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5 磯部家古文書について

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 昨年秋(昭和三十三年)東京磯部家より、当家伝来の古文書が磯部貞熊氏のもとに送付され、私も拝見させていただいた。この文書は、「周防三部」のうちの一家である磯部家に伝わる古文書で、殊に開作・塩田に関する史料は非常に貴重なものである。山口県立図書館石川卓美氏に通知したところ、氏はこれらの古文書は山口県地方史研究にとっても貴重な史料であると言われ、二回にわたり四日間出張の上、種々研究された。そうして重要な文書はすべて写真に撮影され、同図書館に保存されることになった。
 このことは、下松地方史・山口県地方史研究史料として、貴重な古文書を遠く当地にまでお貸出し下さった東京磯部家、並びに種々御便宜をいただいた磯部貞熊氏に対し、深く感謝の意を表する次第である。このたび送付された古文書は、全部で二七一通あった。まだ未整理の文書もあるように聞いているが、これほどの多数の文書がよく保存されていたことは、まことに地方史研究のために喜ぶべきことである。今回の古文書も、詳細に研究するには数ケ月の日時を要するであろうが、石川卓美氏の御指導により、このたびは大略述べさせていただき、いずれ後日発表したい。
 このたびは、重要な文書について年代順に調べてみよう。
 磯部家文書を年代順にたどってゆけば、磯部家の略史を知ることができる。まだ、かなり多くの必要な文書が洩れておる。例えば、正徳元年(一七一一)八月二十二日より二十五日までの藩主の磯部家出遊の記事や、元禄三年(一六九〇)、享和二年(一八〇二)、享和三年(一八〇三)、文化元年(一八〇四)、文化二年(一八〇五)に行われた開作の記録がない。また、経済史において、重要な宮洲屋発行の藩札についての詳しい記録等、重要な文書が洩れているのは残念である。
一 元禄十五年(一七〇二)閏八月十一日
   庄屋又兵衛の開作請状控
二 元禄十五年閏八月十二日
   磯部与四郎開作願
     古塩浜七反七畝、築添六町八反三畝
      計七町六反の開作願
    奥書許可免状  閏八月十四日
三 元禄十五年閏八月十六日
   開作御請状之事控 磯部与四助
   光井佐右衛門あて庄屋又兵衛奥判
四 元禄十五年閏八月二十日
   弁財天より宮ノ洲迄大開作追願御断書控
    荒積り二十二、三町。
五 元禄十五年(一七〇二)八月五日より十二月二十九日迄開作諸入目銀高(合百五十五貫二百六十八匁三分)
   諸仕入銀、米代、酒代等
六 元禄十六年正月十六日
   御断申上候事開作地塩浜仕立のため入川芥松伐採願
   磯部与四郎 庄屋太郎右衛門あて
七 元禄十六年、十五
   問屋免許願書
八 元禄十六年、十八
   龍神堂(弁財天)領田方三石 樋守領田方五石
   並稲干場御免御証拠物
九 元禄十六年十一月十七日
   問屋免状写 米田左兵衛より開作主磯部好助あて
   東豊井ノ内磯部好助開作築立追々塩浜仕立焼申立由、然者塩売買之儀右開作之内ニ問屋相定塩其外何ニても相当之物商売仕度之由、左候時ハ開作主勝手にも相成儀ニ候間御差免被下候様と磯部好助理り状……被差免候間、弥問屋相定塩売買可有之候、以上、未ノ十一月十七日 米田左兵衛 東豊井庄屋太郎左衛門殿 開作主磯部好助殿
一〇 元禄十六年十二月二十五日
   預り申銀子定之事(塩浜預り証文)
    上浜一枚加調銀一貫目
     半加調前納 残半加調後納の証文 浜領主 西豊井村佃ノ惣右衛門
一一 元禄十六年十二月二十五日
    預申銀子之事 一銀五百目定
     半加調前納 半加調後納
     田畠家屋敷抵当
      浜預人数東豊井村
           吉郎右衛門等
一二 塩浜一ケ年切加調預り手形(塩浜小作契約証文)
    仕入銀借入の約定 月極仕切 売塩は問屋取立
    薪仕入約定 抱浜子之規定 災害復旧之規定
     浜預主連判 塩浜十五枚 十三人連判
一三 宝永二年(一七〇五)二月二十五日
    小田与市兵衛より塩浜小作算用紛争の申立書(小作料の異議申立)目代年寄あて
一四 宝永二年六月三日
    塩納屋普請願
         佃屋穏右衛門等連判
     江野口屋請左衛門殿
一五 宝永六年十月十八日
    賢海軒詩並連歌
     長沼玄珍 吉村通菴 松岡玄享
     元次  水津光瑞  古志次昌  清水
     宗親  松野次尚  羽仁利貞  増野
     長常  増野政治  神村親芳  光井
     利喬  河合宗重  桂 澄治  大野直般
一六 宝永六年十月十八日
   下松東市除屋敷御判物写
一七 宝永六年十月二十三日
   下松東市の居屋敷一反一畝三歩高四石七斗一升除の免状
        奈古屋玄蕃等連署(宝永六年十月二十八日藩公御成の褒美)
一八 宝永六年十月二十八日
   下松町磯部好介居屋敷並屋敷付畠一反一畝三歩御除御証拠物写
一九 宝永七年十二月
    御役目断控(新開作田方御役目免除)磯部好助より
二〇 正徳元年(一七一一)九月二十八日
    新開田一町畠一町、西浜問屋々敷八畝高三斗三升二合除、並東豊井の内古田畠新開共其方作面都合十九町一畝十六歩、高二百六十石九斗六升一合、唯今有懸之畝石後御改不被仰付、家老奉書 磯部好助あて
二一 正徳元年十二月二十五日
    新開田一町畠一町西浜屋敷八畝高除御証拠物写 庄屋畔頭の書出し奈古屋元蕃奥判
二二 正徳元年
    磯部好助作面付立 惣反別十九町一畝十六歩
      古田畠塩浜  四町二反十六歩
      新開     十四町八反一畝
      田      二町五反十二畝
    内 畑      二町一反八畝
      塩浜     十町一反十一畝
二三 正徳五年十月十一日
    都濃郡鷲頭庄下松覧海軒雅会詩
     水津康寿仙 松岡玄享 元次 吉村 通  浅井茂久 岩崎任重
二四 正徳五年(一七一五)十月十一日
    磯部好助塩浜の館にあそひたまふ慶びの歌仙の連歌(福間直矩独吟)
二五 正徳五年十月十一日
    都濃郡鷲頭荘下松於覧海軒 歌仙之連歌
     元次 福間直矩 増師政治 今田長常 松岡玄享 桂澄江 古志次昌
二六 宝暦二年(一七五二)一月
    島出店質方規定書
二七 宝暦二年十一月十四日
    永々郷士申付格式中小姓格子孫ニ至迄御見捨不被成候事御書付
                          磯部好太郎
二八 宝暦七年二月二十日
    切米高七五石御馬廻格御奉書
                      磯部好太郎
二九 宝暦八年四月一日
    早田無断刈取についてのお咎書
             宮洲屋好助あて
三〇 寛政六年(一七九四)十一月
    塩浜(八反一畝)並家屋諸道具付売券状
                   亀屋鶴右衛門
         宮洲屋幸吉あて
三一 享和三年(一八〇四)十二月十三日
    御仕組ニ付御所帯方御用達人に貸下銀申付覚     御蔵本
三二 文化十年(一八一三)二月五日
    御用料銀御預ケ中切米高十五石被下書状       磯部隣右衛門あて
    学館御用料       百貫
    江戸御武器修補料   十五貫
    御座船修造料     十五貫
三三 文政五年(一八二二)十一月十三日
    諸役所御用料銀貸下継続の指令書(切米十五石引続下付)
                磯部喜作あて
三四 文政十二年十二月
    東豊井魚カ緑り山(十二町余)植松締り書
                山庄屋 橋本文右衛門
三五 安政三年(一八五六)正月
    千賀屋浜仕入銀(五両)借用手形(今津屋藤吉から宮洲屋伝右衛門あて)
三六 安政三年八月二十九日
    操綿代金借用手形(筑後真幸丸忠兵衛から宮洲屋幸吉あて)
三七 嘉永七年(一八五四)十二月
    下松浦新崎千賀屋浜巌浜八塩屋浜売渡の返証文
                宮洲屋幸吉あて
三八 嘉永七年十二月
    下松浦宮浦開作真澄屋浜富崎屋浜売渡しの返し証文
     山本半右衛門板本三郎右衛門から宮洲屋幸吉あて
        代金一四五〇両 定加調年々八七両 十年の返し契約
三九 明治二年十二月二十三日
    内実迷惑につき士族に列せず、永代大庄屋格、永代倅迄帯刀御免、年々米十九石一斗七升三合二勺六才被下奉書
                 東豊井村 磯部廉右衛門
四〇 明治四年二月十五日
    郷士申付米二十石年々下賜奉書
                  磯部廉右衛門
四一 安芸広島札御仕法写 萩表札銀御仕法御書付写
四二 徳山藩藩札御仕法写