かつては碑前で盛大な除幕の式典がくりひろげられ、師の功績が幾百の人々によりたたえられた記念碑も、今は訪ずれる人もなく、草に埋もれている碑も少なくない。碑は何を語り何を訴えているであろうか。碑前にたたずみ世の変貌を思い、万感胸に迫るものがある。
一 下松の寺子屋時代の教育
下松の寺子屋時代のことについては、今までいくたびか各方面より問い合わせをうけたのであるが、大した資料もなく、満足な回答もできなかった。最近これについて、文書や石造物の資料を得たので、参考までにここに掲げよう。なお、これについて詳しい研究は、後日に譲りたい。
明治初年、文部省が各府県に教育沿革史資料の取調べを命じた。これについて各町村より県に提出された文書が、現在山口県文書館に保存されている。
それによると明治初年「下松にあった手習場又は私塾の経営者」として〔末武中村〕津村秀山(僧)〔西豊井村〕井村正人(士)飯田柔平(医)〔末武下村〕慈教堂中村一現(僧)教導館 村上敏雄(神職)〔末武上村〕石田潔(士)村上基福(神職)〔瀬戸村〕内富恒庵(医)があった。
次に、当時の寺子屋の概略を届出の文書によって記そう。
一 名称
末武下村の慈教堂教導館があるばかりで、他には特別の名称のある寺子屋はない。
二 所在地
三 塾主氏名
四 兼ねて教えし学科
読書の一学科をあげているのと、読書・算術の二学科としたのと相半ばしている。
五 教師の数
全部の寺子屋が教師は塾主一人で、助教として上級生四・五人を使っている。
六 生徒の概数
最も多いのは津村塾の一一二名(男八九女二三)、最も少ないのは瀬戸の内富塾の二三名(男二一女二)で平均すると六七名となる。
七 授業の順序
「伊呂波片仮名、伊呂波平仮名交り俗文、兼テ男子ハ実語教、女子ニハ百人一首ノ読方ヲ授クヲ了ヘ、名頭村号郡名国名通用文、兼テ男子ハ孝経・大学・中庸、女子ハ今川女大学・女庭訓・同上商売往来・俗用文章・庭訓往来、兼テ男子ハ論語・孟子。女子ハ女庭訓及礼儀作法、洒掃等ヲ授クヲ学バシメ、兼テ読方ヲ授ク。」これは井村塾の届出によったのであるが、各塾とも大略これと同じである。末武上村石田塾では更に詳しく記している。
「いろはヲ了ヘ、仮名交りノ綴届文及日用単語文字ヨリ成文ヲ学バシメ、兼テ読方ヲ授ク。習字ハ一日六回学習セシメ、第三日ヨリ諳書スルヲ要ス。五日ニ至リ能ク字形ヲ正サシメ、六日ニシテ清書セシム。而シテ既ニ学習セシ字本ノ順次ヲ遂ヒ、日々四分ノ一ヲ諳書セシムル。一月六回ナルヲ月課トシ、教全本ヲ諳書セシムルヲ昇級課トス。兼テ授クル読書科ハ素読ノミ。尤も時ニ臨ミテ近易ノ格言ヲ講述ス」
八 習字本及読書用書
「習字本ハ、いろは変体・五十仮名・仮名文・童子訓・日用物名・名頭字町村名・証書文例・読書往来・消息往来・女消息往来・俗用文章・女用文章・庭訓往来・読書用書ハ孝経・四書・五経」
なお前述の教科として算術をあげた塾も、算術用書としては何も書かれていない。
珠算の加減乗除を行っていたものと思われる。
九 学習年限
慈教堂では「生徒智鈍、或ハ貧富ニ依リ、一定セスト雖モ、五年乃至七年ヲ以テ概期トス」としているが、各塾とも凡そ五、六年である。
ただ瀬戸の内富塾では、「父兄ノ依頼ニ任ス。甲部ハ凡四・五年間。乙部ハ一年ヨリ三年迄」とし、甲部乙部にわけ、甲部は教書も乙部とはちがい、難しいものを教えている。
一〇 束修謝儀
大体同じで「入門之際束修金、旧藩札三匁乃至五匁ヲ修ム。別段月謝ヲ納レス。毎節句同ノ祝儀ヲ納ルヽ而己」とある。高いのは入門のとき十匁、また五節句以外に盆前歳末にも祝儀を定めている。
一一 塾主の身分
「僧侶神官医師ノ余暇ヲ以テ授業ス」「旧徳山藩士ニテ授業ス」とある。
一二 調査せし年代
この調査は、明治二年(一八六九)より五年(一八七二)までの間にされたものであることが記されている。
以上の調査書により、当時の寺子屋教育の大略を知ることができよう。
次に、これ等の私塾のほかにどんな私塾があったであろうか。次に記すものは、年代はいつ頃か正確に分からないのが多いが、これらの詳細については、後日の研究に譲りたい。既刊の郷土史誌についてみるに『久保村郷土誌』は詳しく同村にあった私塾についてのべている。
<切山山田方面>
桑島竜斎(玄達)弟子二十人、高山・上原・添谷方面の人を主とす。
藤本法城(誓教寺住職、明治二十二年寂)弟子二十人ばかり。
林繁鞆(教安)奥迫川原という家の辺の人。後に切山尻に居を作る。弟子三十人、来巻地方の人を主とす。
桃林寺虚白(天保の頃)弟子十五・六人あり。
桃林寺々伝に「虚白道環大和尚夙ニ子弟教育ノ勿緒ニスベカラザルヲ感ジ、近隣ノ子供ヲ集メ寺子屋ヲ開ク。サレバ其歿後門弟相図リ、拠金シ石碑ヲ当門内ニ建ツ」と記されている。
良牛 宮の坂の庵で教えていた。弟子二十人
<山田方面>
武居源五平 弟子十人ばかり。小迫を主とし中村に及ぶ。
石田義順(光円寺住職)弟子三十人、久保市・岡市の人を主とする。
玉井粟左衛門 弟子二・三十人、山田・中村方面の人を中心とする。
近藤頼母 寺子屋の名を新田といった。浴条・中村を主とする。
今田誠司 梅の木原頭に住し、梅の木原方面弟子二・三十人。
<河内方面>
山本宏〓(円城寺住職、明治三十一年寂)吉原方面を主とし弟子三十人。
原田重庸(降松神社神職)大河内にあり、弟子四十人。中戸原・大河内方面、大河内に門弟にて碑を立つ。
高村友七 黒杭の家塾にて弟子二・三十人、黒杭小野を主とする。
原田三介 下小野に開く平田浄連寺の弟子となった人、弟子二十人。
田中庄左衛門 吉原にて開く、この人は武士で弟子十余人。
原田治兵衛 岡市にあり、弟子二・三十人。久保市・岡市の人を中心とする。
武田竹之進 久保市の人。弟子五・六人。久保市方面。
以上のように多数の私塾があげられている。下松末武方面については、郷土誌の人物篇(弘鴻・森重靭負)墓石篇(柳先生・野田先生・明法院先生)にその名をあげ門弟の教育にあたっていたことが記されている。
以上は文書及び図書によって調べたところである。次に、このたびの石造物の調査により、門弟によって建てられた碑及び墓について述べよう。
前述の久保地区についていえば、岡市光円寺境内にある墓に
1 石田義順墓 明治二十三年十月建之 施主筆子中
2 南無阿弥陀仏 天保十四年癸卯 施主筆子中 とあって誰の墓か記してないが、十二世住職義諦師の墓と伝えられている
大河内宮ケ浴にある碑は
3 原田重庸先生之碑 明治二十五年十二月十八日 門人一百名外子孫五名建之
辞世「大御代に嬉しみ居をながらへてかみのみかとて八千代楽しむ」八十九翁重庸
八口松心寺の境内
4 光明真言萬遍塔 安政五年五月 行者丈興 施主若并寺子中
5 故林文心先生之墓 大正二年三月二十一日歿 門人建之
林文心先生は、学制頒布後は明治六年頃より明治十七・八年頃まで大河内小学校で教師をつとめた人。
西念寺境内
6 宝城崇仁先生・宝城春子先生之碑「裏面に昭和三十九年七月建之、私立淑徳女学院卒業生」とあり、明治末期に西念寺本堂を校舎にして女子塾を行う。一時は四十名位通学していた。昭和初年閉校した。
旧下松町についていえば、恋ケ浜墓地に
7 徳藩柳先生塚 明治五壬申在世七十春 門人中建之
辞世「さくらにも有明の名やほとゝぎす」柳先生については郷土誌『下松大観』によれば、「二軒屋墓地にあり。徳山藩士であるが成年後当町字東町辺に住し、俳諧宗匠として名ありその門弟数百名」とあって、もと鋼鈑会社の前にあった二軒屋墓地にあったのを、ここに移したのである。
8 橋本文左衛門墓(宝林院釈誓願偏照居士)
明治十一年寅旧二月十一日 筆子中建之
9 阿邦清廉霊神 天保五(一八三四)甲午五月 弟子中建之
寺迫墓地には
10 明法院先生墓 六世権大僧都元貞法印
明治四歳辛未九月十四日 筆子中
『下松大観』によれば、「二軒屋墓地に在り。先生は何処の人なるか判明せず。字高洲地方に住していた山伏で、漢字に通じ多数の門弟がいたとのことである」と記している。
『下松大観』には長浜墓地に
11 野田先生の墓があるといい「大字東豊井野田文治部氏の実父で、俳諧をよくして梅枝と号し、明治初年歿した」と記している。
周慶寺墓地には
12 大阪出生鶴沢清造先生墓 明治四十年七月建之 世話人中村芦鉤・豊沢渡竜・松室豊吉・中村徳蔵
13 鶴沢公竜先生墓 明治四十年八月建之 門人中 世話人中村芦鉤・豊沢渡竜
14 豊沢渡竜先生之墓 大正七年三月建之 弟子中
いずれも浄瑠璃の師匠の墓で、下松地方に浄瑠璃がさかんになったのは、この人々の力によるのである。
なお、西市の孤塚墓地に「摂州大阪覊沢 治(釈円宗治観信士)寛政九(一七九七)丁巳十月六日」と記した墓があるが、この人が下松浄瑠璃の開祖ではないかと思う。後日の研究に譲りたい。
15 久原房之助の先祖(藤田伝三郎の先祖)の墓があった。墓の前面に藤田家先祖の墓とあり、よこに藤田孫左ヱ門常記夫婦、文政辛己正月廿四日、寛政元歳十二月廿六日、辞世として「かりの世を今や見捨て……(文字不明)」とある。下松は久原家先祖の地であると久原工場建設のおこりとした墓と思えば感慨無量である。墓は墓地整理のため現在はない。
東光寺墓地に
16 権大僧都法印恵弘大和尚 嘉永五(一五八二)壬子年三月十二日 弟子中 世話人相本重右衛門・茶屋慶之助・相本勇吉
恵弘大和尚は、泉所寺の住職である。世話人相本氏の名より考えると、柳方面の人々が主に習っていたものと思われる。
深浦の専修院境内の墓地に
17 水蓮社真誉善阿知等崇準和尚 明治十二己卯三月六十一年賀而立之 円寂明治三十年二月十六日 生徒四十人
花岡墓地には
18 岩瀬実治夫婦之墓 大正十三年十月建之 弟子中
辞世「木守を残して柿の落葉かな」五州岩瀬氏は、建築彫刻師として有名であった。
西河原の福円寺境内に
19 無染院釈秀山法師(当山十六世住津村秀山)明治二十六年三月 生徒中
以上は門弟によって建てられた師匠の石碑を述べたのであるが、これには読み書きを教える寺子屋の師匠だけでなくて、俳諧・浄瑠璃・工匠等の各方面の師匠が含まれているのである。これらの一人一人についての詳しい研究は後日に譲る。
二 石碑の碑文
先年、周慶寺境内の墓地の整理が行われたとき、拓本にしておいた墓石の碑文を、左に掲げよう。特に伊賀崎氏は磯部氏と比肩し、磯部氏とも婚を結び勢力があったが、今まで史料が見付からなかったので、この碑文は貴重な史料であると思う。
仁寿院藤先生之墓
孝子斐奉祝
按状 先生諱見竜字自範、仁寿院其号、其先藤原淡海公支族分居近江者以近藤為氏世伝、至先大父諱登攀字自賢、遂居住周州都濃郡生野也、家世医為業、嘗娶河野氏生二男五女、長
先生次周迪命為嗣、其余姑置諸 先生以元祿十六年癸未之秋七月七日生、為人傀顔巨鼻、性温柔謹素恂々寡言不同不語、子弟家庭燕見不敢変也、少敏恵目光変々傍射、先大父奇之曰、千里駒也此豈局蹐轅下徒老土壤者哉、其不為嗣職是之由、歳十有七而有将以医別作一家之志、請 先大父学医於京師、師事堀玄厚、業成帰寧于父母、遂欲行学見許、乃以薬筐一匙、出於同郡青柳浦、始寓食泉処寺居之、歳余徒居閭市居恒、且莫修古法孜々唯日不足、貧賤者至輙尽心為之不敢忽諸、寛保癸亥之春遠游於崎陽、求瘍 之方時、有人南蛮得瘍 自迪者 先生踵其門通 蓋如故為十日之歓、其徒数十人心酔締交、自迪亦義気相許、与以家伝之奥義交誼特厚也、仍卒業帰国、爾来起人 不可勝数矣、名益顕業 崇可謂能作一家者也、先生嘗在寒郷常苦乏書故購医書、 古歴史数千巻蔵之、塾有自所選之書五巻、嘗示堀玄厚、玄厚拊巻三嘆曰、嗚呼公真異人哉、以序其 名曰、家方秘録乃伝其家也、其高弟有河 須松養謙青自徴秋見鱗山松溪之輩、陸続興矣、明和五年戊子之春、先生病日革命也哉、天乎夏六月廿九日捐館得年六十六、葬市中之周慶寺、臨送柩会葬者数百人、巷哭聚弔、若市闔境衷馬群為之空、先生娶矢田部氏、生二男 五女、二女早夭、嫡斐字 郷一字方作以為嗣、為国学諸生大有声、次明允字誠一字文侃、叔父周迪先卒、無子令文侃為嗣長女嫁林氏、次嫁宍戸氏、其次許嫁松村氏、孝子方作欲為先考、樹墓碑飛書謀諸余、余不一面先生、雖然方作嘗為諸生徒我游居二年、以 先生病罷帰、私心所郷往何必恝然乎実僅〓指、先生以故不辞、為之銘如其、詳何生状具是矣、銘曰、屹然而不泯者、其語耶欝然、而不朽者其名耶所、遺子不以財以書厥、子播獲不隤家声矣
長門明倫館祭酒小倉実 拝識
章敬書
至誠院孝誉道智通義居士
誠心院貞誉法薫智栄大姉
君諱通義、姓越智氏、称良助、周芳降松人、其先出自余州河野氏、四州擾乱之時、高祖隠岐君諱通春者逃来居焉、以売醸為業、遂積千金、為邑豪族、隠岐君卒、其子通時嗣、通時生通金、通金養磯部某子通信、将以為嗣、既生包通、乃分其産包通、無子養通信、子延春以為嗣、延春生通興、即君之考也、娶重岡氏生君、君生而孤、同族通雪摂家政以育君、君為人剛毅有智計、長為市長其事上也、不苟屈其臨下也、不苟借人憚其 、君夙有大志、其意不楽与賈竪相伍、屢謀進取値時、不利終不得志、嘗有故閉居、不得与外人交通者十二年、日以続書為娯、君有記性加以博捜嘉余、有游官之志、遂為忘年之交、嘗一夕談及地埋、即自本朝山川険易道塗遠近至異域物土之、宜猶指諸掌上焉、又能画及諧歌、最嗜力剣家亦富古書画、刀剣其余器物玩好不可枚挙、故皆能自通、其監識当君父祖家事、棟 日就耗衰及君嗣以節倹力行、自居廃居射利遂復其〓、君生長市井間不幸値時屯変、雖然閉居読書楽、道其志不少、屈陶猗之業亦出其余智、可不謂奇士乎、君娶磯部増英女、無子晩養高祖裔、孫通舒以為嗣、授之家政、其身則 河村氏、而隷州之国分寺以晦跡云、去春君謂余曰、吾死子志之不復、 求 玆、文化三年春二月廿七日慕疾卒、悲夫行年六十、葬邑周慶寺、先塋之次通舒既卒哭、以遺命来請時、余伏病不堪筆硯、然久要平生不可忘、即泣、銘其墓曰、
謂之賢邪人焉、知之謂之愚耶人焉知之卓呼、援者志気耶祖先之風、猶尚有其道哉
長府教授 臼杆辰識
次に、公集小学校前の孝女満佐の碑文を掲げよう。
たらちねをおもふこゝろは降つもる
雪よりもけにふかくやありけむ 元徳
孝女満佐碑 正三位勲三等男爵 揖取素彦撰文
孝女名満佐、周防笠戸島人、父曰八助、平生嗜酒、家頗貧、満佐日出海浜拾魚貝、鬻以給父焉、母亦病、満佐自謂今日以往唯在祈神而己、降松妙見為遠近所敬仰、満佐毎且沐浴祈其快愈、一日払暁、自攩舟賽祠時、属厳冬寒気刺膚、満佐冒風浪僅得達祠、既而帰路卒倒、於道邨民救之、絶而復蘇焉、無幾母遂盲、満佐供養如一日、八助歿、尋而母亦死、満佐哀毀 踰制隣並称、其篤行藩侯嘉其至孝、歳賜米一苞、藩制農家禁称族、独令満佐称族、蓋特典也、満佐以安政七年閏三月二十七日終於家、年九十九、族人宇吉承家、明治七年縣追賞篤行、賜米弐拾苞、十八年 車駕親臨山口県、族表門閭周防人武弘宜路代島民謁毛利公、将請国歌以刻石、介人索全碑文、嗚呼満佐生長一孤島、非受師伝保姆之教而篤行如此、蓋至孝出於天性者也矣、余深感満佐之行、併嘉島民之挙、記此附以銘、銘曰、
周防之海 清而且瀰 島有笠戸 翠松葳蕤 孝女所宅 美誉四馳 吉人天祐 賜賚斯縻 噫孝女蹟 実百世師
明治三十年十月建
正四位勲三等 巌谷修書
井亀泉刻
都濃郡宰判代官所等がおかれ、また、諸侯参勤交代の要路にあたっていた花岡には、立派な石碑が多く、その碑文は文化の盛んであった往時を物語っている。
花岡八幡宮の正面馬場の側にある石碑は広大で、石に刻んだ大きな亀上に立ち、立派なことは市内随一である。俗に亀石とよばれている。
正三位勘解由長官菅原長親公の撰んだ花岡八幡宮記が記されている。
周防国都濃郡末武荘花岡八幡宮は、かけまくもかしこき皇国の御代の守りと鎮りまします大神にして、まつるところ宇佐におなし、つたへいふ、そのかみ和銅二年己酉の弥生のころほひ、三奈木某といふわらはに託りたまひ、朕は筑紫の宇佐のしまに天降りし姫大神なり、こゝにすまむことを思ふ、願くは汝いつきまつれ、さるしるしにはひと夜のほとにやまをさくらとなし、また岩清水をわかしめむとのたまへり、みさとしのことく千もとのさくらあしたの雲とたなひきかすめる空に、かくはしくわきいつる水またすかすかし、つひにこの事おほやけにきこえて、瑞の御舎をつくり、千木たかしきてかしこみ祭り、いまにかうかうし、そのみやつくりうへにやまのすかたいや高く、ふもとは青柳のうらちかくし、前に奈つれ遠白し、竈門鞠府のなみもこゝもとによせくるこゝちす、仮のあとを上地といひ、伝若宮こゝにたゝせたもふ、岩清水を赤井といひて、この水をくみてのむひとはもろもろのやまひをまぬかるといふ、またいとなめらかなる石あり、駒の蹄のつきしをあらはす、神成石といふ神こゝにしてみうたよみしたまふといへり、いまに九月なかの五日、言あけ様のなかうたをうたひて、神幸の道すから声たからかに神ほきつかふまつるも、実に神代ののこれるありさまはなやかにおこそかなり、され花岡といへるは延喜のひしりの御代に定給ふ、生野にして東は勝間、西は平野に隣れるを、あとたれませし名にめてゝ、何時よりかとなへあやまれり、ちかくは豊臣三韓をことむけしとき、この瑞垣にいのりまうし、宇佐香椎にもぬさを奉りしとなむ、原田氏大蔵谷延種年ころおもひはかり、いそのかみふるきあとをしたひよしある越きを石にえり、しるしをきてむとて枝折かとうけなるこけむす石をしたつ礎にせむことを、誰かれ共にものしちからをあはせこゝろをひとつにし、からうしてひきよすること十日あまりの日かすをつめり、ひく人千々にも余るときけは、誠に千引の岩といふへし、時日とうらへてふとしきたてぬ、その石のたゝすまひあやに妙あり、見る人おおそらをあふくこゝちもといふうこきなき真のいたりはかの石よりもをもかるへし、なをもさかゆく末武のよゝになかく民のかまとのけふりあつく、はることにさく花岡のその名たえせぬためしを常磐堅磐につたへてむいさをしと、文化九年葉月のころ遂ぬと出雲守従五位原基徳かつたへきかしまゝをしるしをきたるを、こたひ雌黄くわへてかきあらためむことをもとむれとも、もとより千里の外の事なれは、筆を添へきことはりもあらさるまゝをかきつけはへりぬ
文化十一年(一八一四)六月八日
正三位勘解由長官菅原長親
原田庄左衛門 大蔵谷信種建之
この石碑とほとんど相対して、閼伽井坊の境内に数学者弘鴻の石碑がある
弘鴻翁之碑
翁氏は弘、名は鴻。鴻の訓ひろしなるを以て、尋石ともかけり。文政十二年周防国都濃郡花岡の里に生る。父は八右衛門といふ。世々旧藩の花岡邸の番所付なり。翁幼き時より数学を好み、暦法にも通せり。慶応二年我か藩よこさ言にて国の境を塞かれ、他の国よりの物とては一つも到らてわひあへるか、中にも暦なけれは農其時を失へり。翁甚くこれを慨みて暦をつくり、宰判の下代に頼みて所務代官に見せけり。代官よろこひて山口に持ち出て、当職きこえけれは、殿の見たまふこととなりて志あつし。さりなから暦は私につくるへきものにあらす。農の時を知るはかりに作り改めさせよと仰せ下されけり。翁かしこまりてさらに上りけれは、種蒔の栞と名つけ、すり物にして国内に頒たれぬ。これそ翁か世に知られたる初なりける。翌年山口に召されて山口明倫館数学教授松本源一につけられ、其業をたすくることゝなりたれは、教授に就きて洋算をも学へり。後士籍に入りて助教となり、後師範学校教諭をも兼ねぬ。明治四年電信線路測量のため英人ラリケン山口に来りければ、翁選まれて之に随ひてありき。其の法を授かれり。五年学制はしめてしかれ、小学校にて筆算を教ふることゝなれるに、その用書なかりければ、翁やかて算法小学前編八冊、後編九冊を著せり。さるに県庁にては前編をのみ摺本としけれは、翁はあかぬことに思ひ、自ら資を出して後編のうち四冊を彫りそへたり。十七年其職を退きたるに、教を乞ふ者少からねば、教室を設けて日文舎と名つけ、かたはらはやくよりすけることゝて語学歌学に思をよせて、其方さまの書をもあさりけり。かく若き時より老に至るまて眼を甚く労しけれはにや、ついに盲目となりて三十六年一月九日に身まかりぬ。齢七十余り五つになんありける。翁人となり正直にして、世に諛はす、なりかたちもつくろはねは、奥山人めきたり。されはさる先生なりとも知らさる者も多かりき。著したる書とも身のたけにひとしけれと、摺本となれるは算法、小学校珠算、新式洋算、例題答射、量地必携、詞の橋立及ひ五十連音のわけのみ。若き時よりの弟子いくそはくなるか知られぬと。日文舎の名簿すら二百余に及へりとそ。こたび何某ぬしたち思ひ立ちて、其の産土の花岡に碑を建て、己に其の在し世のことともをしるさしむ己。翁のことといひ、ぬしたちの請といひ、かたかたいなむへきにあらねは、拙き筆をもわすれてかくものしつるなん
かくはしき名は花岡の花の春
千万ふともうせしとそ思ふ 近藤清石碑の右側面に
大正三年甲寅十一月建之 有志者中
左側面に
終焉の歌
皇産霊の神のむすひの紐とけて
けふよりもとのすみかにそ入る 尋石
碑文は先生の国学の師近藤清石の撰で、書は先生の門人大谷新二(鴻城高校初代校長)の手になったものである。
この碑の近くに、句碑が二基ある。
紙衣の散るとも折らん雨の花 芭蕉翁
もう一基は、明治二十有四年卯之七月竹村市右衛門の建てたもので、最初に「古池や蛙とひこむ水の音 はせ越翁」とあり、あとに数句彫られているが、読解できず。今後の研究に譲りたい。
下松市の唯一の重要文化財多宝塔の横に、多宝塔重脩碑がある。
多宝塔重脩碑
花岡山者在周防国都濃郡花岡村、山上有八幡神祠、祠畔有多宝塔、安金剛大日八幡神本地三尊、像伝云、此塔者藤原鎌足公之所建、而室町時代改造焉、結構典雅、而下層四面中央枓栱間之蛙股、最極優秀矣、大内毛利二氏皆厚信仰三尊、香煙殷盛、明治四十年五月官列塔保護之、数椽撓屋傾蠹蝕漸甚、郷党志士憂焉、官民相謀修新之、須材一万五千円請四方喜捨、仰官助費昭和三年起工、四年六月漸告成、昔時祠下八寺司祠事後皆廃絶、唯存閼伽井坊与地蔵院、左院右坊挾随神門、随神門為祠前門、院亦廃充小学、明治之初禁神仏混祠、於是祠置祠職遷三尊像、於多宝塔塔亦属諸坊、今修造新成、巋然偉観足以伝千載、而松湾之碧島山之翠遠邇相映、嗚呼仏法之興、昭代之恩沢、使此塔炫燿万劫不蓋之光輝盛矣哉
花岡の四恩幼稚園の所が、昔の本陣のあったところであるが、本陣の庭にあった桜について「春雨桜」の碑が立っている。
春雨桜と表面に書かれ、裏面に
文久紀元歳在辛酉、我忠正公東覲之途次、疾駐駕於花岡駅矣、一日公指駅館之桜樹曰、樹下之、鉄蕉、恐礙花時之、観後駅民移之、他盖奉公之意也、頃者駅民追慕之深、欲建石以表遺愛、請杉子爵之顕辞、併及余当時子爵之与、余在扈従之列、今日之請皆不可辞、囚記此
明治三十七年十二月
三位男爵 楫取素彦記
以上のように、立派な碑文が書かれている石碑の多い花岡の土地柄を考えるとき、古い歴史をもつ花岡の文化の一端にふれたような感がするのである。
次に碑文が書かれていない彰徳碑をあげよう。
1 生野屋の旧国道にそい小溝の横に
嬉シサヤ于損ヲ凌ク堤水
福谷直布塚
国ノ御為ニ心ノコシテ
右側面に
明治十八年五月建之 孫八田堤水受中
左側面に
慶応三丁卯四月 庄屋 松村伴五郎
2 久保市西蓮寺の前に
篤農家
小林武作君之碑
山口県知事橋本正治書
右側面に 大正十三年九月建設
左側面に 久保村農会員
3 降松神社中宮の境内に
御本社建築発起人 清木直吉碑
右側面に 文久三癸亥歳ヨリ十三年経テ明治八歳ニ成就
左側面に
頌徳 高き名は千代ににほふや松の花
石碑発起者(氏名略)
4 平田浄蓮寺境内に
畜魂碑
昭和十年十一月四月建之
明治年間に隣家の内山家より出火し隣の乳牛場を全焼した。後年、内山氏供養のため建立
5 昭和通西念寺境内に
○孝女お加屋彰徳碑
裏面に 昭和三十六年八月
孝女お加屋顕彰会建之
○碑の横に歌碑あり
「孝女加屋と讃えつがれて百余年 いしぶみはいま緑雨にけぶる」
○境内に「みちしるべ」の石柱あり(戦後ここに移したもの)
「右とく山路 左下松路」
○石棺
下松末武の山根円墳より出土された箱式棺である。
○石の七重塔
格狭間(こうざま)の構図よりみると室町時代のものと思われる。
○五輪塔
この辺りでは一番古い五輪塔と思われる。
6 明治以後の各戦後の戦死者の墓石には、戦死の年月日、場所を記しているのが多い。それについて浄西寺境内に
中川春三郎源正広塚
右側面に 顕明院忠誉義貫居士
左側面に 山口県士族 別働遊撃第一中隊
行年二十九歳
裏面に
鹿児島県賊徒征討ノ節、明治十年五月三十一日豊後国大分県大野郡三重市ニ於テ、進撃ノ際重傷ヲ受ケ即死致候ニ付、同国大分郡松栄山陸軍埋葬地ニ埋葬相送候分建
三 其の他の石造物
神社の境内で一番目につき、数も多い石造物は鳥居と灯籠であろう。市内の鳥居で私が調べた三九の鳥居のうち、年月がわかり一番古いのは降松神社若宮の大鳥居である。この鳥居の文字は風雨で風化し、ほとんど読めなかったが、幸にして
七己未暦首夏十有八日
立華表上祈武運長久下禱 安全
の字を見出すことができた。 七年が己未に当たる年を調べたところ、延宝七年(一六七六)であることがわかった。今までも十干十二支によって、たびたび年代を正確に知ることができたのである。
次に古いのは花岡八幡宮の大鳥居である。これは文字を全部読むことができた。
防州路都濃郡花岡八幡宮華表於于
貞享三(一六八六)丙寅春正二月成〓以故銘曰
高然華表以献応帝照古鑑今深根固帯
地軸不抜天柱何劌花岡改観景福萬世
願主 田中十郎右衛門
三番目は、西市の貴布祢神社の鳥居である。元禄 酉十月吉日とあるが、酉の年は元禄六年(一六九三)である。施主の名も他の文字も風化されて不明である。
次は切山八幡宮の大鳥居である。
元祿辛巳十(一六九七)肆稔初冬日穀且
山陽道周防州都濃郡切山住民
願司藤井八衛浄玄捨財革故鼎建
本庄生土神社前華表銘云
華表鼎新勢倚天願心彫石萬年堅
非惟積善寿孫子随喜村民福没邉
この鳥居の石材は、高山の石切場の石で、銘文は桃林寺沙門上藍の撰という。
この地方の鳥居の文字をみるに、花岡八幡宮切山八幡宮のはよく読むことができるが、三百年以前の鳥居の文字は、風雨のため風化して読めないのが多い。大体において、昔の鳥居の寿命は石質等より考えて三四百年位が限度ではあるまいかと思うのである。
次に石灯籠については二四〇基調べたが、一番古いのは花岡八幡宮の元禄十三年(一七〇〇)で五基ある。うち三基は氏子中より寄進し、二基は田中十郎右衛門の寄進である。
次は下松荒神社の正徳五年(一七一五)、次は松尾八幡宮の享保十五年(一七三〇)戊戌山県弥左衛門寄進の石灯籠である。
花岡八幡宮には、寛政年間に四六基の石灯籠が奉献されており、ことに寛政二年(一七九〇)には十基も奉献されている。この関係については後日述べよう。
恋浜・樋上・殿浴・平田・西河原・高塚・岡市等に、お宮もないところに灯籠が一基立ち、妙見宮奉献或は八幡宮奉献とある。これはお宮が遠いため毎日参拝することができないので、ここに灯明を献じ、遙拝したと言われている。恋浜のは天明八年(一八三七)の奉献であるが、当時悪い病気が流行したためその祈願のためという。
石造物のなかで、数が最も多いのは墓石である。寺院の境内に、部落の墓地に、幾十幾百と立つ墓を見るとき、全く感慨無量である。
最も古いのは、松神町の一本松寮の前にある
永正十五年
妙仲禅
月八日
この永正十五年(一五一八)の文字は、磨滅毀損が甚だしいので断言できないのであるが、大体において間違いないと信じている。
次は浄西寺境内の、磯部家初代の磯部宗安夫婦墓は天正十九年(一五九一)卯五月十五日の墓である。
三番目は普門寺境内にある、覚道久は寛永七年(一六三〇)九月二日の墓である。
墓として一番大きいのは、豊井妙法寺の裏山にある寛永二十一年(一六四四)の清安院殿光誉栄真大姉の五輪塔である。栄真大姉は毛利就隆の乳母で、昔は菩提寺として清安寺という寺もそばにあったのである。
次に大きな五輪塔は、昭和通松心寺境内にある祥光院殿端中以松大姉の塔である。毛利就隆の娘に当たり、寛文十年(一六七〇)に死亡している。傍に永心寺殿月窓永心大姉の墓がある。これは就隆の側室で以松大姉の母に当たる。この墓は宝篋印塔で、墓として立ててある宝篋印塔の墓では下松で一番大きい。松心寺はこの永心大姉の菩提寺である。
これらの墓の周りは、広く石の瑞垣でかこまれ、墓地は高い杉の生垣でつつまれている。静寂な、墓地らしい墓地である。近年近くに墓がたくさん立てられ、昔のおもかげが失われていくことはさびしいことである。
宝篋印塔は、墓石としてよりは、この地方では主として供養塔として建てられている。
供養塔としての宝篋印塔は、下松に七基あるが、その彫刻や全体の均整の美といった点等より考えると、下松の石造物の中では最も美術的に秀れているものと思う。
西市正福寺境内にある宝篋印塔の銘を記す
若人求福至其塔所一華一香礼拝供養右旋行道由是功徳官位栄耀不求自至寿命富饒不祈自増怨求盗賊不討敗怨念〓咀不厭帰本疫癘邪気不抜自避善夫良婦不求自得賢男美女不禱自生一切所欲任意皆満足云云
寛政十一(一七九九)己未九月吉日令辰 願主浅海姓
なおこの地方の墓石の形状は、年代によって変遷しているのであるが、これは後日の機会に譲りたい。
四 史料としての石造物
上述の石造物以外で、史料として考えられるものを左にあげよう。
1 恋浜の降松神社の境内にある手洗鉢等に、筑州柳川領廻船中、諸国廻船中、とある。
2 恋浜墓地に、東豊井開拓者菊地棟居先祖之霊地、の標石がある。
3 二宮町に、埴常神鎮座処という小祠がある。
4 同所に、「明治二十六年七月 矢島作郎立」の燈台の石塔がある。
5 浄西寺境内に、磯部家累代の墓がある。
6 周慶寺境内に、藤田伝三郎(藤田組)の祖先の墓がある。
7 中島町沖に小祠がありその前に「常夜燈 安永七戊戌二月八日 願主 下村喜左衛門」とある。
8 西市沖に小祠があり、「住吉明神 竜神宮 祇園天王 天明七歳十一月吉日」とある。
9 開作沖に「益田御領御開作 坪郷大明神 天保九(一八三八)戊戌十月八日」とある。
10 西教寺境内に飯田家先祖の墓がある。
これ以外にも、史料として有益なものが多くあるであろう。道傍の小祠が、道路守護神を祀り、田の中に田の神を祀る石祠が立っているのも多いのである。なぜ、そこにそうした小祠が祀られたのであろうか。史料として考えてみなければならないのではあるまいか。先日も末武香力の田の中に、石の小祠を見付けた。両社大明神の祠で、前の石柱に「文化二(一八〇五)丑春 願主森重甚左衛門」、とあった。両社大明神は開作の神、水の神の二神を祀る祠である。このあたりを開作した森重氏の祀ったものであろう。森重氏は有名な三島海戦法の祖で一時は門弟二千八百余名いた。森重氏の祖である。何百年かの生命をもつ石は、昔のことを物語っている。
昨年の秋、降松神社中宮に参り、和歌水に通ずる裏参道の小さな石柱に
奉寄進中宮社
和歌水浴白亀池マテ三丁
文化八(一八一一)未年依霊夢而八月四日三輪村ヨリ送ル也
願主 なるかふ村
と刻まれていた。最初、落葉や土に埋もれ文字が僅かしか見えなかったが、落葉を除き土を掘りやっと全文を知ることができた。昔の人が一刀一拝といい、一彫りする毎に仏を礼拝して仏像を刻んだというが、私も風雪にさらされ苔むした石に刻まれた文字を、一字一字判読してゆくとき、死んだ方々の後世に伝えようとする不滅の魂にふれるような気がして、静かに念仏さえ口に浮ぶのであった。
(昭三九・三、第九輯)