(18)聖徳太子の死

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 推古十九年から推古二十二年まで、高句麗と戦争をしていた隋の煬帝は推古二十六年に殺され、唐の高祖李淵が帝位についた。
 「書紀」には、その年の八月、高句麗が使節をよこして「隋の煬帝、三十万の衆(いくさ)を興(おこ)して我(おのれ)を攻(せ)む。返(かえ)りて我が為に破(やぶ)られぬ」と報じて、俘虜(ふりょ)・武器などを献じたと記している。
 そのような時、聖徳太子は推古三十年二月二十二日になくなる。
 聖徳太子四十九歳の若さであった。また太子には三人の妃があった。
 第一は膳部加多夫古臣(かしわでのかたぶこのおみ)の娘・菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)で、春米女王(つきしねのひめみこ)など四人の男子と四人の女子があった。
 第二は蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこいらつめ)で、のちに悲劇の人となった山背大兄(やましろおおえ)王など三人の男子と一人の女子があった。
 第三は尾治(おわり)王の娘・位奈部橘(いなべのたちばな)王で一人の男子と一人の女子があった。
 太子の死ぬ前の年の十二月、母の穴穂部間人(あなほべはしと)皇后がなくなり、翌年早々に太子と妃がともに病み、二月二十一日に妃が世をさり、翌日、太子が息をひきとった。
 その後、蘇我氏が権威をふるい、蘇我氏の横暴がはじまるのである。
 琳聖太子は深く悲しみ、これで日本における政治的役目が終わったことを悟られた。
 聖徳太子の遺族は河内の磯長(しなが)の叡福(えいふく)寺にまつられた。
 聖徳太子の御陵は百済式の古墳式でおまつりされた。