(一) 毛利敬親公と春雨桜
毛利敬親公は、萩本藩の第十四代の藩主である。毛利元就以後、最も苦しい時代ともいうべき天保年間から明治初年まで藩主として藩政をとり、明治維新の大業をなし、新日本興隆の原動力となった人である。
この敬親公が幕末の非常時局収拾の策として、公武合体遠略策を朝廷・幕府に建言するための重大使命をもって上洛の途中、僅か十数日ではあるが、この下松で療養していたのであって、現に花岡に春雨桜の石碑が残っている。
石碑は、昔の都濃宰判のあった花岡の毛利氏別館(御茶屋)の跡に建ててあり、傍に桜(勿論当時の桜ではなく、現在のは当時の桜の若芽が成長したものであろう)がある。場所は現在の花岡四恩幼稚園の前である。石碑の碑文は、維新の志士楫取素彥の撰したものである。左に碑文を掲げよう。
文久紀元歳在辛酉、我忠正公東覲之途次、疾駐駕於花岡駅矣、一日公指駅館之桜樹曰、樹下之鉄蕉恐礙花時之、観後駅民移之他、盖奉公之意也、頃者駅民追慕之、深欲建石以表遺愛、請杉子爵之顕辞、併余当時子爵之与、余在扈従之列、今日之請皆不可辞、因記此
明治三十七年十二月
正三位男爵 楫取素彥記
『花岡教育誌』によれば、碑は花岡の武弘宣路氏が建設したものという。また鉄蕉は花岡八幡宮境内に移植されたが後年枯死し、その痕跡さえないと記されている。
敬親公のこの花岡滞在については、『忠正公一代編年史』に詳しく記されている。(記事の随所省略す)
文久元年(一八六一)九月十八日、公朝六ツ半時三田尻を発し、浮野戸田村に小憩し、九ツ半時福川駅に抵り午餐を進む。後遽に眩暈の病を発し、療養して稍快を告たれとも途に上るへからず。是夜は花岡駅に至る予定なれとも、俄かに本駅に駐泊す。家老以下悉く旅館に直宿す。
九月二十二日、公今朝四時福川を発し、政所村道源常吉宅及び遠石五智輪坊に小憩し、八時過花岡駅別館に抵る。途上も頗る緩行したれば、聊も障り動しなく益々快爽にあらせられたり。二十三日、公は花岡別館に逗りて病を養ふ。
二十四日、益田弾正をはじめ供奉の諸士卒まで公の病の速に快癒せんことを禱り、花岡八幡宮に於て今日より二夜三日の神式を修し、社僧地蔵院阿伽井坊社職村上陸奥介之を務む。神符及び洗米一折を献す。銀三枚を奠す。
十月二日、長井雅楽は今日花岡を発して江戸に赴き、前件の公進行の決議をも夫人世子以下に詳悉に報申せしむ。
十月三日、公は前議の如く病後の運動を試んとて朝六半時に駕を命し、三老臣以下従行の諸員を率い、下松西市の林三右衛門が宅に往て休憩し、又宅を出て堤を下る。数町にして海岸の眺望所に至る。此日天気和煦軟風軽く吹き、海面は鏡の如く、海湾繚廻し、嶋嶼点綴して景色頗る佳なり。漁艇数十、東西に漕き廻はして建網を設け、或は手繰の網を曳く。憩場の前面に数個の大桶を列ねて水を充たし、魚を獲るに随ひ其中に投入す。紫鱗紅髯鰭充溢して沙上に逸飛、潑々たるもの落花狼藉の観をなす。漁獲の夥き実に驚くに堪へたり。興酣にして還り、堤上に駕を税して農夫等が田塍に集りて秋収の業に奔走するを観給ひ、林か宅に至り三老臣及び記録所役、奥番頭、直目付等を召集め、漁獲の魚を烹理して宴を開き、閑飲歡を尽さしむ。申時に及び花岡の館に帰る。
四日、公は昨日の試行に微障もなく、殊に快爽を覚えたれは、弥明日発途の意を決し其準備をなす。
五日、公朝五時花岡を発し、垰市・呼坂・差川村に小憩し、八ツ半時高森に抵り、別館に駐す。
以上が敬親公の下松に関した記事である。春雨桜の由来はこの花岡滞在中のことで、春雨桜の春雨は敬親公の雅号である。
前記の十月二日の項に、長井雅楽が公の命により先発したとあるが、長井雅楽が建白し藩策として決定された「公武一和航海遠略策」を、一日も早く進言させたるために先発させたのである。この遠略策はすでに五月に雅楽が江戸・京都に上り種々画策し、朝廷と幕府の内意を確かめていたが、時局はいよいよ切迫したため、このたびは公式に敬親公みずからが朝幕に入説しようとしたのである。この重大な時局に、公の発病は家老以下家臣を驚愕狼狽させたのである。しかし、幸に病状は順調に回復し、十月三日の下松湾の遊行も今後参府に耐えるまで体力が回復したかを試みるために行われたのである。以下は、本旨を脱し絮説することになるが、編年史に公の参府を決した事由を逑べ、萩の諸臣に報告したなかに
御発駕御治定の上は、一先当駅程近し場所え為御試御歩行等被遊、御動しの気味も不被為見候には、高森迄御静座被遊、猶御機嫌御障りも不被成御座候ハハ、弥御参府之御治定に被仰付候て可然哉
と記されていることによっても知られる。かくして、道中恙なく江戸に着している。
のち、この「航海遠略策」が京都を中心とする攘夷論の盛り上りによって失敗するや、公は時勢の推移を熟慮し遂に攘夷を断行したのである。
こうした重大な参府の道中における療養であったことを考えると、春雨桜の意味もまた深いものがある。
また碑文の中にある杉子爵は杉孫七郎のことで、文久二年(一八六二)幕使竹内下野守・松平石見守等に従って英仏米蘭の諸国を巡歴し、文久三年帰国し、四境の役並びに戊辰の戦に藩軍の参謀として功を立てた維新の志士である。
碑文の撰者楫取素彥も維新の志士で、元治甲子の変(一八六四)で国論沸騰するや、俗論党のために獄に投ぜられた。のち出獄して藩の要路に立ち、四境の役の際宍戸備後と広島に使するなど維新のために活躍している。
春雨桜の傍に、大砲の筒が二つおかれてある。これについて昔からの言い伝えに、この大砲は、現在花岡八幡宮に伝わる大刀を造った平田の刀鍛冶伊藤某の造ったものであるが、世も鎮まり不用になったため、ここにおかれたものという。他の説は、萩本藩から外国船打払のために送られ、これによって訓練していたが、維新後ここに移したものという。
大砲の鋳造が精巧である点及び「下松地方史研究誌」第七輯に載っている清水早太氏の俳句の昔噺に、実弾演習の記事があって、当時大砲の訓練が下松でも行われていた言い伝えがあったことが分る。また、「久保村郷士誌」に元治元年(一八六四)英艦笠戸島に来襲の誤報等の伝説より考えれば、当時下松地方にも外国船艦来襲に備えて大砲があったことは当然と思われ、そのためには後者の説が妥当と思われる。なお詳しい研究は後日に譲りたい。
春雨桜のある旧花岡宰判の前の旧家藤田家に伝わる忠正公の詠まれた、「寄松祝」と題する短冊に
とし毎にはへそふ松の若みとり
ふた葉や千代のためしなるらむ
と書かれているこの歌によって、躍動する維新に当たり新しい若々しい日本の誕生を信じ、永遠に続く日本国の前途を祝福した敬親公の胸中の喜びを知ることができる。
(二) 山添招魂社
城山の下松護国神社の東に、明治維新の志士十三人の墓がある。この墓は以前には現在の護国神社の社殿のところにあって、山添招魂社として祀られていたのである。のち招魂社が護国神社と改められ、社殿が現在の地に建てられるに及び、墓は社殿の東、現在の地に移されたのである。
山添招魂社の由来について、諸記録により述べよう。
『防長護国神社誌』によれば
本社は慶応元年七月招魂場開設の藩命に基づいて、都濃郡宰判管内の殉難戦没者を祀るため、翌二年春同郡代官役江木清次郎が花岡勘場の西方字高塚の城山へ開いた招魂場がその起源で、同年九月二十二日始めて馬関攘夷戦及び四境役の戦死者四柱を鎮座した。諸世話は花岡勘場の引請であって、是の日戦死者の遺族を参列せしめて祭神の生前佩ふるところの肩印、その他の遺品を埋めしめて、夫々その上に霊表を立て、花岡八幡宮祠官祝詞を奏して祭儀を執行した
と記されている。このことは花岡八幡宮宮司村上家の「慶応二丙寅春起 末武北村官祭招魂社由来記録 村上家秘蔵」によって更に詳しく知ることができる。
一過ル文久三癸亥五月馬関ニ於テ攘夷有之、尙又元治元甲子ノ年七月
京師変動彼是ニ付、天下騒ケ敷、依之御両国中郡別招魂場新造被仰付候事
一慶応二丙寅ノ春当郡之儀は高塚山へ地開相成リ、戦死之者共神霊此処へ鎮祭被仰付候事
一九月十三日勘場大庄屋加勢来儀ニて口上左之通リ
来ル廿二日戦死之者四人、招魂場ヘ御祭方被仰付候間、宜御頼仕トノ御代官所ヨリノ口上申来候事
この山添招魂社に最初に祀られたのは左の四人で、同記録に
(前) 奇兵隊兵士早田道之輔源義明霊表
(裏) 元治元歳甲子八月七日、於赤馬関戦死
膺懲隊兵士永村貞之進行光霊表
慶応二丙寅六月廿日、芸州於玖波戦死
奇兵隊兵士野邑吉蔵平盛綱霊表
慶応二丙寅六月十六日、於大島郡戦争ノ節被疵 同八月十日死
遊撃軍兵士藤井忠吉源道治霊表
慶応二丙寅八月二日、芸州於玖波駅戦争之節被疵 同廿八日死
最初に祀られたのは以上の四柱であった。また現在の墓石ではなく当時は木の墓標であった。
一九月廿二日戦死之者共之兄弟親類上下ニて場所へ出浮、肩印等之身形代ト埋メサセ置、九ツ時拙者出門脇社人幷供一人召連出浮、人別神霊木前ニて神勤祝詞相調、親類兄弟相奉幣捧サセ、七ツ時帰宅致候事
また明治元年二月六日左の一柱合祀された
奇兵隊兵士片山金次郎茂定霊表
慶応四戊辰正月四日、城州於伏見戦死
その後二、三度にわたって合祀されたが、詳しいことは明らかでない。全部で十三柱祀られたのである。
藩政が行われていたときは、費用は勘場より支出していた。廃藩後は、郡内割符によって支弁された。
明治八年六月二十七日、山添招魂社は内務卿より官祭招魂社に指定された。そのため、官祭山添招魂社といわれている。官祭とは、祭祀並びに修繕費等一切の費用が官給せられるのである。しかし、最初に官祭と認定されたのは、従来祀るところの祭神十三柱の内、戊辰己巳役の神霊四柱(片山金吾 河村梅吉 松岡梅太郎 佐甲安衛)であった。
明治十年七月七日、同役以外の神霊二柱(永村貞之進 河村徳三郎)が官祭に追加認定せられ、この山添招魂社の官祭の神霊は以上の六柱である。この官祭六柱(現在の前列の六基の碑がこれに当たる)以外の七柱は、いずれも県内の他の官祭招魂社で祀られているため、ここでは官祭として祀られていないのである。例祭は毎年四月十五日に行われた。
また招魂社の創始の頃は社殿はなく、神霊木の前で祭祀を行っていた。のち明治十年代に拝殿一宇が造築され、爾来久しくそのままであった。
昭和十四年四月内務省令を以て、招魂社は護国神社と改められるに及び、山添招魂社は昭和十四年八月二十五日花岡護国神社と改称された。のち花岡村が合併し下松市制をしくに及び、昭和十六年十二月二十二日下松護国神社と更に改称された。昭和十八年に紀元二千六百年記念事業として、二万人の勤労奉仕により社地を拡張し、社殿の改築を行い、現在の結構をなすにいたった。境内外にある石造物は、いずれもこの時の寄進である。爾来下松市出身の靖国神社の祭神を合祀しているのである。
昭和二十二年二月に、下松護国神社は下松城山神社と改称されている。
前記の英霊碑十三柱は、社地拡張の際、現在地に移されたのである。次にこの碑について述べよう。
前列の六柱は山添招魂社で官祭されており、後列の七柱は他の招魂社で官祭されていたのである。最初に英霊碑の全文を掲げ、後記は諸書に記されていたのを集録した。諸書により異同があるのは、その一説のみを記した。
(右側) 慶応四年戊辰正月三日、於城州戦死
(表) 片山金吾源茂定墓
(左側) 行年二十五歳
健武隊 久米村農 山城国伏見高瀬川堤戦死
慶応四年戊辰正月四日、於城州戦死
河村梅吉多々良正重墓
行年十九歳
整武隊 都濃郡湯野村農弥三郎二男 山城国伏見戦死
明治元年戊辰六月十四日、於相州戦死
松岡梅太郎景高墓
行年二十二歳
八組士登人嫡子 八組士第一大隊小隊司令 五月二十六日小田原藩を攻め箱根に傷き横浜病院にて六月十四日傷死
明治元年戊辰九月十日於奥州戦死
佐甲安衛藤原行光墓
行年二十七歳
第一大隊 磐城相馬郡旗巻嶺戦死
慶応二年丙寅六月二十日於芸州戦死
永村貞之進行光墓
行年十八歳
健武隊 富田小畑村農勝蔵子 安芸国友田口河津原戦死
慶応二年丙寅十月十日、於豊前戦死
河村徳三郎源愛象墓
行年十七歳
膺懲隊 粟屋帯刀家来 六月十四日豊前蒲生村にて傷く
後列の七柱について南側より述べよう。
慶応二丙寅六月十七日、於大島郡久賀村戦死
仲木直太郎多々良昌敏霊神
浩武隊 無給通御繕夫 行年三十九歳
大島郡久賀八田山招魂社にて官祭
元治元年甲子十月七日、於長州赤間関戦死
町田道之助源義明墓
行年二十六歳
奇兵隊 馬関前田台場にて戦死
下関桜山招魂社にて官祭
慶応二年八月十日、於防州大島郡戦死
野村吉蔵平盛綱墓
行年二十三歳
第二奇兵隊 都濃郡須々万村農百助兄 七月十六日大島郡清水峠に傷く
大島郡久賀八田山招魂社にて官祭
慶応二年丙寅八月二日、於芸州戦死
藤井忠吉源道次墓
行年二十六歳
遊撃隊伍長 末武中村農万吉弟 芸州玖波にて戦死
室積峨嵋山招魂社にて官祭
慶応二年丙寅十月四日、於豊前戦死
井上収蔵源成墓
行年二十一歳
八幡隊 豊前戸ノ蔵山にて戦死
都濃郡湯野村後山招魂社にて官祭
慶応二年丙寅十一月二十八日、於豊前戦死
山田庫次郎源柔克墓
行年二十歳
堅田少輔家来 慶応二年十月七日、豊前鉢ケ瀬に傷く。十一月二十八日赤間関にて戦死
湯野村後山招魂社にて官祭
慶応二年於豊前銃創明治二年己巳六月十四日死
佐伯武次郎源義武墓
行年二十一歳
奇兵隊 花岡中畑社人因幡二男 慶応二年丙寅豊前赤坂に於て蒙創。明治二年己巳、於山口病院死
山口江良招魂社にて官祭
(昭四二・三、第一一輯)