推古五年四月、灘波の宮にて琳聖太子は聖徳太子と会見することができた。
琳聖太子、聖徳太子会見の絵
そして琳聖太子は百済国より持ち来たった北斗七星剣をささげることができました。
時に、聖徳太子二十四歳、琳聖太子二十六歳の若さであった。
琳聖太子は聖徳太子を拝して、〝十一面観世音菩薩の生れかわり〟とのべられると、また、聖徳太子は、琳聖太子を拝して、〝千手観世音菩薩の生れかわり〟とのべられ、〝我らは、二仏・大慈大悲をあらわし、神儒仏の三道を開き、三世一切衆生を救わんが為なるべし〟とおたがいにのべられ、聖徳太子は百済の王子を心からもてなされた。
琳聖太子は、百済でうけた霊夢のこと、道中のこと、青柳の浦のこと、神儒仏のこと、政治のことなど話は終わることなく語りあわれた。
聖徳太子は、とりあえず、灘波の生玉の宮を琳聖太子の宮殿とされ、しばらく体をいやすように指示されました。
琳聖太子は聖徳太子御建立の四天王寺や飛鳥寺等を参拝し、一応来朝の挨拶も一段落すると、青柳の浦のことを考え、聖徳太子に九月十八日の大星降臨の御縁日にお祭りをしたい旨を伝え、灘波の生玉の宮(現・生玉神社)にも僧侶や家来を残し、青柳の浦に引きかえされた。