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7 秋林寺 桃林寺 誓教寺 満願寺 総持院 八王寺 法堂寺 宮司坊 浄念寺 東蓮寺 養光寺 西楽寺 浄願寺

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秋林寺(しゅうりんじ)
 当寺は、大字切山の高山にある。下松市内においては、唯一の法華宗の寺院で、現在は第三十七世今田乾章師である。『寺社由来』によれば
当寺往古光明寺の古跡有之、何之年号之比建立ニて、其節之開山併歴代等一切知不申候、然処ニ自当領主四代前草刈太郎左衛門就氏息男戒名詠月院秋林童霊為菩提、去ル寛文九丁酉年(一六六九)公儀御願出之上建立相成、法花宗山号日海山秋林寺と改号仕候、其時之開山京都妙満寺三十八代精進院僧都日英上人勧請仕候
と記されている。切山村は萩本藩の所領で、高山は家臣草刈氏の給領地であった。草刈氏の祖草刈対馬守重継は、功により都濃郡切山村高山、阿武郡三隅村樅木の二ケ所の領地を賜わり、樅木に住していた。重継の玄孫草刈太郎左衛門就氏は、熱心な法華宗信者で、家祖重継の五十年忌には、阿武郡樅木に昌樹山了性院を創建している。切山村高山には、息男詠月院秋林童子の早逝により、菩提をとむらうため秋林寺を建立したのである。
 秋林寺建立の以前に、光明寺という寺院があったと、『寺社由来』には記しているが、大木家所蔵の文書によれば
往古高山は、一統に一向真宗光明寺門徒也、光明寺旧跡は、今河の屋やしき上成寺地也、某東成田の中に井戸あり、今も光明寺川とよぶ
然るに、草刈御先祖真行院殿京都御名代として御上京し給ひ、法花本山妙満寺より七条の御けさを授り、上人号を御諱受有、京都より御帰路の時太郎丸に御上宿有て、御領内の貴賤男女をことごとく召寄られ、二夜三日が間、御高座に登らせ給ひて御説法遊ばされ、是迄の真宗の数珠を切らせ、残らず改宗させて法花宗門と成し給ふ也
光明寺の古蹟は、大木勝登氏裏にあたり、小字東光明寺・西光明寺の地である。当時、高山に真宗寺院が建立され、部落全体が真宗門徒であったという記事については疑わしい。なぜなら、下松の真宗寺院の大部分は寛文年間頃の創建であり、全住民がすべて宗門をきめることとなったのも、寛文年間のことであったことを考えると、光明寺は真宗ではなくて真言宗であったのではなかろうか。切山村の地頭、光井亀千代の屋敷跡が高山にあって、光井亀千代丸屋敷と伝えられているというが、この光井氏の菩提寺が光明寺ではなかろうかと考える次第である。
 寺伝によれば
領主毛利家臣草刈太郎左衛門就氏の子息育たず、気嫌殊の他斜なりし時、偶々時の総本山妙満寺貫主精進院日英上人の巡錫に遇ひ、教をうけ一族をあげて上人に帰依し、今は亡きその一子が菩提の為一宇を建立す、これより前本山妙満寺は草刈氏の強盛なる信仰を賞して、天和二年三月十五日信行院転染日海と上人号を授けられしより山号を日海山と定め、寺号を詠月院殿秋林童子とあるより秋林寺と名付けたり、時に承応元年十月二十二日なり
と記されているが、同寺所蔵の日海上人の補任状によれば、延宝七(一六七九)己未十一月十三日に上人号を贈られ、就氏の霊牌には天和二年(一六八二)三月十五日の死亡と記されている。また、秋林童子の死亡は承応二年(一六五三)八月二十一日なれば、寺伝の記事は訂正されねばならない。
 高山の地域は従来、草刈氏によって常に所領され、秋林寺を檀那寺とし、この地方では珍しい宗旨である法華宗であり、しかも「代々法華」といって特に熱心な信者であった。近年まで部落に「お題目講」という講があって、毎月各家を廻り講がさかんに開かれていた。
 この講では、説教は一切なく、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えるばかりで、布教僧を必要とせず、部落民による講であった。概して、高山の部落は団結が強く、自尊心も強いように思われるが、これは法華宗の宗教的な影響によるところと考える次第である。
 ほかには、他部落と違った風習もなく、血続結婚等もみられないが、これはこの地が添谷や上ケ原等の奥地との通路に当たっており、地勢上他と隔絶した地域でなかったためと思う。
 そのため、秋林寺の門徒の移動をみると、この地域の住民の移動の一斑を知ることができる。
 高山の戸数は現在、秋林寺を除いて二十戸あって、うち一戸は桃林寺門徒(上ケ原より転住)で、他の十九戸は全部秋林寺門徒である。高山以外に、秋林寺門徒は十八戸ある。うち二戸(分家して二戸となる)は他宗より転宗したもので、他はすべて高山より移住したものである。
 高山について『地下上申』に記されているところによると
  弐百六拾四石九斗三升五合 給領ニ
   右草刈三左衛門殿知行所高山ニ有之
    内
   弐百拾石七斗九升三合  田方
    内四石壱斗八升三合諸除
   五拾四石壱斗四升弐合  畠方
    内五斗九升七合  諸除
   外ニ
  田畠五町六反余
   右草刈三左衛門殿開作場取立分
  弐拾四軒         給領
    内
   四軒   本軒
   四軒   半軒
   拾六軒  門男
   右草刈三左衛門殿知行所之分
  百拾三人         給領
    内
   弐人    寺院
   五拾九人  男
   五拾弐人  女
   右草刈三左衛門殿知行所之分
右のうち、戸数について比較してみると、現在の戸数は二十戸であるから四戸減少している。現在、高山以外に移住している秋林寺門徒十六戸について考えるに、全部明治初年以後に移住したもので、特に昭和時代になってから移住し、又は分家して出たものが多い。明治初年以前に高山より移住したもので、現在まで続いている家はない。これは明治初年以前のものは、移住でなくて貧窮のため土地を逃出したもので、他所に出ても、一家をなすことができなかったためと考えられる。
 高山以外の添谷にも、門徒が十数軒あったが、明治初年全部桃林寺にかわっている。これは、これらの門徒は最初は桃林寺の門徒であったが、交通の関係で近いところにある秋林寺の門徒になり、また桃林寺にかわったものと考えられる。全部落がこぞって転宗したことについては、部落的対立も関係しているのではないかと思われる。
桃林寺(とうりんじ)
 曹洞宗にして切山にあり、山号を仙寿山と号している。現住は第十八世谷範人師である。
 『寺社由来』によれば
此寺之儀ハ及中絶、桃林寺と申観音堂計有之、此内ニ毘沙門不動以上三体有之来候得共、右往古開基開山扨亦仏ノ作者共ニ知れ不申候、尤行基之作と申伝候
元禄十三辰(一七〇〇)ノ年ニ、御庄屋善左衛門再建立之御願申上御免許之上、熊毛郡小周防村溪月院十六世石峯和尚開山ニ請シ云々
と記し、また細字で注して
此寺桃林寺ト云、往古開基不知、古仏ノ観音毘沙門不動三尊残テ存ス、行基ノ作ト云、真言地ト云
 これより考えると、もと真言宗にて桃林寺と称していたのが中絶して、観音堂ばかり残っていたのを、庄屋善左衛門が元禄十三年(一七〇〇)に現在地に再建したと考えられる。以前のを古桃林寺といい、切山八幡宮より二三町のうしろにあり、今は古跡が残っているばかりである。庄屋善左衛門は大木善左衛門といい、当寺の過去帳に開基として記載されている。
 次に古桃林寺は、切山八幡宮の社坊であったのではあるまいかと考えるのである。他にも切山八幡宮の周りに、宮司坊・桂坊・宮の寮(宮ノ坊)の地名がある。宮ノ寮は八幡宮の前にあって、桃林寺に属していた。
 また、『寺社由来』に載る元禄十五年(一七〇二)鋳造の八幡宮の釣鐘の銘文は、「桃林沙門上藍敬題」と記されていることにより考えるも、桃林寺は八幡宮の社坊であったと思われる。
 桃林寺の過去帳に記されている寮についての記事をみるに
天明八年(一七八八)十一月十七日 根上自性上座 五世和尚徒 侍師事二十年庵住十三年前後就寺 有功依臘許上座
嘉永三庚戌(一八五〇)二月十二日 良牛沙弥 サツマ産 上ケ原寮坊
明治十四年巳年    宮ノ寮坊主ナリ無縁 武居才二郎
明治十八年一月七日  恵照心観禅尼 上原寮ノ尼僧ナリ 当寺ヘ祠堂金三百目納置候也 法事丁寧ニ可致事 遠州浜松ノ産八十六ニテ死
 このように寮坊主は、他国より流れ来て住みついた者や、その他の者で無縁の者が多く、寮の守りをしながら近傍を読経して廻るを業としていた。時には、数里の遠方まで托鉢していた。
 寮は普通、仏間が六畳乃至十畳位あり、庫裡が六畳一間か二間位であった。部落の集会の場所に使われ、青年達の遊び場ともなっていた。寮の修理や維持は、近傍の部落で行っていた。
 桃林寺の過去帳には、ところどころ法事料として三十目・五十目・五斗等と記入されている。これは、特に多額なため記入されたものであろう。
 また、過去帳に祠堂料が多く記入されている。祠堂料とは、死者の位牌を寺の位牌堂に納め、永代にわたって供養してもらうので、金銭・田・畠・山・米等を寄進していた。最高四石、最低一斗、平均すると約四斗五升位にあたり、銭では最高二百目、最低十文目で、平均約六十文目位である。
 当寺には、祠堂料について「毎年旧十一月廿八日祠堂米取建帳」がある。最高一斗二升三合二勺、最低三升八勺、二十五軒分が記載されている。これは祠堂利子米ともよばれ、祠堂米の利子に当たるもので、一俵につき三升八勺、年七分七厘の利となる。この祠堂利子米は、古来寺院が貸付けた祠堂米の利子であるといわれているが、これは貸付けた祠堂米の利子というよりも、未納の祠堂米の利子に当たるものと考えるのである。
 寄付申込みをした祠堂米の額を、実際には寄付せず、毎年その利子に当たる額だけを寄付していたものと思う。寄付を全額完了すれば、祠堂利子米は納めなくてよいわけである。これは祠堂利子米を納める家が、昔より富裕な家が多く、祠堂米を借用するような家ではない。また仮りに祠堂米を借用したとしても、すでに早く返済できる筈の家であると考えられる。しかしながら、昔より毎年納めていることを考えると、寄付者にとっては祠堂利子米ということではなく、毎年の祠堂米という考えで寄付されていたように考えるのである。近年、信仰が薄れ毎年納める面倒をいとい、元米を一度に納める家が多いそうである。
 また、祠堂田地は田地の寄付申込みしたものか、又は祠堂米をある特定の田地より寄付することを約定したものか、その点はまだ明らかでない。だが、特定の田地より収穫された米から、いくらときまった額を毎年、祠堂米として寄付したのである。この田を「祠堂米付きの田」といい、田地の売買に当たっても買手は祠堂米の寄付を契約し、引続き祠堂米を寺に寄付していたのである。このように祠堂米付きの田が売買されていたのをみても、祠堂田は貸付けられたものではないと思う。
 なお、桃林寺は農地改革以前には田一町五反、畑一反の寺有地を有し、五十俵の加調米があって寺の経済は安定していた。改革後は寺有の田畑がなくなったため、門徒中により護持講が組織され、寺の修理や経営等を助成している。
誓教寺(せいきょうじ)
 真宗にして、切山にある。常栄山誓教寺と称す。現住は、第十四世藤本雪峰氏である。『寺社由来』によれば
  開基玄西と申僧、寛永十二年丑(一六三五)ノ八月ニ寺号并木仏の阿弥陀相調
と記されている。『風土注進案』には
  本尊阿弥陀仏 当郡来巻村字横道ニ創建 寛永十二年八月寺号公称 開基玄西
とあって来巻に創建され、のち切山に移転されたのである。移転の年月や理由等については不明であるが、『寺社由来』『風土注進案』には、いずれも切山村誓教寺と記されている。また、当寺の『寺社由来』に載る元禄八年(一六九五)の釣鐘の銘文に「防陽都濃郡切山邑誓教寺」と記されているので、それ以前の移転である。現在も、当寺の門徒が来巻に多いのも、当寺が来巻にあった関係からと考えられる。
 開基玄西は慶長十六年(一六一一)三月四日に九十才で死去しているので、玄西の時代には未だ寺号は公称されず、第二代西雲のとき公称を許されたわけである。寺伝によれば、玄西の入寂より約五十年前の永禄五(一五六二)壬戌年のころ、本堂が建立されたと伝えているが、これは当寺が切山に建立されたのをさすとすれば、当寺が来巻にあったのは、玄西以前の時代であったのではあるまいかと考える次第である。
 当時の誓教寺は、現在地より東の岡にあったが、裏山が崩れ寺が崩壊したため、現在地に移ったといわれている。この時、本堂再建のため諸所を奉加した奉加帳が現存している
防州都濃郡切山村
 誓教寺本堂再建勧化施主録
  弘化二年乙巳(一八四五)四月より
    世話方 同郡善宗寺門徒
          木村権右衛門
 口演
  防州都濃郡善宗寺門徒
        木村権右衛門
        法名釈良心
右切山村誓教寺去辰五月洪水ニ付、本堂・門・庫裏・長屋等ニ至迄崩損シ、其上御仏具并家財道具等大痛ミ、千万難渋之事奉存候、雖然千万是不思議成哉、御尊様多分ノ御難渋も無御座、乍併御尊之内御太子七祖様御絵、御表具替トシテ御上京之御留主、彼是仏祖之御威徳カト感入恐悦不可過之候、然時ハ誠ニ此度之御再建不一通、逃廻り之者ヲ堂場御手伝ヒ引寄給フ仏願力不思議と、乍他門徒手足之叶ふ迄処々各様方御志シ不限、多少ニ御寄附御出精之程奉希候、進る功徳共ニ仏道とやら申事ニ候ヘ共、御宿善之御催促仏者生々世々ノ父母、信心ハ世々生々かゝり子、御称名者畳上之御旧跡詠め詠め御奉公仕候也
 弘化二年乙巳(一八四五)四月ヨリ
  各中様
右前文之通彼者無相違巡在仕度志願ニ候間、宜敷御頼仕候、彼人ハ至て老衰其上病身者ニ候間、所々泊り宿御頼申上候、自然病気等之節は、乍御面倒早速御飛脚御立可被下候、万事為御頼一札差出シ置申候、以上
 同日                             木村権左衛門悴
                                   同 藤左衛門
                                   誓教寺
 各中様
 覚
一 八〇五拾目已上
   右毎月読経永代仕候
一 同 五拾目已下
   右祥月忌日永代読経
右の奉加帳を持ち、玖珂郡・熊毛郡・都濃郡一円にわたり巡っている。遠く萩にも足を延ばし、関係の深い寺院や信者を尋ねてゆき、その近傍を廻ったものと思われる。
 奉加帳の総額は銀約一八〇〇匁、米約二九石である。最高二両より最低米一合にいたり、人員は約一一〇〇人に及んでいる。遠方の地では米一合、二合が多い。つづいて天井も「万人講」によって寄進されている。
本堂再建ニ付、天井一円他御門徒中万人講御志ヲ以奉寄進、施主之御人数披露仕候、幾同音ニ報謝之称名奉希候也
 世話方                              善宗寺門徒
                                   木村権左衛門
                                   法名釈良心
 これらの記録により、特別の檀徒を持たず庶民を対象にしていた真宗が、如何にして本堂建立等をなし得たかについて知ることができよう。
 当寺には昔、寺院より発行していた往来手形の書式が残されている。
  往来
一防州都濃郡何村  何衛門
          同人さい
右此度依出願ニ、四国遍路仕候、宗門之儀は、代々真宗拙寺且那ニ無相違御座候間、国々御関所無障御通可被仰付、若シ病死等仕候ハハ、其所御作法ニ以御葬可然乍ら御以及不申ク依て往来手形如件
 何々年                             周防都の郡切山村
   何月                                 誓教寺
所々諸関所
   御役人衆中
 当時の過去帳で注目される記事は
一 「御旧跡参詣トシテ出立」「病身ニテ四国ニ出テ不帰依テ出テシ日命日ニ致シ候コト也」と記し、他国に出立した日を死亡月日として葬っている。
二 天保九年(一八三八)正月十日に久保市藤井想七子三人死亡しているが、「久保市大火ニツキ三人トモニ焼死ノコト」と記し久保市の大火が書き入れてある。
三 「御絵伝様御世話人ニ付四字法名免ス」「障子寄付金一両二歩志シ候ニ付、本人ト四字戒名大姉居士許スコト」等、法名について記されている。古来より法名は家によって定まっており、法名の格をあげるには寺への功績・仏器・仏具等の寄進によっていた。
真宗では一般に法名を次のように分けている。
 二字法名、四字法名、大姉・居士・光号・軒号・院号
 四 明治十五年六月二日 妙準信女 来巻ノ山本清五郎姉
  萩堀内ノ津川与兵衛妻ニ嫁ス死後法名ヲ写シ取テ持参ス依テ此ニ記ス
 このように嫁にゆき死亡した場合は、実家の寺でも過去帳に記入してもらい、仏事を行っていた家もあったのである。この場合に嫁入先の姓にせず、実家の山本清五郎姉と記しているが、このことは過去帳によって家系を調べる場合には注意すべきことであろう。
満願寺(まんがんじ)
 満願寺は、禅宗にして来巻の奥迫の現在の総持院の地にあった。都濃郡来巻村徳山御領『寺社由来』の満願寺の条によれば
  一当寺之儀は、何之年号之時開基有之段存たるもの無御座候、寺断絶仕候故不分明、夫故本山溪月院前住枯外和尚勧請仕候
  一右枯外和尚相果被申ハ、貞享三年丙寅(一六八六)ノ二月三日ニ相果被申候
  一当寺本寺熊毛郡之内小周防村溪月院ニて御座候
 後述の惣持院の喚鐘は天保九年(一八三八)鋳造の満願寺の鐘であるが、その銘によれば
防州都濃郡来巻村仏頂山満願寺者吾溪月十五世枯外禅和尚之開闢也、雖未為法幢地、一邑一寺祈願之道場、而法器殆備焉、然以無小鐘一言々
と記されている。この鐘の施主は「万人講」と記されているが、現在惣持院所蔵の磬子も文政十三年(一八三〇)「万人講」中寄付とあり、「万人講」が種々と援助していたと思われる。
 銘にもあるように、「一邑一寺祈願之道場」として村民より崇敬されていたのである。これらのほかには、何等の史料もなく、満願寺について詳しく知ることができない。
 その後、明治四年廃仏毀釈により廃寺となったが、熊毛郡浅江村新山の曹洞宗祇園寺が廃寺になっていたので再興の時、明治六年満願寺の寺名を引寺して浅江の満願寺となり、現に存続している。
総持院(そうじいん)
 来巻の真言宗総持院は、前述の満願寺の建物に、徳山の真言宗総持院の寺名を引寺したものである。現在は中興第五世原田周岳師である。
 総持院は往古、富田上野八幡宮の近辺に創建、上野舟喜寺総持院と称していたが、のち久しく廃寺となっていた。享保二十年(一七三五)三月、徳山常禱院の下屋敷を拝領し徳山に移ったのである。
 明治十一年六月二十五日、徳山より来巻に寺号移転を出願し、明治十二年五月十五日認可となっている。
 総持院の本堂は、もとの満願寺の本堂であるが、棟札によれば享和元年(一八〇一)の再建と記されている。
 満願寺が浅江に寺名引寺した際、満願寺元住職の処置については、総持院の記録によって大略知ることができる。
  総持院ヘ所有地所寄附ノ件
一田地 五反十歩
一畑地 三反二畝三歩
一宅地 一反五畝三歩
一山林 五反五畝一歩
一原野 五反二畝十歩
一溜池 一畝五歩
右前書之地所、光重源左衛門ナル者前満願寺住職中満願寺廃寺之際譲受タル所、満願寺ハ熊毛郡浅江村ヘ移転再興シ、満願寺跡建物ニ総持院ヲ移転再興シタル故、光重源左衛門ヨリ明治十二年十二月ニ総持院ニ寄附シタルモノナリ
一金三十円也
総持院引寺相成候ニ付、光重源左衛門ヨリ該寺ヘ寄附致候事
 明治十二年十二月四日
一米一石八斗
右ハ光重源左衛門隠退シ、自宅ヲ新築シ、依之総持院加調米ノ内ヨリ、明治十二年十二月ヨリ扶持方トシテ身柄一代、源左衛門ヘ当寺ヨリ相渡申候事
 明治十二年十二月
 これによれば、満願寺元住職光重源左衛門は廃寺の際、満願寺の寺有地を譲受け、また満願寺建物も譲受けたように考えられる。光重源左衛門の寄附した金三十円も、また満願寺廃寺の際、寺の基金等を譲受けたものではないかと考えられる。
 総持院を来巻に引寺するに際し、光重元住職から満願寺に属していた一切の財産を取戻し、その代償として米一石八斗を、一代の間毎年与えることになったが、光重源左衛門の自宅も、寺より新築して与えたのではないかと考えるのである。
 一般に、廃寺・合寺等により住職を離任さす際は、住居及び寺有の財産を与えるか、又は当人一代の生活を保障していたようである。
 来巻の人々は、総持院は「総てで持つ寺」で、寺名の如く「総ての人で護持する寺」と考え、また「一邑一寺祈願之道場」として、全地区民によって維持されなくてはならない、と従来より考えられていた。現在も、各地区に世話人があり、総代も門徒より一名・部落民より三名を選出し、寺の維持に当たっているのである。
 また、来巻及び来巻以外の信徒中にて、古くは「万人講」、明治時代には「三千仏名講」というものがあって、総持院の維持を援助していたのである。
 総持院の基本金の運営について、次のような記録がある。
一 基本金ノ件
    米六石二斗一升
是レハ明治十五年三月来巻村中ヨリ寄附シ、当山基本金トシテ売払代金三十七円八十五銭八厘ヲ明治十五年四月ヨリ貸付、毎年十一月ニ寺世話人集合ノ上利子入札ニシテ預ケ、元利積立現今ノ基本金是ナリ
八王寺(はちおうじ) 法堂寺(ほうどうじ) 宮司坊(みやじぼう)
 いずれも、来巻の小字名である。この小字名のところに寺院があったものと思われるが、詳しいことは不明である。
 小字名に「寺ノ前」があるが、これは小字八王寺につづいた土地であるから、寺は八王寺をさし八王寺の前の意であろう。
 誓教寺が切山に移り、満願寺が浅江に引寺される等、来巻に寺院が盛んにならないのは何故だろうか。このことについては、来巻の地勢が山によって小さな浴(えき)に分かたれ、その浴を結ぶ横の道路がないため、地理的に統一がむつかしいのも、その一因と考えられよう。
 現在も、来巻には総持院・浄念寺・誓教寺・西蓮寺・西善寺・浄西寺・円成寺の門徒が入り交っている。「万人講」、「三千仏名講」といった講が成立したことも、各寺の門徒を統一しようとしたあらわれであると考えられよう。
 こうしたことは、来巻の仏教以外の面においても、研究すれば興味あることであろう。
浄念寺(じょうねんじ)
 小野にあり、真宗にして現住は第十二世清水円爾師である。『寺社由来』によれば
  当寺開基 法名慶徳
   寛永七年(一六三〇)正月廿五日往生、是ヨリ以前伝不知也
  二世    了性法師
   寛永十七辰(一六四〇)正月朔日本願寺ヨリ寺号浄念寺ト申請候事、貞享二年十月六日寂
と記されている。火災のため記録を全部焼失したため、このほかの事は一切不明である。現在の本堂は、第八世秀海の時代に建立したものと伝う。本尊の台に万人講の寄進名が刻されてある。
東蓮寺(とうれんじ)
 浄念寺の裏に寺屋敷があり、小字名として残っている。他に史料がなく一切不明である。
養光寺(ようこうじ)
 小野に寺屋敷が残っている。真言宗であったといわれている。寺跡には、無数の五輪塔が残っているが、他にみるべき史料はない。
西楽寺(さいらくじ)
 当山開基第一世道明師は、永禄六年(一五六三)二月寂、寺伝によれば
 山名陸奥守氏清より出づ、代々山名氏を称す。米川村瀬戸に移る。天文二年(一五三三)一寺を創建、昭谷山、西楽寺と号す。享保四年(一七一九)出火、全焼す。明治三十年再建、昭和五十四年末武川ダム建設のため部落民とともに花岡高垣団地に移住。現住は第十六世官田道隆師である。
浄願寺(じょうがんじ)
 開基祐願(寛永二十年、寂)俗名坪井義信という。陶家の重臣で戦乱の世をはかなみ、出家して京に登り本山十二世唯如上人の弟子となり、上人示寂後は十三世良如上人の弟子となり、門主二代に仕え木像、絵像、法名を祐願と賜う。帰国し浄願寺を創建す。昭和二十五年温見ダム建設のため現住地に移住した。現住は十二代坪井賢乗師である。