義興が享禄元年(一五二八)十二月に山口で病死した。
長男である義隆が家を継ぎ、防長芸備石豊築七州の守護大名となり、位は従二位となり、官は太宰大貮兵部卿侍従を兼ね、大内氏最大の権力をにぎり天下にならぶべきものがないほどになった。
天文十一年(一五四二)義隆父子は出雲月山城の尼子晴久を攻めるが、それによって大敗し、義隆の文人的生き方がはじまる。
そして武断派との間に対立が生じ、義隆の後半の生き方は京都風のみやびやかな生活を楽しみ、奢侈になり、学問芸能を事とした。
天文十九年ポルトガルの宣教師フランシスコ・サビエルが京都に向かう途中、山口に寄り義隆に面会し、そしてその後、キリスト教の布教を願い許可され、宿舎兼布教所として一つの寺院を与え、正式に布教を許した。
サビエルは約半年間山口で布教することになる。