(15)百済国帰化人の活躍

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 推古十五年(六〇七)の七月、朝廷は大礼(だいらい)の小野臣妹子を使節とし、百済の帰化人鞍作福利(くらつくりふくり)を通訳に任じて隋との国交をはかった。
 その目的は飛鳥寺を中心とし、百済・高句麗の外国僧を支えとして、本格的な仏教文化と学問をおこそうとすることであった。
 聖徳太子は文化使節の名目で妹子を送り、中国仏教を摂取する。
 そのとき、小野妹子がたずさえた国書が隋の煬帝(ようだい)を怒らしたことは有名である。
 〝日出(い)ずる処の天子、書を日没(ぼ)する処の天子にいたす、恙無(つつがな)きや云々〟の書きだしの国書である。
 煬帝は大変怒り〝蛮夷の書、礼を無(な)みする者あらば、復(ま)た以て聞するなかれ〟とさしもどしたといわれている。
 翌年、隋の煬帝が日本に派遣した使節が裴世清であった。
 裴世清の一行は小野妹子らとともに百済を経由して竹島にいたり、対馬・壱岐をへて竹斯(つくし)国(築紫)につき、東して秦(しん)王国(周防)についた。
 秦王国の風俗は「其の人華夏(中国)に同じ」と「隋書」に書いてある。
 裴世清は推古十六年の八月から一ヶ月ほど飛鳥の都に滞在し飛鳥寺を見学する。
 裴世清らが帰国するとき、朝廷は小野妹子をまた起用して大使とし、鞍作福利をふたたび通訳として、八人の留学生・留学僧を選んだ。
 学生…倭漢直福因(やまとのあやあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)・高向漢人玄理(たかむこのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)。
 学問僧…新漢人日文(のちの僧旻(みん))・南淵漢人請安(しょうあん)・志賀漢人慧隠(しがのあやひとえおん)・新漢人広済(こうさい)。
 以上八人である。これらの人々は帰化人で漢人といっても、主として朝鮮諸国(百済・高句麗)からの帰化人が大部分であった。
 高向玄理・僧旻・南淵請安達は帰国後「大化の改新」の時、指導的役割をになうことになる。
 普通、入隋の場合二十年以上中国に留学し、帰国後はそれぞれの分野で指導的立場にたつ。