周慶寺については、すでに「下松地方史研究第二輯」で記した。このたびはその後の史料により、若干の補足をしたい。
『慶長検地帳』(一六一七)には周慶寺の前身、西福寺の寺領として「田畑十四筆一町三反二十歩米十九石八斗三升」と書かれている。また『慶長検地帳』には周慶寺の前身たる大蓮寺については下松の町なみに続いて
後屋敷
寺識八畝米一石六斗 大蓮寺
と書かれている。西福寺については、寺識(屋敷)を探していたが、『慶長検地帳』の下松の地名のところに
下松
寺識二反四畝二石四斗 下松道場
ミカン 一本 四斗
柿 三本 二斗
とあるのが西福寺の寺屋敷であることがわかった。周慶寺の『寺社由来』に
雖然土地湿弊而不長久 故相攸徙寺於西福之旧跡 今地是也 然此地者本時宗道場而一遍末流也 天文廿一年(一五五二)頃依大内義長之裁許 如先例可執務 寺領等判物于今現在焉 雖然何時不知西福寺之頽破也 上人尋其古基移於大蓮
このように、西福寺は一遍上人の流れをくむ時宗であったのである。時宗は最初は寺といわず道場と称して、布教し伝道していた。通俗的な宗派であったと思う。当時は新興宗教と考えられていた。信者も勧進帳によれば、全国に二十五万人もいたという。一遍は伊予に生まれ、叡山や太宰府に遊学したというので、この地方なども通路にあたり伝道に往来したと思われる。下松では、下松道場西福寺といっていた。天文二十一年(一五五二)の書状によれば、西福寺は大内氏の守護をうけていた。そのため大内氏の滅亡によって、西福寺も廃頽していったのである。
西福寺の位置は、海に近く海上交通の要地にあったと思う。寺の西側は、切戸川よりの舟運の便があったと思われる。「樋の上」にまだ樋もできなかった時代は、寺の辺りは切戸川の川口であり、海に沿い舟の便があったと思う。堺商人により浄土教が西進したという説もあるが、この地方に時宗が進展したのも、これに類するものではないかと思う。
やがて西福寺は衰微し、廃寺の状態になった。大蓮寺は林松山の山号の如く林もあったが、口伝によればもとの中国配電の裏にあったといわれている。現在の「高洲」辺りで湿地帯と思われ、寺の腐朽もはげしかった。大蓮寺は西福寺跡に移り、次いで元和四年(一六一八)毛利就隆が下松に移り、貞誉上人に帰依し、周慶大師(就隆生母、二ノ丸様)の菩提寺になるに及び、大蓮寺を周慶大師の名をとり周慶寺と改めた。
当時、周慶寺には毛利家より五十石を寺領として下されていた。
現在の周慶寺は、『慶長検地帳』の正福寺の寺敷地内である。『慶長検地帳』には、大蓮寺に並んで普門寺が書かれている。
後屋敷
寺識二畝二十歩 米八斗 普門寺
同
屋敷五畝二十歩 米一石一斗 宗清
同
畠六畝十歩 米二斗五升 同人
同
畠六畝 米一斗五升 勘介
右の寺識は寺敷であり、寺敷地のことであろう。以上で下松の町なみは終っている。ついで浜の部で
浜(八四面ある。浜の広さは一畝―三畝)
塩屋十二軒
と記されている。
これによれば、普門寺も周慶寺(もとの大蓮寺)に並び高洲の辺りにあり、高洲の沖には塩浜や塩焼小屋が並んでいた。
塩浜は大体一畝十歩で、塩焼小屋は塩浜が三面合同して一つあった。こうした小さな塩浜が合併して後に大きな塩浜となったのである。
『寛永検地帳』(一六二六)には
下松
寺識二反四畝米四石一斗一升 周慶寺
これは今の周慶寺の位置面積と同じである。また、普門寺は『寛永検地帳』には慶長検地帳時代と同じく古く同じ位置にあった。『寛永検地帳』には
寺識三畝二十歩米一石五斗 普門寺
寺識五畝二十歩米一石八斗 祐道
と書かれ、寺の周りに明(アキ)屋敷、塩浜が書かれている。隣の寺識は祐道と言い、寺と思われるが寺名など不明である。
寛保元年(一七四一)の御領内町方目安によれば、周慶寺については
往還より門まで廿二間左右練塀道幅二間三尺
と記され現在地にあたる。普門寺については
但同町北側茅葺也 門ハ瓦葺町より門迄七間
道幅一間也寺数二一六歩高七斗八升一合
と書かれ現在の本町の地に移されている。即ち『寛永検地帳』以後寛保元年(一七四一)までの間に移ったものと思う。普門寺も周慶寺が移った時代に移ったと思われる。『寺社由来』によれば、開山廓誉素白大徳(延宝六年(一六七八)二月六日寂)の時代に創建されたと記されているが、これにあたるのである。
周慶寺は周慶大師の菩提寺となり、寺号も大蓮寺より周慶寺と改められ、毛利家より五十石の寺領をうけ、周慶寺はいよいよ寺運隆盛におもむいた。また、古い西福寺の門徒や大蓮寺の門徒も周慶寺の門徒になったと思われる。
こうして周慶寺には『寺社由来』によれば三ケ寺の末寺があった。花岡法静寺・久保市西蓮寺・末武蓮生寺である。
明治三年に朝廷に届け出た境内坪数檀家等の記によれば
周慶寺 智恩院末 境内一九六坪、檀家八二〇軒
庵室一ケ所(一本松寮下松町造立)庵室一ケ所(地蔵庵、来巻村造立)
普門寺 周慶寺末 一七五坪三合、周慶寺檀家之内取次檀家二五〇軒
浄西寺 周慶寺末 一〇六坪周慶寺檀家之内取次檀家二二〇軒
西蓮寺 周慶寺末 一二八坪周慶寺檀家之内取次檀家七五軒
古義真言宗御室御所末
泉所寺 中本山五二一坪 檀家二〇軒
庵所一ケ所(東光坊、西豊井村造立)
多聞院 中本山二四〇坪 檀家三〇軒
庵所二ケ所(地蔵坊、生野屋造立)(薬師堂生野屋村造立)
鷲頭寺 中本山一反二畝 檀家無之
庵室一ケ所(蓮台寺、山田村造立)
曹洞宗総持寺派
松心寺 二反二畝一二歩 檀家二軒
慶雲寺 三〇坪 檀家八五軒
妙法寺 百坪 檀家一一軒
一向宗真宗
西念寺 九〇坪 檀家一三〇軒
西教寺 二百坪 檀家二六〇軒
正立寺 九〇坪 檀家二七〇軒
円成寺 七〇坪 檀家四〇軒
浄念寺 九〇坪 檀家一二〇軒
教応寺 二七〇坪 檀家二〇〇軒
光円寺 一五〇坪 檀家九八軒
これによっても、周慶寺の教権が下松市内を圧していたことが分かる。
周慶寺の前身、西福寺はもと時宗で時宗は一遍によって開かれ、天授三年(一三七七)より本格的に布教をはじめ、元中六年(一三八九)まで熱狂的に九州・四国から全国にわたり伝道にはげんだ。浄土宗の一派で遊行宗ともいわれるように、一般庶民を対象にし念仏を唱え、念仏札を出し、踊念仏として民衆を念仏の中に陶酔させた。中国・四国・九州を中心として伝道したので、下松はその舟運の中継基地に当たり、また時宗は大内氏の庇護をうけたので、一時は盛大となった。しかし、大内氏の滅亡とともに西福寺も衰え、ついに廃寺になった。次いで大蓮寺の時代となり、毛利家の菩提寺周慶寺の時代となった。
こうして、下松市内に周慶寺を中心とした大教団を持った浄土宗は、市内の主要地点を占めていた。下松町内では本町筋に浄土宗寺院が並び、花岡でも久保でも中心点に浄土宗寺院がある。
次いで浄土真宗がこの地に進出してきたが、すでに市内の主要部は浄土宗教派によって占められていたため、真宗は山間部に浸透したのである。真宗寺院が郊外にあり辺鄙な地域にあることからも、このことはうなずかれる。
ただ真宗浄蓮寺は、平田村の中央にあり門徒数も多いが、これはもと浄蓮寺は開作地の中心に位置していたため、周囲の開作とともに栄え、門徒数も増してきたのである。浄蓮寺の檀徒数については、前述の朝廷への届出には記されていないが、口伝によれば一千軒といわれている。これは開作によるのが原因であるが、また歴代の住職に学徳にすぐれた僧が多かったからでもある。特に第十一代諦観師は学徳ともにすぐれ、本願寺司教の学階を得ている。また、古書によれば境内に学寮が建てられているが、これは現在の学院で、常時仏教学が講ぜられていたのである。寺中に一庵とあるのは、学院に学ぶ学僧達の日頃の布教場と思われる。こうした因縁からか、次のように各地に浄蓮寺の末寺ができた。
佐波郡徳地の専照寺
熊毛郡八代の浄光寺
熊毛郡須河内の光源寺
都濃郡大島の松岩寺
浄蓮寺中ニ一庵
徳山厳島の専浄寺
下松で最も古い宗派は、天台宗・真言宗であるが、天台宗の寺院は下松にはなく、真言宗だけである。真言宗には、鷲頭寺・閼伽井坊・多聞院・泉所寺・正福寺である。これらはいずれも古い寺院で、その土地の古い歴史と関係している。
下松の地名伝説と関係の深い鷲頭寺は、妙見社の七社坊の一であり真言宗である。鷲頭山の麓より十八丁の山頂にあり、俗界をはなれた聖地である。これらの寺院は、主家の保護のもとにひたすら主家の武運長久・家運隆盛のため加持祈禱に精進し、一般大衆への伝道布教はあまりなかった。
下松の真言宗のうち、泉所寺・正福寺は市街にあり河口にある。三密の妙行を修法するなど、深遠な真言宗の教義は、一般民衆には理解がむつかしく、一般民衆は安易な加持祈禱にはしった。真言宗の寺院には、現世利益の地蔵・観音・薬師の仏堂がある。泉所寺・正福寺は市街にあり、また切戸川の川口にあって舟運の便があるので、周辺の島嶼からも参詣人が多かった。こうした交通の利便により、参詣人が古来より多く、この両寺はさかんになったのである。
毛利氏の時代になると、藩主の保護をうけ禅宗がさかんになった。禅宗には曹洞宗・臨済宗があるが、下松では曹洞宗だけで臨済宗はない。禅宗は武家の宗旨で、浄土宗・真宗は平民の宗旨といわれ、禅は武士、念仏は平民と言われていた。市内の曹洞宗の寺院は、禅道場にふさわしい山間にあった。
市内の曹洞宗の松心寺は、就隆公の妾君永心寺殿の菩提寺として建てられ、寺領として七石が寄進されていた。また、曹洞宗妙法寺は就隆公の乳母清安院殿の菩提寺である。こうして曹洞宗は、毛利家と深い関係にあった。
菩提寺は昔は氏寺ともいい、境内に墳墓が築かれ累代の位牌を安置し、その冥福を祈るために建立されたのである。藩主は累代の藩主のため、一寺は必ず建立した。特に寵愛の深い妻子には、別に一寺を建立したものである。後には一般庶民もこれにならい、所属の寺院を菩提寺・檀那寺と称するにいたった。
市内で唯一の法華宗である秋林寺は、久保の辺境高山にある。人家を遠くはなれ、深山にかこまれている。そこに萩本藩士草刈氏は、信仰していた法華宗の秋林寺を建て、秋林童子の菩提寺としたのである。童子の菩提を日夜祈念するにふさわしい仙境にある寺である。
次に周慶寺等についての年表をかかげよう。
天授三年(一三七七) 一遍、時宗の布教を始める
天文二十年(一五五一) 浄蓮寺開基
弘治元年(一五五五) 陶晴賢死
弘治二年(一五五六) 妙見社の営陥る
弘治三年(一五五七) 大内義長死
元亀二年(一五七一) 毛利元就死
天正二年(一五七四) ~ 天正十六年(一五八八) この間に霊松寺廃寺となる
慶長五年(一六〇〇) 関ケ原敗戦、毛利氏の防長二州となる
元和三年(一六一七) 慶長検地帳なる
同年 毛利就隆は都濃郡内三万石を分知す
元和八年(一六二二) 就隆下松に館邸を造営
寛永元年(一六二四) 麟祥山周慶寺建立周慶大姉菩提のためなり、年五十石寄進。以後、周慶寺に藩主は時々参詣し、祠堂料として十俵位寄進さる 寺では年忌、月忌正月祝餅、七月施餓鬼料・燈明料・茶湯・抹香代の祠堂料にあてる
寛永三年(一六二六) 寛永検地帳なる
正徳三年(一七一三) 周慶寺・本正寺御位牌洞春寺ヘ入ル、周慶寺領御取返仰付らる
寛保元年(一七四一) 御領内町方目安なる
安永六年(一七七七) 洞春寺・周慶寺・本正寺御代参御止成される
同年 洞春寺・周慶寺・本正寺の御位牌への盆の御香典当年より止む
寛政八年(一七九六) 周慶寺瓦長屋自火す
文化十四年(一八一七) 周慶寺再建
天保三年(一八三二) 周慶寺高三十石になる
天保六年(一八三五) 周慶寺自火位牌幷本尊焼失、本堂庫裡残らず焼失、このため位牌仕替し安置
弘化元年(一八四四) 周慶寺位牌焼失後大成寺へ安置の処帰寺す
弘化四年(一八四七) 焼失のため高五十石を二十石に減したがもとにもどす
廃寺霊昌寺(れいしょうじ)
霊昌寺については、現在は廃寺になり寺名さえ知られていない。東豊井村の地名である寺迫は、霊昌寺の寺のある迫の意味である。確実な史料としては『慶長検地帳』(元和三年(一六一七)四月廿八日記)がある。これによれば
寺識 二反七畝 米一石三斗七升 霊昌寺
蜜柑一本 米五升
椿 五本 米一升
柿 一本 米一合
とあって、寺の屋敷は二反七畝で大きな寺院であったと考えられる。また寺領としては
寺迫
田一畝 米一斗四升 霊昌寺
寺ノ上
山畠五畝 米一升 霊昌寺
寺迫は霊昌寺のあたりの迫で、寺の上は霊昌寺の上の畑と思われる。いずれも現在霊昌寺の古跡と言われているあたりである。
次に霊昌寺については、『萩藩閥閲録』「山口妙寿寺」の条に
妙悟(毛利隆元長女)菩提所之事申談之所、則一宇御建立尤太慶候、然間為寺領防州都濃郡豊井郷霊昌寺令寄附候、全有執務、寺家造営幷不怠御弔頼存候、猶委細国司右京亮可申候、恐々謹言
十一月廿四日 輝元 御判
「興禅寺揚西堂床下 右馬頭 輝元」
妙悟は隆元の長女で、元亀二年(一七五一)十月六日卒し、法名は妙悟寺殿高覚悟公大姉といった。墓所は石州津和野陽明寺にある。隆元はわが娘のために菩提寺を建てるため、霊昌寺を寄付したのである。輝元の一存で即決し霊昌寺は寄附されたのである。妙悟寺についてはその後、何等の記録もない。翌元亀三年(一五七二)九月に隆元公の奥方が逝去し、法名は妙寿寺殿仁英寿公大姉である。妙悟寺殿と妙寿寺殿とは母子に当たり、一年違いで死去されたので、妙悟と妙寿とは一緒に妙喜寺に葬られたものと思う。妙寿寺は妙喜寺と改まり、ついで国清寺・潮音寺と寺名が変わり、現在は常栄寺となっている。こうした関係で、常栄寺には霊昌寺の年記不明の毛利輝元の書状が伝わっているのである。
吉敷郡宮野村(山口市宮野)常栄寺所蔵の書は
爲寺領防州都濃郡豊井郷霊昌寺令寄附候
とある。
霊昌寺については、大内政弘の重臣相良遠江守正任の日録『正任記』に
文明十年(一四七一)十月三日 自防州下松霊松寺、巻数幷餅抹茶菓子等進上之、被成御書了
と記されている。霊松寺は霊昌寺のことで、霊松寺より政弘に対し陣中見舞がおくられたものと思う。次いで
同国余利鷲頭治郎少輔弘賢注進状、子息孫次郎四郎護賢持参之、鷲頭妙見山下宮上葺造畢事也、彼御造営依被仰付、各可有在国候由、御下向候時被仰出候処早速修造、殊両人参陣御感也、仍対弘賢被成御書了
これは、鷲頭弘賢が妙見下宮の屋根の修理ができたことを大内政弘に報告したのを感謝し、政弘が礼状を与えたことを記している。霊松寺は、鷲頭山霊松寺と称していたように、鷲頭氏との間に深い関係があり、霊昌寺は大内氏の建立したものと思われる。
また霊昌寺は妙悟寺に寄付され、直ちに寺の建物をのぞかれたのでなく、三四十年の間寺名も建物も、もとのままあったように思われる。『慶長検地帳』には、前記の如く霊昌寺の寺識もあり地領もあったのである。
『寛永御打渡牒』には寺識(寺敷)はなく、地名として霊尚寺としてのこり、部落民の屋敷となっている。
霊尚寺 屋敷 五畝米四斗三合八勺 弥市
同所 畠 二反六畝二十歩一石六斗七升八合 弥市
霊昌寺は大内氏によって建てられ、真言宗であった。
元文五年(一七四〇)にできた『地下上申』には、すでに霊昌寺の地名もみられず、ただ寺迫の地名がのこっている。他日史料がみつかり次第補足したい。
(昭六一・一二、第二三輯)