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2 下松市内の五輪塔について

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 山道や畑の片すみに、五輪塔の輪石をよく見付けるのであるが、さわるとたたりがあるといい、さわらぬ神にたたりなし、とそのまま放置されている。さびしいことである。
 仏教(密教)では、この世界は五大の原素(地水火風空)よりなるといい、地は固体、水は液体、風は気体で物質の三態を意味し、火は物質の変化を代表し、すべての生物は火力によって空に帰するものと考え、一切万法この中に蔵すという。またこの五輪に五形を配し地形は方形、水輪は円形、火輪は三角、風輪は半円、空輪は宝珠形としている。ひそかに思うに、この世は地水火風の苦にさいなまれ、最後は空(死)に帰するのであると考えれば、五輪塔もそうした人生の縮図を象微しているとも思われる。
 最近は石造美術として、石造物が大変世間の関心をあつめている。しかし、ただ好奇心から骨董趣味として鑑賞されているように思われる。信仰の対象として、仏を観じ祖先を偲んで朝夕礼拝し、想いを永遠に伝えんと石に刻んだ古人の真情を思い、合掌礼拝して調査をはじめる敬虔さがほしいものである。
 五輪塔は墓標として、また供養塔としても用いられたものである。その起原は川勝政太郎著「石造美術入門」によると
五輪塔は後世広く全国に分布するが、その発祥は平安後期であると考えられる。現在知られる石造五輪塔として最古のものは、中尊寺境内の釈尊院墓地にあるもので、形状は古風であり仁安四年(一一六九)の紀年銘がある。
と記されている。
 五輪塔の形状と作製年代について同書は次のように述べている。
地輪(基礎)
鎌倉時代中期以前のものは、背が低いのが多い。そのために安定感がある。しかし古いものでも背の高いのがあり、新しくても低いのがあるから、これにこだわって時代の新古をきめることはできない。他の細部とにらみ合わせて、他が古ければ背の高い基礎でも古いものと認めるべきである。
水輪(塔身)
鎌倉中期以前では、角ばったような球形で雄大感があるが、後期以後は裾ですぼまった壼形に進む傾向がある。
火輪(笠・屋根)
背が低くて左右によくのび、軒は全体に反る真反りに近く、屋根の流れや隅の降り棟の曲線のおだやかでおおらかなのが、鎌倉中期以前の古風な様式である。鎌倉調の完成した後期の様式では、背は適度に高く屋根流れと降り棟は弾力性をもつ反りを作り、軒口は厚く両端は少し寸法を増して反らし、軒口を垂直に切る。このようにして鎌倉調の力強い様式を作り出している。南北朝時代はこれをうけついでいるが、おいおいに屋根の流れと降り棟の反りが大きくなり、室町時代では軒反りの方は力を失ってゆく。桃山時代から江戸時代におよんでは、軒の下端は水平にして上端だけを両端で反らし、軒口を内斜めに切るので隅は極端にとがり品格を失う。
空輪(宝珠)
鎌倉中期以前のは少しおしつぶしたような形のと、反対にやや背が高く蓮の蕾に似た形のとがある。後期になると、両側の曲線に張りのある宝珠形が完成し、頂点はわずかにとがらせる。南北朝ごろからは頭が張り裾がすぼまった。室町時代以後では、両側の曲線が張らず、直線に近くなってかたい感じが段々進み、江戸時代では頂点をおそろしく長くとがらすものもできた。
以上のようにして作製年代を知ることができると説かれており、詳しく図示されている。特に火輪・空輪が時代を見分ける極め手になるように思う。
 五輪塔の輪石はころがりやすいため、処処によく輪石を二三見つけるので、五輪塔は大変多かったように思うが、五輪石で一塔を組み建てるので、五輪塔の数はそんなに多くはないと思う。
 このように、五輪塔は不安定な輪石を積み重ねたものであり、また何百年か経っているため、小さな五輪塔は何度か崩れては築かれたものと思う。そのため、他の年代の輪石が入り交って組み建てられたと思われるのも多い。
 また、宝篋印塔・層塔・宝塔も、基礎・塔身・相輪等に分かれているので、これが崩れた時、五輪塔の輪石も入り交って組み建てられていることがある。調査のときは一石一石についてよく調べなければならない。
 五輪塔の石質は、ほとんど平野石である。花崗岩のものは、市内では数基にすぎない。いずれも大きく、新しい年代で、法名・年月日等も刻まれている。
1 豊井妙法寺の裏山に、「寛永廿一年(一六四四)三月十三日清安院殿光誉栄真大姉」と刻まれた五輪塔がある。高さ約三・三米あって市内で一番大きい。清安院殿は毛利就隆の乳母にあたる。附近の人はこの五輪塔を『乳母の墓』とよんでいるという。(清安寺については下松地方史研究第三輯参照)
2 松心寺境内の墓地に、毛利就隆の側室にあたる祥光院殿瑞中以松大姉の五輪塔がある。風化して法名もほとんど読まれない。寛文十年(一六七〇)の死去。高さ二・一米位ある。(下松地方史研究第三輯松心寺の条参照)
3 東光寺の墓地に、高さ二・七米位の五輪塔がある。泉所寺の僧、権大僧都の墓である。年月法名ともに読めず、ただ「権大僧都」の字が判読できる程度である。
4 周慶寺境内の無縁仏の中に、高さ二米(総高三米位か)の五輪塔がある。銘文もあるが他の墓にさえぎられて読めない。江戸中頃の作と思われる。
5 浄西寺境内の墓地に、「明治五年八月二十九日総学秀英童子」の五輪塔がある。高さ一・七米である。磯部増繁四男久美の墓で、当時は磯部家全盛時代であった。
 最近、供養塔として五輪塔が各所に建てられているが、五輪塔の墓としてはこれが市内で最後のものと思う。
 以上はいずれも花崗岩の五輪塔で、形も大きく一米以上あって銘文も明らかである。
 次に記すのは平野石のもので、銘文もなく大きさも一米以内である。五輪がそろって一塔をなしているものはほとんどなく、三輪塔、四輪塔をなし、輪石が積みかさねてある状態である。これらの平野石の五輪塔は、大体五六百年前のものと思う。
 五輪塔がたくさんある所
  慶雲寺墓地 松心寺墓地 正福寺墓地 周慶寺墓地 宮原墓地
 五輪塔がすこしある所
  妙法寺墓地 東光寺墓地 一本松寮 西教寺墓地 高塚乳観音 浄蓮寺墓地 専明寺上の墓地 城山下の墓地
 市内ではこれ以外にもたくさんあると思うが、まだ未踏査である。
 これらの五輪塔も、昔の人は山や畠で見付けると寺や墓地に持っていっていたので、自然にたくさんあつまったと思う。昔から全部のものがその場所にあったのではない。
 市内の五輪塔を調べて気付いたことを左に記す。なお深い研究は後日に譲りたい。
1 思いがけない所に、一基二基分の輪石がころがっているのを見付けることがある。これは、有力者が自分の所有地に墓地をこしらえ、五輪塔を建てていたのではあるまいか。よく昔は、自分の家が見える自分の所有地に墓地をこしらえていた。
2 現在はただ地名に寺名だけ残り、昔寺があったところといわれる所に、五輪塔がたくさんあったという言い伝えが残っているのが多い。
3 西河原の玉峰院や高塚の専明寺辺りに、昔はたくさんの五輪塔があって、土地の開墾のため山のように輪石が集めてあったという。専明寺の辺りのは、海にもってゆき流したといわれている。この辺りは、大内時代の古戦場の地であったためと思われる。玉峰院の辺りは内藤氏の居館、大内時代の古戦場と関連があるのではあるまいか。また旗岡山の千人塚や末武高塚の高塚も、古戦場との関係を物語っている。
4 拙寺西念寺の前庭にある孝女お嘉屋記念碑のそばに、五輪塔を二基おいているが、一基は住吉神社付近の改修より出たものであり、一基は拙寺庫裡の改築のとき地中より掘り出されたものである。この五輪塔は風輪を欠いでいるが、他の輪石はいずれも古く鎌倉前期と考えられる。また室町時代のものと思われる七重塔の格狭間(こうざま)も境内にあった。いずれも後日の研究に譲りたい。
(昭四八・七、第一四輯)