日本の政治はめまぐるしく動き出してきた。
蘇我入鹿の天下も長く続かず、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)、中臣鎌足を中心にした人々によって蘇我入鹿は殺され、蘇我蝦夷(えみし)も自刃する結果となった。
皇極女帝は退位して中大兄皇子に皇位を譲ろうとした。
中大兄皇子は皇位につくことを辞退し、軽(かる)皇子が即位し、孝徳天皇となる。
これが有名な大化の改新である。大化とは広大な天の恩徳をもって人民を徳化する儒教の精神である。
朝廷は大化元年(六四五)八月八日、百済大寺に使者をつかわし、僧尼をあつめて仏教界に対する施策を明らかにした。
推古朝の定めた僧正・僧都にかわり十師を制定して仏教の指導にあたらせることにした。
また、推古朝の十二の冠位を改正し、冠位十九階の制定が大化五年二月になされた。
大化の改新によって、聖徳太子と琳聖太子の協力によってなされた推古朝の官僚制はより具体的に実践されていく。