(4)宇多天皇と大内正恒

62 ~ 67 / 115ページ
 宇多天皇は信仰心の厚い御君で、日本の政治を仏教精神で安定させようとなされた。

多々良正恒(大内)と宇多天皇の絵

 まずは、藤原氏をおさえるため、秀才の菅原道真を登用し、文化人としては最高の官位である右大臣に任じた。
 このような時、多々良正恒は妙見さまの御神力によって宇多天皇より大内姓を賜うのである。
 大内の姓は大内(だいだい)(大内裏(だいだいり))といい、大変名誉なる姓といわなければならない。
 宇多天皇の御陵が仁和寺の後にある。この山は大内山と呼ばれており、大内の姓をいただくということは何か深い意味が隠されている。
 宇多天皇は寛平九年七月、皇太子敦仁(あつぎみ)親王(醍醐天皇)に譲位した。
 宇多天皇はそのとき、まだ三十一歳の若さであった。
 宇多天皇は御退位の後、昌泰二年(八九九)十月二十四日に御創立寺院の仁和寺で、権大僧都益信(やくしん)を戒師となされ出家され、法皇になられた。
 その後、昌泰四年正月七日、藤原時平と菅原道真は従二位に叙せられた。
 しかし、このとき藤原時平達の準備はととのい、その正月二十五日、突然、菅原道真を大宰権師(だざいのごんそつ)に左遷した。
 正月があけて二月一日、道真は大宰府にむけて都を出発した。
 大宰府で二年ばかり過ごし、道真は延喜三年(九〇三)二月二十五日、五十九歳でこの世を去る。
 宇多天皇はもうすでに出家し、仏道修行の毎日を仁和寺ですごしておられた。
 宇多法皇も承平元年(九三一)六十五歳をもって仁和寺の後の山、大内山に静かにねむられたのである。
 大内正恒は周防に帰り、妙見さまに感謝をささげ、鷲頭山に、上宮・中宮を再建された。
 そして、その再建の成就の日、自ら参籠して修行した。
 その時、山中の水が乏しかったのを嘆じ、正恒は東溪に向かって、
 あめつちの水はつきしと思ひきや
  溪(たに)の草木のうら枯れんとは
 の和歌を一首詠じた。
 ところが、霊水忽ち湧出したので、後人は、その後「和歌水浴」と名づけた。
 そしてこの下流を御手洗川というようになった。
 正恒はまた、琳聖太子御自参の黄金製の観音像を中宮に納めた。
 これは大内家の守本尊とされ、北辰妙見尊星王や琳聖太子像と共に中宮におまつりされた。
 しかし、明治三年の神仏分離令のため、上宮・中宮の御神体を鷲頭寺の観音堂におまつりすることになった。
 明治十二年十二月十七日、上宮・中宮の建物はそのままにし、全ての御神像を別当である鷲頭寺とともに、現在の地、下松市中市に御遷座したのである。
 その時の住職である河村明範師はくわしく書き残している。
 現在の降松神社の中宮・上宮は明治三年に新しく御神体として天中主大神をお祀りされた。
 明治の神仏分離令ほど日本人の精神を切りさいてしまったことはない。
 今なお、日本人の精神を切りさき続けている一番悲しい出来事である。
 その後、正恒は山口の大内村で多々良家最後の人となり、はたまた大内家初代として、山口の地で静かに息を引きとる。
 その後、大内藤根―大内宗範と代がかさなり、大内茂村の時代になると、大内氏の氏神として、下松の妙見社は絶大なる力をもつことになる。
 大内茂村は再度、妙見社を再建し、そして山口市の氷上山に妙見大菩薩の御分霊を大内氏の氏神としてお祀りされた。
 氷上山にあった興隆寺は大内茂村が下松の妙見社から妙見大菩薩を勧請して多くの人々の崇敬は他と異なり、興隆寺も氏寺と定められ隆盛をきわめた。
 このようにして、下松の妙見信仰は大内氏の隆盛とともに全国各地に広がっていった。