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1 荒神社について

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 元町にある荒神社が、妙見社境内に近く遷座されることになった。そこで今までの記録や伝説等により、社史の大略を取まとめた次第である。
 一般にこの神社は荒神社または荒神様と呼ばれているが、降松神社の記録によれば
 降松神社末社 竈社
  一 祭神 火産霊神 沖津彦神 沖津姫神
  一 由緒 古老ノ伝ニ降松町中火除祈願ニ依テ天和元年(一六八一)辛酉夏創立
  一 神殿 [一間 一間]
  一 境内 三十坪 民有地第一種名受竈社
と記されているように、正しくは社名は竈神社である。
 次に述べるように、この神社は古くから荒神社とよばれていたが、明治初年に神社名の改号が命ぜられた時、各地の荒神社は竈神社または大年社と改められたのである。この時の記録は見当たらないが、明治三年九月、妙見社が降松神社と改号された時、荒神社も竈神社と改められたものと考える。
 荒神社の社名については、寛保元年(一七四一)七月に記された御領内町方目安に
  一 東市荒神社一宇
    但北側也一丈一尺四面瓦葺尤鳥居入口ニ有之 鳥居ヨリ社迄十八間半也
と記されているが、これが私の調べたところでは、荒神社についての一番古い記録である。
 寛保元年(一七四一)十二月に、庄屋宇田伝七より藩に出された『西豊井村石高附由来書』にも
  荒神堂一ケ所   東市ニ有リ
と記されている。
 現在、社前に建てられている石の鳥居は天保三年(一八三二)の建立であるが、掲げられている石の額には荒神社と書かれている。なお鳥居に刻まれている文字を掲げると、神主村上筑後源嘉陳・世話人万屋治兵衛・万屋直吉・鞆屋伝兵衛・川口屋源左衛門・堺屋儀兵衛・世話人福田屋喜兵衛・伊豆屋喜兵衛・堺屋善兵衛・伊豆屋源左衛門・柳屋幸左衛門、また石の手洗鉢には、「安永四年(一七七五)十月 奉寄進 松島勘左衛門」とある。
 これらのほかに石の燈籠があって、正徳五(一七一五)の字がかすかに認められる。この石燈籠が荒神社に関するものでは最も古いものである。
 明治以後の記録には、すべて竈神社と記されている。『徳山略記』の御領内神社数并社坊神主之事の中に
  一 下松町竈神社旧荒神 祠堂 村上義雄
と記されている。また、明治十八年の調べによる『山口県地誌原稿』にも、竈神社と記されている。
 このように社名について考えれば、明治以前は荒神社、明治以後は竈神社と称したのである。
 創建の年代については、明治年間にできた『山口県地誌原稿』『山口県風土誌』には天和元年(一六八一)と記しているが、明治以前の記録には創建に関する記事は載っていない。なお、創建については後に述べることにしよう。
 以上は元町の荒神社の概要について述べたのであるが、次に一般の荒神社について述べてみたい。
 元来、荒神には二様あって、
 (一)は三宝荒神と称し、ほぼ全国に火除の神として信仰され、台所の釜場の上に祀られている。本来の義は仏法僧の三宝を護る荒神の義で、天台真言の修験道及び日蓮宗で祀り、広く民間において竈の神として祀られている。
 (二)は地荒神としての荒神で、竈や火と何ら関連を持たず、屋外の森や大木に祀られている。これは日本固有の荒ぶる神の思想に基づくものであろう。
 このように、荒神には二様がある。また、竈の神については古くより我が国にあって、古事記等にもすでにみえるところである。
 これらの竈の神としての三宝荒神、我が国固有の荒ぶる神としての荒神、さらに竈神信仰等が習合し、広く民間に信仰されて来たのである。
 このため荒神社の祭神としては仏教の三宝荒神、即ち毘那夜加神・歓喜天・聖天と、我が国固有の荒ぶる神、即ち素戔嗚尊・竈神、即ち火産霊神・沖津彦神・沖津姫神等が祀られているのである。
 明治初年、廃仏殿釈がとなえられ神仏分離が行われた際、荒神社は三宝荒神に由来するため改号を命ぜられたものと思う。
 元町の竈神社は、このようにして荒神社が改号したものである。祭神については、明治以後にできた記録には、火産霊神・沖津彦神・沖津姫神と記されているが、明治以前の記録には何ら記されていないのである。恐らく荒神社が竈神社と改号された時に、祭神も改められたのではあるまいか。
 元町の中村謙治氏の談によれば、曾祖母(天保年間出生)が生前に、「荒神様の御神体は下松の磯に、荒神様・毘沙門様・弁天様の三体が壺に納められて着いておられた。それを漁夫がお祀りしたものである。それで荒神様は下松のはえぬきの神様として、特に人々から崇敬されたのである」とよく話しておられたという。
 これによれば、荒神(歓喜天)・毘沙門天・弁才天の三体であったと考えられ、興味ある伝説であるが後日の研究に譲りたい。
 荒神社は後に竈神社と改号されたように、昔の荒神社と言われていた当時も、火除の神として崇ばれていたのであろう。
 天和元年(一六八一)創建説について、何か火災との関連があるのではないかと調べたが、そうしたことは特にみられなかった。しかし、当時は下松に火災が非常に多かったのであって、徳山藩史に記されている「御領内諸所御悩場処焼失之事、神社炎上之事、寺院焼失之事、地町焼失之事」から、下松(東豊井村・西豊井村)に関するものを参考までに左に掲げてみよう。
一 元禄三年(一六九〇)三月廿五日 夜下松町東方左平次より出火百十三軒焼失
一 元禄三年(一六九〇)十一月六日 下松浦町出火六十四軒焼失 御茶屋併高札場焼失
一 宝永七年(一七一〇)二月十二日 下松東市浦町より出火八十三軒焼失 浄西寺類焼
一 正徳二年(一七一二)正月七日 夜下松西市札場前より出火ニて御領中川原町二軒不残類焼、東市樋之上地方十二軒、
                中市裏家三軒焼失
一 正徳三年(一七一三)三月二十一日 朝五時下松泉所寺自火本門計残ル
一 享保十四年(一七二九)三月七日 暮過下松中ノ嶋出火二十一軒焼失
一 享保十七年(一七三二)九月十三日 暁下松本町浄西寺門前より出火百二十六軒焼失、
                  依之御救米本町向軒別一俵裏町江四半俵宛被下之
一 享保十九年(一七三四)甲寅十一月十日 夜下松町居守屋三四郎大黒屋伝左衛門両家間より出火、
                    中市南側西ノ方十六軒焼失、類焼之者江御救米半俵宛被下之
一 延享四年(一七四七)十月朔日 東豊井村慶雲寺自火
一 宝暦十二年(一七六一)三月廿八日 西豊井村泉所寺自火
一 明和七年(一七七〇)十二月二日 夜下松新町庄八後家より出火、竈数四十五軒焼失、依之御出馬有之
一 天明六年(一七八六)四月十日 夜豊井宮洲屋虎吉塩浜釜屋より出火、釜屋八軒棟数三十四軒焼失、大束千葉焼失、数量不知
一 寛政六年(一七九四)二月十四日 下松新町松屋清兵衛抱源助より出火、竈数三十一軒焼失
一 寛政八年(一七九六)九月廿七日 下松鱗祥山周慶寺寺内瓦屋長屋自火
一 文化十三年(一八一六)九月十日 東豊井村出火、二十八軒焼失
一 文政五年(一八二二)十月十三日 夜下松町竹屋与十郎抱好蔵より出火、十四軒焼失
一 文政九年(一八二六)二月朔日 夜西豊井村喜左衛門後家自火、身柄焼死
一 天保六年(一八三五)九月廿四日 暁下松周慶寺本堂より出火ニて本尊并御位牌本堂庫裡不残焼失、
                 依之追而御位牌御位替ニて御安置
一 天保九年(一八三八)四月九日 昼八時下松新町下瀬又兵衛抱貸家より出火、町方七十三軒、地方九軒焼失、住吉社炎上
以上であるが、「十軒以上大火計記之、以下ハ繁多故略之、尤御出馬有之、或ハ焼死等ハ以下ニ而も記之」と記されているように、このほかに小火事はしばしばあったものと考えられる。
 このように火事が非常に多かったため、火除の神である荒神社の信仰がさかんになったのは当然であろう。
 また、荒神社は漁業の神としても漁民の間に崇敬されていた。このことは、前述の伝説からも、祭神と漁民との深い関係が知られるのであるが、また漁民の間の荒神社信仰が、この伝説をつくりあげたとも言われるのであって、漁民の間では荒神社信仰が厚かったのである。このことは、荒神社の祭礼にもみられるのである。
 荒神様といえば喧嘩祭を思い出すほど、荒神様の喧嘩祭は有名である。これは荒神社の夏祭であって、喧嘩は漁民を中心に行われ、喧嘩をはげしくすれば、沖の波は静まり、魚はたくさんとれると言われていた。
 喧嘩祭について、古老の話をまとめて記しておこう。
 夏祭は五月廿七、廿八日で、廿八日にお神輿御巡幸があって、やぐら太鼓と、しおくみが出ていた。しおくみは浦町を中心として、高洲・新地・中村・中市が加勢していた。やぐら太鼓は新町が中心となり、室町・松ケ崎・二軒屋・八軒屋それに西市が加勢していたという。西市に加勢を求めたのは、西市にはシガ(魚をかついで奥地に売りにゆく人)が多いので肩が強く、新町は漁撈を主としていたので、肩が弱いためであると言われていた。浦町はシガもおり、漁撈もしていたのである。
 また、この喧嘩は、新旧町内の争いともみられる。しおくみ組は浦町・中市等古いもとからある町内であり、やぐら太鼓組は新町・二軒屋等新しく発展してできた町内である。こうして一年に一度、下松町内が二分されての争であるこの夏祭の喧嘩は、非常にはげしいもので、終りには屋根瓦をはいで投げあう有様であった。下松警察署は近隣の警察署の応援を得て警戒に当たっていたという。遂に明治三十年頃に警察署よりやめさせられたのである。この喧嘩の夏祭がやめられ学校の運動会が警察署のすすめにより始まったと古老は話している。
 また、この喧嘩ははげしいほど、神様は喜ばれ波も静まり漁獲も多いと言われていたそうであるが、ここに荒ぶる神といった神性がうかがわれるのである。
 寺院沿革史ですでに述べたが、下松の町は切戸川の川口地域に起り、ついで周慶寺を中心として東市・中市・西市となったように思う。ついで久保・八代の奥地を結ぶ大小路が開け、一方笠戸本浦・深浦を結ぶ港に通ずる荒神小路が開かれ、また新町以東が漸次発展するに及び、町の中心は中市より東市に移り、東市が繁栄するにいたったのである。そのため、東市は東町と本町とに分かれたものと思う。本町は、本の町=中心の町の意であろう。当時、町の本通りの道路より海へ出る道は、荒神小路だけであった。しかも荒神小路の道幅は、昔も今も変わらなかったそうであるが、道幅の広さをみても、当時のこの小路の交通量が分かり、荒神社付近の繁栄を知ることができよう(昔は大小路は浦町までで終り、海には通じていなかった)。
 現在の笠戸本浦はすべて、荒神社の横の浄西寺の門徒である。これは交通上の関係によるものと考えられ、当時の下松と笠戸本浦との交通路を知ることができる。
 なお、この荒神社についての多くの人々の言い伝えに、この荒神社は大変祟りのひどい神様で、昔社殿の修築のため御神体を一時他に遷座したが、その時浦町に火事が起り、神罰覿面で人々が恐れをなしたという。
 以上で、元町の荒神社についての私の貧弱な研究を終ることとしたい。
 次に、市内の荒神社について少し述べよう。
 『地下上申』によれば恋ケ浜に荒神社がある。
  一 荒神社    鯉ケ浜ニ有
   但地下人耕作之祭神ニ仕、二季ニ作り初穂ニて祭之来候事
と記されている。これが明治年間につくられた『山口県風土誌』には
  竈神社      恋ケ浜
   祭神 沖津彦神 沖津姫神 火産霊神
と記されているが、これは明治初年に荒神社を竈神社と改号したためのものと思われる。荒神社の当時の祭神は記されていないので不明である。下松の荒神社を竈神社と改号したので、恋ケ浜の荒神社も竈神社と同様に改号したものと思われる。恋ケ浜の荒神社は、地荒神の神性が強いように思うのであって、土地の人の話によれば、昔は荒神社を祭っていた森は、祟りがあるといって一切木を切らず、大木が欝蒼として繁り、昼も暗いほどの森であったという。また、農耕の神とし、部落の神として崇敬されていたのである。
 現在は、洲屋社と合祀され降松神社末社竈社として祀られている。
 笠戸本浦の氏神笠戸神社は、昔は荒神社とよばれていた。『風土注進案』に
 荒神社 祭神 素戔嗚尊
     神殿 横九尺ニ入七尺瓦葺
     祭日 八月十八日
     社人 村上丹後
と記されている。現在の当社の記録によると
当社は往古より荒神社を以てこの地の鎮守として祟敬す。因てその付近の地名を荒神という。其勧請年月不詳なれども、寛文九年(一六六九)七月以前の創立は旧記に見ゆ。再建立は元禄二年(一六八九)十一月なり。又相殿に祭る八幡宮は、享保年中の勧請である。以来明治四年十二月、その荒神社八幡宮を合併し笠戸神社と改称す。明治六年九月村社に列せられ、大正八年九月維持法確立して今日に至る。
 祭神 大年神 奥津彦神 奥津姫神
    須佐之男命 誉田別尊 気長足姫命
    三女神(田心姫命 多岐都姫命 伊杵島姫命)
 境内神社 荒神社 須佐之男命
      稲荷社 倉稲魂命
と記されている。このように荒神社が改称され、笠戸神社となったのである。また、ここでは荒神社は鎮守の神として崇敬されていたのであるが、地荒神から発展し、荒ぶる神素戔嗚尊を祀ったものと思う。
 末武川の下流、荒神山にあった荒神社は、末武川を一名荒神川とよんでいるように、古来よりその名は知られていた。
 『風土注進案』によれば
荒神社 下高力村荒神御立山ニ有之
    神素戔嗚尊
 祭神 素戔嗚尊    神主  村上丹後
    速素戔嗚尊
  但神殿桁行五尺梁行九尺八寸、拝殿桁行二間梁行九尺八寸惣瓦葺、御普請入目之儀は地下より相調候事、又祭日 [正月廿八日 九月廿八日]
 相殿
  祗園社
   祭神 素戔嗚尊
    祭日 六月十七日
  地神社
   祭神 埴安命
    祭日 二八月社日
  貴船社
   祭神 高靄神
    祭日 九月八日
  右三社御改革ニ付解除、荒神社相殿相成候事
と記されている。ここでも笠戸本浦の場合と同じく、荒神社の祭神を素戔嗚尊と記している。
 寛保元年(一七四一)、花岡八幡宮宮司村上采女より藩に出された『都濃郡花岡八幡宮并末社由緒事』によれば
花岡八幡宮末社
一 荒神小社
 右末武下村之内香力ニ有之、旧記縁起無御座候、正月廿八日・九月廿八日五穀成就牛馬息災為祈禱之、湯立神楽等地下より相調来候、社九尺ニ二間半地下より修補仕来候事
と記されている。明治年間につくられた『山口県風土誌』には
大歳神社 末武中村の香力
 祭神 大年神 奥津彦神 奥津姫神
  所蔵
  一 棟札 五枚 (享保三年(一七一八)同八年(一七二三)二月 安永五年(一七七六)十一月 嘉永七年(一八五四)二月 以上ハ写。明治三年十一月)
  相殿
   須佐之男命(旧号荒神社、明治四年改称)
これによれば、明治四年に荒神社が大歳神社と改号され、また祭神も変っている。このことは前述したところであるが、明治初年には祭神・社名の変革がかなり行われたのである。また、元町・恋ケ浜の荒神社は竈神社と改号され、右荒神社は大歳神社と改号されたのは、祭神の神性や本社の意向によるところであろう。(後記、これは神仏分離令により荒神の称廃止)
 前述の由緒書に記されているように、荒神社は五穀成就・牛馬災息の神として崇敬されていたのである。大歳神社の祭神大年神は穀物の神であり、祭神の奥津彦神・奥津姫神は竈神である。以前の須佐之男命を祭神とした荒神社も穀物の神とし、また火除の神として崇敬されていたのであろう。
 終戦後、思想混乱し神社の整理が叫ばれた当時、大歳神社は廃社となり、花岡八幡宮に合祀されたのである。しかし、現在では再建の機運も高まっている。
 荒神の大歳神社の跡には、享保八(一七二三)卯年(他の文字は磨滅して不明)の石の鳥居が建っている。また、人々の言い伝えを記すと、この神様は荒ら神様であるから、初めは山の頂上にお祀りしてあった。ところが、沖を走る舟をとどめられるので、山の中腹にさげたところ、それでもまだ舟をとどめられるので、山の麓におろしてお祀りしたと言うことである。昔はお祭のとき、お神輿を河の中に入れ、荒ら荒らしいお祭りをしたという。
 寛保元年(一七四一)、荘屋伝左衛門より藩に出した「末武上村由来」によれば
  森壱ケ所   広石村之内
   但往古より荒神之森と申二季ニ祭り申候事
とある。右の森について、広石地区を調べたが不明である。現在、西河原にあるのをいったものではないかと思う。西河原の福円寺の西にあって、現在は森は切られ石の小堂がある前に建っている石の鳥居に
  奉寄進
  天保十一(一八四〇)庚子六月吉日 西河原氏子中
と刻まれている。毎年「泥落し」には神官を招いてお祭りをし、西河原全部落で祀っている。こうした荒神信仰は、部落で祀る地荒神としての荒神である。
 前述した屋内に祀る竈神としての荒神信仰は、特に末武上村に今も残っている。毎年各家を真言宗の行者(おんほうとよんでいる)が廻り、竈に祀る荒神様の前で読経している。これは明らかに仏教の三宝荒神である。
 寛延二年(一七四九)、庄屋弘中九郎右衛門より藩に出した「生野屋村由来書」に
  荒神宮    中村之内砂子有
   但往古より荒神にて御座候、尤二尺四寸四方堂御座候
と記されているが、砂子は中村ではなくて為弘の小字である。これが現在、砂子に祀られている沖津彦神・沖津姫神・火産霊神を祭神とする竈神社である。土地の人の話によれば、昔より生野屋の半ばは降松神社の氏子であるが、山越しで道も悪く参拝に不便なため、竈神社を降松神社の若宮、即ち遙拝所のように考えていたという。このように、鎮守の神として崇敬されていたようである。社は見晴らしのよい岡にあって、昔は相当信仰されていたと思われる。現在、石の鳥居・灯籠がある。
  鳥居 奉寄進  当村氏子中
     寛政六(一七九四)甲寅二月吉日
  灯籠 天保十三歳(一八四二)
     六月吉日 氏子中
 山田部落には、小迫と中村に現在は切られているが、昔は荒神森があって中に石の小堂が祀られていた。今も毎年、地神申(ジジンモウシ)のときは、御幣をもって荒神様に参り御幣を納めている。荒神様は地神様と同じように、土地の神様と考えている。荒神様の堂に稲穂を供え、台所の荒神様にも稲穂を供えて祀るというが、荒神様を土地の神・穀物の神として崇敬しているのである。
 また、かまどの神様であると言って台所に祀り、主人は荒神様にむかって座り食事をするが、女は荒神様にむかって食事をしてはならないと言われた。また荒い神様で、荒神様の方に尻をむけて田植えすると、おとがめがあると言われている。
 『風土注進案』によれば切山八幡宮について記し
    相殿
     虫納荒神  祭日八月九日
      祭神 [大已貴命 少彦名命]
    境内之小祠
     荒神社   祭日六月廿八日
      祭神 素戔嗚尊
      (他は略す)
  右五社御改革ニ付解除、八幡宮え相殿相成候事
 また、元文五年(一七四〇)に切山村庄屋河村惣右衛門より藩に差出した『地下上申』には
  一 同所(八幡宮)ニ荒神小社一社
   但社二間四面并神楽殿二間ニ五間
   祭礼九月九日
 古来神社の改革整理はしばしば行われ、合祀されたとあるもそれは文書の上だけで、実際には合祀されない場合が多く、また合祀されても、再び住民の願望によりもとの地に再建されたことが多く、その実例をしばしばみるのである。切山の場合もその例外ではないと思われ、虫納荒神は現在も切山宮本に祀られている。
 河村八郎氏の示教によれば、享保八年(一七二三)害虫が発生し三年間不作が続いたため、虫森様(ウジモリサマ)に石の小堂を建てて祀ったという。虫森様は各地にみられる氏森様の意で、氏を守護する神のいます森の意であろう。
 天明四年(一七八四)に再び害虫のため饑饉となったので、二間四方の堂を建て祀った。非常に参詣者も多く、特に四月八・九日の両日には社前に市がたち、大変な人出であったと伝えられている。
 河村八郎氏著『久保村郷土誌』によれば、切山八幡宮について記し
本八幡宮勧請以前は、この地に村荒神社(ムラアラジンシヤ)というあり、人皇三十二代崇峻天皇時代国に騒乱ありて守屋征伐の際、守屋一味の公家方諸遠流の時、其一人当所に久しく足止められ、村人を指導田畠を開き、老人となり遂に死亡したるものなり。村人は切山をして繁栄に向わせられたる祖人の霊を神に祭り、氏神の如く崇敬したり。然るに一間四方の建物なりし祠は、いつしか年月たちて人の崇敬も薄らぎたる。和銅にいたり八幡宮を宇佐より勧請したるものなり。
という。この村荒神社は、ムラコウジンシヤとよばれていたのが、後に切山八幡宮にかわったものと思う。やはり地荒神に属するもので、その地を守護される神の意であろう。