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1 泉所寺 正福寺 周慶寺 普門寺 浄西寺 西教寺

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     序
 下松の寺院沿革史を述べるにあたり、まず調査の便宜上、下松を六地域に分けて研究し、ついで時代的に総合的に考察してみたい。六地域とは
 1 下松湾に沿う旧下松の地域
 2 山陽街道に沿う宿駅花岡の地域
 3 山陽街道に沿う村落地帯としての久保地域
 4 開作地末武平田の地域
 5 島嶼たる笠戸島地域
 6 純然たる山村としての米川地域
これは、下松市制施行前の各市町村の区域(1下松町 2花岡村 3久保村 4末武南村 5末武南村大字笠戸島 6米川村)にあたっているが、これはまた、各町村の成り立ちの上にも関係があることが認められる。
 まず、第一に掲げた下松湾に沿う、旧下松地域の寺院の沿革について述べよう。
 下松の地名伝説が生れた下松妙見社が、寺院沿革史でも主要な部分を占めているが、本地垂迹説による神仏混淆時代より、神仏分離による現在の降松神社及び鷲頭寺の関係にいたるまでの歴史的変遷は、また下松地方史の大部分をなしているのであって、到底一朝一夕の研究によって知悉することができないので、後述することにしたい。
 研究の史料としては主に『寺社由来』によった。
 『寺社由来』は、寛保年間(一七四一~一七四四)に各寺院及び神社より藩に差出した記録で、縁起・世代碑・各境内堂塔・寺領・釣鐘・棟札・宝物・勅額・古文書・詩歌・遺墨・古塚等あらゆる事項について記載され、現に山口県文書舘に存し、寺社の沿革についてはこれを主な研究史料としている。
他に『増補周防記』等も参考にした。
泉所寺(せんしょうじ)
 泉所寺は、現在東柳にあって、切戸川に沿い鉄橋の傍にある真言宗御室派の末寺で、現住は第三十世林芳樹師である。境内地一八〇余坪、東光寺の観音堂(建坪六坪)は当寺に所属している。
 往昔は非常に寺運隆盛を極め、現存する下松寺院中でも、最古に属するものと思われる。
前述の『寺社由来』に記すところを掲げると、
     周州青柳浦     青柳山浅処寺
  一 当寺開基聖徳太子
    伝云、人皇三十六代推古天皇御宇、妙見星影向之時、聖徳太子御開基ト云伝、妙見影向之図像琳聖太子自筆有之
  一 山号ハ処ノ名ヲ以テ山号トス、寺号ハ普門品ノ内、即得浅処ノ文ヲ以テ寺号トス
  一 寛永ノ比、宥範和尚芸州厳島ニテ求聞持修行ノ時、鹿ノ両角ヲ得玉フ、此時ヨリ改マリテ鹿角山泉処寺ト書リ
  一 応仁ノ比中絶、法名宝物等紛失ト云伝
  一 当寺住持法名
     〓胤和尚 文明ノ比         勢光和尚 永正ノ比
     義範和尚 大永ノ比         勢諒和尚 天文ノ比
     覚円和尚 永禄ノ比         源宗和尚 永禄ノ比
     宥勢和尚 天正ノ比         宥覚和尚 慶長ノ比
     宥寿和尚 元和ノ比         宥範和尚 寛永ノ比
     空範和尚 延宝ノ比         宥信和尚 元禄ノ比
     宥賢和尚 正徳ノ比         博雅和尚 享保ノ比
     締範和尚 元文ノ比         微寛和尚 寛保ノ比
     寂忍和尚 現住
  以上十七代 文明ヨリ以来二百七十一年
泉処寺はもと浅処寺と書き、右の寺伝が載せてある。聖徳太子の開基はたんなる伝説にすぎないが、応仁の頃中絶し、文明の頃〓胤尚が出て中興したことより考えても、当寺の開基は相当古いものであったと考えられる。正確な年代が分からないのは遺憾である。
 永正十年(一五一三)に鋳造された泉所寺の梵鐘は特に有名で、その鐘銘は現に弘津史文氏の『防長探古録』に「泉処寺洪鐘」として所載されている。探古録に載っているのは下松市では、ただこの泉所寺の鐘銘だけであるが、これは『寺社由来』から転載されたものと思う。
  奉鋳鐘一口
  周防下松浅処寺観音堂寄進之
       常祐比丘  妙誡比丘尼
   右志者
       芳林比丘  妙印比丘尼
   住持勢光 大工防府大和相秀
   永正十年癸酉(一五一三)二月廿三日 大願主[美秀妙高]敬白
この鐘はその後どうなったかというと『寺社由来』に
件鐘紛失ノ事ハ依高麗陣、鉄炮ノ支度トシテ天正十八年(一五九〇)国中ノ鐘悉ク広嶋ヘ被取集、然ニ此里ノ奉行相嶋作右衛門一旦助置ト麗ヘトモ、同名仁右衛門依有宿願、妙見山ニ寄進スト也、此鐘如今者宮市国分寺ニ有之、為後覚書留ル者也
 慶長五年庚子(一六〇〇)三月十日 浅処寺宥覚
鐘が宮市国分寺に納まるまでの詳しい経過については、何も書かれていない。ただ周防の国寺たる国分寺の鐘として、恥ずかしくないものが泉所寺にあったことは、当時の泉所寺の威容を物語っているといえよう。
 大内時代の記録としては他に見るべきものはない。
毛利時代になると永禄十一年(一五六八)の毛利輝元の判物がある。
  周防国都濃郡末武庄内浅所寺領田数七段半、分米四石七斗足之事、以覚円手次対源宗宛行畢、寺家云寺領全可執務之状如件
   永禄十一年(一五六八)正月廿三日     輝元判
これは浅所寺の一切を執務していた執事と思われる源宗に、輝元が与えた判物であるが、この領田も
  右御判物領田分失の時代相知不申候
とかかれている。この七段半の領田も、いつの時代にか、輝元以後泉所寺の最も衰微した時に、どんな理由か分からないが失われてしまったのである。
 その後、延宝八年(一六八〇)の泉処寺の鐘の序並びに銘があるが、これは前述の鐘に代る鐘が再び鋳られたのであって、『寺社由来』によれば
大日本国周防都濃郡下松之庄廉角山泉処寺、大江姓毛利広豊公祈願之霊地也、古来於此地有洪鐘、当戦国之時散失矣、四世寺務法印宥範和尚尋其散失、今有国分寺求之、不得顚転反側、而終ニ欲鋳新鐘、然日薄庚淵化矣、於此弔雖如挾泰山絹熙師志経年尚、乃得便於肥前国長崎、准擬異鐘命鳬氏而鋳之、嗚呼我褫師遺願所致神力也
 匪金匪石 菲磬非鉦 闡開彙侖 洪鐘鋳成 全在篖葉 晨昏扣鳴 黄泉所徹
 碧〓以亨 人人入理 各各聞聲 震起瑜伽 下松向栄
 延宝庚申十一月吉日 第五世空範和尚建之
この鐘を鋳造するにあたっては、はるばる長崎の異国の鐘を模して鋳されたとあるが、こうした新式の型の鐘が鋳造されたことと共に、この新しい企画が泉所寺の僧によって行われたことに意義があると思う。
 この延宝八年庚申(一六八〇)より九年した元禄二年(一六八九)には、徳山藩主が泉所寺に一泊されているのであって、『徳山略記』に
  九月三日周慶寺出泉所寺ニ御一泊、明日妙見江御参詣、宮洲江被遊御出候
とある。当時の泉所寺については『徳山藩記』の「諸寺院本来境内坪数檀家并寺号引地等之事」の条をみるに
  一御室御所末 中本寺下松町泉所寺
   境内五百弐拾壱坪年貢地、檀家二十軒
  庵室一ケ所、東光坊ト称年月不祥、西豊井村造立
とあって、境内地も現在の約三倍で広大であったことが分かる。異国風の鐘をつるし、繁栄を極めた泉所寺に、藩主が特に宿泊されたのもうなずかれるところである。
 このように盛んであった泉所寺も『徳山藩記』によれば
  一正徳三年癸巳(一七一三)三月二十一日朝五時過、下松泉所寺自火本門計残ル
  一宝暦十二年壬午(一七六二)三月廿八日、西豊井村泉所寺自火
と二回出火している。
 正徳三年の火災のときは直ちに再建され、その棟札の控が『寺社由来』にある
  奉再建立泉処寺一宇所 寺社奉行 福間重兵衛
   大江朝臣毛利飛弾守元次公御武運長久処  大願主 法印宥信
   御息災延命御子孫繁栄攸
    正徳三癸巳年九月吉日
この時は、徳山藩主元次公の多大な御寄進によって再建されたのである。ついで享保二十年(一七三五)には梵鐘も鋳造されているが、前述の鐘は火災のために損傷したのであろう。
  旧鐘既改  新韻高揚
  功烈永世  福力万方
  時享保二十年乙卯(一七三五)六月吉日        締範和尚
  領主君毛利広豊公御武運長久所
 正徳三年(一七一三)から約五十年後の、宝暦十二年(一七六二)再び火災が起ったことは、泉所寺にとって全く致命的なものであったに違いない。これ以後次第に衰微したのではあるまいか。現在の建物は宝暦十二年の火災後に建てられたものであるが、その規模が甚だ小さくなっているので、昔の盛時を偲べば感慨にたえないものがある。
正福寺(しょうふくじ)
 泉所寺より西に約百米の地にある正福寺は、真言宗御室派の末寺で医王山と号し、現住は第二十世上田元夫師である。正福寺の沿革について、『寺社由来』によると
一当寺縁起等無御座候故、開基の儀者いつ比共知レ不申候、先年当時炎焼仕候節、什宝旧記等悉焼失仕の由申伝候、尤往古は伽藍之様ニ相見ヘ候得共、旧記等焼失仕候故知レ不申候
一代々住寺之儀者往古よりの者知レ不申候ニ付、近比中興之住持代々付置
年代不知               年代不知
  法印堯音               法印融真
同 法印快真             同 法印宥源
同 法印快融             同 法印宥威
同 法印宥鋪             同 阿闍梨宥賢
同 法印玄順             天和三亥(一六八三)九月三日死去
                       阿闍梨禅尚
宝永五子(一六二八)五月廿四日死去   元禄十四年(一七〇一)
  法印宥秀               法印宥盛
年号不知               現住
  法印宥意               法印宥義
右拙僧迄十四代
 当寺も火災にあい旧記を焼失したため、開基の年代等不明であるが『増補周防記』によると、中興第一代堯音の時代は弘治年間であるので、創建の時代は相当古いものと思われる。
 『寺社由来』に記されてある正福寺の記事は頗る簡単であるが、『増補周防記』には正確な古文書等かなり載せてある。いま『増補周防記』によると
右当寺縁起等無御座開基もいつ頃とも相知不申、先年当寺焼失仕し節什物旧記等悉焼仕候由、尤往古伽藍之様申伝候、其子細者元禄十四年(一七〇一)徳山御領妙見社之獅子駒犳再修甫有之候処、右二王像之裏ニ下松正福寺鎮守堂之二王獅子形像也、応安四年(一三七一)七月吉日と有之時代々住寺の儀も往昔よりの儀は不相知、近世中興之住寺堯音法印より当住迄十七世ニ相成申候事
この応安四年の記事は特に注意すべきことで、当寺が古くからさかんであったことを知ることができよう。このことは近藤清石の『山口県風土誌』にも記載されているが、同一の史料によったものと思う。
 また『増補周防記』には左記の古文書も載せているが、これは『防長古文書誌』にも載せてあって世に知られているが、全部記すことにしよう。
 (毛利隆元袖判)
○富田保之内神上宮坊井谷稲吉吉名六段、分米弐石、同経免燈明田壱段半分造営六段、分米三石、末武之内正福寺領弐町六段、分拾六石足之事、対堯音宛行訖、相暮勤行無懈怠可遂其節、因而一行如件
  弘治(年不明)十二月二十二日
                 神上宮坊堯音
   (袖判)
○富田保之内神上宮坊領井谷稲吉名六段、分米二石、同経免燈明田壱段半、分米七斗、造営料六段、分米三石并末武内正福寺二町六段、分米十六石足之事、任隆元袖判旨、対侍従融真宛行候、朝暮勤行
 無懈怠可遂其節也、因而一行如件
  天正十四年(一五八六)正月十七日
                    神上宮坊侍従融真
○防州都濃郡検地打渡坪付之事
   合       末武庄
  田四反六拾   米三石三斗   次郎左衛門
 行楽              花岡ノ
  田三反小    米二石一斗   彦左衛門
 高ツカ             ナカトロノ
  田九十     米一斗八舛   善兵衛
  田一段半    米一石一斗   又右衛門
                 花岡ノ
  田一反小    米九斗五舛   源三
 馬場迴リ            楊林坊ノ
  屋敷一ケ所           友七
 同所
  寺屋敷            楊林坊
    以上 田数一町半卅 米  七石六斗一升
  天正十七年(一五八九)八月四日
                 児玉四郎右衛門
                 内藤新右衛門
                 長村右衛門太夫
○防州都濃郡検地打渡坪付事
  合 神上大明神    富田保
 大井手畠檀 二季彼岸
  田半    米二斗       太郎丸
 神田    燈明料       神上
  田三反   米一石二斗     小七
    以上 田三反半 米一石四斗
 古クホ   宮坊料       古クホノ
  田大    米三斗五升     神四郎
 清水下   同
  田三段大  米一石八斗     太郎丸
 松本    同
  田一段半  米九斗       宮坊
 河原岸   同         神上
  田大    米三斗       小七
    以上 田六段半 米三石三斗五舛
 新殿    宮坊領
  畠一段   代二百六文    宮坊
 同所       同領
  畠六十歩     代三十文 同人
          同      木
  山畠一段     代八十文  小二郎
 赤畠北カラダ   同     同所
  山畠二段     代百六十三文 神四郎
 大セラ      同     同所
  山畠二段    同代百二十三文 藤治郎
 宮ノワキ     同     同所
  畠大       代百四十六文 助右衛門
    以上    畠六段三百歩 代七百五十四文
            米ニシテ四斗五舛二合
                    貫別  六十宛
 宮ノ前
  寺屋敷半           宮坊
 宮ノ前            神上ノ
  屋敷半            小七
   天正十七年(一五八九)七月十四日
                 内藤新右衛門尉
                 児玉四郎右衛門尉
                 内藤興三右衛門尉
                 長井右衛門太夫
     神上宮坊
○富田上村内井谷稲吉名五石地事、為神上宮ノ坊領宛行者也、朝暮勤行可有其沙汰、然者守先例、知行不可有相違状如件
  延徳二年(一四九〇)十月十八日
                中務小輔武護判
  神上宮    宗
○神上社領并当坊領今度御検地被仰付候処、出田在之、所詮御改易之雖然、頻懇望候間任申旨、坊領五石六斗三合五勺経免夜燈免等事、以前之辻為新御寄進被宛行之訖、於相残分者、号御社領可加修造料云々、者受云下地、云当毛全執務、可被専修理勤行之由所被仰出之、因執達如件
   天文七年(一五三八)九月十六日
               沙彌玄寿判
               左馬助房勝判
   宮坊微智坊
 正福寺に関する古文書は以上で全部であるが、右の文書によれば正福寺は都濃郡富岡村の神上宮の社坊であって、多くの寺領を有していたことが分かる。正福寺の横の玉鶴川が正福寺までは海より川幅が広くなっていることは、注目すべきことであろう。
 なお『周防記』に
  当寺中興堯音より九代に当り玄順と申代に、御代官 永庄兵衛様 成御判物萩江被取帰被成御申伝候事
と書かれ、如何なる理由か知られないが、文書等萩藩に取り上げられた模様である。
 先年広島大学金子教授によって、宮内庁書陵部所蔵の図書、月村抜句に
  防州下松於正福寺とて「秋を手にまかする田子の早苗哉」
の句があることが明らかにされた。これは宗祗晩年の弟子宗碩が、永正十三年(一五一六)山口に西下した際、句会が開かれたものと思う。下松に寄り句会が開かれたものと思う。当時の正福寺を知る上に大切な史料である。
 昨年山口県教育委員会河野英男氏が、正福寺安置の薬師如来について調べられた記録をのせると
薬師如来座像
木造薬師如来座像一軀、檜材寄木造、頭髪彫出し螺髪、眼は彫眼、肉鬠、白毫はいずれも水晶なるも後補、右手首左指後補、修理の際仏体に彩色のあとあり、時代鎌倉期、光背台座は修理の際補う
毛利時代には、末武村は萩本藩の領内になったため、記録にもあまり残らず振るわなかった様である。しかし、戦後行われた農地改革までは、二町歩近い寺有の田地があったため、経済的には恵まれていた。
 なお、寺内に安置されている地蔵尊について、次のような由来がある。
 この地蔵尊は古くは未武上村日尾山麓字梁にまつられてあったのが、元禄十六年(一七〇三)の大洪水のため流されて下村の西市に漂着した。これを西市にまつっていたが、明治三十年の大暴風雨で再び堂宇が倒壊したので、正福寺内に安置するにいたったのである。
 この地蔵尊は昔、西市の火災を護られたので「火除の地蔵尊」と申すといわれている。また、旱魃の際には海に入れ、海水にて地蔵尊を洗えば、慈雨忽ちいたるとのいい伝えがある。
周慶寺(しけいじ)
周慶寺は浄土宗本派知恩院に属し、山号を麟祥山と号し、境内地一千余坪、伽藍の広大なことは県下においても稀である。現住は第二十九世蓮間真道師である。
 『寺社由来』によると
原夫麟祥山周慶寺者、畴昔号林松山大蓮寺也、開山岌翁上人浄土鎮西流之宗師、而徳行不孤、長坐自己安心之床、恢開化他利生之扉、勤而無怠慢、仰而称開祖、終示寂滅、自尓已来相承七世、漸々衰廃矣、至第八世貞誉上人、大建法幢度脱群生、雖然土地湿弊而不長久、故相攸徙寺於西福之旧跡、今地是也、然此地者本時宗道場而一遍末流也、天文廿一年(一五五二)頃依大内義長之裁許、如先例可執務、寺領等判物于今現在焉、雖然何時不知西福寺之頽破也、上人尋其古基移於大蓮、而顕貞誉中興之功、雖然開基中興共年月末詳、而後元和四年(一六一八)毛利就隆公、於下松庄経営舘舎之時、来謁上人帰依宗風、故為北堂周慶大姉菩提安置位牌、而寄附於寺領五十石、而于時改林松字為麟祥、革大蓮号周慶寺、可不懈尊供殷重、将来香火因縁者也
これによると、周慶寺はもと松林山大蓮寺とよばれて、今の中市中国電力の裏あたりにあったといわれている。浄土宗鎮西派に属し、開山は岌翁上人という有徳の師であった。開山示寂後第七世に至り、次第に衰えてきたようである。
第八世貞誉上人が出られて再びさかんになったが、土地が湿地であるため今の周慶寺の地、西福寺の旧跡に移ったとある。
 この西福寺については詳しい記録はない。ただ、周慶寺の『寺社由来』と『増補周防記』との文書とに、その記載が残っているばかりである。
 西福寺は一遍上人の時宗の門末である。一遍上人は遊行上人ともいわれ、勧進帳念仏札を携え国内を周遊化導された方で、いわゆる踊念仏として庶民の間に信仰され、遊行派の寺院の前は常に門前市をなす盛況であったといわれている。
 『寺社由来』に載せてある西福寺の古文書は注意すべきで、『防長古文書誌』にも所載されている。
周防国都濃郡下松道場西福寺事、所令裁許也者、守先例、云寺家云寺領并門前市屋敷、宜可執務不可有相違之状如件
  天文廿一年(一五五二)十月十五日        大内介判
大内介とは大内義長のことであるが、この書状には尾張前司(陶晴賢)の添状がついている。
周防国都濃郡下松道場西福寺住職事、任今日天文廿五御判旨、寺家云寺領云并門前市屋敷等、執務不可有相違、仍寺家修理勤行、弥可有馳走由、依仰執達如件
  天文廿一年(一五五二)十月十五日        尾張前司判
        西福寺宜阿弥陀仏
この門前市屋敷を、西福寺の宜阿におさめるようにいわれているが、これによって考えると、西福寺の門前は門前町をなし、それをおさめていたように思われる。中市という町名から考えても、また西福寺が踊念仏の一遍上人の時宗の門末であった点より考えても、これらのことは興味あることであろう。
西福寺について今一つ山口県立図書館に古文書がある。
  ○下松之内西福寺之事、任先証之旨、可有御進止之由申旨候、恐惶謹言
    十二月廿一日                元忠判
                          元保判
        冷泉五郎殿
          人々御中
  ○防州都濃郡下松西福寺領四拾壱石之地之事、任先知行之旨、令裁許畢、者早守先例、可有執務之状如件
    弘治四年(一五五九)三月十日
                          備中守御判
        冷泉五郎殿
  ○下松西福寺之事、被遺置之候、寺家云寺領云、全御知可為肝要之由、可申入之旨候、恐惶謹言
     弘治四年三月十日
                          元保判
                          元忠判
        冷泉殿
元和は桂元保、元忠は三浦元忠のことで、いずれも毛利家の家臣である。備中守は毛利隆元のことである。当地方の支配が大内氏から毛利氏に移ったとき、毛利隆元から西福寺に出された書状と考えられるが、冷泉氏と西福寺の関係等不明な点が多く、後日の研究に譲りたい。
 西福寺と周慶寺(大蓮寺)との関係を考えるに、前述の『寺社由来』によれば西福寺の旧跡に移ったとあるが、これはただ旧跡の土地に移ったのでなく、住職がいないで廃寺になっていた、西福寺の伽藍に移ったものと思われる。前述の西福寺の天文二十一年(一五五二)の書状も周慶寺にうけつがれている。また『徳山藩史』に
  享保五年(一七二〇)庚子四月廿四日御還中、周慶寺ヲ西福寺ト被成候処、如願旧号周慶寺ニ改
とあって、周慶寺(大蓮寺)と西福寺との関係は相当深いものがあると考えられる。
 『寺社由来』により前に記したように、元和四年(一六一八)毛利就隆公が下松に居をかまえられるにいたり、中興貞誉上人は就隆公の帰依を得、就隆公は大蓮寺に母堂周慶大姉の位牌を安置し、寺領五十石を寄進した。これによって林松山を麟祥山と改め、大蓮寺を周慶寺と改めたとある。こうして周慶寺は毛利家の菩提所となったのである。のち就隆公は徳山に移られ延宝二年(一六七四)徳山の大成寺を菩提所とされた。
 周慶寺に安置されていた位牌は
 ○清泰院殿栄誉周慶大姉             御位牌
   慶長九甲(一六〇四)辰歳八月朔日逝去
   輝元公御室 就隆公御母公
 ○覚性院殿相誉円清大姉             御位牌
   寛文十三年(一六七二) 延宝改元 癸丑歳六月五日逝去
   就隆公御息女 泉州岡部主税(高成)公御室
 ○高玄院殿超誉珠英大姉             御位牌
   正保元歳(一六四四)九月十日逝去
   輝元公御息女 就隆公姉君 吉川広正公御室
 右就隆公御建立之
 ○発性院殿 就隆公日向守御位牌
 ○大陽院殿 元賢公日向守御位牌
 ○曹源院殿 元次公飛騨守御位牌
 ○豪徳院殿 元堯公[百次郎日向守]御位牌
  右其時之住持職建立之
  毛利家御先祖御法名  軸物
  右其時之住持職建立之
これは『寺社由来』によったので、寺社由来ができた時期までのが書かれている。その後も代々の藩主の位牌は安置され供養されたのである。
 寛永元年(一六二四)には毛利家により本堂等新しく建立されたのであって、『徳山藩史』に
寛永元年甲子今年下松麟祥山[初林松山]大蓮院周慶寺御建立、周慶大師御菩提之為也、当住廓蹄長老高五十石御判物有之
 その後も祠堂米の寄付等度々行われているのであって、その二三をあげると、
月御施餓鬼料共右之内ヲ以仕出可申、且又御供具之義も一応御仕渡之外御構無之、仕替取繕共右之内ニテ相調可申通御沙汰
一文化十年(一八一三)癸酉十二月廿日 米拾俵法心院殿永々為御祠堂米寄附被仰付之、御忌日御霊供年々御鏡餅御燈明御茶湯抹香代七月御施餓鬼其外年中勤入用之廉相済候様可取計通御沙汰
一文政二年(一八一九)己卯八月廿七日 先年御寄附之御紋付御幕三張御提灯八張、仕替願出之趣有之候処、御提灯之義は過ル甲戌年六張仕替、残而二張去年仕替被仰付候処、此度御吟味之上御尊霊様方え被為対、御幕三張御灯提灯八張共永々御修覆基立料として、銀七枚寄附被仰付候之間、於寺堅固成先江質入にして貸付、追年利足増長追而新規調方相成候銀数成就之趣申出候ハハ、於御蔵本仕替可被仰付候、夫迄之所ハ是迄通り貸渡可被仰付候、且又御法事并御施餓鬼之節、御仏前江相用紫御幕之儀ハ、是迄通リ申出之閧上貸渡可被仰付之
このうち「於寺堅固成貸付致し利足米銀を以可及取計事」ということは、他の寄進のところにもみられるのであるが、当時の徳山藩の財政事情と併せ考えると興味あることであろう。
 毛利公は菩提所周慶寺に再三参詣されているのであって
元禄二年(一六八九)六月七日周慶寺御仏詣
同年九月三日周慶寺出泉所寺ニ御一泊
宝永六年(一六二九)十月十七日下松江御成、周慶寺御一宿、磯部与四郎浜屋敷被為成………周慶寺御帰宿十九日御帰舘被遊候
との記事がみえる。また、毛利広豊公の御隠居所下松御殿が宝暦十三年(一七六三)にできたが、その時周慶寺が一時、広豊公の仮御殿になっていたことがある。それは次の通り。
宝暦十三年癸未十月近年寺御借上仮御殿相成候付、勝手之方仕継御普請被仰付候処、此度新御殿江御引移相済寺被差返候、右仕継之御座敷其侭被下、尤以後御悩ニハ不被仰付之通御沙汰
 なお、広豊公の下松御殿は、西豊井村字柳田中(下松町より一町計北入)にあり、御屋敷前通三十七間入三十五度と記されてあるが、現在どの辺りであったか分らないのは残念である。
 この寺も天保六年(一八三五)火災にあった。
天保六年乙未九月廿四日暁下松周慶寺本堂より出火にて、本尊并御位牌本堂庫裡不残焼失、依之追而御位牌御仕替ニ而御安置
寺宝古記録等いずれも焼失し、貴重な史料も失われたのである。この火災に対し
弘化四年(一八四七)丁未正月十六日先年寺焼失之砌、高五十石之内弐拾石減少被仰付置候処、此度思召有之以前之通被差戻、高五十石ニ被仰付候条、寺務弥以無懈修業可仕通御沙汰
右のように減高の処置がとられていたのである。こうして長い間毛利家の菩提所であったが、明治初年の諸政革新、藩政廃止に伴って菩提所も廃せられた。
明治四年辛未十二月廿日是迄御安置相成居候処之御位牌、大成寺江御引移、後来御追祀於大成寺執行被仰付候通御沙汰
 現在も周慶寺に周慶大師の位牌はまつられ、徳山毛利家からは供養料も毎年供えられている。
     結語
 以上泉所寺・正福寺・周慶寺について大略記したが、これらの寺院は、いずれも切戸川の川口に沿うた地にあることは、興味あることである。
 下松地名伝説にある北辰尊星降臨の地は都濃郡鷲頭庄青柳浦で、後に降臨にもとづき降松と変えたとあるが、この青柳浦の港はどこであったのであろうか。それは、この切戸川の川口ではなかろうか。下松が早くから外地と交渉を持ったのも、またその後発展の基礎となったのも、下松の港の良港にあると思う。下松の寺院において、最も古くから栄えた前記の三ケ寺が囲んでいたこの切戸川の川口が、下松で最初に栄えた地域と思える。
 また、下松(青柳)は、この川口より起り、町並みの形成は西福寺の門前市たる中市を中心とし、東に新町東市、西に西市と発展したものと考えられる。
 現在の柳の地も『地下上申』には
  柳村ト申ハ、往古下松町ヲ青柳ノ浦ト申、其故カ町ノウシロニ有之小村ヲ柳村ト申伝タル由ニ候事
と記され、柳の地は青柳浦のうしろに当たる地とあるが、切戸川の川口を青柳浦と考えた時、最もよくこれに当てはまるように思える。
 『増補周防記』にみえる玉鶴川の伝説に
  青柳の由来ニハ天女下りて釣をたれ候図有之
と書かれ、これは玉釣川のことであろうと考えているが、ここにも青柳浦の伝説があったように思われる。
 泉所寺が青柳山と山号をいったのも、この地名をとったものといわれている。また泉所寺の寺名も、古代において住居と関係の深い水と関係があるのであろう。
 大寧寺の山号を林松山といっていたのも、当時の大寧寺の土地柄をあらわしており、松林のあった土地に寺があったのである。大寧寺の辺りの地を高洲(たかす)といっているが、高洲に松林のあったことから松林山と山号をいったのであろう。
 この青柳浦を西の港とすれば、北辰尊星降臨の下松地名伝説にあらわれる土地は、いずれも下松の東の地域であることは興味あることである。
普門寺(ふもんじ)
 本町にあり、浄土宗本派知恩院の末寺で、山号を海潮山と号し、現住は第十五世上野卓誠師で、現在の本堂は明治三十九年の再建である。『寺社由来』によると
  開山廓誉素白大徳 延宝六年(一六七八)二月六日寂
  二世白誉竜伝大徳
  三世一誉諦益   四世中興観誉伝察
  現世覚誉壱祭
  右開山ヨリ現世マデ至凡百拾年余、不知委ハ
他に、境内・本堂・本尊等について記し
  右前書之外当寺由緒等無御座候、以上
と書かれている。
 周慶寺の『寺社由来』にも、この寺が周慶寺の塔頭であったことが記されている。この他の記録類には見るべき記事がない。
 前住職上野法雨師の言によれば、「当寺の開基は元和十年(一六二四)で、もとこの地に観音堂があったのが、浄土宗になったので、山号及び寺名は観音経の普門品中の海潮妙音より出づる」、とのいいつたえがあるそうである。また延宝年間の創建ともいう。海潮山といえば海に近い土地を想像するが、当時まだ開作が行われていなかった時代であり、普門寺の近くまで海岸が来ていたため、「海潮妙音」の句より山号が選ばれたのではあるまいか。
 当寺の過去帳に記されてある地名は、町の発展の模様を知る上に価値があると思うので、後述したい。
浄西寺(じょうさいじ)
 元町(旧東町)にあって、浄土宗本派知恩院の末寺で山号を光照山と号し、現住は第十九世小田村静全師で、現在の本堂は明治九年の再建である。『寺社由来』によると
  一開山清誉是頓大徳 寛永十二年(一六三五)十一月十日示寂
  二世心誉恵長   三世心誉順諦
  四世称誉諦岸   五世教誉辯智
  六世行誉運貞   現世清誉順廓
  右従開山現住マテ至ル凡百三十年余、不知委
他に、境内・本堂・本尊等について記し
  右前書之外当寺由緒等無御座候、以上
と書かれている。周慶寺の『寺社由来』に、当寺は周慶寺の塔頭であったことが記されている。元和元年の創建ともいう。
 『徳山藩史』によれば
  宝永七年(一七一〇)庚寅二月十二日下松町大火之節浄西寺類焼
とあり、また明治九年に山門を残し全焼したといわれている。二回の火災により、寺宝・古記録等焼失したのは残念である。
 当寺は、周防の三部といわれた磯部家の菩提所で、磯部家の全盛時代には当寺も盛んであったと思われる。現在も寺内に磯部家代々の墓があるが、昔の盛時が偲ばれる立派な墓である。当寺の古記録の中に、磯部家の由緒の書かれた記録が残っている。
なお浄西寺の沿革についていい伝えによると、
開基浄建社清誉光照是頓比丘天正六年(一五七八)三月十日当山創建す、寛永十二年(一六三五)十一月十日寂俗姓磯部常安なり、父宗安天正六年(一五七八)没落後浪人して当国に来り、下松に住居し、地名を以て磯部と名付く、宗祥天正六年三月別松尾於城中討死せり、二代常安遁世して是頓と改め、祖先の菩提を弔はん為め当寺を創建せり。十四世栄金和尚代明治七年(一八七四)回禄に遭ひて山門を残して全焼せり。
西教寺(さいきょうじ)
 当寺は創建以来、下松駅前で元町の東端(現在幾久屋旅館等の地)にあったのを、昭和十六年駅前道路拡張のため現在地能行に移転したもので、真宗本派西本願寺の末寺である。現住は第十七世佐伯道鉄師である。
 『寺社由来』によれば
一 開基了円、俗名佐伯右京太夫発心仕、富田善宗寺開基明西弟子ニ罷成候て小庵建立仕候、第二世秋海、第三世秋円、第四世了海、慶長十八年(一六一三)丑九月廿四日死去仕候、第五世教意、寛永廿未年(一六四三)十二月八日ニ西教寺と申寺号相調申候、第六世玄長、第七世湛海、第八世現住達相律師
一 記録棟札御判物古筆類、末寺末庵等無御座候
一 当寺寺内古キ井出御座候、此井出之儀は琳聖太子百済国ヨリ御来朝之時分より御座と申来り候、俗ニ是ヲ妙見之井出と申候、夫ニ付当寺山号清水山ト申来リ候
と書かれてある。寺伝によれば
開基は九州豊前国佐伯の城主佐伯右京太夫にして、其当時豊臣秀吉の征韓論高調の節、右京太夫はこれに反対の意見を述べたれば、異端者扱いを受くるに至り、遂に居城を立退き海路向岸なる下松に着し、隠棲せしが、世の無常を感じ遂に出家得度し、法名を円照と号して自ら開基開山となり一宇を建立せしが、即ち本寺の濫觴たり。円照師は天正八年(一五八〇)三月十八日示寂す。開基右京太夫に二子あり、其長子は徳山毛利藩に仕官し一家を成し、次男は寺門を継ぎて法名を秋海と号し以来法統連綿として今日に及ぶ。
といわれている。他には、当寺に関する古記録は見当たらない。
 昔の住居が水と深い関係があることは、ここにもよい例が見られるのであるが、西教寺が井戸の近くに建てられ、清水山といったことも興味あることである。
 次に普門寺及び西教寺の過去帳により、下松の町の名の変遷及び町の発展の様子を、大略述べてみたい。
 下松の昔の町のことについては、寛保元年(一七四一)に下松町年寄役より徳山藩に差出した、「御領内町方目安」がある。これによると、寛保年間には下松の町は中市・東市・新市よりなっている。西市も、昔は下松西市といわれていたが、毛利時代に西市は萩藩領になったため、今は述べないでおく。
 旧西教寺の建物は、今の本通りの突き当たりにあって、西に面していたが、その建て方から見ると、下松の町は昔は旧西教寺までであったと考えられる。それから発展したのが新町、即ち新しい町であって、東市より東は八軒屋までを新町といい、八軒屋も新町の内に含まれていたと「町方目安」には書かれている。
 中川原は今の中島町、中市は切戸川から大小路まで、東市は大小路より旧西教寺まで、新町は旧西教寺以東であった。
 この本通りの裏に裏町があり、その裏町の裏に、「町方目安」には裏の裏町と書いてある町があった。以上が寛保年間頃の町名である。この「町方目安」にはこのほか、町の長さ・道幅・家数・人数・職人数・漁航・租税・寺社等詳しく記されている。この町名の事は、各寺の過去帳でも知られるのであって、寛保元年(一七四一)以前の町名は、いずれもこれらの町名に限られている。普門寺・西教寺の過去帳を通じて新町の初見は貞享四年(一六八七)である。この頃より新町が漸く町としての体裁をととのえてきたものと思われる。
 また、普門寺の過去帳では、東町・本町の町名は寛政元年(一七八九)迄は見当たらないので、大体寛政年間以後に東市が東町・本町となったのであろう。勿論、『寺社由来』が出された時、「下松本町周慶寺」、「西豊井村本町西教寺」とあり、また、『徳山藩史』の享保十七年(一七三二)の記事の中に、「下松本町浄西寺門前より出火」の記事があるが、この時の本町は下松の町の意味と考えられる。
 なお新町は、東市以西の東市・中市の延長の町というよりも、東市・中市とは別個に発達した町であるように考えられる。東市と新町をつなぐ室町の町名は、嘉永年間の記録に見られ、室町の道は左図の如くであったが、これより考えるも別個の町を結んだように考えられる。


現在のような室町になったのは、大正七年の道路改修によるのである。
 室町以東の町並みを見るに、かぎになった町角が多いのに気付くのであるが、(左図参照)これは町が伸長して発展してできたのではなくて、海岸べりに箇々に発展した小さい通りが結びついてできたものと考えられる。
 また、室町以東の町の発展は、東豊井の繁栄に開連しているものと思うが、これについては稿を改めて述べよう。