大阪の緒方洪庵塾へ、防長二州より遊学した五十九名の中に、「防州降松 飯田元敬男 同苗三郎 改柔平名有俶」「防州降松 飯田秀輔」とある二人についての調査を依頼されたので、研究の結果を記す次第である。
飯田家は、下松元町山口銀行前のおおたや衣料店のところに家があり、代々医者であった。西教寺の過去帳によると、飯田杏仙にはじまっているので、杏仙の時に下松に来住したものと思われる。法名は真浄軒正誓杏仙居士といい、天保三年(一八三二)十月十六日の死亡である。当時としては法名もよく、かなりの家柄であったと思われる。西教寺境内の飯田家墓地には、墓が五基あるが、その中央に
[飯田 福原]先祖霊
と刻んだ墓がある。飯田家は以前福原と称していたが、福原満足丸という人のとき飯田と改めたといわれている。
この先祖の墓を中央にして、右に杏仙夫婦の墓、左に柔平秀輔 碩造(一基)の墓がある。前述の洪庵塾に遊学した柔平については、墓碑に
俗称飯田柔平、後改節堂、元敬之長男也、天性頴悟不郡、夙有遠志、遊歴東国、師浪華之緒方、年廿有二
以原書家、顕於海内、一朝罹疾、百万無験、凡在褥六七歳、不能諸候之聘
と刻んである。この墓碑の史料によると、柔平は飯田家第二代飯田元敬の長男で、緒方洪庵塾に学び、二十二才のときすでに蘭語の学者として海内に名をあらわしていたという。
緒方洪庵については有名なので記す必要もないが、概略述べることにする。洪庵は蘭医学の泰斗で、長崎に遊学し、蘭医のもとで研究し、二十九才の時大阪に帰り開業した。洪庵は医者として患者を診るだけでなく、教育者として前後一千余人の子弟の蘭学教育に没頭し、明治維新前後に多くの国家有為の士をその門下より出している。即ち、福沢諭吉・大村益次郎・佐野常民・橋本左内などがその門下である。
飯田柔平は、この洪庵塾に降松(下松)の地より遊学したのである。当時の年月及び年齢は知ることができないが、天保十五年(一八四四)孟春より書き始められた現在の洪庵塾入門帳には、十五番目に前述のように柔平の名が記されている。後述する年齢より推定すれば十七才前後に入門したように考えられる。
和田健爾著「橋本左内の精神」に記されている柔平の記事を左に掲げよう。
当時、緒方塾の塾頭、飯田柔平を斡旋したいきさつなどからみても、左内がいかに塾生間に人望を得ていたかが窺われる。これは洪庵夫人と折合いの悪かった飯田が、緒方の塾を去って関東に行きたい希望があり、内々で旅費の工面をしていたのであるが、思うに任せず苦慮していた折に、福井の笠原が蘭学熱心で左内と深い交渉のあることを知り、左内に笠原への周旋を依頼したことに発する。飯田の考えでは笠原に蘭語を教授することを条件に、暫らく福井で厄介になり、傍ら旅費を調達したいという意向であった。左内はこれを笠原に申送り、その内諾を得たのである。尤も飯田の福井行は結局実現しなかったが、師洪庵に無断で話を運んだ事実が、のちに洪庵の知るところとなって、左内は委細を糺問されている。このとき左内の弁明は、この事件に関与した塾監渋谷良耳をうまく問題の埒外におき、しかも洪庵と面識のある笠原の手落も穏便に言ひつくろって、飯田塾頭にも傷をつけず、円満に事を落着させている。
これによって、柔平の洪庵塾における地位及び左内との関係も大体察知できよう。
洪庵塾の塾頭は、塾監の上にあって全塾生を統べ、師洪庵に代って教授にも当たっていたのであって、蘭学については非常に深い知識と見識を持っていた。
墓碑にある「二十二才で蘭語にて海内に顕る」というは、前述の柔平の福井行の事件のあった塾頭の時代頃をさしているのではあるまいか。当時、橋本左内は十八才であったので、これより推算すれば、柔平は左内よりほぼ四才年長であったと思われる。これによれば、今まで柔平の死亡した年齢が不明であったが、三十三才前後で死亡したのではないかと思われる。勿論、前述の事件が柔平の二十二才の塾頭時代と断定するのは間違っているかもしれないが、大体この前後と考えてよかろうと思う。
緒方洪庵「癸丑年中日次之記」に
嘉永六年(一八五三)四月十八日飯田柔平より書状並贈り物来る。十九日飯田柔平へ通論添書状差出
と記されている。柔平はその後、故郷下松に帰ったものと思われる。この記事は、学問の研究について師洪庵に示教を乞うた書状で、これに対し洪庵は通論書を送ったものと思われる。
墓碑に「在褥六七歳」とあり、その後病床に臥すようになったのである。洪庵塾の塾頭の地位まで上り、なお江戸遊学の大志を抱きながら、こと志と違い故郷下松に帰った。そこで医業を開き、なおも勉学に励んでいたが、不幸にして病魔の犯すところとなった。多年病褥に在りて雄図も空しく、遂に若くして逝った飯田柔平の胸中を思えば、しばし暗涙にむせぶ次第である。
文化元年(一八〇四)八月十八日に下松で死亡し、法名は清風院釈自証節堂居士という。
柔平には、未だ妻がなかったと思われる。柔平の墓には、一緒に柔平・秀輔・碩造三人の法名・死亡年月日が連ねてあるが、これは三人兄弟の墓であると思われる。
秀輔も洪庵塾に入門したのであって、入門帳には前述のように
防州降松 飯田秀輔
と記されている。秀輔の次に
越州福井藩 橋本左内
が名を連ねている。二人は同じ頃入門したものと思われる。入門の年月は前後の記事より推測すれば、「嘉永三年(一八五〇)晩春」の頃であろう。秀輔は、安政二年(一八五五)十月二日に死亡している。享年二十五才ではないかと思う。
弟碩造も、慶応三年(一八六七)三月二十六日に亡くなっている。英才をいだきながら、若くして兄弟がつぎつぎに亡くなったことは、まことに飯田家のため痛惜にたえない次第である。
明治元年(一八六八)、飯田元敬の次女、柔平の妹サダに西豊井村前田精道の次男を養子に迎えている。これも柔平といっているが、これは多分入婿後に改名したものであろう。即ち、飯田家には柔平が二人いたのである。この柔平の墓には、「後代 飯田柔平夫婦」と彫られている。下松東町で家業の医師をなし、明治二十年旧十月五日に亡くなっている。
柔平妻サダは、その後自宅で寺子屋式の塾を開き子供を教えていた。この塾時代のことは、現在でもかなり知っている古老の方が多く、ここで勉強した人も現存している。
奇行にとんだ人で、逸話も多く残っている。
いつも塾の子供を大きな声で叱っていたが、一面よく子供を可愛がり、当時としては珍しい黒砂糖を分けてやったり、庭の夏蜜柑をとってよく食べさせていたという。また、不具や病弱のため学校に入学できぬ子供の面倒をよくみて教えていたようで、当時の人々に深い感銘を与えていたという。
柔平夫婦には子供がなかったため、明治十二年二月、末武上村片野与兵衛の五男政熊を養子として迎えた。養父柔平の死後明治二十年十二月に家督を相続している。
政熊は医師であったが、深く禅宗に帰依していた。明治の傑僧、南天棒(なんてんぼう)に師事していたのである。
平凡社版大百科辞典の「南天棒」の項に
南天棒三十一才、初めて周防徳山の大成寺に住山し、ついで松島瑞巖寺に入り、明治三十五年兵庫県武庫郡の海清寺に住し、ここを本拠として東奔西走禅風の挙揚に努めた。会下に会する者頗る多く、乃木希典も帰依することが頗る厚かった。弟子に飯田攩隠がいる。……
と記されている。この飯田攩隠が飯田政熊である。南天棒には全国に幾千人の信者があって、師について入室参禅し、居士大姉号も授かっていた。主な人々をあげると、山岡鉄太郎は鉄舟居士・児玉源太郎は藤園居士・乃木希典は石樵居士・河野広中は無得居士・飯田政熊は攩隠居士、これらはいずれも南天棒より授けられた居士号である。しかも政熊は、南天棒より最初に印可をうけ居士号を授けられたのである。政熊のことについては、南天棒禅話・南天棒行脚録に出ている。要約して記すと
攩隠が初めてわしに参じたは、明治二十二年十一月二十日夜三更ぢや、戸を叩くものあり、何物ぞと誰可す。それがし防州の飯田と申す者、法のために来れり、予曰く、法のためとすれば時をきらはず直ちに通れと、かれ三拝して四弘誓願を唱へ、且曰く、無常迅速生死事大なり、師乞ふ指示し給へと、予曰く、四弘誓願の事如何、只法のために不惜身命なり……それより十年一月の如く、法のために万難を排して霜辛雪苦した、わしの行く先々で医者を開業しながら、弛まず修行した、とうとう三十一年の十一月二日に印可を与えて、攩隠という居士号を授けた、これがわしの居士の印可始めぢや
これによって政熊の熱烈なる求道時代を知ることができよう。師南天棒の行くところに随い、自らも居を移し、医業をなしつつ師について修業したのである。戸籍にも明治二十一年二月より三十一年七月まで失踪と書かれている。その後下松に帰り、明治三十五六年頃まで開業していたようで、当時のことを知る古老もあった。再び、師南天棒の住む兵庫県西宮に移り、養母サダの死後、大正五年三月西宮に転籍したのである。
飯田家当主、政熊長男無二氏も、代々の家業の医師となり、現在徳島大学医学部教授として活躍されている。
岩瀬家
拙寺(昭和通西念寺)の本堂の欄間に、竜の彫刻がある。非常に立派な彫刻で、昔からの言い伝えによると、昔竜が生きかえり、時々欄間から抜け出ていたので、竜に釘をうったといわれている。今も、昔の打釘が竜の顔に打たれている。こうした立派な竜の彫刻をみるにつけ、この竜の彫刻師について調べたいと思っていたが、その機を得ず今日にいたった。幸にこのたび調べることができたので、ここに記す次第である。
この欄間の彫刻師は、花岡大黒町の岩瀬可人氏の先祖にあたる岩瀬長五郎である。長五郎の彫刻として現在残っているのは、前述の西念寺の欄間のほかに、平田浄蓮寺の山門、生野屋教応寺の玄関(昔の本堂の向拝)、高橋日天寺本堂の欄間、花岡八幡宮拝殿に掲げてある竜の彫刻及び花岡法静寺の亀の彫刻がある。この長五郎は、特に竜の彫刻がすぐれていた。
長五郎は京都の建築彫刻師であったが、文政年間(今より百四五十年前)に、花岡八幡宮の拝殿の改築に際し、宮大工としてこの地に下り、拝殿の改築並びに一切の彫刻をなしたのである。これらの仕事が終った後、長五郎は花岡に定住し各社寺彫刻をした。
日天寺の欄間の裏に「嘉永元(一八四八)戌申五月吉日岩瀬長五郎 七十才名残之作」と記されている。文字は長五郎の自筆と思われるが、名残之作(なごりのさく)と書かれてあるのは、長五郎が七十才で最後の彫刻の意であろう。字に筆力があり、字も上手である。名彫刻師がこれを自分の最後の作として彫り終り署名した。その時の長五郎の心境を思えば、全く感慨無量なものがある。感銘深い作である。
長五郎は文久四年(一八六四)甲子二月二十一日八十六才で亡くなり、法名は善如院釈教徳寿清居士といい、生野屋教応寺の門徒である。
この地方で、百二三十年前後に建築された社寺にすぐれた竜の彫刻があれば、大体長五郎の作と考えてよかろうと思う。
岩瀬家の第二代は岩瀬助吉といい、父の業をつぎ、宮大工としてまた彫刻師として名高く、この人は特に獅子が得意であった。
その後も岩瀬家は代々宮大工として名高く、この地方の社寺の建築にあたり、またこの地方唯一の彫刻師であった。現在は第五代可人氏(長男平氏は東大卒、山口県庁勤務。実弟宣平氏は京大経済学部教授)である。
また岩瀬家は代々俳句をよくし、二代助吉は俳名を庭月といい、辞世に「時節まて言分のなき桜かな」の句がある。四代賢吉は俳名を五洲といい、辞世に「木守を残して柿の落葉かな」の句がある。
余談になるが、社寺には竜の彫刻が多いが、特に寺院の竜には深いいわれがあるのである。竜は、仏法守護の仏といわれている。
『飜訳名義集』に
竜に四種あり。一に天の宮殿を守り、持して落ちざらしむ。人間の屋上に竜を作るは、之に像るのみ。二に雲を興し雨を致す、人間を益する者。三に地竜は江を決し瀆を開く。四に伏蔵して転輪王。大福人の蔵を守る
とあるが、古来より竜は仏法を守護し、宮殿を守り、雨を致す仏と言われている。
即ち寺院の欄間の竜は仏法守護・仏堂護持のためであり、灯籠香炉などに竜の彫刻が多いのは、雲・雨を呼ぶ竜の仏力にもとづくもので、火災を防ぐ意からである。
(昭三八・三、第八輯)