重和泉・蔵田與三郎検見帳には、ただ「高千百四十一石三合 豊井保」と記され、詳しい地名は記されていない。
 「慶長十五年防州都濃郡豊井村打渡坪付」には、「地名(穂ノ木)・反別・石高・作人」が数百件、次のような書式で列記されている。
   豊井御蔵入
  岩崎ミそ挾(はさみ)
   畠五畝十歩    米二斗六升  (下松ノ)三十郎
  同所ミそハサミ
   畠一反一畝十歩  米七斗    (土居ノ)二郎三郎
  同所
   畠四畝十歩    米二斗    おいち
このようにして約百六十余の地名(穂ノ木)が列記されている。まさしく地名の宝庫である。ここには、大字・小字の区別は記されていない。正確に大字・小字が分けてあるのは、明治初年に書かれた『山口県大小区村名明細書』である。
 慶長十五年の検地帳の数多くの地名により考察するに、地名は自然の地形、動植物名等によってつけられたというが
地形語には
  迫 サコ
   池迫 後迫 江迫 西迫 奥迫 風呂迫 鞍間迫 一ノ迫 四ノ迫 そうか迫
  もと
   桐の木の本 さやの本 いけのもと とりいのもと はりもと 石のもと ふちのもと 岡本 押もと
  塩入
   磯地塩入 国久塩入 磯ふに塩入 田久塩入 塩入
  河原
   河原 土居河原 こいかわら
  口
   小河口 江口 松口 きれ口 みな口
  上下
   井ノ上 ひの上 堂の上 岡の下 城の下
  山
   行山 陰山 片山 竹山 尾尻山
  田
   下山田 つく田 河原田 山ノ田 神真田 神田 大ノ田 堤田 大田 はつ田 仏借田 畠田 さこ田 熊かわ田
   ふしや田 中ノ田 三町田
動植物名によるものは
  植物
   なつめ 桐の木 柳 叶松 竹山 松かつら 赤松川 せうぶが浴
  動物
   狐のせ
自然的な物象以外で人為的なものによるものとしては
  堤
   石丸堤 内堤 丸毛堤 中堤 現堤 神田堤 小堤 外堤
  垣内
   原垣内 外垣内 堤垣内 三蔵垣内 花垣内 とうねん垣内 酒や垣内 南垣内 又二郎垣内 近藤垣内
  免
   地神免 たう免 かねつき免 そう免 大とし免 湯めん あん免 阿弥陀免
  坪
   一の坪 大坪 八反か坪
  神仏
   神田 神真田 仏借田
大体以上のように分類してみた。
 植物に関しては、松・竹・柳・桐・なつめ・せうぶがあげられる。叶松とあるは、尊星降臨の松と思われるが、何か降臨の伝説にまつわる下松の地名の問題にも関係があるように思われる。
 動物には、狐があげられていることが多い。狐に関する民話はよく聞くところであるが、話ほどに狐も出ていなかったと思われる。
 また、これらの地名により、当時の田畠の形成等も知ることができる。殊に当地域に目立つ点は、塩入・堤の地名である。塩入は、海岸沿いの地所が造成されたことを表わしていよう。堤は堰堤を意味しており、河原・海浜に土手を築き田畠を造成したもので、現在も下松駅裏には堤の字名が多く残っている。
 また、田のつく地名の多いのも、開墾開作による田が多かったものと思われる。
 垣内の地名が多いのも、一つの特色であろう。土豪や小豪族部落が散在していたと思われる。この垣内の地名は、後述の明治二十年の地名表には一つも存在していないが、これは垣内の中心となっていた土豪が勢力を失い、または小豪族部落は周りの村落が大きくなったため、その中に吸収されたためかと思う。
 垣内・免・坪の地名は古い時代のもので、鏡味氏『日本の地名』によれば、垣内の地名の日本における大部分の形成は、紀元三〇〇~六〇〇年頃といっているところより考えれば、この地区は古くから開け、したがって古い時代の地名が豊富に残っているものと思う。
 この慶長十五年(一六一〇)の検地以後、寛永二年・元禄十二年に検地が行われた。
  寛永二年(一六二五)坪付帳
   二千六百九十七石八斗二升    豊井保
  元禄十二年(一六九九)周防国郷帳
   高千五百四十九石九斗四升四合  豊井村
と記され、地名もあげられている。これについては後述しよう。
 寛保元年(一七四一)に庄屋より藩に出した「東豊井村由来付立」いわゆる『地下上申』には、東豊井村の由来を記し、小村小名寄として
 寺迫 岡ノ尾 繁畠 原 中豊井 鯉ケ浜 中川原町 (片山 下り口)
を記し由来をあげている。
 同じく寛保元年に庄屋より藩に出された「西豊井村石高付由来書」には西豊井村の由来が記され、小村名寄として
 中市 東市 新町 柳村 土井村 能行村 東光寺 法蓮寺 殿ケ浴 せうち 田中 熊 奥迫
があげてある。ついで明治六年に『山口県大小区村名明細書』がつくられ、大字・小字・穂ノ木にいたるまで整然と詳しく記されており、豊井村の地名を全部集大成していると思う。
 明治二十年に作製された『字限地引絵図』には、地図と地名が記され、現在も土地台帳として下松市役所に保存されている。
 この現在の字名を『慶長検地帳』の地名と比べてみると、地名の変わっているのに驚くのである。同じなのは次の地名である。
 熊 吉敷 夏目 一の坪 大鳴瀧 岩崎 河原 樋の上 赤松川 地極谷 魚辺 内堤 岡ノ下 柳 古川 陰山 黒町
 江口 外堤 塩入 松口 尾尻山 天王
なお、この中で『慶長検地帳』には、くま よしき なつめ 大なるたけ ひの上 ぢごく谷 いおうがへり、と仮名で書かれている。
 この明治二十年の『字限地引絵図』は分間図(ブンケンズ)とよばれている。これは一間を一分に縮尺して測量された地図の意である。この分間図の地名を分類してみると
 浜
  上恋ケ浜 下恋ケ浜 西浜 長浜 宮浜 歌ケ浜 浜河内
 開作
  喜重屋 重本屋 山崎屋 恵宝屋 三谷屋 村重屋 俵屋
 町
  黒町 新町 本町 東町 室町 浦町 中島町
 迫
  鞍間迫 一ノ迫 四ノ迫 寺迫 暮迫 出迫 奥迫
 田
  百田 浜田 堤田 所田 寺田 下山田
 畠
  寺畠 大畠 免本畠
 寺
  万福寺 海善寺 法蓮寺 東光寺
 堤
  外堤 神田堤 丸堤 内堤
 免
  夕免 安免 蔵免
この現在の地名と『慶長検地帳』の地名とを比べてみると、浜・開作の地名が多くなり、海浜の開作が次第に行われたことが分かる。堤の地名が少なくなったのも、開発されて昔の面影もなく田畠に変わったためかと思われる。また町名が多くなったのも、商業がおこりそのため商家が集まり、町をつくるにいたったと思う。
 次に『慶長検地帳』や「現在の地名」等より考えられることについて述べてみよう。勿論これは推測にすぎない点も多いので、後日の研究をまつ次第である。
 下松の土地の形成は、鬼武利夫先生の説によれば、現在の下松の町筋は鎌倉時代(西紀一二〇〇年頃)から砂浜に集落ができ始めたように言われている。この早くから開けた砂浜と山手との中間地帯が、中世に鷲頭氏によって開発開作されたものと思う。鷲頭出作(でさく)(後の下松出作)がこれに当たるのではあるまいか。この点より土井(慶長検地帳には土居)は土堤を以て造成された土地の意で、開作地に当たると考えられる。御園生先生は、土井は「殿ケ浴にいた鷲頭氏の侍屋敷か」と言われているが、殿ケ浴と土井とは離れており、間に森崎が突出し、森崎の端は川が通じ、交通の便も悪かったと思われる。むしろ森崎より山手・殿ケ浴の近くに侍屋敷があったと思う。また、土居については、検地帳に土居河原・土居浜の地名もあるところより考えると、海浜・河原が造成されていたのである。樋の上の地名も、こうした造成地の樋門のあった地の意味であろう。
 「天之御中主神御伝下松妙見社縁記」によれば、金輪神社の社名は上繩よりつけられたものと言い、中繩は土井筋、下繩は柳道と記されている。いずれも開作に関係しているが、金輪神社も開作守護神として勧請されたものではあるまいか。また、付近に堤のついた地名が多いことも考ふべきである。
 鏡味完二著『日本の地名』の「地名の層序年表」によれば、土居の地名は一二〇〇年頃の発生と言われている。前述の下松の土地形成年代と関連して考えると興味あることである。
 現在の「花垣」の地名は『慶長検地帳』の花垣内で、花垣内の三字を二字にして花垣にしたものか。また、花は鼻=端の意で、花垣の地は昔の地勢からいっても鼻垣内と思われる。
 末武の「花岡」も、端岡から変わったものではあるまいか。華麗な八幡宮社殿や多宝塔が建立されるに及び、華岡・花岡と称されるようになったのではあるまいか。花岡八幡宮はもと豊後浴に社殿があって今の地に移されたので、長享三年(一四八九)に書かれた新八幡宮の額が現存している。この頃に移されたものと思う。当時は花岡八幡宮とはまだ言われていなかったのである。
 「花垣」も花岡と同様に、端垣の地に華麗な建物などがあったためかと思われる。即ちこの地に後述する鷲頭氏の邸宅や社寺の建物が建つに及び、花垣の地と呼ばれるようになったのではあるまいか。花垣の周りに万福寺・蔵免・天王の地名がある。「夕免」の地名は検地帳にも湯免とあるが、これは油免で、社寺の灯明料に対する免地であろう。
 「熊」の地名は検地帳には、くまとあるが、隈・曲の意で屈折して入り込んだところであることは、現在の地形からも考えられる。現在は都町という。
 「合六」は穂の木の地名を六つ合わせたという意ではないだろうか。
 「恋浜」は、正立寺の過去帳によれば小江ケ浜と書かれている。小江ケ浜から恋ケ浜となったものと思われる。これには宮の洲と当地の若い男女の悲恋の物語りの民話があって、恋の浜と言われるようになったとの伝説もあるが、後世の付会にすぎないであろう。また恋ケ浜は越ケ浜の意で、現在の光市に通ずる魚ケ辺は、相当な難所であったにちがいない。こうした難所を今から越えてゆく浜という意にもとられよう。また、次にある乗り越の地名も、難所を乗り越えてゆく地名とも考えられよう。
 「江口」の地名は小江ケ浜への口にあたっているからであろう。
 「大みどろ」は『慶長検地帳』にも出ているが、能行の下で丸堤と所田の間にある。大水泥(おおみどろ)の意で周りは開作されたが、この地はおそくまで泥沼であったのであろう。
 現在の「旗岡」の地名は昔の古戦場の地であったためといわれているが、検地帳には「はたおか」とあり、分間図には畠岡とあることから考えると、もとは畠岡であったと思われる。
 大体において、同一の土地について畠岡・旗岡等の如く自然現象によるものと、知的考証によるものとある時は、自然現象によるものの方が、地名の原形であると思う。しかし、畠岡にも耕作して畠岡となった以前の地名があったものと思う。
 「能行」は読みにくい地名のため、現在は幸町と改めている。行をギョウと読むのは呉音で、仏教の発音である。能く行ずる、と言った意であろうが、この地に清心庵と言った庵があったことを考えると、その影響であろうか。
 検地帳に出ている唯一の町名である「黒町」について考えるに、黒には=田のへり=畔の意がある。田の畔にできている町の意であろう。また、隣地をはんじようというが、これは畔上で、半上=繁昌と後世に書かれたものと思う。黒町・畔上がいずれも田の畔に関係していることが考えられるが、前には堤田がある。検地帳には堤の名のついた地名は多いが、堤田とあるのはここだけであることを考えると、古くから土手も築かれており、開作されていた田であると考えられる。また、この土手を昔より「八丁土手」と言っていた。この堤田の辺りに人家が集まり黒町・畔上となったのではあるまいか。
 検地帳に「ほうけ垣内」「宝うけ庄」の地名がある。これは同一の地名をさすと思われるが、垣内と庄とが同一に考えられたとすれば研究に値しよう。
 「豊井」の地名の起源については、下松の地名伝説と同じく『鷲頭山妙見社旧記』に記載されている。
  桂木山之麓社坊一宇御建立、閼伽井坊と号す
  此処に井あり、閼伽井と号せり、是井妙あるを以て、後世豊井と云
古代における水と住居の深い関係を考えると、海の中に孤立しているような宮の洲における清水の湧出は、この地に古代人を定着させた大きな原因となったであろう。この井の水は後世まで豊井の水として大正年間、宮の洲民が二宮町に移転するまで使用されていた。この豊井の水は、昔の宮の洲の招魂社のそばにあったという。また、この附近に有名な宮の洲古墳があったことを考えると、かなり長い間、この地に古代人は居住していたと思われる。この住民が百済渡来の鷲頭氏ではないだろうか。国指定の文化財漢式鏡を奉持して渡来した下松の始祖、優秀な民族鷲頭氏であったと思う。
 ここから鷲頭氏は陸地方面に勢力を伸張し、その基地としたところが中豊井の地と思う。そこは万福寺・正立寺(現在は真宗であるが、古くは他宗であったという)、天王本・蔵免の辺りであったのではないだろうか。そうして氏神を高志垣山(茶臼山)に〓った。高志垣山へは、昨年茶臼山ハイキングコースがつくられ、入口は大谷及び寺迫の二ケ所にある。古くは恋浜よりも登られ、三つの参道があり、他方からはほとんど登られないことによっても、豊井との深い関係が分かる。地名、天王本には祇園牛頭天王を〓る社があり、現在も中豊井の氏神として〓っている。また蔵免も、大寺院のそばにある経蔵の免地である。ここを基地にして豊井全域にわたり開発・開作をして、勢力が拡大されたとき、氏神を高志垣山より鷲頭山に移し、住居も殿ケ浴に移し、鷲頭庄全域を統治するようになったと推測するのである。勿論、論理に飛躍があり、憶測も甚しいとの批判もあると思うが、他日の参考にしたい。
 鷲頭氏の居住した地といわれる「殿ケ浴」の付近には天王森があり、寺院・経蔵等の遺跡等とも言い伝えられ、中豊井と相通ずるものがあるのも興味あることである。山口における大内氏は祇園社を〓り、大内家第一の守護神と崇敬した由『周防国山口祇園社旧記』に記されているが、鷲頭氏と祇園社尊崇の事績を考えるとき、中豊井・殿ケ浴の天王社との関係も興味のあることである。憶測すれば、鷲頭氏は豊井より青柳浦の上流にあたる舟航の便のある殿ケ浴に住居を移動したのではないだろうか。海上の便のある殿ケ浴、防衛の上よりも殿ケ浴に住居を変更したとも考えることは飛躍的な空想であろうか。
 ちなみに、管見によれば豊井の地名の初見は、『閥閲録』にある次の文書である。
  下冷泉民部少輔興豊
  可令早領知周防国都濃郡豊井郷内五十石地(波多野雅楽助跡)同所十五石地(倉波又三郎跡)等事
  右以人、所充行也者、早守先例、可全領知之状如件
   永正十六年(一五一九)九月十一日
ここに記す倉波又三郎跡は、前述の又二郎垣内にあたるのではないかと思われるが、垣内の研究に興味ある問題と思う。
 『慶長検地帳』に出てくる寺名のついた地名は、宝林寺・東光寺・源興寺・曳禅寺・西轡寺・権現堂・高源庵・清金庵がある。これは慶長年間以前にあったもので、当時はすでに廃寺となり、地名にその寺名が残っていたものと思う。
 『慶長検地帳』に寺領・寺屋敷・石高も記載され、当時現存していた寺院は普門寺・大蓮寺・西福寺・霊昌寺・妙法寺・利済庵・李西庵・地蔵堂で、この中で普門寺・大蓮寺・西福寺・妙法寺については、「下松地方史研究」で述べている。利済庵・李西庵・地蔵堂については、後代の文献にもあまり現れないため後日の研究に譲りたい。利済庵は李西庵と同庵であると考えられるが、李西庵と朝鮮名によく出る李の字が出ていることは注目すべきことと思う。
 霊松寺については『正任記』文明十年(一四七八)十月三日の条に
  自防州下松霊松寺巻数幷餅抹茶菓子等進上之被成御書了
と記されている。この霊松寺は、検地帳の霊昌寺と同一寺院と考えられる。『正任記』は、大内政弘の老重臣相良正任が、筑前博多に鎮守中の日録である。大内氏に関係の特に深い社寺が使者をつかわし、いわゆる陣中見舞を行ったことなど記されている。『正任記』の記事によれば、霊松寺並びに妙見山は、大内氏と特に関係が深い社寺であったことが分る。また下松と正しく漢字で記されているのは、この『正任記』の記事が初見である。それまでは「くだまつ」「くだ松」と記されている。しかも、霊松寺「不思議な松、神聖な松の寺」とあって、松を中心とした下松の地名と関係があるように思われ、興味ある研究課題と思う。各寺の寺領等について述べると
 霊昌寺
  寺識 二反七畝  田 一反  山畠 五畝
 普門寺
  寺識 三畝二十歩
 大蓮寺
  寺識 八畝
 西福寺
  田 六反八畝二十歩  畠 五反十歩
 妙法寺
  田 四反六畝十歩  山畠 十歩
 利済庵 (李西庵)
  田 一反四畝二十歩  山畠 一畝十歩
 地蔵堂
  田 六畝  畠 六畝二十歩
 『慶長検地帳』より約百年たって行われた寛永三年(一六二六)の検地帳によると、霊昌寺は地名となって残り、現存の寺院としてはないので、慶長・寛永年間の間に廃寺になったものと思われる。
 『寛永検地帳』の霊昌寺の地名には、屋敷一筆五畝、畠四筆二反八畝十歩(計千坪)が記されている。これは、霊昌寺の寺領であったのではあるまいか。大きな寺院であったと考えられる。
 『寛永検地帳』には、地名が約二百七十余ある。『慶長検地帳』に比べると百十余り多いのは、この時期に開発が進んだためと思う。『慶長検地帳』で問題とした堤、垣内の地名についてはあまり異同はないが、『寛永検地帳』ではほとんど垣内は仮名で「かいち」と記されている。
 豊井村が東・西豊井村と二つに分れたのは、前記の『地下上申』にみられる
  当村之儀、往古豊井村と申在所ニテ、其後庄屋二人ニ相成たる由、東西と申のよし地下人聞伝たる由ニ候事
豊井村は、石高や人口が多くなったため庄屋も二人になり、東西豊井村に分れたのである。この東西両豊井村が再び合併し、下松町と改称したのは明治三十四年三月一日である。
 今次の戦争の戦中・戦後にわたり、諸政の改新に伴い町内会の合併が行われ、したがって町名の変更が行われた。
 昭和通(八口・八丈・殿ケ浴) 都町(森崎・熊) 寺町(法蓮寺・東光寺) 相生町(大小路・桜町・柳町) 松神町(松ケ崎・神田町)
 元町(室町・東町) 高砂町(高洲・浦町)
 またこの機会に当たり、古来の町名(字名)が古風めいて読み方もむつかしく、意味も通じないので、人心一新の意から町名を変更したところもあった。
 幸町(能行) 栄町(土井) 旭町(浦町)
これらの町名(地名)の変更は、割合に簡単に行われたようである。昭和通では旧町長兼清常吉氏の発議で昭和通ときまり、都町では当時の高木・弘中両市議によって都町になったと古老は伝えている。
 当時は、次第に古くから住んでいた人よりも新しく移ってきた人の方が多くなり、地名に対する郷愁といったものもなく、一方戦時の意識も高く、町名の変更も町民の同意をたやすく得ることができたと思う。しかし、なかには旧町名を固執し、生存中は新町名は使わぬ人もいたという。
 現在の市役所の町名表によれば、大正・昭和年代に新たにできた町名は
 東海岸通(宮の洲) 双葉アパート 宮前 城山町 大手町 北斗町 昭和団地 ムツミ団地 若宮町 平和台 天王台 楠木町
 光丘 日出町 その他
である。
 現在、生存していられる住吉町武居佐吉氏に聞けば、「明治四十年頃、武居氏の青年時代に、青年団の提灯をこしらえようとして提灯屋に頼みにゆくと、八軒屋の者にはこしらえてやらぬという。当時、八軒屋は漁村で人気が悪く、他の町の者は相手にしてくれなかった。それで町当局と交渉して町名を住吉神社にちなみ、住吉町と変更してもらった。」と話された。
 現在も、そこに居住する町民の合意により、届出すれば町名は変更でき、町名を新たにつくることもできるという。
 下松市内で最初で最大の団地であった川瀬団地の名は、公募により市民より地名を募集し、多数の応募名の中より市が選んで川瀬の地名がつけられ、昭和三十六年四月一日より使われたという。当選者は当時市役所に勤めておられた清水某という。
 川瀬団地造成後は、急に造成地が各地にでき、新しく町名がつけられるようになったので、簡単に命名されるようになった。
 現在、使われている行政上の町名(土地台帳の字名ではない)が、古い『慶長検地帳』にのっている地名と同じのは次の通りである。
 恋浜 宮の洲 江口 豊井 大谷 寺迫 黒町 古川 所田 樋の上 東光寺 柳 吉敷 天王
土地台帳の小字名として、検地帳の古い地名が現在も使われているのは、次の通りである。
 大みどろ 陰山 外堤 塩入 松口 熊 なつめ 一の坪 大なるたけ 大畠 岩崎 河原 赤松川 ぢごく谷 内堤 岡の下
(昭五一・一二、第一五輯)