(26)琳聖太子の死

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 母国、百済国の滅亡という悲しい出来事の中、琳聖太子は天智六年(六六七)六月二十一日、九十六歳の天寿をまっとうすることになる。
 その入滅の地は、灘波の生玉の宮である。葬式の地は百済寺であったと伝えられている。
 灘波の百済寺は琳聖太子によって推古十五年に建立され、その寺の本尊は妙見大菩薩であった。
 百済寺には琳聖太子の死をいたみ、多くの僧侶と民衆が参列し、百済国の王子の死を悲しんだことであろう。
 一方、妙見信仰の中心地、下松の妙見社に悲しみの使者がつかわされ、琳聖太子の遺骨が分骨され、盛大な葬式が下松の地になされた。
 その証拠として、下松市西豊井の東洋鋼鈑株式会社の社内の一隅に怒龍松という松がある。

怒龍松(東洋鋼鈑内)

 昔から、この怒龍松の下に琳聖太子のお墓があったといい伝えられている。
 怒龍松は昔、矢島家にあり、その同邸の本門を入った左側にあり、怒龍松のそばには辨天社がおまつりされていた。
 そして、怒龍松の四、五百メートルあたりから漢式鏡四面(重要文化財)が享和三年(一八〇三)に出土しており、徳山毛利家文庫に「宮洲開地石室覚」という記録が残っている。

宮洲古墳跡

 漢式鏡四面は戦後、熊毛郡岩田村の国光嘉久治氏の所有として、県立博物館に出陳されたが、その後、大阪のマルゼン石油の社長の所有になったと伝えられている。
 いつの日か、また、漢式鏡やその時出土した刀剣等が下松の妙見さまの元にもどることを念願する。
 また、三田尻には琳聖太子の死をいたみ、琳聖太子さまが乗っておられた車を納め、手厚く供養され、車塚妙見としておまつりされた。

車塚妙見社(防府)