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4 閼伽井坊 花岡八幡宮社坊 地蔵院 香禅寺 長福寺 楊林坊 常福坊 千手院 惣持坊 関善坊 法静寺 分国寺(禅定寺) 願成坊

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 旧末武北村は、末武上村・末武中村・生野屋村の三村が、明治二十二年市町村制が布かれたとき合併したものである。末武・生野屋の地名は、古くから知られているが、その当時の末武の地域は大体花岡を中心とした末武上村の地域と考えられる。こうした古い地域であるから、寺院においても古い沿革を有するものが多い。
閼伽井坊(あかいぼう)
 花岡八幡宮の下にあって真言宗である。山号を華岳山という。本尊は虚空蔵菩薩である。現住は三池泰道師である。『寺社由来』によれば
当寺代々真言宗ニて御座候、何頃建立相成候哉存たる者無御座候、且又開山等も相知不申候故、万治年中以来之住持左ニ書付差上ケ申候事
とあり『風土注進案』には
建立之由来不詳、中古焼失仕、元文年中ノ住職良長法印より当代迄拾一世血脈相続仕候、其已前の儀は不分明ニ候得とも、慶長四年(一五九九)之御書付ニ有之八幡宮社坊九ケ寺之内一ケ寺ニて御座候
と書かれ、諸記録は火災のために焼失して、建立の由来は不詳とされている。しかし、八幡宮社坊九ケ寺の一ケ寺として、古くから尊崇されていたのである。
 『花岡八幡宮由来記』によれば
周防国都濃郡末武荘花岡八幡宮ハ、かけまくもかしこき皇国の御代の守りと鎮ります大神にして、祭所宇佐におなし伝へいふそのかみ和銅二年(七〇九)己酉の歳弥生の比、三奈木某といふわらはに託り給ひ、朕は筑紫の宇佐の嶋に天降りし姫大神なり、こゝにすまむことを思ふ、願くは汝いつきまつれ、さるしるしには一夜のほとに山を桜となし、また岩清水をわかしめんとのたまへり、みさとしのことく、千百との桜あしたの雲となひき、霞める空にかぐはしくわきいつる水またすかすかし、つひにこの事おほやけにきこえて、瑞の御舎をつくり千木たかしりてかしこみ祭り、いまにかうかうし………岩清水を赤井といひて、この水をくみてのむ人は、もろもろのやまいをまぬかるという
花岡の地名伝説及び閼伽井の由来も、これによって知ることができる。下松妙見宮について、妙見尊星を桂木山に祭り、山麓に閼伽井坊を建立したことが記されており、これはまた豊井の地名の起源とされている。このように、古代においては住居と水とは特に密接な関係をもち、また真言宗では閼伽井の水を非常に尊んでいるのである。
 閼伽井の閼伽とは、仏に供える清浄な水をいい、閼伽井とは閼伽を汲む井戸というのであって、八幡宮及び社坊へ供える水が汲まれていたのである。『寺社由来』に
  右清水、八幡宮神水ニ相備候事、往古より閼伽井坊社役之参掛り御座候
と記されている。のちには藩主の用水にも使われるようになり、同書に
  殿様御上下之節は御前水ニ相成申候事、元来閼伽の井と申候事
また、『風土注進案』には
  当寺之儀ハ御上下ノ節ハ、御茶屋ニおいて御祈禱物献上、御通懸御目見被仰付来候事
とあって、閼伽井坊は藩主より特別に遇せられていたのである。
 なお、閼伽井の水について
右清水之儀ハ、素神水ニ限候故歟、悪行之人立寄呑と存候時ハ即時ニ水色赤成、右の者ハ則病を請、手足も叶かね難儀仕候由申伝候、尤只今ニおいてハ、不思議も無之様ニ覚申候事
と記されている。
 前述のように閼伽井坊は花岡八幡宮社坊九ケ寺の一ケ寺であるが、九ケ寺のうち現存しているのは閼伽井坊だけである。そのため社坊九ケ寺のうちの廃寺になっている分国寺の、昆沙門天王・愛染明王像、並びに地蔵院の本尊地蔵尊及び本門は、閼伽井坊に現に伝わっているのである。
 閼伽井坊に属する多宝塔は、塔内には大日如来像が奉安され、下松唯一の重要文化財であって、昭和二十五年八月に指定されている。すでに、明治四十年五月には特別保護建造物の指定をうけていたのである。『山口県文化財概要』には多宝塔について、「造建の年代については不詳であるが、その構造手法よりみるときは室町の中期、あるいはそれより多少下る時期に属するものと考えてよく、手法繊麗で優秀な建築である。」と記し、その構造等についても述べている。
 『風土注進案』によれば
  右当祠建立、天智元壬戌(六六二)年天智天皇之御宇大職冠御建立、竹田番匠之作ト申伝也
と記されている。これは勿論、当時の伝説を記したものであるが、創建以来その優秀な建造物がよく現在にいたるまで保存されてきたのは、一に多宝塔に対する当地方の官民の信仰心のいたすところであると思う。
 塔内に保存されている棟札によれば、元禄十三年(一七〇〇)、享保八年(一七二三)、延享元年(一七四四)、宝暦七年(一七五七)、安永六年(一七七七)、天保四年(一八三三)、文久三年(一八六三)に修理されている。また地蔵院文書には、寛永八年(一六三一)、承応四年(一六五五)修理の棟札写を載せている。左に掲げると
   寛永八年(一六三一)御奉行益田玄蕃頭
             代官  豊嶋弥左衛門
             大工  和泉守
  奉再興八幡宮多宝塔一宇事
  大檀主大江朝臣秀就建立之敬白
   霜月吉日普請奉行石津太郎左衛門御取次
      社務地蔵院宥朝
このように、これらの修理はすべて藩主を大檀主として行われたのであって、『風土注進案』にも
  御普請御入目ノ儀ハ、公米銀被立遣候事
と記されている。
 巷間に伝えるところによると、明治の初年頃多宝塔の破損が甚だしく、取壊しの説さえ出たとき、花岡上原勝平氏が自費にて修理されたと伝えている。
 閼伽井坊の末庵に、花岡写常森に観音堂がある。世人は乳観音といい、乳を授けられる観音様として古来より有名である。(乳形をこしらえて奉納し祈願していた。)
花岡八幡宮社坊(はなおかはちまんぐうしゃぼう)
 『地蔵院文書』によれば
  防州都濃郡末武花岡八幡宮寺社領目録案書
  一 三十二石斗二升三合
    右年中三十三度之御祭方也
  一 五石
    右諸営方之分
  一 十石
    右九月十五日御祭礼被成入目、地蔵院調之
  一 三十石二斗八升八合    地蔵院領
  一 七石六斗六升       楊林坊分
  一 八石           常福坊分
  一 五石四斗三升八合     千手院分
  一 四石五斗         閼伽井坊分
  一 三斗八升二合       香禅寺分
  一 二石九斗         惣持坊分
  一 二石九斗八升九合     長福寺分
  一 三石一斗一升三合     関善坊分
    已上六十七石九斗一升五合  坊領分
  一 二十石六斗八升一合    諸社官給
    幷而百三十六石六斗二升三合
   右は国備山吉兵衛以御究之前、附立所申如件
       慶長四年(一五九九)二月十日    地蔵院
右の文書によって、花岡八幡宮社坊九ケ寺は地蔵院・楊林坊・常福坊・千手院・閼伽井坊・香禅寺・惣持坊・長福寺・関善坊であることが分かる。しかし、閼伽井坊以外の寺院は現存しない。現在、寺跡と認められるものは高(香)禅寺・地蔵院・長福寺がある。他の五社坊については、記録にみられるばかりで、寺跡等も一切不明であるのは遺憾である。
 『寺社由来』には、閼伽井坊・地蔵院の由来書があるが、他の社坊については何等記載されていないのをみると、『寺社由来』のできた当時には、すでに七社坊は廃寺になっていたと考えられる。
地蔵院(ぢぞういん)
 廃寺で、寺跡は花岡八幡宮の下、元花岡小学校のところといわれている。真言宗で八幡宮社坊の別当で、八幡宮の社務も司っていたのである。
 本尊は地蔵尊で金生山と号していた。『寺社由来』によれば
  当寺往古何之年号之頃建立相成候哉、開山等も存たる者無御座候
と記され、創建年代等も不明としている。『寺社由来』には、当時地蔵院が所蔵していた古文書を載せているが、その数は非常に多くまた貴重なものがあって、下松地方史にとっては重要な史料である。実物の古文書は、現在花岡八幡宮に保存されている。
 古文書中ことに有名なのは、豊臣家の花岡奉行にあてた書状で、天正二十年(一五七四)八月日の御朱印状が二通ある。
京大坂よりなこや迄つき馬次夫之事
一京よりハ    関白殿御朱印
一大坂よりハ   北政所殿御おして
一なこやよりハ  太閤様御朱印
一右の所々ニ一文遣之、精銭百貫文宛被置候条、次馬次飛脚如御定可相渡候事
一馬ニは一里ニ付而精銭拾文宛、十里之分合百文哉之事
一次夫一人一里ニ付而四文宛、十里之分合四十文宛之事
一人夫之荷物一荷十貫目たるへき事
一馬之荷一駄三十貫目たるへき事
一御朱印御おして被遣候条、任其旨相渡追而可遂算用事
一次馬次夫之事、右之御朱印御おして無之候ハハ、かりことにて可有之候間、一切不可許容候事
一駄賃馬人足かり候ニおゐてハ、上より被下候ことく駄賃之高下なくかし可申候事
右之条々堅被相定置訖、若於相背者可被処厳科者也
  天正二十年(一五九二)八月 日   御朱印
                          花岡奉行
京都大坂より名護屋之間、海陸続夫次馬次船仕候、所々へ公用百貫文宛被渡置候、則関白殿如下知之、印判書付次第右之代物相渡、追而可遂算用候、次銭定之儀被仰付候、奉行共之判形候、任高札之旨、及異儀族在之は召出遂糺明、実犯於為顕然者、速可処厳科候、委細大一坊山路少兵衛大嶋又右衛門可申聞候、猶以万疋之鳥目預り置、対両三使慥受取状可遣候也
  八月廿四日   御朱印
                          花岡奉行
この古文書は、広く世の中に知られており、有名な古文書とされている。これは地蔵院とは関係がない文書であるが、どうした理由で、地蔵院に保存されるようになったかは不明である。なお、花岡の地名が現存する記録にみられるのは、この古文書が一番古いのである。
 豊臣家御朱印二通のほか、同寺には多数の文書があるが、その読解はかなり難しく、人名等が不明な点が多く今後の研究にまたねばならない。そのうち四通は大内時代の天文年間のもので、左に掲げる一通は重円法印の住職任命の書状である。
  末武花岡地蔵院住持職之事、重円公可存知者也、仍状如件
   天文十九年(一五五〇)十二月十四日 中務少輔隆房御書判
中務少輔隆房とは大内氏の家臣である。
 他の文書は、いずれも毛利時代のものである。重円法印の次に重喜法印が地蔵院の仮職になったが、その任命状を次に掲げると
周防国都濃郡末武花岡山地蔵院住持職之事、以近年平治重喜公ニ被仰付畢、全ク令寺務之、社役等有所勤之、可被相抱之由候者也、仍執達如件
  弘治三年(一五五七)八月廿六日
地蔵院より年頭歳暮の祝儀を差上げたについての元就・隆元・輝元の御判物が多くある。
  為年頭之儀、巻数幷青銅百疋到来祝着候、猶期吉事候、恐々謹言
    正月十九日      元就御書判
   地蔵院
  歳暮之祈念抽其節、巻数到来喜悦候、殊樒柑一目籠送越候、猶児玉四郎兵衛尉所ヨリ可申遣候、恐々謹言
    十二月十六日     隆元御判
   地蔵院
  為古歴之儀、巻数幷樒柑一折到来候、快然之至候、猶期明春候、恐々謹言
    極月十七日      輝元御判
   地蔵院
他は寺領に関するものが非常に多いが、後日の研究に譲りたい。
 このように、地蔵院は八幡宮社坊の別当として重きをなしていたが、明治二年十一月当時の住職都濃正記師が還俗したため、遂に廃寺となった。地蔵院の本尊及び門は閼伽井坊に移され、古文書類は花岡八幡宮に収まることになった。
香禅寺(こうぜんじ)
 花岡上地に、小字名として高禅寺があって、昔の香禅寺の寺跡と伝えられている。
長福寺(ちょうふくじ)
 古老の伝えるところによると、長福寺は上地の御宿にあったといわれている。現に寺跡と伝えられているところには、寺の墓が残っている。
楊林坊(ようりんぼう) 常福坊(じょうふくぼう) 千手院(せんじゅいん) 惣持坊(そうじぼう) 関善坊(かんぜんぼう)
 これらは寺跡もなく、ただ記録に残っているばかりである、分明した点を述べよう。
 楊林坊については、現在地蔵院の墓があるところをゆうりん坊と土地の人はいっている。これは、昔の楊林坊の寺跡ではあるまいかと、語った人があるので参考までに記しておく。なお、地蔵院文書にある検地帳には「寺職四畝代二百匁 楊林坊」と寺の屋敷について書かれている。
 常福坊は、現在、地名に上福寺・下福寺とあるが、この地名は常福坊との関係はないであろうか。
 千手院については、地蔵院の文書に左の記録がある。
今度芸防引分之砌、伊豫公之事別而馳走数多之条、感悦之餘千手院之事遺之置候、然上は任先例旨、寺家云寺領至社領名田等永可被全所務状如件
   弘治二年(一五五六)十二月二日               元宣御判
 伊予公
 毛利氏が陶氏を討伐した際、伊予公が協力したのでその功化より千手院の住職にし、知行を与えるとの書状である。なお伊予公の人物等について、一切不明であるのは残念である。
 惣持坊についても地蔵院の文書に
地蔵院事、近年二位公令存知之処、依為不慮之覚悟当時既無主候、然者及大破之由申候、不可然候、有再住諸篇被申付候者肝要候、如此候間件二位公事、見合可加成敗之由、対江良神六申付候、於継目之儀者山口事初候者、以此状之旨可被申請候、委細尚肥留惣右衛門尉可申候、恐々謹言
  四月廿六日                         道転御判
 惣持坊
これは、地蔵院住持職の後任の申請を惣持坊に頼んでいる文書であるが、惣持坊は当時勢力のあった社坊であったように考えられる。
 関善坊は、前述の花岡八幡宮寺社領目録に記載されている以外に、検地打渡坪付帳に「寺職一ケ所関善坊」と記載されている。坪付帳の前後の関係から考えると、宮ノ下にあったように思われる。
法静寺(ほうしょうじ)
 花岡八幡宮の少し東にある浄土宗の寺院で、山号を盛涼山といい、現住見山任祥師は第二十四代住職に当たる。『寺社由来』によれば、
当寺往古慶安四辛卯年(一六五一)之頃より浄土宗法静寺と申候、開基念誉道誓法子と申候、此僧十一年住職仕候、出生剃髪之様子相知レ不申候、右之僧寛文元辛丑年(一六六一)三月十三日死去仕候、位牌墓所共に当寺ニ有之申候、其レより現住称誉知順迄十世、中頃四十年已前聴誉聞秀代焼失仕候ニ付、何れの記録も相知不申候
と記されている。『増補周防記』の周防浄門由緒記によれば
末武村之内花岡盛冷山法静寺慶長年中起立之開山号広舌平僧也、其頃号正覚寺其后令焼失故由緒不知之也、六十余年已前寿西平僧右之古跡再建立矣、当此時改寺号称法静寺、因玆彼寿西中興也、其已後令焼失、此時寺記悉紛失矣、故開山由緒遷化年号等不知之也
これによれば前述の慶安四年(一六五一)よりも以前、すでに慶長年中に創建され正覚寺と号していたのである。また聴誉聞秀代焼失したとあるのは『風土注進案』に
  本堂庫裏本門ニ至迄宝永二年(一七〇五)不残焼失仕、其後宝暦十辰年(一七六〇)再興相成候事
と記されていることであろう。また『寺社由来』には
  毎春於当寺、末武村上下、久米、切山宗門御窮被仰付来候事
とあって当寺において萩本藩領の宗門改が行われていたのである。また、山陽街道にあり本陣にも近いので、諸大名の宿舎にもなっていたのであって
  殿様御通路之節ハ、御一門様御老中様之御宿ニ相成来候、其外九州御大名様方御通路の節ハ、於時御本陣ニも相成来候事
と記されている。狐の嫁入りの祭として有名な当寺内にある稲荷大明神について『風土注進案』には
  先年より境内ニ小祠有之候所、御改革ニ付本堂え安置相成候事
と記されている。伝えるところによると
「当寺住職称誉、享保九年(一七二四)八月十八日遠石浦の白狐夫婦の死を厚く弔い、法号を与え寺内に懇に葬むる。白狐喜び夢に告げて火難盗難をさけ出世福徳の功徳を授けるという。後に代官所の書類紛失し三年間分らず、当寺稲荷に祈願するに直にこれを得ることができた。代官は大いに喜び文政十三年(一八三〇)二月、正一位稲荷大明神の神号を受け神殿を建てて厚く尊崇した。それよりいよいよ広く世に崇敬されるようになった」
といわれている。
分国寺(ぶんこくじ)(禅定寺(ぜんじょうじ))
 分国寺は、白谷山と号し真言宗である。今は廃寺となっているが、寺跡は禅定寺山にある。『寺社由来』には詳しく由来を記している。これによると
当寺観音、周防三十三番之札処之内十二番の観音、往古は禅定寺と申伽藍御座候と申伝也、何頃か及破損、観音堂も不被建置仕合ニ相成候由、夫故同村之内高禅寺山え堂御下ケ仕、其後亦花岡八幡山之内え右之堂造り候て、閼伽井坊預りニ相成候由ニ御座候
とされている。これによってみれば、分国寺はもと禅定寺といい、現在の禅定寺山にあって本尊は千手観世音であったのである。禅定寺が衰微し寺塔も廃頽したため、遂に高禅寺山に観音堂を下げ、その後、花岡八幡山に移し閼伽井坊の預りとなっていたという。
然所ニ、其節末武村以之外田作虫枯強不熟ニ付及困究ニ候、因玆御百姓中存寄候ハ、限有禅定寺致大破、其上観音堂迄八幡山え取下ケ造り候故共にては有之間敷やと此段歎申候、依之往古之通、禅定寺山堂屋敷古来より之堂屋敷有之ニ付、元禄十六年(一七〇三)之夏花岡閼伽井坊より御断申出候、則御免許相成候夫故早速当山堂屋舗え観音造り申候
このようにして、花岡山にあった観音堂は、再び禅定寺山に造立されるようになったのである。
其後宝永六年(一七〇九)丑之秋、都濃郡中より御断申出て、郡中五穀成就之祈願寺建申度候、只今迄ハ存寄次第ニて詰り不申候、向後は諸村一同ニ、何とそ禅定寺観音堂護摩所ニ仕度と御断申出候処ニ御免被成、夫より花岡閼伽井坊隠居良長罷登、前年正五九月ニ五穀成就之御祈願護摩執行相調来り候
これによってみるに、禅定寺観音堂は都濃郡中の諸庄屋よりの願出によって、都濃郡中の五穀成就の祈願寺となったのである。また、この観音堂が分国寺となったについては
右之禅定寺山観音堂、只今ハ分国寺と申候、此段は古跡中絶仕候所ニ、右之通り元禄年中ニ取立相成候、然共観音堂計りニて捨置候時ハ亦々破損ニ相成、堂守も無之様ニ可相成、然時は限有霊場又可致破損と存、地下中より歎鋪存居申候、然処に享保八年(一八二四)之秋、厚狭郡藤河内村之内秋里数馬殿地行所ニ、分国寺と中絶破古跡御座候由及承、彼地より申請置、閼伽井坊より御理申出、引寺被差免候様にと本寺満願寺へも願出候処ニ、被差免ニ付御役所え御断申出、引寺御許容成シ被下候ハバ、自力を以寺建立可仕と御断申出候処ニ、御免之御裏被成被下、夫より当寺分国寺と相成り申候、依之先住法印良長は当山中興開山ニて御座候
即ち、厚狭郡の分国寺を引寺して来たのであって、良長法印を即ち中興開山といっているのである。
 分国寺については前記の『寺社由来』の記事が唯一の史料で、『風土注進案』も『寺社由来』の分国寺の記事を簡略にしたものにすぎないので、ここでは『寺社由来』によって記述した次第である。
 この分国寺で注意すべきことは観音堂の造立、分国寺の創建等が五穀成就の祈願のため、つねに庶民の力によって行われたことである。
  観音堂之儀は、古来より末武上下両庄屋存内中より、諸普請仕候事
右のように、普請等もすべて地下即ち一般庶民によってなされていたのである。
 其の後、分国寺は明治四十年頃、住職分国師のとき廃寺になった。
願成坊(がんじょうぼう)
 地蔵院文書の「防州都濃郡御検地坪付打渡之事、合末武庄花岡八幡領」の文書には各所に願成坊の地名が出てくる。当時はすでに廃寺になっていたが、以前に、願成坊といった寺院があったものと思われる。しかし、現在では花岡の小字名にも願成坊の地名は見られない。
 以上、花岡八幡宮周辺の寺院について述べたが、浄土宗法静寺を除いては、すべて真言宗の寺院である。これは、この地方が古くから開けていたことをしめしている。また、新しい宗旨である真宗の寺院がないことは、新しく他所から人々が入り込んで、戸数が増加しなかったことを意味しているように考えられる。
(昭三四・一、第四輯)