(8)鷲頭山旧記

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 ここで少し鷲頭山旧記をそのままのせてみることにする。
 大内義弘―盛見―持盛(従四位上防長豊築四州太守實者弘世之三男孫太郎永享五庚丑四月八日逝去観音寺殿芳林道継大居士)―持世―教弘―政弘(有三子・附文明十三年之比陶権守弘 屋和尚之弟子 禅師諸侍而長穂邑龍門寺建立)
 第一子、義正(従四位上大内介依多病前後四年而国家舎弟譲義興基身遁世而法名梵良保壽寺成住僧永正六年己卯四月六日卒)―政房(亀久丸、従五位上式部太輔父義正遁世之後成孤陶道 政房叔父義興十余ヶ年間蒙京都之宦領職因而政房乞輪旨當家傳来之北辰星供并国政令執行父学歌道之達人也『天文十九年庚成七月廿五日逝去、矢地若山於陶城爲隆房被爲毒害法名武徳院殿大達智勇大居士。星供代宦野上修理太夫正忠。
 第二子、義興(従三品太宰大貮防長豊築石備七州城主、大樹義植公再天下之成武將蒙宦領職十余年之間在京都天下大治也。
 大永三年発未鷲頭山社頭有修覆中宮社御建立。社奉行深野平左衛門多々良興房)
 第三子輝弘(始者氷上山之別當号尊光後還俗而号大内太良高弘義隆依不和而雲州出奔其後豊後国下而大友宗隣為 太良左衛門輝弘)
 義興―義隆(従二位中納言兼太宰大貮七州太守天文廾幸亥歳九月朔日爲陶於深川之大寧寺生害)
 ―大内之家畢― と記してある。