この寺は、恋ケ浜の山手にある曹洞宗の寺院で、海宝山慶雲寺と号し、徳山久米の慈福寺の末寺であった。『寺社由来』によると、開山は慈福寺三世松岳守謗大和尚とされている。創建の年代は不明であるが、開山の遷化は天文二十四年(一五五五)七月九日と伝えられている。文禄年間創建ともいう。
また、『寺社由来』には第三世祖室教俊和尚が、元禄年中に大破した堂塔を正徳年中に再建し、享保元年(一七一六)に遷化したと記されている。開山松岳和尚と第三世祖室和尚の間には、百六十一年の隔たりがあって、その間を僅か二代の世代とすることは、甚だ不合理と考えられるが、これについては、『寺社由来』第二世三要宗学和尚の項に
二代者三要宗学と申候、遷化之年号相知不申、月日七月廿六日、世牌幷ニ墓当寺ニ有之、此間中古数年寺及大破、前住茂順々有之由申伝候へ共、牌銘等も相知不申候事
とあって、開山と第三世の間には幾代か洩れていることが記されている。
創建の当時は、現在地より東方にあったと伝えられているが、現在寺畑(テラバタケ)といわれている畑地が寺跡ではあるまいか。該地は現在地より東に当たり景勝の地である。後述の伝説にある宮洲山との関係等より考えるも、ここが慶雲寺の寺跡と考えられる。
『徳山古跡探』に慶雲寺のことについて
慶雲寺なる御宝物「朝日さす夕日かがやくその下に、こはん千両朱の八千壺」此寺破壊に及なば掘出すべしと記遺り云々
と記され、宝物が地下に埋蔵されていると伝えられていたようである。また『増補周防記』には
一 宮洲山 生山(イキヤマ)にて亀の形也此山亀ケ首と云
一 慶雲寺号海宝山、宝物に「朝日さす夕日輝やく其下ニ小判千両朱(アケノ)千壼」と云歌有、此寺大破之節ハ掘出すべき由書記せり、或時掘て見しに堅き物有を無理に打切候に、亀の首と見へて血夥しく出たり、今も俗に云、笠戸によいと云ハ此亀ケ首を引起したる時の懸声なり、此以前上方之画師宮洲山の形を船にて写せしに、活山ゆへか五度計も写替ても度々違しとかや、亀之首切し後ハ死山となりて写さるると伝ふ
宝物が埋蔵されているという伝説は、どうして起ったものか分からないが、海宝山と山号をいったことから考えても、何か理由があるものと思われる。
活山、死山ということは他の地方でもよくあることで、山口の亀山公園にもこの伝説がある。
山が亀の化身であるといい、あるいは大きな亀が山の下にいて、何か大事変のときは山が動き出すといわれている。宮洲山は亀の形に似ており、また潮流の関係で土砂の堆積により常に変化していたことや、北辰妙見尊星のお使いは亀であると伝えられていること等より、こうした伝説が生れたのではあるまいかと思われる。
この伝説の中に、「今も俗に云笠戸によいと云ハ、此亀ケ首を引起したる時の懸声なり」とある。この「笠戸によい」の懸声については、宮洲山の東側に大きな岩があって、これを太鼓岩といったが、昔はこの岩の上にあがって太鼓をうち、「笠戸によい」と笠戸に向って呼び、笠戸より迎えの舟の来るのを待ったといわれている。笠戸によいという懸声は、この舟を呼ぶ声をさしたものである。慶雲寺の伝説のなかには、いろいろな伝説が混同しているように思われる。
この恋ケ浜の地名について述べてみるに、『地下上申』には鯉ケ浜とあって
右小村之内鯉ケ浜と申候義ハ、往古当所之内ニ提壱ケ所有之、鯉夥敷すみ申候由、然所ニ洪水之節土手切レ、右之魚浜へなかれ出申ニ付、地下人ひろい取、其節より鯉ケ浜と名付候由、申伝之由ニ御座候事
右のように、地名の由来を述べている。後述の豊井正立寺の過去帳によると、小江浜と書かれ、この初見は寛保四年(一七四四)である。それ以前はすべて先豊井、先村と書かれ、処々に先豊井、先村が消されて恋浜と直されているところもある。
浅江西福寺の過去帳には前豊井とあるが、これはサキ豊井といったものと思う。
寛延元年(一七四八)には恋ケ浜の名がすでに出ているが、大体は先村、先豊井と書かれている。西福寺過去帳には豊井恋ケ浜の名もみられる。思うに先豊井、先村から小江浜となり、鯉浜、恋ケ浜と書かれるようになったものと思う。しかし、鯉ケ浜の地名はあまり文書にはみられず、大体恋ケ浜が使われたようである。
恋の字が使われるようになったのは、宮洲と恋浜の男女がここで心中したため、という伝説も巷間に伝えられている。恋ケ浜の近くに江口の地名があるが、これは小江浜への口の意味であろう。このほか、この地域には舟入・磯地等の地名があり、往時の地勢をあらわしている。
なお、慶雲寺の過去帳には、古くは東の某、西の某・最前(マンマエ)の某・後(うしろ)の某・沖の某・山の某等と書かれているが、これは当地域が人家が稠密しており、また、寺を中心として東・西等といい、まだ小字の名がなかった時代のことと考えられる。
浅江西福寺は、恋ケ浜(寺畑は西福寺の寺跡という)より浅江へ移転したため、恋ケ浜に西福寺の門徒が多いように伝えられている。しかし、西福寺の『寺社由来』には、「往古よりの由緒も覚申たるもの無御座候」と書かれており、また西福寺の過去帳の記載より考えても、そうした根拠はなく、むしろ浅江地方より恋ケ浜に移住してきたものと考えられる。従来、恋ケ浜では上恋ケ浜(岡所 オカジヨウ)、下恋ケ浜(沖所 オキジヨウ)の対立がいわれていたが、これは農業を主とした上恋ケ浜部落と、漁業を主としていた下恋ケ浜部落との対立であろう。また、下恋ケ浜地域には、浅江地方からの移住者が多かったこと等も、その原因をなすものと考えられる。
本論に話を戻し、その後の慶雲寺について述べると、『徳山藩記』に
延享四年(一七四七)丁卯十月朔日東豊井慶雲寺自火
とあって火災にかかっている。また、昭和二十年六月二十九日に大爆撃をうけ、本堂・庫裡悉く焼失したのであって、寺前に残る溜池は当時の弾痕によってできたものである。昭和二十二年現在の建物が再建された。現住は、第二十二代角直道師である。
寺伝による慶雲寺の沿革を参考までに左に掲げよう。
往古は今の地より約二丁位東方の処に草庵ありしを、久米村慈福寺の住僧禅海和尚開山となり、第二世天応師に至りて現今の地々転々し、第六世瑞応の代に至り寺門振はず廃頽。甚しく荒れ果ていたるも、第八世太玄の代に復興し、明治十二年梵鐘を造りし等ありしも、第九世宏天代には再び荒廃し、法灯滅せんとし無住の状態にある時、第十三世確翁入寺し寺門復興に努め、大正四年には工費四千円を投じて庫裡を造営、其他山門及び練塀の修繕等を施し、漸く内外共に完備する。本堂六間四面の茅葺なり。
万福寺(まんぷくじ)
廃寺であって、現在はただ地名に残っているばかりである。豊井小学校の東端部から、周りの江口社宅の一部にかけての地域をいう。江口社宅の上の堤を万福寺堤とよんでいる。『地下上申』に
万福寺山
但往古万福寺と申寺有之候故、右之通ニ申伝候事
とあって、相当古い時代に廃寺になったものと思われる。最近も時々、豊井小学校横の溝に五輪塔の石塔が流されているのを見るのであるが、万福寺の寺跡より流れたものと思う。
妙法寺(みょうほうじ)
曹洞宗で南溟山(現在は医王山)妙法寺といい、徳山久米の慈福寺の末寺であった。慈福寺二世一峰宗順和尚を開山としている。創建の年代は不明であるが、開山宗順和尚は天文二十一年(一五五二)正月二十九日に遷化している。
寺伝によれば、当寺は徳山毛利家の建立と伝えているが、当寺は大内時代の創建であるから、毛利家が建立したのではなく、当寺が毛利家との関係を生じ、再建された時のことをいっているのであろう。
後述するように、清安寺が廃寺になった後は、毛利就隆公の乳母にあたる清安院殿の位牌及び墓は、妙法寺に預けられ供養されるようになった。これ以後妙法寺は毛利家の加護をうけるようになったのである。寺伝に山号を南溟山といい、開山一華宗須天文二十一年正月廿九日寂、或は天文十二年正月建立と云う。『寺社由来』に
本堂三間四面、右御領主より御建立、末々修補被仰付候同屋鋪御除
とあり、また『徳山藩記』に
東豊井村妙法寺薬師堂御悩其外自力
と記されている。(次の清安寺考も参照されたい。)
当寺は嘉永七年(一八五四)及び昭和四年に火災にかかっているが、山門は両度の火災をまぬがれ、創建当時のものと伝えられている。本堂側の門板は、一部こげているが火災のあとが偲ばれる。山門は楼門を移し火災前のままと思われる。嘉永七年の火災については、『徳山藩記』に左の記事がある。
嘉永七年甲寅十一月五日東豊井村妙法寺地震ニて自火。
本尊は薬師如来で、古来より秘仏とされ、十三年目ごと午年に開帳される。また、裏山に清安院殿の石塔があるが、これについては『寺社由来』にも記されている。
一 五輪石塔壱ツ
右者日向守様御乳母御墓、法名清光院殿光誉栄真大姉、寛永廿一甲申(一六四四)三月十三日、西丸様御遺言ニ付伏見より此所江御送野辺
妙法寺については両度の火災で古記録等焼失し、不明の点が多いのは残念である。現住西村哲哉師は当山第十四世である。
清安寺(せいあんじ)
清安寺については『地下上申』・『寺社由来』にも記録がなく、地名にも残っていないので、従来その寺名さえ世に知られていなかった。昭和十五年に、清安寺殿の子孫にあたる徳山奈古屋文治氏の調査による『毛利家御在所廟兆録』の記録や、極く一部の人の口牌により、その所在を知ることができた。
『毛利家御在所廟兆録』によると、清安寺は妙法寺の北東の地にあって、毛利就隆公が乳母清安院殿のために、正保四年(一六四七)に創建したものである。現在、妙法寺の裏山に寺跡がある。開山は本流長意和尚といい、奈古屋氏の出で清安院殿には甥にあたり、龍文寺の弟子であった。当時清安寺の寺録としては
一 延宝二年(一六七四)比分限帳に現米十俵銀百目高一石三斗、但寺地御除之分同八斗、石塔場御除之分清安寺トアリ
清安寺は開山長意和尚が遷化すると、毛利家によって取上げられ廃寺となった。その後清安寺の本尊及び器物は周慶寺に納められたのであって、左の記録がある。
一 周慶寺ノ末寺ナリシ証拠ニハ、周慶寺什物ノ内九寸ノ伏鉄アリ銘云在裏
清安寺住物右は清庵院殿光栄栄真大姉霊位為御菩提也、于時寛永廿一年甲申(一六四四)三月十三日天下一常陸大掾宗味作
一 清庵寺本尊三体、今周慶寺ノ本尊トナリ玉フ、正面如来[左観音右勢至]
このことについて周慶寺について調べたところ、周慶寺の火災の際、焼失したものか現存しないそうである。
なお、この記録によっても分かるように、清安寺は周慶寺の末寺であった。また、清安院殿の戒名も浄土宗の戒名である。このように、清安寺は周慶寺の末寺であったため、本尊及び器物は周慶寺に納められたが、位牌及び墓は近くの妙法寺に預けられたのである。
一 元禄二年(一六八九)長意和尚遷化、清安寺地御取上、清安院様御位牌守護ノ為ニ、妙法寺後ノ山妙法寺ヘ御下ケ也、清安寺跡ハ妙法寺ノ少東に有之
一 妙法寺ノ儀ハ薬師ノ寺内ニテ、清安殿ノ御石塔有之、葬礼場寺敷御除石高八斗三舛前御除置キ候通申伝、証拠物ハ無之、但畝反知不申、寺被キ山御除地之内也、右之通ニテ御石塔ノ守護等仕来候由
寺跡についても処分されたようである。
一 清安寺屋鋪已前ハ大工庄左衛門持主也、後寺迫弥兵衛作人ヘ渡由
こうして清安寺の存在は一片の記録として残るばかりで、名も寺跡も知る人はほとんどない。ここに清安寺の概略を記し、後世に伝わらんことを願う次第である。
なお、開山長意和尚の墓は、清安院殿の墓と並んで、現に妙法寺の裏山にある。
正立寺(しょうりゅうじ)
当寺は浄土真宗で大谷山正立寺といい、富田善宗寺の末寺であった。『寺社由来』に
当寺開基宗栄と申候、入寂之儀は延宝三年(一六七五)ニ病死仕候
と記し、他には見るべき記事はない。ただ「釣鐘之儀は、元禄年中に相調申候」とあるが、これについて寺伝による次の鐘銘を参考までに掲げよう。
正立寺鐘銘並序
元禄屠雍摂提格季秋朔旦、寓善宗寺、達空正立、現住恵雲、此鐘寛永亥春自然生隙邑響不正也、邑人武居清左衛門嘆之、施資令鋳易之、今還掛楼、梵音佳亮、尚越腐矣、其功亦尽者哉
時維宝永四丁亥(一七〇七)秋七月七日
冶工尾木清左衛門信次
大旦邦 毛利元次公武運長久
なお、寺伝によると、古くは常教寺と公称し、明暦二年(一六五六)三月二十七日の創建と伝えている。また、開山宗永以前は真宗でなく他の宗派であったが、宗永の代に真宗に改宗したと伝えられている。
現住宗本昭見師は第十二世である。特に当寺では過去帳の記事にみるべき事項が多いので、これについて述べてみよう。
1 小江浜のことについて、慶雲寺の項で述べたところである。
2 寺迫の地名は古くはすべて寺廻と書かれている。寺迫の初見は天保十二年(一八四一)で、それ以後は大体寺迫と書かれたのが多いが、明治三年頃にもまだ寺廻と書かれたのもある。
3 東開作・西開作・香力開作の地名がしばしばみられるのは、豊井から開作ができた頃に移住したものと思われる。現在も開作方面に、当寺の門徒が相当ある。
4 他国の者が葬られているのが多いのも、目につくところである。特に、磯部の塩の積取りに来る筑後柳川藩の船が多い。ついで筑前・加州・摂州・讚州の名も見える。宮の洲に船をとどめている時に死亡し、当地に葬を頼んだのである。次のような記事がある。
筑前国御用船揖[取一人死去ス俗名介治郎事]
筑後船ノ内俗名市右衛門事
磯部客船筑後柳川大得丸二十八才ニテ死
5 四国参りの者が、恋ケ浜で死んでいるのも注意すべきである。これは陸路で魚ケ辺りを通り浅江方面に行くため、恋ケ浜にとまり病死したものと思われる。次のような記事がある。
赤間関ノ者、四国行恋ケ浜ニテ病死生年七才、恋ケ浜ニテ豊前ノ四国行親子三人モノ、男子五才ニテ死
当時下松における交通路としては、陸上では花岡・久保を通ずる山陽道と、いま一つは下松恋浜を通り浅江方面に通ずる道があった。海上交通では、宮洲は瀬戸内海航路での重要な泊場であったのである。
善正寺(ぜんしょうじ)
『地下上申』に
右小村之内寺迫と申候義ハ、往古彼村之内ニ善正寺と申古跡御座候ニ付、寺迫村と名付申候由申伝ニ御座候事
とあって、寺迫の地名の起源とされている善正寺について述べている。
現在、寺迫の上の山を善正寺山といっているが、善正寺は山の上より少し下った南側にあったようで、寺に登る坂道を今も門上坂(モンジョウザカ)といい、門は坂の下にあったといわれている。
先年、この付近より夥しい瓦の破片が掘り出されたが、その瓦は明らかに火災にあっていた。これより考えると、善正寺は火災にあい、遂に廃寺になったものと思われる。また、この善正寺山を大庭山ともいっているが、大庭加賀守賢兼の住居したところである。
海善寺(かいぜんじ)
現在、宮前寮の付近の地名を海善寺といっており、昔の寺跡と伝えている。しかし、何等記録もなく、遺跡も見当たらない。後日の研究に譲りたい。
霊松寺(れいしょうじ)
『地下上申』・『寺社由来』にも記載されず、また地名にも残っていないが、次の二の記録がある。
『正任記』の文明十年(一四七八)十月五日の条に
自防州下松霊松寺巻数幷餅抹茶菓子等進上之被成御書了
山口市宮野常栄寺所蔵の毛利輝元の書状に
為寺領防州都濃郡豊井郷霊昌寺令寄附候
この霊松寺と霊昌寺は、同一の寺と考えられる。また、霊松寺は善正寺あるいは泉所寺と同一の寺ではないだろうかと思われるのであるが、後日の研究に譲りたい。
この『正任記』は応仁の大乱直後、大内政弘が防長・芸石の諸将を率い、豊前・筑前の両国を平定し、博多滞在中に、随従の家臣相良正任が記した日記である。
この霊松寺の記事は、大内政弘の遠征につき同寺が陣中見舞いをしたことを記したものである。これによって霊松寺は大内氏とは特別の関係にあったことが知れるのである。そのため毛利時代になっても、毛利氏も霊松寺に寺領を寄進し、その存立を計ったものと思われる。このように由緒ある寺院が、その存在すら知られてないことにも研究すべき問題があると思う。
以上掲げた寺院の配置について考えてみるに、これらの寺は東は恋浜より西は寺迫にいたるまで、前面に海をひかえた山麓地帯にあって、下松の東部に一グループをなしているように思える。また、これらの地域は、切戸川の河口を中心として発展したと見られる、下松市街地に相対しているように思われるのである。このことは東豊井・西豊井の区分の上にも見られることと思う。
澄泉寺(ちょうせんじ)
前述の東部地域に、明暦時代に創建された寺として澄泉寺がある。当寺は臨済宗で、徳山大成寺の末寺であった。本尊は観世音菩薩、往時は徳山御弓町にあった由緒ある寺である。
特に名高いのは、元治元年(一八六四)長州征伐の際、主戦論者であった益田・福原・国司三家老が自刃を命ぜられた時、三家老の一人国司信濃が蟄居を命ぜられ、最後をとげた寺として知られている。
その後大成寺境内に移され、毛利家代々の位牌を安置しその供養をなし、毛利家よりの庇護をうけていた。明治時代に入り
明治四年辛未(一八七一)十一月廿二日御改革ニ付、御安置之御位牌不残御取戻し、大成寺に御引移被仰付候、依之給米被差除之
こうして明治四年以後は、廃寺同様になっていた澄泉寺の寺号をもらい、矢島家は明治三十六年九月宮洲に澄泉寺を建立し、矢島家の菩提寺としたのである。矢島家が久原工場建設のために宮洲一帯の土地を売るに及び、昭和四年当寺を宮ノ洲より恋ケ浜の矢島家の屋敷の近くに移した。その後澄泉寺の住職が死するに及び、矢島家は澄泉寺の建物を他に売却し、本尊は矢島家の屋敷内に持仏堂を建て、これに安置していた。昭和十七年の台風の際、高潮のため持仏堂は一物もとどめず洗い流されたという。
宮洲及び恋浜には、今も澄泉寺の寺跡は明らかに残っている。
(昭三二・一、第二輯)