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5 受天寺 福円寺 蓮生寺 玉峰院 玉泉寺 勝賢寺 玉林寺(香林寺) 多聞院 教応寺 長音寺 慈福寺 日光寺

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受天寺(じゅてんじ)
 『寺社由来』に、末武村禅宗亀福山受天寺として由緒書を藩に出している。寺跡は和田橋の北に当たる近くの岡にある。『寺社由来』によると
  一 当寺往古何之年号之比は何宗何寺と申事は存知不申候事
  一 当寺開山昌応隆繁和尚 天正十二甲申ノ年(一五四三)三月四日示寂 隣り、本寺慈福寺五世之住持ニて御座候
  一 当寺開基月山全江禅定門 永禄十二己巳年(一五六九)七月五日卒去
  一 御名乗桂能登守元澄と御座候
  一 墓は当寺ニ無御座候、尤芸州安芸ニ御座候
と記されている。また、受天寺所蔵の古文書九通によると、受天寺創建の由来を詳しく知ることができる。
神領広大寺之事、進之置候、全寺家寺領可有御存知候、於諸役等者堅固可有御勤仕候、仍一行如件
  天文廿三年(一五五四)五月吉日
                               備中守    御判
                               右馬頭    御判
    隆繁
神領佐賀田之内永興寺事、任存隆東堂御譲之旨、弥堅固ニ寺家云寺領、全可有執務事肝要候、猶赤川源左衛門尉可申候、恐々謹言
  永禄三年(一五六〇)二月七日
                               隆元     御判
    隆範書記
神領永興寺之事、召放対元澄遣候、為其替地末武受天寺之事、寺家云寺領云、無相違宛行候、則令執務、寺家造営以下公役、堅固所勤肝要候、猶赤川源左衛門尉可申聞候謹言
  六月四日
                               隆元     御判
其方抱永興寺之事、桂兵部丞為菩提所、元証ニ被遣候、為其代所末武之内受天寺十八石余足之事被遣候、田畠山野無相違有知行、勤行公役堅固ニ可相調之由可申之旨候、為其被成御書候、可有戴頭候、恐々謹言
  六月四日
                           佐藤又右衛門    就在判
                           粟屋与十郎     元種判
                           国司雅楽允     就信判
                           赤川源左衛門    元久判
    隆繁参
 これら『寺社由来』及び古文書の記事よりみれば、受天寺は以前よりあって、あるいは大内氏の家臣の菩提寺であったかとも考えられる。大内氏が滅び無住となっていた受天寺は、毛利隆元によって広大寺・永興寺の住持であった隆繁に譲られた。これは永興寺を、毛利氏の重臣桂元澄の菩提所として隆繁より召し上げ、元澄に与えた代替としてであった。なお、広大寺・永興寺、桂元澄については、後日の研究に譲りたい。『寺社由来』によれば、桂元澄は受天寺の開基ともなっていたことが知られる。
 これらの古文書は、現に日天寺に左記の奥書とともに、軸物として所蔵されている。
右之御書五通幷奉書四通者従毛利家御先祖被成下候御判物、当寺代々伝来処也、然者到後年、紛失之災然難計、今改成一軸訖、当家之重宝、後世之住持尤可崇敬者也
  于時元禄十四辛巳(一七〇一)歳臘月日
                        防州都濃郡末武村受天寺十三世宗学
 前記の十八石の寺頭については『寺社由来』によれば
  御証文ニは、寺領十八石余足御除知行と御座候得共、何之時代よりか御証文辻十八石之寺領無御座候事
と記してあるが、以前は寺頭十八石を有し栄えていた寺院であった。
 それ以後、明治初年まで受天寺については何等の記録がない。明治初年の廃仏毀釈に際し、受天寺の地を払い久米村曹洞宗日面寺と合寺し、日尾山日天寺と称したのである。そして日面寺の本尊如意輪観音を日天寺の本尊とした。この如意輪観音は昭和二十九年五月、山口県指定文化財とされた。寺伝によれば
僧行基の作にして、聖武天皇憶念の守護神、不可思議の妙智力ありて、日夜珍敬尊重の霊仏なり、神亀元年以降日尾山頂に安置し霊験益々新也、明治維新前は、観音堂の鎖鑰は常に花岡なる勘場に保管し、五十年毎の開扉の際のみ、勘場より人を派し開扉したるものなり
また『増補周防記』によれば
十三番久米日尾山本尊如意輪長六寸、閻浮檀金之尊像聖武帝の守仏………日尾山の頂に昔堂あり、いずれの世より有や不知、其興廃又不可知、之より先き野火に焼る、然共茂たる草の内に観音無羔故に、小き堂に納め、其後星霜を経て寛文年中安立禅師中興し日面寺建立
  海近く南に向う日面寺ふたらく山も近くなるらん
と記されている。現に観音霊場として崇敬者多く、また、毎年八月十日は朝観音といい、暁闇より参詣するものが頗る多い。
 近年、温見ダムの建設により、米川の曹洞宗宝蔵寺の移転に伴い、日天寺と合寺し交通の便利な現在地に移転した次第である。再度の合寺による山号、寺名の変遷を左に掲げよう。


福円寺(ふくえんじ)
 末武中西河原にあり。浄土真宗にして、山号を教扶山という。『寺社由来』によれば
一 当寺往古ハ法名本ニて、宗門之儀ハ本来真宗行善と申僧小庵を建申由伝承候、い可様の子細ニて剃髪仕り候哉詳ニ存知不申候、然上は開基之年号月日位牌墓所等迄不分明候事
一 夫より致中絶、俗躰ニて二代相続仕候事
一 夫より四代目ニ至候て、玄可と申僧明暦三年(一六五七)七月ニ寺号相調、其後宝永六年(一七〇九)七月廿六日ニ死去仕候事
 これによれば、最初の頃は法名本、即ち寺号なく庵であったのである。
 寺伝によれば、天文五年(一五三六)の創建、開基法名行善、俗称を多良満永治といい、武士であったが、隠居し真宗に帰依して一宇を建立したと伝えている。真宗寺院の成立は、大体このような過程をとり、寺号を公称するまでに相当長い間、庵の時代があったのである。
 文化四年(一八〇七)に火災にかかったため、古記録等全部焼失し、沿革もほとんど不明である。
 明治初年廃仏毀釈の際、廃寺となり、明治四年七月隣寺浄蓮寺に合寺したが、明治十三年四月浄蓮寺より分離し、福円寺を再興した。当時の住職第十六世津村秀山を、当寺の中興としている。
      合寺分離ニ付再願御願
    山口県下周防国都濃郡末武下村
           真宗本願寺派 福円寺
右寺儀、従前同国同郡末武中村ニ有之候所、過ル明治辛未年七月廿三日同郡末武下村同宗派浄蓮寺へ合併被仰付候ニ付、同村之儀は戸数三百有余戸ノ地ニシテ、同年自他宗共ニ廃合相成、以来寺院一宇も無之ニ付、老幼殆ど聞法ニ相煩之故、昨十二年三月永続資本金等記載仕明細書相添へ、旧地へ復還之儀御願申上候所、永続之目途不相立ニ付、御詮議難相成候御書下ケ相成礑と当惑仕候、依而此度更ニ金額四百五拾円増加仕、其他委趣永続見込書之通リ資本調備仕、該寺旧蹟え復還之儀本山添書取附再願仕候間、何卒至仁之御詮儀ヲ被為遂、如願御許可被成下度、私共連署ヲ以此段奉願上候也
 明治十三年(一八八〇) 一月廿二日
 右の願書及び金九百五拾円を、永続資本金とすることを分離の条件とした永続見込書を、住職津村秀山・総代・法類総代より山口県令に出され、四月十三日付にて分離復旧之儀差許の許可があったのである。
 この願書にあるように、明治初年の廃仏毀釈による寺院の廃合は、上司の命令によって行われた。また、この願書の出願者が福円寺住職とあり、添付の寺院明細書にも本尊・堂宇・檀徒数等記載され、当寺の過去帳にも、当時葬られた門徒の法名等が記されている点より考えると、合寺とはいってもただ表面的なものであって、実際には寺院としての一切の法務が行われていたものと思う。
 津村秀山師は、江戸末期より明治初年にかけて寺子屋を開き、子弟の教育に当たっていた。現に福円寺境内に、寺子屋時代の生徒中よりとして建立された秀山師の墓がある。当時の寺子屋について、寺族の語るところによると、生徒は毎日七十人位集まり、本堂が狭いため本堂の横に別棟の校舎を建てていた。月謝はとらず、盆・暮及び時折の節句に米・餅・野菜等を持参する程度であった。明治六年中村小学校が建つに及び、福円寺の寺子屋は廃され、秀山師も中村小学校の教師になったと伝えている。
 福円寺のある小字の地名を永城院といっているが、永城院という寺院があったのではなかろうか。
蓮生寺(れんしょうじ) 玉峰院(ぎょくほういん)
 末武中西河原にあって、浄土宗で山号を陀龍山と称していた。『寺社由来』によれば
当寺往古より浄土宗蓮生寺ト申候、開基相知レ不申候、中頃より覚誉浄本ト申道心者居申候、此僧出生剃髪之様子相知レ不申候、其れより現住観誉浄喜迄三世にて御座候
と記され、他には特記すべきことはない。伝説によると、熊谷蓮生坊真実が立寄られたため、蓮生寺と名づけたといっている。後、火災に遭い、全焼し古記録等もなく、沿革は一切不明である。この火災については、巷間に「やんややんや、蓮生寺は丸焼だ」との俚語も残っているように、一物も残さないほどの丸焼、大火であったようである。
 蓮生寺は、明治初年の廃仏毀釈により廃寺になったが、堂宇は周慶寺の浄土宗教会所として存続したのである。この教会所に、明治三十三年二月岡山県上道郡三櫂村玉峰院を引寺し、寺名を玉峰院とし、蓮生寺は再興することになった。
 玉峰院の引寺に当たっては、堀一家より田地五反七畝余の寄付があって、これを寺の基本財産とした。また、堀一家によって堂宇の新築改築等が行われたが、これらが引寺許可の条件であったのである。明治三十二年六月に許可され、同年十二月に移転が完了したことを届出ている。爾後、玉峰院は堀一家の菩提寺となり、現住は弘中成道師である。
玉泉寺(ぎょくせんじ)
 いつの頃にか、隣村久米院内に移転したとのことであるが、正確な史料もなく寺跡さえも不明である。『寺社由来』に、末武村真宗玉泉寺として次のように記載されている。
一 当寺往古は法名本ニて、宗門之儀は真宗玄立と申僧有之小庵を立候之由伝承候、其時之年号月日又ハ開基年号月日位牌墓共に相知不申候事
一 夫より第三世閑隆と申僧相勤候処ニ、弟子新発意等も無御座病死仕、跡式絶候処ニ本寺富田善宗寺より拙僧ニ取立候様と申付爰許え差越候、其時分之年号ハ宝永四年(一七〇七)六月ニ入寺仕小庵を組立、其後正徳五年(一七一五)之春御公儀御願仕御免之上、京都於本願寺ニ同年六月十七日ニ玉泉寺ト寺号相調申候
 『地下上申』の末武上村の条には、「玉泉寺中村ニ有」、と記され、地下図にも載っている。何年頃に移転したか不明であるが、『風土注進案』にはすでに玉泉寺の寺名は記されていないので、『寺社由来』『地下上申』の書かれた寛保元年(一七四一)から『風土注進案』の書かれた天保年間までの間に、久米院内に移転したものと思う。
 地下図に記載されている場所の辺りについて、玉泉寺の寺跡を尋ねたところ、広石の田中武夫氏が、先年田の分合をした際、田の中より五輪塔が多数発掘されたと話された。ここが玉泉寺の寺跡ではないかと思うが、後日の研究に譲りたい。
 なお、この地を「塚のもと」といっている点より考えて、『風土注進案』末武上村の条の
  一里塚一本    弘石村ニ有之
  右従安芸境小瀬川拾里従赤間関二十六里
  塚ノ台一間四方石垣ニテ御座候事
がこれに当たるものではなかろうかと思う。
 『風土注進案』の久米村の条に玉泉寺が記載されている。
  当寺開基南花と申、延宝三年(一六七五)死去仕、天保十五辰年(一八四四)迄年数二百八年ニ相成、当住迄八代相続仕候事
ここには末武村よりの移転について何等の記事もない。
 久米村玉泉寺は後、明治初年に久米村順正寺に合寺した。
 福円寺の過去帳には、明治十一年頃に和田・広石・西河原の玉泉寺の門徒が、玉泉寺が廃寺になったため、福円寺へ入檀している記事があるが、これによると玉泉寺の門徒はこの方面にあったことが知られる。
勝賢寺(しょうけんじ)
 末武中字香力にあって、浄土真宗である。寺伝によれば
此地に光月庵と称する一宇があり、光格天皇の御宇文化十年(一八一三)八月但馬国出日の城下に赤松敬真と号する医者あり、其三男に恵教と言う禅門の僧あり、此地に居住し教化につとめしが帰依する者多く、遂に一の坊舎を建立す。然して第二代恵海のとき文化十四年(一八一七)三月真宗にあらたむ。依て当庵の開祖とす。恵教は三十六才の時来住し六十一才にして示寂せり。かくて光月庵は第三世教蓮を経て現住入寺する処となりたれば、現住勝見師は生寺たる勝賢寺を京都より明治四十五年十一月寺号を移転し、自ら中興第一世として寺門を盛んならしむるに至れり。
なお、光月庵の名は光格天皇の光をとったものであり、寺はもと山根にあって後、下香力に移り、ついで現在地に移ったといわれている。現住は森田勝見師である。
玉林寺(ぎょくりんじ)(香林寺(こうりんじ))
 廃寺となり寺跡は山根住宅の上にある。『地下上申』の地名の由来の条に香力の由来を述べ
右小村之内香力村と申ハ、此所ニ玉林寺と申寺一ケ寺有之、彼寺内ニ梅之古木有之、其香ハ甚敷、其由来を以香力村と申ならハし候由ニ御座候、右玉林寺寺と申寺之儀ハ先年及絶破ニ、只今ハ少之庵一ケ所御座候事
また、『山口県風土誌』によれば香力の地名の条に
由来書ニ、此所ニ玉林寺ト申寺一箇寺有之、彼寺内ニ梅ノ古木有之、其香甚敷、其由来ヲ以香林寺ト申習し候ト云ヘルガ、香力ノ文字ニヨリテ作為セル伝ノ如シ
と記して香林寺の由来を述べている。香力、香林寺の由来書がほとんど同一の文であることも興味があるが、これらはいずれも後世付会の地名伝説であろう。
 玉林寺の寺跡には、現に多数の石地蔵が並んでいる。土に埋もれた佐伯某の墓石と思われるものがあったが、香力の佐伯家と玉林寺とは、何か関係があったのではあるまいかと考える次第である。
(昭三四・一、第四輯)

多聞院(たもんいん)
 生野屋にあり、真言宗にして寺号は長楽寺、山号は松尾山という。多聞天王を本尊としているので、古来より多聞院とよばれている。『寺社由来』によると
拙僧儀は岩国妙福寺弟子、此寺無住故村招請ニ付享保二十年(一七三五)五月廿日ニ入院仕候処、往古よりの諸控無御座、尤過去帳も無御座、先住代々之位牌も無御座故世代相知不申候、夫故開山開基等も猶以相知不申候事
と記されているが、その他のことについては明らかでない。『地下上申』によると
  松尾八幡社
   但由緒之儀ハ別当多門院神主金藤左衛門より可被申出候、祭日八月十七日より十八日迄御幸計にて御座候事
これによってみるに松尾八幡宮の社坊であって、山号も松尾山と称しているのである。
『山口県寺院沿革史』によると
往古は長楽寺と称し、京都仁和寺末にして、伽藍も相当に大きく松尾八幡宮の社坊として寺録寺産もあり、寺門隆盛を極めしという。何時の頃にか、寺号も改められしも不明なり。且つ、人皇百十九代仁孝天皇の御宇文政二己卯年(一八一九)祝融に遭遇して、伽藍は勿論寺宝古記録に至る迄、僅かに本尊のみを除き他は全部焼失せり。故に開基開山創立年号等不詳なり、惜しむへし。然れども松尾八幡宮の旧社坊なることは、同宮天文八年の制札にありしという。依而累代の住僧相続せるも、その功績を知る由なし。
と記されている。左に天文八年(一五三九)の制札を掲げるが、当時の多聞院の隆盛を知ることができる。
    禁制                             [生野屋郷 宮山]
  一 当山多聞院上同至脇前山竹木等採用之事
  一 領中仁等堅固制之、於無承伏輩者名随注進、可加成敗之事
  一 他領輩其領主江被相理可被制之、若無承引者就注進可成裁許之事
  右之条々、従当院堅固可致制者也、甲乙仁等為存知制札如件
   天文八年(一五三九)十一月廿三日
                                   石見守(花押)
 松尾八幡宮については、寛延二年(一七四九)の『寺社由来』に
  松尾大明神ノ儀ハ、欽明天皇御宇金光二年(五四一)辛卯之年京都より勧請と申伝、是より生野屋村惣鎮守と申伝候事
最初は松尾八幡宮でなく松尾神社といい、延喜式所載の生屋の駅家の鎮守として生屋の鬼門に当たる当所に、延喜式所載の京都の松尾神社の分霊が祭られた。ついで、社坊として京都仁和寺末の真言宗多聞院が創建されたのではあるまいか。また多聞院には県指定有形文化財の星宿図が現存するのであるが、こうした貴重な文化財のあることは、多聞院が古く京都の寺院との関係があったことがしられよう。
 生屋駅家の位置についても不明であるが、松尾神社が生屋の鬼門に当たり、惣鎮守として祭られたものとすれば、生屋駅家も松尾神社の麓にあたり、山陽街道に沿うた地点ではないかと考えられるが、後日の研究に譲りたい。
 また『寺社由来』には
  八幡宮之儀ハ、文徳天皇御宇、天安元年丁丑(八五七)ニ豊前国宇佐より勧請ニて、是より二神一社ニ御鎮座と申伝候
とあるように後に八幡神が迎えられ、二神一社に鎮座されたので、松尾神社は松尾八幡宮となったのである。
 以上のように考えると、松尾八幡宮の社坊多聞院も、非常に古い寺院と考えられる次第である。
教応寺(きょうおうじ)
 生野屋にあって浄土真宗である。寺伝によれば
開基西雲の父は内山土佐守平尊城といい、加賀藩の藩士という。永正二年(一五〇五)この地に来住した後没す。尊城の子尊弘、父の菩提を弔はんため出家し、弘治二年(一五五六)十一月一宇を堀池に創建し北賀山尊城寺と号す。其子善入の孫三世善立の代寛永十七年(一六四〇)正月木仏寺号を許され、浄栄山教応寺と寺号を改めた。
『寺社由来』には
当寺第二世の西雲善入迄ハ法名本ニ而有之候、第三世善立と申代ニ木仏寺号ヲ願、寛永十七年(一六四〇)辰ノ正月十九日ニ教応寺と申寺ニ相成申候
と記され、寺伝と付合するのである。ただ法名本の時代も、実際には北賀山尊城寺という山号、寺名を用いていたことは注意すべきことである。
 当寺は、山陽街道筋にあるため、代々の藩主等立寄られたことが多く、しばしば下賜品等のことがあったようである。特に毛利就隆公の位牌を安置し、毎月命日には読経供養していた。また、寺伝によれば
萩毛利大膳太夫殿江戸参勤ノ砌、老役御宿泊幷奉行宗門究メノタメ出張等ノ都合上、堀池ヨリ現地ヘ移転仰付ケラレタリ依而第五世玄意、本堂・庫裡・楼門・長屋等ニ対スル用材一切、即杉柱上物ハ瀬戸村内嶋御立山ヨリ、松材ハ徳山合田ケ籔ヨリ頂戴ノ上、宝永五年(一七〇八)二月十日落成セリ
前述の就隆公の位牌安置のことについては、当寺保存の文書に左の如く記されている。
    覚
発性院様位牌拙寺五世玄意住職中安置被仰付、其後代々毎月八日開門仕候、而日中読経相勤、毎年八月八日三部経読誦仕来、於今無怠相勤申候処、如何之訳ニ而安置被仰付候哉、尚年月日之儀も相分不申候、仮先達て御届申出、其後追々旧記取調候処、御在世中度々御立寄御座候寺之儀ニ付、天和元年辛酉(一六八一)二月五日安置被仰付候通書伝御座候、此段御届申上候、以上
 安政二年乙卯(一八五五)七月廿九日                教応寺
 下松市内の寺院においては、当寺が一番よく古文書が保存整理され、寺史もよく編集されているが、これは先住内山龍順師が生存中に、寺史及び家史に特に意を用いられたためである。
 保存されている文書のうち二三左に掲げよう。
 切支丹御究ニ付御請状之事
浄土真宗教応寺内
     僧三人
     女二人
       侍  内山源助
          同人 妻
       下男 一人
       下女 一人
右之者共宗旨ニ紛無御座候、若不審之儀も御座候ハハ拙寺罷出申訳可仕候、仍而御請状如件
 弘化四年(一八四七)未二月日
                                教応寺
 桜井甚右夫殿
     覚
近海え異船乗込候節は、相図之鐘二ツ切撞候様、御本家方より申来候付、御領之内順々受継候之様、当前往来筋寺院え可遂沙汰之通ニ付、此段御心得可有候、以上
 (文久三年(一八六三))六月十五日                中川証人
 五智輪坊 善門寺 西教寺 正立寺 慶雲寺 西蓮寺 教応寺
     覚
                                教応寺
一 釣鐘一ツ径リ一尺七寸
   但 弐拾七貫目
右此度納方有之候通受取申候、以上
 文久三癸亥七月
       大砲鋳造方
当寺の過去帳にて注意すべき記事を掲げると
  一 明治三年 本年ハ非常豊稔ナリ、爾ルニ昨年ハ七八十年已来ノ凶作ナリ、為ニ小民ハ困難不少ト言
  一 明治五年 本年十二月五日ヲ以テ、陽暦一月一日ト改ム、本年痢病流行セリ
  一 明治六年 地券始行セラル、百年以来ノ旱末武田地ニ水無シ 狂気変死
  一 明治十二年 虎烈病流行
長音寺(ちょうおんじ) 慈福寺(じふくじ) 日光寺(にっこうじ)
 長音寺・慈福寺ともに、その寺院名は『寺社由来』には記載されていない。
 長音寺については『地下上申』に
  小名の内長音寺と申ハ、此所ニ浄土宗之寺御座候と申伝候所ニ、寺敷跡唯今ハ畠ニて御座候事
と記され地下図にも載ってない。
 慈福寺は地下図には記されているが、他書には記載されていない。
 日光寺については、現に地名があるのみで他には記録がないが、寺跡であると考えられる。
 このほか、太郎寺は地名にも文書にも出ないが、ただ人々の言い伝えているところである。
 生野屋には古くは十三坊あったといわれ、地名や屋号に寺名のあるのが多いようにいい伝えられているが、現在知られているのは前記の寺院名だけである。
 生野屋は、この地方では最も古くから知られているのであって、延喜式・和名抄にすでに生屋の地名は載っているのである。したがって、松尾八幡宮を中心として十三坊の社坊があった生野屋は、古い時代には非常に栄えていたと考えられる。
(昭三五・一、第五輯)