(6)百済国発祥の由来

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 琳聖太子は妙見さまの霊験を示す北斗北辰霊府七十二道の行をはじめて日本に伝えられた。
 古文書には、「北斗北辰霊府七十二道の行は、漢の劉進平先生宅へ、北辰星天降化し告げ玉ふ妙法であり、先生を通じて天下国家を泰平に納めんがために御伝授なされた。
 年久しく、御祭りをされた徳により、竜神が浄土より乙姫(おとひめ)様に北斗七星の御玉(如意宝珠)を持ち来たらせ給う。
 魏の第六世、孝文皇帝、御門の内へ御殿をかくべつになさしめ玉う。
 います処に、自然の霊気を受け御懐胎とならせ給ふ。
 満月の日に御安産なされ、見給へば御玉を生まさせ給玉ひ、御門あり、大に驚き玉ひし処に、御玉を開いて一人の若(わか)を出させ玉ふ。
 是れ、則ち御温祚(サウワラ)王と名付け玉ふ。生れながらにして神の如し、その前に、孝文皇帝の御子七人ありしに八人分の御子分となさしめ玉う。
 御年七年になり玉ふ時に、諸事にすぐれ、唐土にならびなき故に、漢の国を奪われん事を思い、孝文皇帝の御子達七人にして、その若(わか)を付けとらんとなさしめ玉ふ。
 是は、此の国に居ましてはあやうし、他の国へ渡るべしと、渡海を願われば、北斗七星王は御玉を海へと渡し玉へば、此の御玉を持たせて別れをなさしめ玉ふ。
 逃げて行きたまう処、孝文皇帝の御子達七人の御家来、争兵限りなし。
 追ひ責め玉ふ処に、海にむかって、御温祚王の曰く〝我は則ち天上の御子なり、竜神の孫なり、助け玉へ〟と宣へば、海に亀の甲を列べ橋となし、難なく其の橋を行き玉ふ所、追々深く、向ふは登りに橋となり、夜も行き玉へば、一つの大きな島にあがらせ給へば、其の島をはるかに行き玉ひしと云えども一人住すのみ。
 是、我玉のおぼしにて思召ければ不思議に則、御家来民家出て食物を与えたもう。
 御年十四、五年ならせ玉ふと、御居そなわり、追に、男女多く、御門、上より下々民家に至るまで繁昌する。
 国弘く栄え、此国、則ち百済国天下泰平に納まる。

百済国発祥の絵