明治九年十月、九州において熊本の敬神党、秋月の宮崎党が新政に抗して乱を起すや、これに呼応して前原一誠は十月二十六日遂に萩に乱を起したのである。
前原一誠については今ここでは詳論しない。吉田松陰門下の逸材で、明治維新の功により参議・兵部大輔に栄進したが、新政府特に木戸孝允と意見があわなかった。このことについて妻木忠太著『前原一誠伝』には
前原は兵部大輔としては海軍創立の建議をかたみとして去った。彼が何故に去ったかは、彼の根本的意見が当時の新政府と一致せざりしがためであったというが妥当であろう。彼は本来尊攘家であった。当時新政府の無差別的泰西文化模倣政策には腹の底から反抗した。そのために勢い木戸とは最も相容れざる立場にあった。
と記している。やがて前原は東京を去り、郷里萩に帰ったのである。
当時、生活の根拠であった禄を奪われ、ついで徴兵令・廃刀令が発布されるに及び、生活の困窮と権威の失墜に、旧士族の新政に対する不満は相当高まっていた。こうした時、全国的人物であり新政に対し批判的であった前原は帰県したのである。県下の、新政に対し不平をもつ士族達はここに集まり、前原を首領として遂に萩の乱を起した。
この前原の乱が起るや、これに呼応して乱をなしたのは県下では徳山地域だけであったが、その中心となったのは今田氏を中心とした山田村事件である。この事件もすでに下松でも忘れられている。山田村(現在の下松市字山田)において数人の古老について調べたが、ただ一人の老婆が「お寺の寮を焼いた」という話があった。そして当時「下駄は桐野利秋で鼻緒は前原一誠で」という歌がうたわれていたが、全部忘れてしまったといわれた。山田村でどんな歌が当時うたわれていたか、興味のあることであるが、不明なのは残念である。
徳山が特に前原一誠と深い関係があったのは、幕末に徳山藩が討幕を唱えた主戦党と、徳川幕府に恭順していこうとする俗論党とにわかれて互に争った時のことである。この争いは遂に殉難七士を出すなど、主戦党が破れて俗論党が勢力を得た際、前原一誠は本藩の命をうけて徳山に赴き、家老以下俗論党をしりぞけ討幕を藩是とさせた。また、すすんで兵制を改革し、軍備を拡張して討幕にそなえさせたのである。これ以来、前原一誠と徳山藩士との交誼は始まったのである。前述の前原一誠伝に出てくる徳山の人物としては、小野慎太郎・飯田端・坂口明教・今田浪江である。
今田家は古くより徳山藩につかえ徳山に住していた。明治維新により、士族は家禄を失い各方面に生計の道を求めたのであるが、今田家は山田村に移住し、当主誠司は農業に従事したのである。浪江は誠司の嗣子に当たり、十三才のとき藩に出仕し、若殿御稽古の相手役を仰せつかっている。明治二年十八才のときには、北海道の函舘戦争に征き戦功をたてている。その後、京都に上り、明治八年二十四才のとき護王神社の権袮宜になり、ついで談山神社の権袮宜になった。在京中に陽明学者で幕末の勤皇家であった春日潜庵について学んでいる。こうして神道や国学を学び、正義感に燃える二十四才の青年にとっては、京都に集まる全国各地からの新政に対する不満の声を聞くたびに、新政の変革を考えるようになったのである。
明治九年一月浪江は京都より帰郷し、萩の前原一誠を訪れている。一誠の日記によれば、「一月二十八日徳山人今田浪江来、春日潜庵門生也、浪江去、客冬青森人士百名計餓死」と記されているが、浪江は一誠に各地の窮状を訴え、その奮起をうながしたことと思われる。一誠は浪江を信じ、薩藩の動静を探るように依頼した。浪江は直ちに二月一日萩を出発して九州に下り、二十日に帰省して一誠に報告している。一誠の二月二十日の日記に「晴、今田従九州帰京、藩の近況を聞」と記している。一誠は徳山の同志、小野・飯田・坂口の諸士とも絶えず連絡をとり、機の至るを待っていた。
明治九年、神風連の変・秋月の乱が起るや、一誠はこれに応じて乱をなすにいたったのである。十月二十六日徳山有志諸君と題し書を送っている。
昔、我忠正公、悼二朝廷之失職一、憤二徳川之違命一、座薪嘗胆、枕レ戈以待レ旦、而士大夫亦感二其誠心一、啜レ血相誓、断レ死不レ顧、遂能安二海内於一一、以致二諸聖天子一、当二此時一、木戸孝允等出二入帷幄一、寵待無レ比、而先君之業、掠為二已功一、敢逞二其胸臆一挙二祖宗之土地一以献レ焉、其所レ為、以二法律一為二詩書一以二収歛一為二仁義一、講二文明一欺二公卿一、籍二夷狄一以脅二朝廷一、要レ之、夷狄横行、海内疲弊、神州安危、朝不レ謀レ夕、則不二唯先君之仇人一、抑亦朝廷之賊臣也、廼者、東肥人断二諸義一、一戦鏖二鎮兵一、餘威所レ及、九州風靡、実曠世之一事也、諸君衣二先君之衣一、食二先君之食一、亦有レ年矣、乱賊之人、従而不レ誅、豈能忍二於懐一哉、始レ事雖レ譲二于他県人一、収レ功猶有レ望二於諸君一矣
十月廿六日
前原一誠
徳山有志諸君『前原一誠伝』によれば
かくて二十七日会するもの凡そ三十人。火を大区扱所に放って玆に屯集し、萩に呼応して山口を来襲せんとした。是夜今田浪江等は山田村を襲い、倉庫を発きて蓄米等を奪い、火を小祠に放って花岡に屯集し、同地の警察出張所を囲んだ。ついで二十九日浪江等の徒は乗船して三田尻に赴いたが、萩の形勢非なるをきき、且つ警戒の厳なる為に再び花岡に帰着した。たまたま、山口県庁出張の警部巡査徳山に来たり、端及び敬明、慎太郎等を縛し、また花岡にて浪江等を捕えて共に山口に送ったのである。
と記されている。この記事にある今田浪江の件については「明治九年萩前原兵乱ニ関連シ山田村今田騒動略記」が今田家に現存している。この略記によれば最初に同志二十名の姓名を記し
今田浪江 松村愷太郎 吉野市郎 近藤金平
瀬来駒之進(此人温見ニ養子ニ行キ角孔公ト称ス)
為国正義 板村信義 松村貞吉
(以下十二名省略)
(月日ハ旧暦)
明治七年今田浪江、時政ノ非ナルヲ憂ヒ、初メテ前原一誠氏ヲ萩ニ訪問ス。二回此年九州ニ通ス。
明治八年九州ヨリ前原氏ニ報知ス。前原氏ヨリ今田浪江ヘ報知ス。前原氏ニ行クコト凡ソ三回。
明治九年三月五日、前原氏ヲ訪フテ帰ル。同年六月又訪フ帰ル。
同年七月三回萩ニ行ク。八月末二回行ク。
同年九月一日萩ニ行キ、同月四日帰ル。帰ル毎ニハ吉野市郎氏ノ宅ニ会シ謀議ス。
其席ニ加ハルモノ今田浪江・吉野一郎・近藤金平・瀬来駒之進・松村愷太郎・松村貞吉・板村信義。
同年鹿児島ニ趣キ西郷・桐野・篠原氏ヲ訪フ。
同年九月五日萩ヨリ飛脚来ル。時未ダ早ヤキニ付キシバラクシテ起セト。
九月六日、又萩ニ行キ、九月八日帰ル。即時吉野氏ニ会シテ重要協議ヲ開ク。
同年九月九日、松村愷太郎先ヅ光円寺ニ到リ寺ヲ借ル談判ヲナス。
同日夕方会合シ部署ヲ定ム。
今田隊長(別当 近藤豊吉) 吉野半隊指令 松村愷会計 近藤伍長
瀬来伍長 為国伍長
此夜夕方郷ノ庵ヲ焼キ烽火ヲ挙グ。
焼キニ行キタル人 近藤 瀬来 吉野 山岡 此火ハ消スベカラズト貞木満之進ニ厳命ス。
四人ノ者一人曰ク。本尊様ダケハ出シ置クカト。吉野曰ク。愚ヲ曰ヘ木片ヲ出スコトガアルカト。四人ノ者直ニ光円寺ニ帰リ勢揃ヲナシ、其レヨリ花岡ニ向ヒ、今田隊長警官ト大口論ヲナシ、勘場ヲ乗リ取リ警官ヲ一室ニ幽閉ス。時ニ十一時頃カ急速徳山ニ報知ス(徳山有志三四百名)。
勘場(警官ノ居ル所)ハ即チ袴ヲハキ、日本刀ヲ刺シテ居ル人、鉄砲ヲ肩ニシテ居ル人、鎗ヲ持ツテ居ル人、土足以テ畳ノ上ヲアルク人、炊キ出シヲスル人大変事。
九月九日ノ夜、武田忠兵衛事務所ヨリ近藤佐吉外二三名花岡ニ荷物ヲカツイデ行ク。二回。
九月十一日、夕方櫛ケ浜ニ着シ、帆船ニ乗シ、萩地ニ向フ。蓋シ花岡ニ滞在セシハ徳山ノ動静明カナラサルニ因ル。時ニ徳山有志大ニ意ヲ変シ、会スルモノ飯田 小野 庄原 坂田 塩川外六七名。
小野氏二三回山田村ニ来ル。
今田氏徳山ニ屢行ク。
舟ニ乗ルモノ四五十名、末田沖ニ至ル投錨。
近藤金平・瀬来駒之進両人小舟ニ乗リ末田ニ上陸。宮市ニ至リ萩地ノ情況ヲウカガウ。時ニ前原一誠ノ兵四五百名降参シ、戦ヒ不利ノ模様。二人乗舟ニ帰リ其由ヲ告グ。協議ノ上、コノ僅カナ兵ニテハ戦ヒ不可能ニ付、一同櫛ケ浜ニ折返シ同地ニテ解散ス。
この略記の記事は、前原一誠伝に記されている記事と二人の出会い、及びその後の交渉等について多少異同があるが、その点は後日の研究に譲りたい。
また当時の山口県庁の記録によれば
二十九日午後一時徳山区長ヨリ報ス。昨夜旧徳山士族五六十名、同区山田村米倉ヲ封シ、堂庵ヲ放火シ、(小区扱所ヲ放火セシト内務省ヘ電報セシハ、此堂庵ヲ誤認シテ扱所ト報セシ探偵ノ言ニ依レリ)花岡警察出張所ヲ抜刀シテ囲ミ之ヲ奪フ。即時捕縛方着手ス。
三十日午前十一時徳山ヨリ暴徒ノ掲ゲシ檄文ヲ送ル。前原一誠ヨリ徳山有志諸君ト題セリ。午後八時巡査徳山ヨリ帰報ス。今暁徳山ノ暴徒三十余名倉米ヲ奪ヒ脱走。同区櫛ケ浜ヨリ小船二艘ニテ下筋ニ向ケ出帆ス。
ついで現地におもむいた官憲よりの報告によると
一 三十一日午後一昨夜花岡ヨリ脱走ノ者共駈帰リ、遠石町ヨリ揚陸候趣相聞候事。
一 同午後花岡出張神村龍三来着。此内来之紛擾之次第相語、右脱走ノ内巨魁今田浪江・松村愷太郎両人ハ捕縛、其余巨魁体ノ者ハ追々着手候トノ事。
花岡集合櫛ケ浜ヨリ乗船脱走ノ人々(人名は略す)
右之者共不残昨朝駈返リ、遠石ヨリ揚陸。銘々自宅え潜伏候趣、委細ハ花岡出張所ヨリ届出可相成ト存候事。
以上の如く全員捕縛され、この騒乱はあえなく終ったのである。一方、前原一誠も十一月三日島根県宇龍浦で捕縛され、遂に十二月三日斬首されている。
今田浪江は萩に護送され、十一月三日萩臨時裁判所で裁判をうけ除族の上、終身刑に処せられ、明治十四年四月四日京都で服役中に年三十才で死す。浪江は、徳山地区においては最重刑に処せられたのである。その他の者についても、罪の軽重により処罰されている。
浪江は死後明治二十二年憲法発布による大赦の恩命をうけ、今田家は士族の呼称を許され、士族の金禄公債証書も下付された。
前原の乱は防長の一隅、萩で起ったのであるが、これに呼応して山田村事件が起り、また、騒乱までには至らなかったが、県下各地で不平士族達が会合し不穏の形勢があったことは、明治維新の発祥の土地だけに特に政府を驚かしたところである。
前原の乱の敗因については『前原一誠伝』に
惟うに前原の事を挙ぐる如何にも草卒であった。彼には熊本神風連ほどの準備もなく支度もなかった。同志の結合訓練に於ても頗る欠くる所があった。挙兵の準備としての兵器弾薬等に於ても殆んど何等の用意もなかった。而して周辺の情報にも寧ろ迂遠であった。而して恐らくは当初から十分の成算はなかったのであったろう。ただ神風連の捷報を聞き遮二無二蹶起したらしく察せられる。
と記されている。
山田村事件も勿論、前原の乱の失敗によって龍頭蛇尾に終ったのであるが、今田浪江はこのようにあっけなく終るとは、全く予期しなかったことであろう。これについては、徳山の一味がこの事件より早く脱落したことが、失敗の大きな原因であると思う。
山口県庁より叛徒鎮圧のために直ちに遣わされた役人が県に報告した記事によると
三十日徳山之形情承リ合セ候処、此内来世上紛紜候得共、町家抔ハ一円不存、至テ穏成由、然処午后六時スキ河合蕃江罷越、巨魁飯田端ヨリ依頼之由ニテ、爰元壮士輩萩地之形情ニ就テハ、一統騒立不穏折柄藤田来着候付、右壮士輩屯集致サセ、兵食等仕向呉マシク哉、無左テハ即時及暴動候テモ説諭方之趣段無之トノ事ニ付、与次相答候ハ、一時之権謀兵食位之仕向ハ致シ可遣候得共、其趣ハ即刻県庁ヘモ可届出、然時ハ暴挙之事跡露顕、自然捕縛相成候テモ十口有之マシク、只今之向相慎居候得バ、不審筋有之候共流言ニ可相成、其趣キ以能諭被遣候様相授候事
三十一日午前六時前ヨリ、下瀬事、吉岡精一宅ヘ巡査同道罷越、無間連帰リ、同時飯田端、河合方ヨリ帰途エ捕連帰リ、夫ヨリ坂田・荘原・小野・塩川等追々巡査罷越無難連帰リ、一応郡向之上巨魁四人山口ヘ護送、吉岡事親類預ケ、塩川ハ為指不審無之故於宅謹慎、イツレモ同日暮後迄ニ仕抹相成候事
と記されている。これによると、徳山では騒乱らしい形勢はみられないのであって、主謀者であった飯田・小野・坂田達も何等抵抗することもなく捕縛されている。また衆徒も、主義主張によって立ち挙った者ではないように思われる。一死以て国に殉ずる気魄がみられないのは残念である。
山田村においては、主領今田浪江は一月京都より帰郷するや、以来同志の結束はいよいよ堅く結ばれていたのであるが、一般大衆は乱を好まず、大衆の支持を得られなかったことが失敗の原因と思う。また、すでに明治も九年を経過し、国内の警備態勢も完備されており、政府と各地を結ぶ通信網も整い、鎮圧の処置が速に講ぜられたため、鎮定が早かったと思われる。事件当時、東京及び各地と山口との間に交された電報が集められた綴をみると、当時の状況並びにその処置が迅速に講ぜられたことを知るのである。
前原一誠が今田浪江に贈った「以公明之心行正大之事、今田君高嘱辱知生一誠書」の掛軸が現に今田家に伝わっているが、新政に名をかり幾多の悪政が行われている時勢を憂え、若冠二十五才にて公明正大の大業を成さんとするもならず、遂に獄中で憤死した今田浪江の胸中を憶い、同郷の者として深く追悼の意を捧ぐる次第である。
その後、今田家の子孫は村の名望家として、村政にあるいは学校教育等に貢献されている。
(昭四四・一二、第一二輯)