古文書には、「北斗北辰霊府七十二道の行は、漢の劉進平先生宅へ、北辰星天降化し告げ玉ふ妙法であり、先生を通じて天下国家を泰平に納めんがために御伝授なされた。
年久しく、御祭りをされた徳により、竜神が浄土より乙姫(おとひめ)様に北斗七星の御玉(如意宝珠)を持ち来たらせ給う。
魏の第六世、孝文皇帝、御門の内へ御殿をかくべつになさしめ玉う。
います処に、自然の霊気を受け御懐胎とならせ給ふ。
満月の日に御安産なされ、見給へば御玉を生まさせ給玉ひ、御門あり、大に驚き玉ひし処に、御玉を開いて一人の若(わか)を出させ玉ふ。
是れ、則ち御温祚(サウワラ)王と名付け玉ふ。生れながらにして神の如し、その前に、孝文皇帝の御子七人ありしに八人分の御子分となさしめ玉う。
御年七年になり玉ふ時に、諸事にすぐれ、唐土にならびなき故に、漢の国を奪われん事を思い、孝文皇帝の御子達七人にして、その若(わか)を付けとらんとなさしめ玉ふ。
是は、此の国に居ましてはあやうし、他の国へ渡るべしと、渡海を願われば、北斗七星王は御玉を海へと渡し玉へば、此の御玉を持たせて別れをなさしめ玉ふ。
逃げて行きたまう処、孝文皇帝の御子達七人の御家来、争兵限りなし。
追ひ責め玉ふ処に、海にむかって、御温祚王の曰く〝我は則ち天上の御子なり、竜神の孫なり、助け玉へ〟と宣へば、海に亀の甲を列べ橋となし、難なく其の橋を行き玉ふ所、追々深く、向ふは登りに橋となり、夜も行き玉へば、一つの大きな島にあがらせ給へば、其の島をはるかに行き玉ひしと云えども一人住すのみ。
是、我玉のおぼしにて思召ければ不思議に則、御家来民家出て食物を与えたもう。
御年十四、五年ならせ玉ふと、御居そなわり、追に、男女多く、御門、上より下々民家に至るまで繁昌する。
国弘く栄え、此国、則ち百済国天下泰平に納まる。
百済国発祥の絵