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3 山田村に伝わる神事について

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 山田村の松村美保世・松村すみれ両氏の御好意により、部落に伝わる神事の記録を見せていただいた。
 (一)は「山田大歳神社神舞(かんまい)記録」 (二)は「梅木原村の夏秋の申(もうし)の記録」 (三)は「山田村の田道御幸」(ごでんどう)の三冊の記録である。これらに記録されている部落の神事の変遷等について記してみたい。
 (一)の神舞については記録の表紙に
   寛文三年(一六六三)起元
  山田大歳神社神舞記録
   大正八年四月写之
と書かれ、はじめに
 当村大元神楽控
一寛文三年癸卯ノ春ヨリ同四年辰両年ノ間大ニ疾病流行シ、老若相煩ヒ及難儀申候ニ付、為惣御祈祷年廻リ神祭執行之宿願相成リ、依之甲辰十一月ヨリ年廻リノ大元神楽執行相成リ、郷ノ原孫左衛門方ニテ当屋執行相成、右ハ元禄五年(一六九二)ノ控ニ有之候ヘ共、此度書写控置候者也
  宝永三(一七〇六)戌十一月 妙見社司
         金藤右衛門 写書
と記され、神楽の紀元について述べている。続いて
    祈願状
  一天照大神 八幡尊神 北辰妙見社 三宝大荒神 大歳神 祇園三社 牛頭天王(七神名略) 領地八百万神
  一山田村五穀成就、為民安全之、先年之通り当年より前之通り行来、七ケ年廻之小神楽執行可仕候、為其願状調納置申上處如件
        庄屋  貞木善十郎
    延享二年(一七四五)丑六月十三日
        神主  金藤式部
最初はただ神楽(かぐら)を行った年月日・場所が記してあるだけである。
  文化十四年(一八一七)丁丑
   神楽場所 字山の神にて執行候事
  文政六年(一八二三)癸未
   神楽場所 仝上
  文政十二年(一八二九)己丑
   神楽場所 字芥原にて執行候事
この年より、当日の諸買物覚・御供物覚が詳しく記されている。(略す)
 天保十二年(一八四一)辛丑二月の記事には、祭事について詳しく記されている。(略す)
  弘化四年(一八四七)未三月十七日
   神殿場所 字越垰ニテ執行
この年、始めて舞子岩国町太夫が記されているのを見ると、この年までは参集の神官・庄屋・畔頭・頭百姓等にて、神事が行われていたのではあるまいか。当年は玄人の神楽をよび、賑々しく行われた。
 明治十六年未年三月の分には「舞子、熊毛郡正音寺村小供連中」とあり、以降は毎年神舞奉仕人が書かれ玄人によって行われた。
 神舞は午前十時に始まり午後五時に終った。神舞の目録は大体次のようであった。
  一 湯立神楽     二 御物颪
  三 同心神楽     四 村上天皇幣舞
  五 牛頭天王花舞   六 八幡宮吉舞
  七 柴鬼神      八 大年大明神幣舞
  九 六郎       一〇 大弓
  一一 佗宣      一二 本社大権現二本太刀
  一三 妙見舞幣舞   一四 布越
  一五 蛭子神     一六 長刀
  一七 国常立神幣舞  一八 国床立命大鉾
  一九 金比羅大権現四ツ大刃  二〇 廣旛彦命鉾舞
  二一 三鬼神     二二 王龍王
  二三 岩戸      二四 惣神楽
      神戻 以上
このように多数の神楽が一日中行われたので、娯楽の少ない部落民にとっては、神舞の一日は一年中の最大の慰安日であった。
 当日の費用は、記録に出ている最初は大正八年四月三日の記録で、経費の内訳は
  一金二十四円也    舞子請負金
  一金三円也      神官御礼
  一金二十一円也    固屋掛請負金
  一金四十四円八十銭也 雑費
   計金九十二円八十銭  以上
収入は、村戸数割等級により徴収した。当時、山田村の戸数は一四〇戸あった。
 最近の昭和五十四年度分をあげると
支出は
  一金十五万円   舞子費
  一金十万円    神殿費
  一金二万円    榊料
   コモは買上げる
  計金五二二、三七三円也
収支は詳細に別冊「大年社神舞入費計算書 大字山田村」に記されている。神舞の舞子は、毎年玖珂郡・熊毛郡・都濃郡各地より招き、昭和五十四年度は玖珂郡美和町神楽団十三名が来演している。
 記録の最後に「山田大歳神社神楽舞の由来」が記されてあるので次に載す。
寛文三年(一六六三)春より翌四年の両年に亘り、疫病が大変流行して老若男女が患い非常に難儀をしました。そこで大歳神社に総御祈祷ということとなり、年廻り神楽を執行いたしました処、疫病も治りました。よって七年ぶりに神楽を執行することとなりました。
神楽が始まって今年で三百十六年目に当たり、五十三回目の神楽舞の年となりました。今日では地域住民唯一の楽しみの一つとなりました。
昔は舞場も神楽場と云って、郷と浴条地区との間の山一反歩位の地に決まっていましたが、近年では不便な点も多いので平地で、しかも山田の中心部に近い地点を選定しています。
 昭和五十四年四月 執行時
     大歳神社総代記
(二)の「申し」については「下松地方史研究第十八輯」に、河内村の吉原村・八丈村の「申し」について述べているが、梅ノ木原村の記録もこれらと大同小異である。
 書きはじめは「明治十二年卯ノ秋本当松村信義」から始まり、脇当七名の氏名が続いて書かれている。ついで
    買物記
  一金十銭    醬油一升五合
  一金二銭五厘  豆腐五丁
  一金六銭    にぼし
  一金一銭八厘  半紙一状
  一金二銭五厘  こんぶ
  一金五銭    御初穂
  一金十五銭五厘 酒一升
  一金七銭三厘  米代
   計五十銭六厘 二十九人割
    一人前 一銭八厘ヅツ 残高一銭六厘
 次に各戸の氏名が連名で書かれている。
以下、毎年夏秋の申しの記録はこの要領でつづいている。当時の物価や生活程度がこれでわかる。
 記録の氏名の中に蓮台寺とあるのは当時の神仏混淆の世相と、寺院も部落の一員として部落の会合に組入していたと思う。
 大正十二年秋の申しにはじめて男女の人夫賃がかかれている。
  早乙女金一飯賄四十五銭
      弁当持五十五銭
      代カキ男手間一円也
昭和二年七月の申しでは
  代カキ人夫賃 賄付一円五十銭
  苗乙女 賄付六十銭 賄ナシ 七十五銭
以後、毎年ほとんど人夫賃がかかれている。
昭和十一年一月六日協議決定事項として
  一秋夏地神申者本当一名脇当三名トナスコト、以後別紙順序ニヨリ四名内ヨリ抽籤ニテ本当一名ヲ定ム
  一申出席時ハ
   [秋 地神]申午後四時
   夏申 午後六時
昭和十二年十二月より地神申がはじまった。今まで夏秋の二回であったのが三回になった。が、昭和十六年一月の地鎮申では「秋申兼」とあったが、昭和十七年よりは、秋申及び二月十一日の地鎮申を繰上げ一回とすることに決まった。また梅木原が分かれて梅木原上組・中組・下組になった。十九年秋申より次のことを決定した。「御初穂一円となすこと、米従前の通り外十銭貫立て、漬物にて済すこと。」
この決定により記録に
  一金一円也御初穂
  一金二十銭塩噌代
   計一円二十銭
と漬物程度が支出されている。以後夏秋地鎮申と続けられたが、昭和三十八年一月の申で
  「全班員協議の上今後の申は班員は出席せず本当、脇当の方にて申を行い班員は金二十円宛脇当へ渡すものとす」
とある。現在も、記録としては班の氏名は毎回記されているが、実際は本当の家で神職だけを招き神事を行い、部落民の氏名を記録して次回の本当に廻している。
 組を出る場合には挨拶をしていたが、これについて
拝啓 梅雨之候御一同様ニハ益々御清栄ノ段奉賀候、サテ小生事永ラク御組合各位様ノ御愛顧ヲ頂キ居り候処、今般家事ノ都合上、本年夏申ヨリ岡市組ヘ組入致ス可ク都合ニ相成リ候間、梅ノ木原組ヨリ御別レ致シ度候ニ付キ、何卒御許シ被下度御願申候
                                岡市 氏名 印
 梅ノ木原組御中
と丁重に自筆捺印した挨拶状が残っている。
 昭和十四年の記事に
昭和十四年卯年申延ビタルハ旱魃植付遅レノ爲メ、現今ノ存命者ノ内ニハ本年如キ植付不能ノコト、ムカシヨリ談ニ聞カズトノコト、尚植付田ハ植付後ニテモ熾烈ノ状態ニテ、尚今日ニ至ルモ雨模様ナクテ、照日数七十日間モ雨ト云雨ハナキ故今日ニ至ル
また「別事(お寺)覚」として
光円寺世話人を本二班中の門徒の中より輪番選出のこととし、北迫が現在につき次の瀬来自咲氏より始まり、のの字廻りのこと、任期は一ケ年
の記事がある。
 また終戦前後の人夫賃の高騰について、この記録によって考えてみると、他の当時の諸物価のインフレも知ることができる。
  昭和十九年  早乙女二円五十銭
         男手間六円
  昭和二十年  田植早乙女五円也 五畝植
         男手間代十円也
  昭和二十一年 田植早乙女十五円
         男手間代二十五円
  昭和二十二年 早乙女三十円
         代かき六十円
         牛同伴男役百二十円
  昭和二十三年 早乙女六十円
         男手間百二十円
  昭和二十四年 早乙女百円
         男手間二百円
  昭和二十五年は二十四年と同じ
  昭和二十六年 早乙女百三十円
         弁当持百五十円
         男手間二百円
  この年以後は人夫賃は農産組合長集会ノ際話合ニテ定ム
として、以後は「申し」での話合はなくなった。
 山田村は全村民大歳(おおとし)神社の氏子であり、「申し」御田道(ごでんどう)も降松神社の神官を迎えて行い、神楽も大歳神社を中心に行われていた。また、大歳神社は妙見社の末社であった。蓮台寺も、鷲頭寺の唯一の末寺であった。このことで、前述した鷲頭氏と山田村の緊密な関係を知ることができる。こうした点より考えても、大歳神社の創建は記録以上に古いものであると思う。
(三) ご田道(ごでんどう)の記録である。記録されている紙は百年以上も経ち、最初頃の紙は色も変わり破れている。十センチにも及ぶ厚さの記録を手にするとき、感慨無量にたえない。この部落を守り続けてきた署名されている幾千の人々の魂にふれるような気がする。
 『山口県方言辞典』によれば
  でんどう(田道)みゆき
  六月頃に、氏神様が田の畦を神幸の行列。周防では「ごでんどう」、又は虫祈祷ともいう。
記録の表紙には
   大正六年以降
  大字山田春夏祭諸費控帳
      大歳神社総代
と書かれ記録は始まっている。ついで
  大正六年分 田導御幸役割
  一太鼓 中村・浴条
  一輿台 梅ノ木原(以下紙半枚破損)
  田導御幸七月十六日
    神官行 松村要蔵
  山田百五十一戸
  負担額四円五十三銭
  一戸ニ付三銭
   費用内訳
  一金二円 神官ヘ初穂
  一金二円 賄費、其他諸費トモ
  一金五十三銭 ヒキ馬
  大正六年役割
   各部落の割出人数(略す)
  大正七年分田導御幸役割
   一太鼓 小迫・梅ノ木原
   一輿台 中村
   一さいせん箱 浴条
   一御幣 梅ノ木原
   一清メたご 郷・西条
   一さいりよう 梅ノ木原
   一ひき馬 西条
   一なきなた 中村
   一法吏 七人(各部落より一人乃至二人)
以降、毎年こうした形式(1役割2経費明細)で記録されている。所々ちがったところは
(1)神幸の行列に、獅子頭・鼻高面・金幣・鏡・多久田・ほこが加わることもあった。
(2)役割の割当については、相当議論があったと思われる。役割のことが最も記録に多い。
  一神官行は小迫・中村・浴条・郷・西条・役浴・梅ノ木原ノ順序トス
  一輿、輿台ハ抽籖ニ依リ小迫・中村・浴条・郷・西条・後浴・梅ノ木原ノ順序、他ノ道具ハ抽籖ノコト
  一神具ハ総テ輿引受ノ村ヲ除キ廻リ講トス。但御神幣ハソノ際ノ区長トス
  一宰領ハ輿・輿台・引受ノ村ヨリ出スコト
   仝神官案内ノコト
  一御神幣ハ昭和二年ヨリ梅ノ木原部落ノ引受ノコト
昭和七年七月の夏祭の協議で左のことが決まった。
  一自今毎年七月十五日ト定ムルコト
  二昭和七年度より
   輿台一人二十銭宛
   道具持一人十銭宛、仕払スルコトニ決定ス
昭和八年七月の夏祭りより左記のように支払われている。
  一輿台   十人二円
  一賽銭箱  二人二十銭
  一清めたご 一人十銭
  一太鼓   二人四十銭
  一面獅子  二人二十銭
  一長刀、めうけやく 二人二十銭
  一多く田  一人十銭
  一ほこ   一人十銭
  一御神幣  一人十銭
  一牽馬   一人六十銭
 このように役割者には、全員報酬が出されることになった。
 終戦後の昭和二十一年度の協議事項として左の事項が決まった。
  一各休場ノ御神酒ハ之ヲ取止メノコト
  二長刀ハ届出ノ手続ヲスルコト
  三御道具ノ内、目付槍・多久田・鉾・及長刀ハ行列ニ参加セサルコト
  四夏祭経費ハ一戸当リ一円徴集、班長ニテ取纏メ当日総代ニ渡スコト
  五牽馬以外ノ出役者ニハ当日ノ日当支払ヲ取止ム
  六徴収金ノ残金ハ繰越金トシテ収支ヲ明ニスルコト
 昭和三十九年夏祭の記録に、「昭和三十九年度より後浴は部落協議の結果一時中止」とある。次いで昭和四十年夏祭記事に
  今回御神幸はとり行わず神殿にて神官により祭事のみとする
とあって、永い伝統をもつご田頭のご神幸の儀式は、取止めのこととなった。今では役員が春夏二季に神官を招いて神事のみ行い、昔の慣例により記録し次の当番に渡している。時代は変ったの感が深い。
 最初は「田道御幸」と記され、時には「青田御祈祷」と書かれていたが、大正十二年より「夏祭」と書かれたのが多くなった。名称は違っても、これはいずれも田道神幸のことであり、年一回、七月十五日に行われていた。昭和二十二年以後始めて「春祭」も始まり、春秋二回行われるようになった。春祭の経費についての記録がある。
  昭和二十二年春祭
  一賽銭及賽銭米は神官に托す
  一諸費金四十四円也
    神職御初穂金五円
    婦人会掃除費金二円
    その他雑費金三十四円
    牽馬三円
この経費よりみれば、春祭には神社の清掃をし、神職をよんで神事を行い、後、牽馬をして部落を廻り、それで春祭を終ったものと思われる。現在も春・夏祭ともに神事のみ行って祭りは終っている状態で、往時のように太鼓の音とともに、神官・神輿・神具の行列の御田道御神幸(ごでんどうごじんこう)は、みられなくなった。
 以上で山田村に昔から伝わる神事(神舞・地神申し・田道御幸)の記事を終るが、これらの三神事は記録の有無にかかわらず大体、江戸初期にはじまったものと思う。当時の世相・世情に関係して、この時代にはじまったとみてよいであろう。
(昭五八・一一、第二〇輯)