推古時代の日本にとって、神儒仏の調和こそ最も重要なことであった。
日本の精神面を考えると、現代の日本は推古時代以下のような気がする。
これからの日本は、神儒仏の調和をいかにしていくかが日本の精神面に重要な影響をおよぼす。
聖徳太子は「正政の本は学問に在り。学問の本は是れまた儒と釋と神なり。是れ此の三法、天極の自有にして、人造の私則に非ず。
皇政を導き、国家を治め、人情を正しうし、黎民を善くするの實物なり。
然りと雖も其の一に通ずる者は知らざるを以ての故に其の他を非(そし)る。
有に非ざる者は其れ妄物なりと謂ひて、互に誹謗し、交(こも)々嫉妬す。
学還って邪と僞り、法還って妄と僞る。是れ聖を破り、政を破るの大罪也云云」という。
この言葉によって、政家憲法並びに十七条憲法等がつくられようとしていた。
その神儒仏の調和の橋が妙見信仰であった。
まず、妙見さまと天御中主神さまとの関係を考えることにする。
天御中主神さまの御出現は神道思想において大変な出来事であった。
伊勢風土記の中に〝伊勢国者天御中主尊之十二世孫天日別命所平治天別命神倭磐余彦天皇自彼西宮征此東州之時随天皇到紀伊熊野村〟とある。
そして、〝国造本紀〟の天日鷲命はこの天日別命である。
天御中主神は天の中央の神で天上至高の主神である。
〝古語捨遺〟に〝天地部判之初天中所生之神名天御中主神〟とあるのをみても明らかである。
中国・韓国では北辰が天の中心にあり、不動であって衆星がこれに向かって運行するという考えがあり、論語にも〝譬姑北辰居其処而衆星共(むかう)之〟とある。
北辰は、宗教的には太一神として崇拝され、時として上帝といわれている。
なお書舜典に〝肄上帝 六宗〟とあるのを馬融は〝上帝太一神在紫徴宮天之最尊者〟と解説している。
これらの中国思想は早く輸入され、朝廷及び民利においてその信仰と祭典が行われていた。
「大内系図(別本)に推古天皇十七年周防国都濃郡青柳浦に大星が落ちた時、神記があって星を祀った事が見えている。
これを祀星奉称妙見尊星大菩薩社と伝えている。
そして北辰を妙見として祀る事は、後の一般の例であると〝天照大神の研究〟著者・田中治吾平氏は書いている。
下松妙見宮の寺伝は、大星降臨は推古三年九月十八日であるが、推古十七年と書きちがえている点はおもしろい。
しかし、推古十七年という年月は妙見宮にとって遷座という大変な年であった。
そのことについては後記することにする。