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3 天王森古墳 お屋敷山史蹟

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 去る六月二十七日第一回「古墳と史跡」の踏査を実施した。申込人員は五十余名を数え、盛会を予想されたが、前日は大雨であり当日も天候定まらず、朝は小雨が降っていたため参加者は十余名にすぎなかった。終始小雨と泥土に悩まされながらも、予定通り踏査を終った。史跡の部について概要を述べよう。
 まず、この地区について考えるに、天王森といいお屋敷山・城山といい、いずれも支配者の住んでいた地域であることをまず感ずる次第である。事実、下松地域の中心部にあって、まわりに下松・末武の肥沃な平地があり、前方には良港があるこの地に、下松地域を支配した者が住居を占めることは当然であると考えられる。
 天王森時代は古代、城山時代は大内時代、お屋敷山時代は毛利時代、いずれもこの地区に一時、支配者が居を占めていたのである。
○東光寺観音堂
 この地区の丘陵の先端にある東光寺観音堂についての史料としては
『地下上申』
一 東光寺と申ハ往古此所ニ東光寺と申寺有之たるよし、其故ハ小字を東光寺と申ならわし候事
一 観音堂 東光寺ニ有リ
  但由緒等之儀ハ同村泉所寺より可被申出候事
一 地蔵 東光寺と云所ニ有之
『寺社由来』
一 泉所寺支配東光寺観音堂一ケ所
  但本尊千手観音立像
 現在の東光寺の地名は、もとこの地に東光寺という寺があったためで、寺は現在観音堂のある二段下の畑地にあったといわれている。観音堂は東光寺所属の堂で、境内に建立されていたものと思う。観音堂の現在地は、人々の言い伝えによると古墳があったといわれている。約七十年位前、下より現在地に移されたのである。その当時に古墳がこわされたのであろう。お屋敷山一帯には無数の古墳群があったが、五六十年位前に、大部分の古墳が山の田の石垣に使用するために破壊されたといわれている。
 観音堂は泉所寺(下松地方史研究・第二輯参照)の所属であるように、東光寺は真言宗であったと考えられる。また、泉所寺は尊星降臨と関係があると伝えられているが、東光寺についても、もとの観音堂の辺りに尊星降臨の松があったが、数年前切り倒された。こうして尊星降臨の伝説が、金輪神社とともに市内に二ケ所あることは興味ある課題であろう。
 なお土地の人々は、この地にあった東光寺を萩に移したのが、現在の萩の東光寺であるといっている。しかし、東光寺が廃寺になったのは既に大内時代と考えられ、萩の東光寺は元禄四年(一六九一)の建立で、厚狭郡松谷村より移したことが明らかであるのである。
 観音堂の裏に、三所権現が祀られている。(熊野の三所権現)天保五年(一八三四)磯部家六代増常の寄進したものである。現在、この石祠に小石を積みかさねている鳥居の上などに下から石をなげ石が早く鳥居にあがるとまんがよいといっている。この地方では広く行われている習俗である。
 明治時代頃までは、もとの観音堂の下の段に寮があったといわれている。小さな部屋が二つある小さい寮であったという。
○毛利氏屋敷跡
 この辺り一帯をお屋敷山というのは、毛利氏の邸宅があったためである。史料としては
『地下上申』
一 法蓮寺と申ハ往古此所ニ法蓮寺と申寺有之たるよし、其故ハ小名を法蓮寺と申ならわし候事
一 古御屋敷山
  但先年徳山御先祖様此所ニ被遊御座候故、古御屋敷山と地下人申伝、尤御屋敷およそ百年余に相成候由地下人申伝候得共、此所ニ何之証拠モ無之、唯聞伝許ニ候事
『徳山略記』
一 元和四年十一月三日 下松御入部、法蓮寺岡山御殿出来迄町人伊賀崎隠岐宅被成御座
一 寛永八年是歳、下松御屋敷作事有之、(奉行役左久間清左衛門)八、九拾間四方有之、小松山高サ拾間余、切岸東西ニ壇江竹ヲ植、御門西南一・南一・東南一、御廐長屋惣構之外ニ有之、或茅葺、板葺、初ハ外構石壁被仰付候処、少シ高候而公儀御遠慮ニ思召候て、其上ニ土を持かけ、竹ヲ植させ被成候
一 寛永十五年六月 始て下松御屋敷之御入部
一 正保二年五月三日 野上江御所替之義、秀就公迄御理被仰上、六月七日、秀就公より絵図被差添、下松所柄悪敷候故、同国北野上村え被為御引移……御願被成十月朔日より野上地引被仰付
一 慶安三年六月十日 野上御屋敷え、江戸より御下、直様被為入候
『徳山藩史』
一 下松御城地並御普請之事(略)
一 野上庄江御城地御引移普請並御城内坪数等之事
  ……惣坪数一万六千七十四坪……
山本亀一氏の住宅の石垣の地下に、当時の屋敷の石垣の石が現在も埋もれている。非常な巨石で、二畳敷位の石が使用されており、石垣の厚さも一間半位あって、「非常に頑強なものであったことが想像される」と山本氏は語られた。石垣のつめ石を掘出したのを、現に庭石に使っておられる。当時の石垣は、大体現在の道路の石垣の位置であったと思われる。この石垣を起点とすれば、八九拾間の当時の屋敷を想定することができよう。また東西の山際の竹藪は、往時の植込みの名残と考えられる。
 徳山毛利氏が徳山に移ったのは、「下松所柄悪敷候故」とあるが下松の屋敷は八九拾間四方、即ち七千二百坪で、徳山の一万六千七十四坪に比べると狭少であることが第一の原因であると思う。
 『徳山略記』の「下松御入部法蓮寺岡山御殿出来迄、町人伊賀崎隠岐宅被成御座」の法蓮寺については「下松地方史研究第三輯」、伊賀崎隠岐については「第九輯」を参照されたい。
 観音堂の後方に通称天王森古墳がある。前方(前が方形)後方(後は円形)でこの辺りでは珍しい前方後円墳である。明治の初め前方後円の形をそこなわず横穴(よこあな)をほり、内部の土器・鉄器等を盗んだという。応神仁徳時代の古墳である。(三〇〇年頃)今は部落の公園になっている。
○白坂山と城山
 長文であるが、史料を左に掲げよう。
『地下上申』
一 但当村ニ城山一ケ所有之、往古ハ彼城主末武何某と申仁居城之由、就夫当郷末武村と申伝御座候
一 右小村之内高塚村と申事、往古より城山之麓ニ千人塚ト申塚有之候故歟、高塚村と申伝候事
一 末武城山 高塚村之内
   (次の古城地研究に掲出)
『風土注進案』
末武上村
当村名之儀往古鷲頭庄と申、徳山御領豊井村河内村一円の郷と申伝、大内時代北辰妙見社御建立之節、地名に依て鷲頭寺と申社坊被立置候由、則河内村妙見山之麓ニ有之候、其後末武何某と申御方当所城山ニ居城有之候故、末武村と号来候由古老之申伝ニ御座候事
古城跡之事
城山  高塚村有之
但末武何某居城跡ニて御座候由、彼山峯ニ一町四方程平地有之、東尾ニハ井跡馬乗場とも相見へ候処も有之、城主御名前不詳、只今御立山に相成城山と申候事
郡庁評ニ曰
両国古城跡ノ内周防都濃郡末武村城山、大内家末武助三郎弘勝居トス有之
『防長旧族の館址古城地研究』第十六章 末武城址 御園生翁甫著
城山は下松市大字花岡(小字生野屋・末武下)の上高塚に在る。
高塚は、城山の麓に千人塚というのがあるに因って名づけられたといわれる。その千人塚も、今は存在せぬ。城山の地は末武上と末武下に跨るによって『地下上申』は上下両村より出されている。
『地下上申』末武上村
末武城山 高塚村之内
但往古末武某と申人之居城にて御座候由申伝へ候、彼山峯に一町四方程平地之段之井之跡も御座候、且又東に当て馬乗馬場と相見へ候て往来有之候事
『地下上申』 末武下村
城山    高塚村有之
但末武何某居城跡にて御座候由、彼山峯に一町四方程平地有之、東尾には井跡馬乗場とも相見え候所も有之、城主御名前不詳、只今御立山に相成城山と申候事
斯様に両村より同じように上申しているから、両村何れか一方の村で一応の調査はしたものと認められ、馬乗馬場とあるは、犬走りを指すのであるが、今は平地も筒井も何一つ残っておらぬ。山の持主たりし近藤半平氏に就いて尋ねたるに、左様のもの見聞したこともないとの答であった。古城跡記に末武助三郎弘勝居とあるは、大内弘貞の二子介三郎弘藤を誤れるのである。城山の東方と北方に山腹脈蜿蜒として花岡に続き、同じく南方にも丘陵起伏し西豊井の海岸近くまで続いている。城山の西面が末武平野で、その北と西には山岳連互し山陽道は北の山麓生野屋を経て西の山麓を伝い、僅かなる山道を越えて櫛ケ浜の海岸を経て徳山に入るのである。
城山は険阻なれど西北の尾伝ひに登る、さまで苦しからず。山頂別に削平したる痕跡をとどめず。山は東方に次第に低い。東方に別に一峯あり。両峯相俟って防備をなさざるべからざる地形である。
弘藤、末武村を食み、居地に因りて氏とした。末武中の字東河原に、堀、土井繩の小字地がある。豪族の居館に縁ある地名である。或いは末武氏の館跡ではあるまいか、参考とすべきである。
『防長旧族の館址古城地研究』第十七章 鷲頭氏館址と城址 御園生翁甫著
 正平七年(一三五二)、大内弘世兵を進めて、北軍大内豊前守長弘(鷲頭氏)を討ち、白坂山に戦うた。今白坂山と呼ぶ地名はない。按ずるに、高壺山を指すのであろう。末武氏の城山の東に連る山である。久保村字大河内の西北部の字迫(さこ)という所にて、末武中に跨る山である。附近一帯白禿山にて、花岡にては、白迫(しらさこ)と称え、末武にては、白城山(しらじょうやま)と呼び、高壺というは下松の人の称える所である。白禿の迫(さこ)の山であるに因って、白迫(しらさこ)山といい、また白城山という。白坂山というは、白迫山の転訛であろう。山上よりは、末武平野を一眸の下にあつめ、景勝の地である。
高鹿垣(たかしがき)(略)
旗岡山(略)
『防長古城墟誌』 近藤清石編
都濃郡
 石城山 久保村大字河内ノ字八口寄手ノ城ト言ウ
 鷲頭妙見山 同上ノ字吉原
   (略)
古城墟 末武北村大字末武上ノ字高塚ノ小井馬場ノ跡アリ
古城跡記ニ大内家末武助三郎弘勝居ト云フ。
按ニ弘勝ハ弘藤ヲアヤマレルナリ。介三郎弘藤ハ大内氏十三世弘貞ノ二子デ以防州都濃郡末武村為釆邑ト大内氏系図ニ見ユ。後に内藤藤時本村ヲ領シテ正平七年八月日ノ軍忠状ニ、右自最前為御方構城廓於所領末武庄差塞御敵之通路之処、大内孫太郎弘世己周防国凶徒等今年観応三年二月十九日寄来、鷲頭庄白城山取陣十九二十両日御合戦之時、馳向彼致後巻所抽合戦忠節也、次彼凶徒潤二月十七日重寄来高志垣之間、自末武城同日馳参当城言他ニ内藤ノ城墟ト言フヲ見ザレバ弘藤ノ古城ヲ居城セシナラン
『大内実録』 近藤清石編
大内弘世の条(一部抄録)
正平七年(一三五二)壬辰春二月十九日、先是南朝に帰順して、都濃郡鷲頭荘白坂山に至り北軍散位貞弘、内藤肥後彦太郎藤時等と戦ふ
二十日また戦ふ。閏二月十七日高志垣に戦ふ。十九日熊毛郡新屋河内真尾に戦い、藤時が弟内藤新三郎盛清を斬る。三月六日父弘幸没す。十五日、仁平寺に供養会、弘幸の没せしを以て延引し本日之を修す。二十七日、新屋河内真尾に至り合戦す。二十八日、同所に戦ふ。夏四月九日鷲頭荘白坂山に戦ふ。これより二十九日に至る。秋八日三日散位貞弘と合戦す
大内義長の条(一部抄録)
弘治二年四月毛利隆元来り都濃郡須々万本郷の沼城を攻む。十八日毛利兵降松を犯す。十九日降松妙見山の営陥る。二十日毛利兵沼城を攻む
白坂山と城山について、以上のような史料がある。これらについて、調査の結果並びに古老の言い伝えなどを参考にして述べてみよう。
 城山の頂上にのぼれば、末武平野を眼下に見おろし、些細な敵状の動きも偵察することができるので、軍事上最も重要な地点であることが分かる。こうした眺望のきく地に城を築くことは、当然と考えられる。城山は、昔より末武氏の居城といわれるところである。城山は本丸であり、只今の護国神社の地が二の丸に当たり城主は平時には城下に住していたと思われる。城山の下に殿垣内の地名があるが、末武氏の館のあった地と考えられる。殿垣内を取りかこんで、垣内・上垣内・下垣内・大工垣内の地名があるが、末武氏の侍屋敷であったのであろう。
 また城山の下にある専明寺については、「下松地方史研究・第四輯」を参照されたい。
 白坂山は鷲頭庄にあって、鷲頭氏の本拠鷲頭山を取り囲んでいる白坂山・旗岡山・高鹿垣山の一つである。白坂山と城山は、唇歯輔車の関係にあってその距離も近く、また城山は白坂山の眼下に見られるのであって、これらは一族で占拠されたとみるべきであろう。鷲頭氏と末武氏とは同族で、特に長弘と藤時は叔父と甥の関係にあるため、鷲頭氏は白坂山、末武氏は城山を占めていたものと思う。
 大内方の内藤藤時宛の軍忠状の「観応三年(一三五二)二月十九日寄来鷲頭庄、白坂山取陣十九二十両日御合戦之時馳向、彼陣致後巻所、抽合戦忠節也」の記事については、十九日に大内方が白坂山を占拠したのでなく、白坂山を攻めるために陣をしいたと考えるのである。すでに白坂山が弘世の軍勢のために落城しておれば、その眼下にみえる城山より白坂山を後巻にすることは不可能であろう。鷲頭氏は本拠鷲頭山を中心とし、白坂山・旗岡山・高鹿垣山の陣に末武城山を加えた陣容で、この鷲頭氏にとっての最後の拠点は、容易に落城させることができなかったのである。秋八月三日にも戦は続けられていたので、白坂山はまだ落城していなかったと思われる。白坂山の戦、旗岡山の戦については、いずれも兵糧攻めが行われた模様で、その伝説が今も伝わっている。
 末武城山と内藤氏との関係については、近藤清石の『古城墟誌』に「他ニ内藤ノ城墟ト言フヲ見ザレバ弘藤ノ古城ヲ居城セシナラン」とある。末武氏の城山を、内藤氏は居城していたものと思われるが、これらについては不明な点が多いので、後日の研究をまつことにしたい。
○山添招魂社と護国神社
 城山の中腹に、山添招魂社(山添は地名)がある。これは長州藩によって、明治維新のために国事に斃れた六柱の霊を祀るため慶応三年(一八六七)に創建されたのである。毎年四月十五日に官祭を以て例祭が挙行されていた。藩によって招魂社が建立されたのは、都濃郡ではこの山添招魂社だけである。その後七柱が合祀され、現在は左記の十三柱が祀られている。
○片山金吾源茂定
    慶応四年(一八六八)戊辰正月三日於城州戦死、行年二十五歳
○河村梅吉多々良正重
    慶応四年戊辰五月四日於城州戦死、行年十九歳
○松岡梅太郎景高
    明治元年戊辰六月十四日於相州戦死行年、二十二歳
 佐田安衛藤原行光
    明治元年戊辰九月十日於奥州戦死、行年二十七歳
 永村貞之進行光
    慶応二年丙寅六月二十日於芸州戦死、行年十八歳
 河村徳三郎源愛象
    慶応二年丙寅十月十日於豊前戦死、行年十七歳
 右の六柱の墓標が前列にあり、左記の七柱が後列に建てられている。これによると、前記の六柱が慶応三年創建のとき最初に祀られたものと思う。
 佐伯武次郎源義武
    慶応二年於豊州銃創明治二年己巳六月十四日死、行年二十一歳
 山田庫次郎源柔克
    慶応二年丙寅十一月二十八日於豊前戦死、行年二十歳
 井上収蔵源成
    慶応二年丙寅十月四日於豊前戦死、行年二十一歳
 藤井忠吉源道次
    慶応二年丙寅八月二日於芸州戦死、行年二十六歳
 野村吉蔵平盛綱
    慶応二年八月十日於防州大島郡戦死、行年二十三歳
 町田道之助源義明
    元治元年甲子十月七日於長州赤間関戦死、行年二十六歳
 仲木直太郎多々良昌敏
    慶応二年丙寅六月十七日於大島郡久賀村戦死
 この山添招魂社を東に移し、そのあとに昭和十七年延二万人の勤労奉仕によって整地を行い、護国神社を創建し、下松全市の英霊が合祀され今日にいたっているのである。
(昭四〇・一一、第一〇輯)