(7)琳聖太子の後裔・義弘

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 弘世の子、大内氏十六代義弘は明徳二年(一三九一年)の内野合戦に大敵山名氏を亡ぼし、南帝を補佐して嵯峨に遷し奉り、三種の神器を守護して宮中に奉遷した功により、従四位上に叙せられた。
 そして京都管領職を蒙った。
 大内義弘は、これは一重に下松の北辰妙見尊の冥利なりと大変感謝し、鷲頭山に仁王門と五重塔を建立した。
 仁王門の仁王像は京都において彫刻させ、奉行佐波六郎隆貞を周防国におもむかせ、その工事を監督させた。
 仁王門と五重塔は第百代後小松朝の応永元甲戌歳(一三九四)に完成し、盛大な落成式がおこなわれた。

毘沙門天(仁王門)

 応永六年(一三九九)義弘は朝鮮国王・定宗に大内氏が百済国の王の後裔であると述べ『日本では自分の家系を知るものがないので、それを証明するため旧百済国の一部の土地を少しわけてもらいたい』と要求したのである。
 朝鮮国の国王定宗は旧百済国の一部の土地を与えようとしていることが「定宗実録」に記録されているが、朝鮮国の重臣達に反対され、この話はうやむやになる。
 そして、その年の十二月に義弘は足利氏と戦って和泉国の堺で戦死する。
 これが有名な応永の乱である。