(6)下松妙見社再建の歴史

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 大内正恒四代孫茂村によって、また鷲頭山の妙見社の宮殿が再建された。

本堂入口の額

 その後、大内氏十一代満盛の時代にもまた再建されている。
 その後、大内氏十七代弘世の時、下宮を鷲頭山麓赤坂に建立、また中之坊・宮之坊・寳樹坊・寳積坊・寳藏坊・寳泉坊・閼伽井坊(後改名宮司坊)の七坊が建立された。
 しかし、なぜ、この時代にこれだけの坊が建立されたのであろうか。
 この当時、周防都濃郡鷲頭庄(下松)は大内氏の分家、鷲頭長弘が権勢をふるっており、宗家大内氏は鷲頭氏の打倒を考えていた。
 ちょうどこの時代は南北朝という抗争の時代でもあり、南朝方の大内氏と北朝系武家方の鷲頭氏との骨肉相組む悲惨な時代でもあった。
 正平七年(一三五二)大内弘世は大内氏の氏神の聖地、周防都濃郡鷲頭庄を鷲頭氏より奪還しようとした。
 激戦の末、正平七年二月、鷲頭軍は敗走し大内弘世は大内宗家の面目をはたすことになる。
 大内弘世は、この戦いで大内氏の氏神の聖地を奪還したことでほっとした。
 しかし、同族を殺したことに対しての罪ほろぼしの意味をこめ、七佛妙見・多々良七代の尊霊を祀るため、七坊の建立を考えたのではなかろうか。