推古五年の終りには、下松の桂木山に下宮と中宮ができあがり、宮としての姿がととのいつつあった。
下松の宮を後にして、琳聖太子は大阪の生玉の宮を住居として、まず、都の四方に妙見社の建立を聖徳太子にお願いし、次々に妙見さまをお祠りされた。
聖徳太子と琳聖太子は日本の政治を考え、神儒仏の思想の調和をはかるべく努力がなされた。
まず、琳聖太子は百済・新羅・中国等で発達した冠位の制度を日本の国に用いるようにすすめた。
その冠位もやはり日本の国にふさわしいもので、官人的秩序の基本でなければなりません。
それは冠位十二階のことである。
その後一年にして、憲法十七条という官人としての豪族達に、そのなすべき道を定め、国の精神的基礎の創造がなされた。