久保岡市にあり、浄土真宗である。寺伝によれば
創建年代不詳なり、開基超専は俗名石田兵部義長といい、石田治部少輔三成の末裔で武家なり、浄土真宗に帰依篤く見真大師の旧跡を尋ねて諸国を巡拝し、帰途安芸の国広島寺町仏護寺五代の住職諦順の弟子となり、法名を超専といい、初め山田村に一宇を建立し開基となり、正保四年(一六四七)三月二十四日寂す、後にこの地に移り現住まで十四世に及ぶ
と記されている。他の詳しいことは不明である。境内に、第十二世石田義諦師・第十三世石田義順師の墓が二基ある。両師は寺内に寺子屋を開き、子弟の教育に当たっていたのであって、墓も筆子中より生前に建立されたものである。西河原福円寺津村秀山師の墓も同様であるが、寺子屋の師匠の墓は、多く生前に建てられているのは注意すべきことである。
光円寺が最初にあった地は、山田江ノ原といわれているが、江ノ原の地名は現在では小字名にも残っていない。江ノ原は、現在の梅木原であるともいわれている。
当寺の過去帳に記入してある記事には、非常に有益な史料がある。これについて左に述べてみよう。
一 豊前・肥後・肥前・広島・出雲の者が、死亡して葬られている。下松豊井正立寺の過去帳にある他国の者は多く西国巡礼者であったが、当寺のは山陽街道に沿っているため、上方への往来者であって、巡礼者の死亡したものはなかった。西国巡礼者は海岸線の道路を通っていたものと考えられ、当時の交通について注意すべきことであろう。
二 他国の者を葬むる際は、住所不明の者は役人立会の上埋葬し、住所のわかっている者は葬った上、故郷に知らせる等いろいろ処置をとったが、役人及びその地域の者が種々尽力して、丁重に取扱っていたのである。二、三 掲げると
1 文政十年(一八二七)六月七日 了光童子 行衛不知者徳山領役人立合之上
2 寛延元年(一七四八)十二月三日 芸州音戸之瀬之住人、右者久保市裏金比羅堂の下酒屋ノ畠ニテ病死、早速徳山御窺検使出張ノ上地下役人ヨリ頼出候ニ付、其地ニ出勤与二法号一、亦又彼者四十二才也、又十一歳成子供有リ、御上ヨリ横駄出来芸国ヘ送リ帰ス、其後役所ヨリ当院ヘ礼物有之
3 文久元年(一八六一)四月廿三日肥後住太郎右衛門事、右者九州肥後国玉名郡伊倉北方村住人也、爾ニ当三月高祖聖人六百回御遠忌於御殿御執行有之候ニ付、彼夫婦上京仕下向ノ砌、当所塩売ケ峠迄下リ候処病気付キ、山田役人ヨリ食物運ヒ介抱致ス、終ニ病死ス、死骸ハ後口原ニ埋メ葬之、右多郎右衛門妻ハ、御上ヨリ御送書出横駄ヲ拵ヘ彼国ニ送之、其後肥後ヨリ右ノ為御礼、徳山御役所ヘ向ケ進物礼書来ル、其節当院エ金五十匹御布施有之、山田村御庄屋松村吉郎左衛門ヘ金百匹、郷組畔頭貞木吉郎兵衛ヘ金五十匹、夫々礼物贈リ来ル、尤地下役所且当寺ヘハ、彼国庄屋高田太郎ヨリ来書、幷後当地役所ヨリ彼国ヘ返書送ル
三 当時の社会情勢を物語る記事としては
1 出生ヒロシマノ者四人ヅレニテ当所ヘ来ル
2 徳山御家来廿石、先年御暇貰ヒ、其節ヨリ虚無僧ニ相成、浴蔵ノ脇ニ小家住居
3 先年ヨリ仕組ニ付、家内不残山田浴村出立ニテ、徳山御弓丁ノ頭テ澄泉寺留主守也
4 公吉姉、壮年ノ頃八代村ヘ縁付仕居候処、彼方難渋ニ付三十七歳ニテ子供二人連レ帰リ、即チ親元ニテ病死ノ事
5 備後福山城下浪人者娘
右久保市与七方ニテ死ス、於当寺弔
6 広島屋定兵衛妻
右者広島ノ産て岡市ニ止足
7 広島屋為吉娘 おとよ事
右とよ父為吉、昨酉六月当地ニテ盗賦致し、五人家内皆夜抜ニテ、福川女房ノ里ニ行ト風聞、同年秋為吉於彼地病死共ニ埋ム、当院無沙汰、其後女房三人ノ子供ヲ捨ニ来ル、姉中間娘ハ又母ヲ尋ネ福川ニ行、西方親子三人連レ乞食ス、末子ノ娘ハ当所に残リ、山田久保市其外毎日乞食ス、終ニハ手足不自由ニ相成リ、元ノ明屋ニテ雨洒シニテ死、久当寺ヨリ酒一舛遣シ、元ノ組合当院ヨリ呼寄セ六地蔵ヘ葬之、其節ノ世話人藤井仁平也、彼ノ者共母親兄弟ハ行方不知
8 明治十年当年大痢病也
四 風雨の記事については
1 安政五年(一八五八)五月二十一日 善蔵弟 十二才右大洪水ノ節、彼家ノ少シ上竹籔ノ側ニ枇杷ノ木有之候ヲ取ルトキ川ニ落ル、直ニ流ル、其後死骸行方不知
2 明治七年七月九日、暮六ツ時ヨリ北風ソヨソヨト吹出ス、夫ヨリ追々風強ク相成、夜四ツ時頃ヨリ風南ニ廻リ大風ニ相成、大雨大風夜七ツ時西風ニ相成、此時誠ニ古今未曾有ノ大風長州防州何レモ不残、大風中に三田尻山口当リ別シテ大風ノヨシ、当所近辺コケ家当寺下ノカシヤ又岡市瓦場………其外山田中ニ二十軒余コケ家、屋根ノ破損ハ軒別大破レ、当寺本堂屋根四方破レ、庫裏二方破レ、此近所男女老若我モ我モ背に負テ来ルモ有リ、泣々歩行ニテ来モ有リ、内外ノ者見舞言葉ニ一人も泣カヌ者コソナカリケリ、其翌日土地ハ少シモ見エス、諸家ノフキ草ヲ吹散シ、誠ニ恐ロシキ事ナリ
蓮台寺(れんだいじ)
山田梅ノ木原にあり、真言宗にして山号を紫雲山と称している。『寺社由来』によれば
当寺開山中興建立之時代共ニ相知不申候、先年水落と申所の頭ニ有之、何の時代ニ当山え相引候段相知レ不申候、其所古蓮台寺と申伝候
とあって最初当寺は水落の地にあった。今もこの地を、古蓮台寺といっている。現在地より約二十町位の上に当たる。
大内弘世の母が、非常に篤い観音信者であったため、大内弘世によって当国三十三ケ所観世音の霊場が設けられたといわれているが、当寺は十一番の札所に当たっている。『増補周防記』に
都濃郡山田村紫雲山蓮台寺本尊
如意輪観世音長九寸三歩坐像行基作
山高き為に蓮の台寺是も諸仏の援恵の庭哉
と記されている。
当寺の本寺は、河内村鷲頭寺であった。また『寺社由来』には
奉新造立 聖如意輪観音厨子一宇
元禄十二己卯年正月吉日
大願主帝釈天王
領主大江毛利飛騨守
と記されているが、古くから由緒のあった寺である。
蓮台寺の寺伝によれば往昔梅ノ木原蓮台寺山頂より金色の光明輝けるを往古の村人不思議を感じ附近一帯の人々御光明を拝し日夜礼拝し心中の諸願を祈り皆其の感応にふれ病魔諸難を除き利生にあづかる。人々御光明の根源を尋ね深山に分け登り不思議の地跡を問いしに不思議なるかな峯より東北に取り少しく下りたる処にスリバチの如き石あり、其の上に二十五文(もん)位の足跡深く残りたるを見る。是如意輪観世音菩薩様の足跡なり。此処に立ちて御光明の体を「はなたれ」有を拝せり、遠近一円の人々小路を難山に開き、一寺を建立し一般の信仰重厚たり。されと老幼婦女の参拝も仲々かない難く、多くは其の光明のはなたれし山頂を拝すのみなり。人心のなげき深く愛愍され、現今の山田紫雲山の老松に又々黄金色の御光明輝き、ある夜附近山田一円日中の如く明るめり、村人不思議の事に驚き一村をあげて言語を忘れ礼拝せり。それより蓮台寺山の光明転滅せり、依て山田に蓮台寺を再建せりとの伝説に依る。「尚老松は寿令六百年位なり」其の間幾星霜を経て明治十三年九月諸官の手を煩せて、官許を得て蓮台寺と称す。
と蓮台寺の由来を語っている。しかしこの中には蓮台寺が鷲頭寺の末寺となった由来はみられないが、深い関係があったことと思われる。この寺伝には仏足石崇拝の伝説と、観音菩薩の功徳が説かれている。仏足石崇拝は仏の足うらの形を石の上に彫りつけたもので仏の足跡を拝する信仰はインドでは仏像崇拝よりも起源が古いとされている。古老の人は、幼時この蓮台寺の仏足石をみたといっている。また古蓮台寺より観音菩薩は再び飛び現在の蓮台寺に来臨されたといい、ここにも仏足石があったが道路改修のとき所在がわからなくなったと話している。古蓮台寺の開創は相当古いものと思われる。
この蓮台寺の寺伝には、妙見山信仰と仏足石信仰、観音菩薩信仰の三つの伝説が混じって出来たものではあるまいかと思う。
先に古蓮台寺は鷲頭山防衛の要点と述べたが、そうした防備の点は蓮台寺跡にはみられない。常識として鷲頭山を守るには今少し四囲の連山の防備が必要であったと思われる。そうした点からいえば鷲頭氏が大内弘世に破れたのも鷲頭氏の鷲頭山防衛計画の欠陥にあるといわねばならない。
香林寺(こうりんじ)
蓮台寺の『寺社由来』に、左記の記事がある。
鍔口 壱掛
奉山田香林寺阿弥陀如来天正五年(一五七七)と有之、何之時代より当寺ニ有之候哉知レ不申候
このほかには、何等の記録もなく寺所も不明である。
利光寺(りこうじ)
現に、地名として残っている。『山口県風土誌』の山田村浴村の小字の条に
由来書云、往古ヨリ寺共有之候故利光寺ト申伝候
市納寺(いちのうじ) 八王寺(はちおうじ) 万福寺(まんぷくじ)
これらの三寺共に、山田の小字名として残っている。他には何等記録がないが、昔寺院があってその寺号を地名としたものと考えられる。また、屋号に寺名のものがあるのは、これは寺号が地名となり地名が屋号になったものである。
山田村に現存する寺院は、光円寺と蓮台寺の二ケ寺である。記録及び地名に残る寺院としては、香林寺・利光寺・市納寺・八王寺・万福寺の五ケ寺がある。以上七ケ寺が山田村にあったのである。蓮台寺は鷲頭寺の唯一の末寺であったが、これは鷲頭氏と山田村との関係が、特に深いものであったことを物語っている。また、貞和三年(一三四七)三月の文書に周防国鷲頭庄山田郷と記されている。これらのことより考えるに、山田村は古い時代には鷲頭氏との関係が深く、栄えていた地域であったと考えられる。
西蓮寺(さいれんじ)
久保市にあり、浄土宗である。『寺社由来』には開基、開山等については不明であると記している。寺伝によると
一 当寺起立之儀は、久保市町住人村瀬仁右衛門と申者浄土宗帰依ニて、彼者二男林治郎ヲ出家剃髪仕らせ戒名乗願と改申候、其後慶長十五年庚戌(一六一〇)春当山一宇建立仕り、寺号祥林寺と相改、右之乗願を住職為仕申候、依て当寺之開山ニて慶長十六年正月廿五日死去候
二 天和元年(一六八一)寺焼失仕候、天和三年癸亥年春残誉良廓住職仕当寺再建仕、元祥林寺を瑞雲山西蓮寺ト寺号相改申候、依て中興ト相唱申候、享保十七年壬子(一七三二)五月廿四日遷化仕候
と記されている。『増補周防記』の周防浄門由緒記には
久保市西蓮寺開山法名本誉分雪、出生ハ芸州広島、剃髪趣知不申候、在住已来八十五年成矣
と記しているが、これは祥林寺創建以前の時代であろうか。
当寺保存の文書に、祠堂料として寄進された田畠の証明があるので、左に掲げよう。
御寄進申畠之事
一 平原畠拾歩 高二舛七合
一 同所畠十歩 高二舛一合
右之畠私先祖より抱来申候、此度依私志貴寺様ヘ指上申候、御寺永代之御下地ニ可被召抱、以後ハ私月牌料祠堂ニ被成置可有候、向後於子孫ニも否申者無御座候、後年為堅揚状如件
享保十三年(一七二八) 当市 小左衛門
六月十五日 証人男子 惣左衛門
西蓮寺様
西蓮寺は、光円寺とほとんど並んでおり、しかも久保市の中心にあるので、光円寺以上にいろいろな事件があったと思われるが、記録がないので知ることができないのは遺憾である。
久保市及びその周辺の地に、浄土宗西蓮寺・真宗光円寺の他には寺院がなく、特に古く栄えた宗旨である真言宗の寺院がないことは、久保市が新しく、毛利氏以後に開けた土地であることを物語っているように思う。
(昭三五・三、第五輯)