吉原村・八丈村に伝えられている昔からの「申し」の記録を最近見せていただいたので、「申し」について述べよう。
「申し」は、申し合う、話し合うの意である。地神は埴安命が祭神で、五穀成就・村中繁栄・害虫駆除の神で、その土地の守護神として農民にとっては大事な神である。地区民が毎年年頭に当たり祭事を行って会食し、いろいろと平素の懸案の議事を協議し、神前に申し合わせの事項の実行を誓い、また農事についてのいろいろの情報の交換をしたのである。
定日はなく、大体年明けから三月頃までに行っていた。天王社を祭神とした「天王申し」、祇園社を祭神とした「祇園申し」、いなご明神の「いなご申し」等もあり、町家には「えびす申し」もあった。
このように神事を中心とした「申し」に対し、仏事を中心とした講(こう)、お寄り講(およりこう)があった。現在下松地方で部落の隣組的組織を会合(かいごう)といっているが、これは方言で『山口県方言辞典』によれば「かいごー 部落内の隣組(徳山地方)」と記されている。これは「会し合う」の意からきている。
また『山口県方言辞典』には「申し」について「『申ーし』部落集合、『申し合せ』の意か、周防では年頭に地神祭をして、その日を『地神もうし』という。
と記されている。
吉原村の「申し」の記録の表紙に
天保元年(一八三〇)ヨリ明治四十四歳迄数八十二歳相成
と記されているが、最初に天保二年の記事があり
卯年申 当屋新五郎 脇当角右衛門外三名連名
とあるので天保二年(一八三一)より始まったと思われる。以後数年間欠げたところもあるが、現在まで続いている。
八丈村は表紙に
申構帳 明治八年正月十八日
と書かれている。構は講のことで「申し講」の意であろう。吉原村の「申し」の記録にも講と書かれたところもあった。仏教といい、神道といい、当時は神仏混淆の時代であったから、「申し」と講と同義語に使われていたところもしばしばあった。また「申し」も、神官と僧侶と共に勤めたときもあった。御初穂と書いたところも、御布施と書かれたところもあった。
吉原村の「申し帳」の内容についてみるに、首尾は大体同じで、初めに本当(ほんとう)(申しの引受)の名、つぎに脇当(わきとう)(補助役、本当は一名、脇当は現在は普通二名、多いときは七、八名もいた。その内の一名が来年度の本当になる)の名を記し、ついで当日の買物と各家からのつなぎものを記している。
天保十二年(一八四一)には「一人前のつなぎ」二十八文とある。弘化二年(一八四五)の買物は
醬油代 六分
半紙一状 四分
油一合 五分
御初穂 一匁三分
豆ふ三丁 二分三り
メ三匁三り
とあり、組人数は十三人であった。
明治八年の買物としては
二匁 御初穂
一匁一分 半紙代
八分 油代
六分 醬油代
一匁 にほし
四匁 油揚
六分 豆ふ二丁
メ十匁一分
と匁・分で記されている。明治十年(明治九年は買物控の記載なし)には
三銭六厘 御初穂
三銭五厘 あぶらげ十
三銭 とおふ十
二銭 こんにゃく十
三銭 半紙三十まへ
一銭三厘 油代
八厘 しょ油
四銭 酒代
十四ノわり 一人一銭一厘
即ち明治八年には匁・分で計算されていたが、明治十年には銭・厘になっている。以後銭・厘での計算である。これは明治四年五月に新貨条例(金本位)が定められ、新貨幣の呼称は円、銭、厘として十進一位法となり、旧貨幣の一両を一円とすることによる。これにより、旧藩紙幣(藩札)はすべて政府発行の新貨幣・紙幣に兌換されることになった。この切替えが終ったのは、明治六年十二月であった。しかし、地方ではまだそれ以降も、旧貨幣である匁・分(銀)が使用されていたのである。
また、この「申し」の帳によると、明治五年後姓名が全員記されている。それまでは名ばかりであった。これは明治三年閏十月五日に「庶民氏名許可」の令が出され、自由に苗字が使用されることになったからである。
次に各年代の買物代をあげて、時代の物価の変動について考えてみよう。
吉原村では明治元年には
一八百二十四文 御初穂
一同 三十三文 同
一同 四十八文 生酢代
一同 百六十五文 にほし
一同 十六匁 からつた
一同 五十五匁 半紙代
メ六百九十三匁
前年の慶応三年(一八六七)はメ五百三十文であった。明治維新前後は経済恐慌の時代で、インフレであった。そのため法令も発布され、貨幣の切り下げ等の経済的措置がとられたのである。このため前述の明治十年頃には物価も安定してきた。
大正時代になると大正元年十月秋祭(「申し」の語は使われていない)には
二十銭 御初穂
十銭 御神酒
十五銭 あけとうふ
三銭 半紙
十銭 醬油
五銭 にほし
メ六十三銭
昭和時代になると昭和二年二月春祭には
三十銭 御初穂
十銭 とうふ
十銭 油揚
九銭 半紙
十銭 煮干
十五銭 御神酒
計金八十四銭
次に、「申し」に関係した以外の事項についての記事をあげると
「明治四十四歳正月吉祥日 春夏秋三季祭順廻帖」
「明治四十四歳春祭ヨリ順廻シニ相定メ候事」
「大正六年丁巳春ヨリ大正十八年迄三季分本当脇番順番備忘」
「大正十一年ヨリ新記順号改メ出ス、講中連名」
など当屋の順番のことが主に書かれている。多分順番のことが問題になったからと思われる。昔は神事が自分の家で行われることを喜び、自分から自発的に申し出て行っていたが、明治四十四年より順番になった。昔は一年に三回行われていたが、現在は一回である。
次に、八丈村の記録について述べよう。八丈村では明治八年より記録が始まっている。書かれていることは大略吉原村と同じで、年月日・本当・脇当・買物代である。八丈村ではしばしばその年の米麦の価格をのせており、また最近では話し合いの主な事項をのせている。些細な話し合いは、特別に書き残すことはないという気持ちもあろうし、当時の農村にはお上(かみ)に公に知られたくない申し合わせ事項もあったであろうと思う。ただ米麦の価格がのせてあるのは、当時の農村での物価は米麦の価格で決めることが多く、田植や取入れの時の雇入れの人夫代なども、「申し」できめていたそうであるが、記録にはない。
八丈村では現在も米(麦の年もあった)二合をつないでいる。これは昔は御初穂としてお宮にあげていた。現在は御初穂は現金であげ、二合は当日の食料にしている。また、本当が酒一升出すことは昔も今も変わらない。
明治八年六月二日の「申し」には
五匁一分
内 一匁五分 とおふ
一匁 切こぶ
一匁 にほし
一匁 半紙代
六分 きうり
外に酒一升 本当仕出
同年十一月十一日の「申し」では
つなき 四厘
メ六銭八厘
一銭三厘 にほし
一銭三厘 とおふ
一銭七厘 半紙
一銭三厘 切こぶ
一銭二厘 あけ油
御神酒一升 本当買
とある。即ち明治八年前半は匁・分であったが、後半には銭・厘になっている。吉原村では明治十年から銭・厘で計算されている。このことは前述したとおり、今年から旧幣から新幣へ移ったのであろう。
また回数としては、最初は「地神申し」は年一回であったが、「春申し」、「夏申し」、「秋申し」が加わり、年四回行われたときもあった。毎回とも神職を招き、神事を行っていたようである。このことは、出費の中に御初穂料及び御幣用の半紙代が含まれていることでわかる。現在では神事を行わず、「申し」を行っているところもある。
明治十三年五月の「申し」に
米四斗五升一俵四円八十銭
麦一石ニ付五円五十銭
明治二十三年六月「申し」には
米四斗俵四円二十銭
麦一石ニ付六円
以後しばしば米麦の価格が書かれている。また世情を反映した記事も多いので、以下に摘録しよう。
明治二十七年「秋申し」に雑記として
今玆明治廿七年秋、皇国陛下朝鮮政府ノ急アルニ因リ、我民留人民保護トシテ豫後備兵ヲ発シ、彼地ニ差遣セラル
と記されているが、そのあとの紙が裂かれているので不明である。故意に裂きすてられたもののように思われる。
明治三十六年の記事に
明治三十六年度ハ麦作ハ大アカテニテ大不作、麦一石ノ価十円也、米価玄米十五円五十銭、又大豆ノ芽ニ巣虫シ、且不作ノ趣キアリ
明治三十九年「秋申し」には
明治三十九年夏申会合連中設議ノ上、金ノツナギ方改正シ、地神申・三月申・共ニ二銭宛、夏秋申共ニ一銭宛ト、相定メ候事
従来は地神申・春・夏・秋と四回行われていたことがわかる。
明治四十一年「秋申し」には
明治四十一年秋申講ノ会合ニテ、同四十二年度ヨリ申講二度ト定メ、地神申及ヒ秋申ノミ執行、但三月申ハ地神申ト合祀シ、五厘宛貫(ツナギ)添ノ事
明治四十四年「秋申し」の次に
大正元年秋米価、最高四斗入一俵ニ付九円五十銭、麦価最高一石ニ付十四円五十銭
が挿入されている。
昭和の年代になって昭和二年夏祭(夏申と記さず)の記事に
米価 四斗入 十四円
麦価 四斗入 五円三十銭
日役 一人 一円五十銭
終戦の前年、昭和十九年「秋申」の記事だけは鉛筆書きで書かれており、戦局はいよいよ苛烈になったことが感ぜられる。従来は吉原村・八丈村いずれも記録はすべて、和紙に毛筆で認められている。同年の記事は
但シ秋ノ様子ヲ見テ白米三合ハ見合セノコト 酒肴モ見合セノコト
黒米一俵二十二円 闇デ一百円
保有米ノ二割五分供出ノ年
昭和二十年三月一日の「申し」は、いつものように行われていた。この時も本当仕出しとして、洒一升を出している。配給の時期で物資不足であったが、農家は闇米で何でも手に入れることができたからと思う。
昭和二十年三月六日の記事に、左記が追記されている。
米一升 六十銭 闇で五円
日米戦争勃発、昭和十六年十二月八日、今年五年目、敵ノ反撃益烈シク、山口県下ニモ敵機侵入投弾ノ報アリタリ、尚町内会出征軍人四十二名トス。
昭和二十年「秋申し」の記事
白米三合宛
汁代十五銭宛
御初穂五十銭
酒肴ハ時局ニ鑑ミ其ノ状況ニ依リ取計ノコト。
ソノ後敵機ノ反撃愈々烈シク、国内大都市ヲ始メトシ、全中小都市ニ大爆撃ヲナセリ。我カ下松市内ニモ若干ノ被害ヲ受ケタルモ、大事ニ至ラザリシハ幸ナリ。昭和二十年八月、広島市ニ於ケル原子爆弾ヲ堺ニ、八月十五日終戦ノ詔書喚発トナリ、連合軍ニ対シ終ニ無条件降伏ノ止ムナキニ至レリ。玆ニ於テ海外在住ノ一般邦人、及出征軍人引揚送還ノ取計開始セラル
昭和二十年「秋申し」で、左の通り規定が改正され、二十一年「地神申し」より実施されることに申し合わされた。
本当ハ神主ノミヲ招待シ、一般講員ハ集メサルコト。費用ハ一戸一円宛トシ、御初穂五円トスヘシ。
三月地神申ニハ、小御幣各戸ニ配布ノ必要上、半紙一枚宛出スコト。
脇当ノ任命ハ、本当ノ次ノ家ニ担当スルコト。
御供用トシテ各戸白米ヲさかずきニ一杯宛出シ、申終了後オサガリトシテ各戸ヘ配布ノコトツナギ物ソノ他ノ用事ハ脇当ノ任務トス
翌昭和二十一年「地神申」では規定通り実施されている。
ツナギ 一戸一円宛
半紙一戸 一枚宛
白米一戸 サカヅキに一杯宛
御初穂五円也
と記録されている。
以後昭和三十一年まで「申し」は中断された。昭和三十一年五月十一日「地神申し」より再開され記録が始まっている。以後は申し合わせ事項も多く、意見も活発に出された模様で、農事の研究も話題になったようである。本来の「申し」に帰った感がする。
左に昭和三十一年度以降の記載より、特別な事項を摘記しよう。
昭和三十三年度の気象
七月中は順調な気象が続き、台風後気温急降し稲作心配さる。九月中程迄持続し、其後正常になるも、収量半減を予想されたが収量平年作を得、十二月の気温は平年よりややひくめ、稲取入時の天候特に好く、稲刈より籾すり迄雨らしい雨もなく早燥取上
天地の恵みことほぐ秋申し
昭和三十三年正月三ケ日は快晴、雨量極めて少し。三月十六日大雪あり、積雪量約十糎
八丈農道補修の件
八丈新道完成の件
下松市制三十周年記念のため杉門建設の件
道路破損修理の件
養豚問題につき反対署名運動開始について
昭和三十七年度より御初穂料三百円にする。次回よりつなぎを百五十円にする。米二合は前会通り
病気見舞及出産
イ 一戸当り百円ヅツつなぎ合せて持ってゆくこと。
口 お返しは一切しないこと。
婚礼及棟上
イ 一戸当り三百円
死亡
イ 白米一升
口 右は大人も子供も同じ
八丈農道向八向に通ずる道の件
部落共同器具についての規定
八丈農道舗装工事竣工式の件
八丈川の道路石垣補修の件
八丈部落共有器具保管庫建立の件
八丈道路拡幅の件
八丈村の「申し」は現在でも先ず神事が行われ、部落の安穏と農作物の豊穣を祈り、次いで懸案の事項について話し合い申し合わせをする。また農事について話し合いをして、「申し」を終るのである。八丈部落は、こうした「申し」の申し合わせ事項の実施によって、部落が着々と改善されている。今後とも「申し」の継続と、部落の発展を祈念する次第である。
現在残っている「申し」の記録に書かれている父・祖父・祖先の人々の名前や筆蹟をみるとき、そこに生命のいぶきを感ずるのである。部落の一体感も生れる。箱につめられた「申し」の古記録の引継が行われて、当屋の家の「申し」は始まるのである。古い百年以上書きつがれたこの「申し」の記録は、「申し」という行事の御神体となって部落の家々を廻ってゆくのである。
吉原・八丈部落の貴重な資料を御貸与下さいました両部落に、厚く感謝いたします。なお、吉原の清木愛子氏、八丈の弘中優氏のご尽力に対しお礼申し上げます。