琳聖太子(多々良家初代)の死後、多々良家一族は灘波の生玉の宮・下松の宮・多々良の宮を中心に静かに妙見信仰を布教し続ける。
多々良家の二代目は琳龍太子といわれ、その名を曼爺という。
多々良家三代目は阿戸太子といわれ、その名は真興という。
四代は世農太子といわれ、その名は隆基という。
五代は世阿太子といわれ、その名は慶明という。
六代は阿津太子といわれ、その名は政明という。
以上、六代の人々は灘波の生玉の宮で亡くなられた。
そして、六代の人々は百済寺で葬式が行われたと伝えられている。
多々良家といえば、妙見さま、百済寺といえば多々良家と考えられ、妙見さまの信仰者として、布教者として、はたまた妙見さまの子孫として誰もが信じていたことでもあった。
その妙見さまの中心地、御降臨地が下松であり、妙見社(宮)鷲頭寺の本尊妙見大菩薩であった。
日本における妙見信仰は、多々良家七代目、多々良正恒(大内正恒)によって確立された。