(11)大内教弘と琳聖太子

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 大内教弘は嘉吉元年(一四四一年)持世の跡を相続し、大内家二十二代の当主となる。
 教弘は築山館を建設し、築山殿といわれるようになる。
 嘉吉三年二月、朝鮮国王世宗は将軍足利義教の霊前に弔文をささげ、新将軍足利義勝の就任を祝い、その後、通信便は世宗の命により、その帰途、山口により礼儀をつくした。
 享徳二年(一四五三年)教弘は僧侶有栄を使として、瑞宗の即位を祝い、太祖琳聖太子の日本入国の記録を求めた。
 瑞宗は「定宗実録」の一節《日本六州の牧、左京太夫百済温祚王高氏の後、その先、乱を避けて日本に仕う。世々相承けて六州の牧に至る。尤(もっと)も貴顕たり云々》を書き写し、通信印といっしょに大内教弘に贈った。
 これにより、大内氏は朝鮮国と友交的な交易をし、山口文化の財的基礎をきずくのである。

古い印鑑