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4 明治三年の生野屋村庄屋の記録よりみた当時の世相

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 庄屋をしていられた生野屋の松村家から、明治三年の古記録を借りたので、これを調べることにした。
 これは、明治三年の正月七日より十二月十七日までの、上部官庁より庄屋にあてられた公文書をすべて記録したものである。前後の年や明治三年の十二月十七日後の記録が失われているのは残念である。
 これに記録されているのは一六九件あって、一番多い月は十二月の二十件、少ない月は八月の三件である。これを概略、項目に分けて順に記すと
 一 財政と租税   四五件
 二 救民の賑恤   二四件
 三 治安及兵役   二三件
 四 藩及藩主に関した事項  一六件
 五 土木治水(特に友石堤)   一五件
 六 許可事項    一一件
 七 徴発      一〇件
 八 社寺      一〇件
 九 職制の通達    七件
一〇 雑        八件
     計    一六九件
 こうした事項の発生した明治三年及び前後の年代の世情等について記すと(山口県文化史年表による)
慶応三年十二月九日  王政復古
明治元年     長州各藩より鳥羽伏見の戦、奥羽征討軍、東国各地に出兵
明治二年二月   徳山藩の職制の改革及給禄の改正
同 五月二十七日 神仏分離
同 六月 十七日 版籍奉還、毛利元徳山口藩知事を奉命
同 六月二十六日 旧藩主毛利元蕃徳山藩知事を奉命
同十一月二十七日 諸隊号を廃し常備軍を編成
同十一月  晦日 常備軍の選に漏れた諸隊の不平の徒山口を脱す
         年末秋作不熟のため、西部地方では百姓一揆があった
明治三年について言えば
明治三年一月二十一日 脱隊兵山口藩議事館を包囲
同 一月二十六日 脱隊兵更に議事館を重囲
同 二月  九日 常備軍及豊浦・徳山・清末・岩国藩兵を以て脱隊兵を討伐
同 二月 十九日 脱隊兵の賞典を没収し帰農商を命す
同 二月二十九日 脱隊宣撫使徳大寺実則山口に下着
同 二月  晦日 脱隊暴徒の領袖三十余名を処罰
同 四月 十八日 養蚕奨励の趣旨を全藩に布告
同 四月 二十日 山口藩議事館の名称を廃し山口藩庁と称す、この日上中下士の等級を廃し単に士族と称し順序は知行高によらしむ
同 六月  二日 東照宮及大内家追善の仏祭を廃し、宝現霊社に合祀して社殿を山口築山に造立し神祭に改む
同 七月二十四日 三田尻・小郡以外のお茶屋売却に決す
同 九月二十三日 安政五年以来の国事殉難者の祭典を、吉敷郡宮野江良招魂場において挙行
同 十月  三日 社人僧徒の農商に帰するを許す
同 十月  八日 藩治の職制を改革し、政事堂を藩庁と改称、民事局を郡用局と改称して大属・小属・史生・小史生等の諸役を置き、軍事局を陸軍局、祭祀局を社寺改正署と改称し、大監察を廃す
同十一月  四日 諸郡に布達して畠或は田畦に茶桑果樹等の栽培を奨励せしむ
同十一月  八日 士卒の帰農商を許し禄額に応し一時金を下付
同十一月二十三日 山口萩両明倫館の学制を改め、中学と称し中学規則を交付す。また三田尻講習堂および諸郡の郷校を小学と改称し、素読・習字・算術を専務とし銃陣ならびに撃剣を兼修せしむ
同十二月  六日 藩内往還の道法、人馬の賃銭等を民部省に報告
同十二月     諸郡に庚午川浚修補銀を創設し、毎年定期に諸川の浚渫を行わしむ
この年より明年にかけ諸郡に明治社倉銀(従来の救民修補銀の一種)を創設せしむ
明治四年以後について大略をいえば
明治四年六月十九日 徳山藩を廃し山口藩に合併
同 七月 十四日 廃藩置県に山口県・岩国県・豊浦県・清末県を建置
同 七月二十八日 山口藩庁の称を廃し山口県庁と称す
同十一月 十五日 山口・岩国・豊浦・清末の四藩を廃し改めて山口県を置く
明治五年四月   政府は庄屋を廃し、戸長がその職務を行うよう公布
同 八月  三日 学制頒布
同十一月  九日 大陰暦を廃し太陽暦を用う
明治二十二年四月一日 市町村制実施
 以上は明治三年を中心として、その前後の年代における事項をあげたのであるが、当時の庄屋の職務も勿論こうした世情に関係したものであった。
 今回は記録中で興味をひいた事項について、断片的に記した。財政経済産業については、次回に譲ることにした。
1 明治三年には、生野屋村では延二十五軒が救米の支給をうけていた。
              生野屋村畔頭
                田村七郎衛門組
                   (以下氏名は省略)
  一 米五升               家内五人
                田村重左衛門組
  一 米三升               家内一人
                木原源之進組
  一 米五升               家内三人
  右之者共益々難渋ニ而当節難凌趣ニ付、為御恵乍纔前書之通被下之候条、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達之
 まことに些少な額である。平素は雑穀を食し、米は時々重湯にして飢を凌いだことと思われる。明治三年も後半になると一斗二斗といった米が支給され、一人一日一合位の割であったようである。また貸米も行われ、年利六朱で貸されたのも二件ほどあった。
2 明治維新後の兵制改革に端を発した脱隊事件など、時局はいよいよ不穏であった。そのために徴発はしばしば行われた。
        村夫 五十人
            内
           二十人   栗屋村
           三十人   生野屋村
  右前書之村夫只今より遠石町え罷出御用相勤候様可被遂沙汰、為此申達候、以上
    二月十三日
                          兼崎寛九郎
     村々庄屋中 (以下略す)
 右のように、徴発は只今よりと即刻に行われたのであるが、当時の事件の緊急さが察せられる。
 二月十三日、二月十六日、二月十九日、二月二十二日と続いて村夫が徴発されているが、これは脱隊事件で山口・防府方面で激戦が行われていた時期にあたっている。
3 村夫の徴発とともに蒲団、草履まで徴発されている。
          覚
  一 蒲団 百枚
        内
       五十枚   生野屋村
       五十枚   山田村
  右御用ニ付御借上被仰付候間、只今徳山人馬所え差出候様可被遂沙汰、為此申達候、以上
    二月四日
          覚
  一 草履 二千二百二十足
        内
       三百足   生野屋村
  右輜重方御用ニ付、只今より前書ノ通リ差出候様可被遂沙汰、為此申達候、以上
    二月十三日
4 この脱隊事件は山口藩にとっても、明治維新によって生れた新政府にとっても、重大な事件であった。このため藩主は謹慎を申し出たのである。
御宗藩諸隊之者乱暴相募候ニ付、不得止次第候得共、不容易事件ニ立到リ候ニ付テハ被為対朝廷於殿様にも御謹慎之儀被仰出候間御藩内騒ケ敷義無之様、穏便ノ心得肝要之事ニ候
右之通御沙汰相成候条、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
  二月二十七日
 この謹慎伺出も、何分の沙汰あるまでは平常通り行うようにとのことであったが、三月二十五日には謹慎に及ばぬとの達しであった。これによって、藩内をおおう暗雲の思いも一時に晴れ、藩民は雀躍したのであって、四月十七日には庄屋一同お祝に参上している。
 脱隊事件について、左記のような藩よりの説諭のことばが下されている。
        覚
去冬天朝より御沙汰筋により御軍制御改革仰付られたる折、脱隊の兵士とも銘々の得手勝手よりして騒立、猥りに徒党を結び、遂に宮市え屯し、諸方の農町兵等を呼集め、多人数引まとひ其威勢を恃み、勿体なくも御上へせまり奉り、数々の難題を申募れとも、深く御了簡ありて御咎めもなくして御両殿様を始しめ奉り、御末家様方御懇に入割仰諭されの御手も被為尽、是迄の軍功の御賞美も、御手厚く下し賜れても、一向その沙汰の旨を畏りぬるのみならず、剰へ御用ありて召出されたる干城隊を佐々並にて支へ、又ハ鉄炮構へにて昼夜、御屋形を囲み、御用の往来を迄丸々ふさぎ御当役方の御出伺を押留御目付方を自分共の陣屋へ連帰り又態豊浦様山口御出の御道筋をふさぎ、殊に御蔵の銀を盗出し(略)……
上へ背き、非道をなしてとても遂げらるゝものてはなく、天空の下に住居はならぬものと申事を能く合点すへし
  庚午二月
別紙御説諭之趣、村中へ不洩様可申聞候事
右之通リ被仰付候間、此段被心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
  二月二十四日
5 こうして説諭の趣旨は、村中に洩なく伝えるよう庄屋に通達された。脱隊事件は当時の世相を一段と不安にさせたのである。当時の不安な世相に対処し、他所者、浮浪者については、特に取締りが厳重になった。
火之用心之義、兼て御沙汰振も有之、火之本念入候処は勿論之事ニ候得共、当節柄別而廉相無之様気ヲ付可申候、左候て五人組申合せ、夜廻り可仕候、尚御領内他所人入込、止宿等不相成通り、是迄内度々御沙汰相成候ニ付、万一不審之者入込候而ハ不相済事ニ付、乞食躰之者迚も見当候次第国処聞糺、早速届出候様此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
  二月十日
6 七月二十四日にも、乞食の入込を禁ずる旨の通達が出されているが、遂に違犯者には処罰(蟄居)が行われた。
          覚
            生野屋村畔頭
               田村稲十組
                  (氏名略す)
  右他処人度々留屋止宿為仕候趣聞込筋有之、不謂事ニ候、依之先逼塞申付為事、
  右之通被仰付候、以上
    九月二十八日
7 犯人逮補のための人相書も庄屋に送られた。明治三年には、五人の人相書が記録されているが、その中の一人について話すと
      人相書
        東京浅草出生
           喜八伜     清吉
一 年令 二十三四才位
一 丈ケ高き方
一 色浅黒き方
一 丸顔ニテあごこけ候方
一 眼大キク右眼ノ下三寸二分程之疵有之由
一 背中ニ武者之彫物有之由
一 外常体
右昨年巳十一月二十五日夜英商ボーイヲ及殺害逃去候者之由、今以探索不行届ニ付、外国え対し候て不都合之義ニ候間、府藩県ニおゐて厳重遂探索捕獲可致之旨此段相達候也
  庚午三月
右之通従
朝廷被仰出候間、見当り次第召捕夫々支配者え届出候事
右之通御沙汰被成候条、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
  四月十七日
8 当時は開国間際のこととて、外国人に対しては特に過敏になりすぎるほど配慮されたように感ぜられる。
 朝廷御沙汰写            府藩県
外国公使旅行之節城下又ハ陣屋許え休泊致候ハハ、官員一人平服ニて旅館え相越、知事之口上を以尋問可致事
 但公使ニ無之候ハハ不及其儀事
旅館幕台提灯盛砂等、総て馳走か間敷義ニ不及候事
外国官人通行之節は、其宿駅ニおゐて問屋役人之内出迎案内可致、地方官庁より送迎役員等不及差出候事
外国人通行之節往来見物いたし候義は不苦候得共、彼方ニては高官の者も手軽に旅行いたし、且彼我之礼儀もかわり候儀ニ付、去々之人民におゐては殊更外国人之情態をも熟知させる故、不作法等之儀有之候ては不相済義ニ付、地方官ニて屹度取締可致事 (略)……
以上外国公使旅行之節心得方、別紙之通従朝廷被仰出候ニ付、此段相心得可申候事
右之通御沙汰相成候条、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
  閏十月十七日
 右のような沙汰書が府県に出され、その趣旨は更に庄屋に伝えられ、全村民に悉く知らされるように命ぜられたのである。
9 社寺については前年明治二年に神仏分離の令が出されたのであるが、下松妙見社については、明治三年に神仏分離が行われており、左の記事がある。
下松妙見社之義此度朝廷より御沙汰相成候ニ付、仏体仙器は来ル十日鷲頭迄御下り被仰付候間、此段御知せ申上候、以上
  九月九日                         鷲頭寺
 また社名も降松神社と改められたのである。
      口演
河内村妙見社、今般降松神社と御改号被仰付、御社頭引受取計拙者え被仰付候ニ付、来ル十六日任常例何風興も無之候得共、粗茶進度候間、御苦労なから清木練太郎方迄御出可被下候、右為御案内如是ニ御座候、以上
  九月十二日
                               黒神
 六ケ村御庄屋  畔頭衆中
10 夏の御田頭の神事について左の記事がある。
右田方御祈禱神主金藤信濃江相頼、松尾八幡宮田頭御幸来ル十日仕度、尤雨天之節は同送ニシテ執行仕度、尚諸入目之儀ハ小貫(ツナギ)加入被仰付被下候様願出之通被差免候、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
  六月六日
 十二日には荒神社の御田頭が行われている。また、勿論風雨旱魃には御祈禱が行われていた。
頃日雨天打続候ニ付、御藩内田畠諸作為豊熟止反御祈禱於遠石八幡宮執行被仰付候間、此段相心得農業出精可仕候事
右之通御沙汰相成候条、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
11 政治は一新されたので、為政者はますます奢侈遊惰を厳しく取締り、国運の伸展をはかった。
世上一統人気相弛ミ、間々驕りに流れ、遊惰に相過候ものも有之哉の趣相聞、いかかの事ニ付、盆中踊りの義も子供たりとも堅差留候条、決て心得違之作舞無之様可仕候事
右之通御沙汰相成候条、此段被相心得可被置沙汰、為此申達候、以上
  七月十一日
 右のように盆踊は堅く禁ぜられ、翌十二日に踊りが行われたときは、踊場を提供した地主も罰せられるよう達せられている。
 また雛祭や端午の節句についても、厳重に規制されていた。
初雛初昇の義ニ付、先年以来度々御沙汰相成、尚又過ル癸亥歳初昇之節、紙昇一本雛祭結纜之人形一対外堅差留候通御沙汰相成候処、心得違之者も有之哉ニ相聞、甚以不謂事ニ候、其上当御時節柄之義ニ付ては、於下も別て銘々相心得、初雛初昇之節たり共、宴集間敷儀決て仕間敷候、自然心得違等有之は屹度迷惑可申付候事
  五月二日
12 往還松について左の記事がある。往還松も必要によっては伐採されていたようである。
一 往還松 一本
  但山田村往還筋ニおゐて立廻り三尺余之分
右生野屋村筧二本仕替御免被仰候ニ付、前書之松樋木へ採用被仰付被下候様、願出之通り被差免候条、此段可被相心得、為此申達候、以上
  五月六日
13 種痘についての左の記事がある。
          覚
        種痘日
  十一月十七日  二十四日  十二月二日  十日  十八日  二十六日  正月四日
  右日数種痘定日相成候、有月二三人以上罷出候様旁被相心得、可被遂沙汰、為此申達候、以上
    十一月十三日
 先日、市内の明治十一年生れの老婆の方より聞いた話であるが、当時は大変疱瘡がはやり、自分の先祖にも疱瘡で一時に三人も死んでいると言われ、当時、豊井地方ではやった歌に
  一つ東のひいがジャギ       二つふたやの良はあがジャギ
  三つみのじよやはあがジャギ    四つ横田のぶへいはあがジャギ
  五つ今はあがジャギ        六つ村やのおごうがジャギ
  七つなあはあがジャギ       八つ弥平はあがジャギ
  九つこうやの常はあがジャギ    十で寅はあがジャギ
 ジャギとは疱瘡でできたアバタのことである。このように、歌でうたわれたようにジャギの人が非常に多く、一家で五人もジャギの人がいた。また狐が疱瘡の皮をはぐのが好きであったから、家々では晩には早くから戸を締めて、狐が入らぬようにしていた。皮をはがれると赤身になって死んでしまったなど、おもしろい昔話をいろいろ聞かしてもらった。
14 生野屋村の農業にとって、重要な灌漑源をなす友石堤が、明治三年に大改修されている。
  三月七日         生野屋村     松村伴五郎
右生野屋村友石堤近来破損之処、因願此度御普請被仰付候ニ付、右向下受頭取申付候、尤畔頭中え世話方申付候間、申談御為宜敷様可遂心配候事
こうして庄屋が工事の責任者、畔頭が世話方となり早速、工事は始まったのである。
友石堤洞樋於平野ニ調方被仰付、右ニ付明極朝石工註文ニ柳村民蔵被差越候ニ付、寸方旁請合として明九日極朝、御自分ニても源之進にても両人の内一人民蔵方へ罷出、一同平野へ可被罷越、為此申達候、以上
  三月八日
三月二十九日には庄屋が札銀三貫五百目献納し、続いて畔頭及び有志も献納し、工事は進捗したが、何分とも大工事のため、生野屋村の村民だけでは完成も覚束ないので、他村に加勢を頼んだのである。
      御願申上候事
一 人夫 八百人
      但右之人夫山田村、来巻村、河内村、西豊井村、東豊井村より加勢相成候様御願申上候事
右生野屋村友石堤御普請ニ付、当村人夫相労候節ニ、前書之通リ村々より加勢相成候様御願申上候間、御免被仰付可被下候様、左候て被掛次第、差出方相成候様御沙汰相成可被下候、此段宜敷様偏ニ奉願上候、以上
  午四月
右願出之通被差免候条、此段可被相心得、為此申達候、以上
  四月十六日
東豊井村百五十人、西豊井村百五十人、河内村二百人、来巻村百二十人、山田村百八十人、計八百人が加勢することになった。
工事中、生野屋村の庄二郎なる石工の手伝が負傷したため、山口に入湯したいが難渋して費用がないので、御恵米を願い出ている。
 六月二十一日には藩より米十俵普請料として下された。
15 徳山藩第四代元堯の第百五十回忌の法事が大城寺で行われるに当たって、次の記事がある。
  庄屋町役人其外御殿遂出仕来候者、併諸寺参詣仕来候者共、九日十日両日之内一度御寺参詣御香典相納可申候
        但町棟梁役も同様之事
  一 地町男女御法事中勝手次第拝聴罷出候儀被差免候事
        但十一日は用捨可仕候事
 右来ル九日より十一日まで
  豪徳院様御法事於大城寺御執行ニ付、前書之通被仰付候間、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
    三月七日
 また長府藩第十三代元周の夫人が卒したときは、三日間の歌舞音曲が禁止になった。
  於豊浦智鏡院様御病気之処、御養生不被及叶、過ル十三日御卒去相成候ニ付、今日より十九日迄三日之間唱物音曲停止被仰付候事
  右之通御沙汰相成候条、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
    五月十七日
 このように、藩主百五十回忌の法事や、長府藩主の夫人の死去に対しても、弔意を表するように達せられるなど、当時の藩主の権力には驚く次第である。また、一般の者の名前についても制限があった。
  御宗藩知事様御実名元徳公と被為改候ニ付、御名の字并宗訓共用捨可仕候事
  右之通御沙汰相成候条、此段被相心得可被遂沙汰、為此申達候、以上
    九月十一日
  様の字并殿の字以来於下取扱申間敷候
  右之通御沙汰相成候間、此段被相心得可被沙汰、為此申達候、以上
    十一月十八日
16 その年の作物の出来を、実際に調査して貢租額を決定した検見の役人に対する待遇について、次のような記事がある。
諸村共御検見御役人被差出候節、賄方之儀ハ文久癸亥歳御沙汰之通相心得、聊にても奢ケ間敷事無之様、手軽にして差出可申、酒は勿論禁止申付候、諸雑費尚貫高共其節ニ逐一正直ニ一帳ニ相認、先例通其向御役人の印形被請、支配役座え差出可申候、尤帳面前之外、現貫ハ堅く差留候条、其節之儀ニ付万一地下役人猥筋立之節は、取糺之上迷惑被申付候事
右之通御沙汰相成候条、此段可被相心得候、為此申達候、以上
  十月二十三日
 (先般、下松東豊井村の庄屋引継書を見たが二十六冊、十四通の書類の名と鍵・桝・火消道具等が記載されていた。これによると大体、庄屋の任務も分かるように思う。これらについては他日記すことにしたい。)
(昭四八・七、第一四輯)