寳永五年(一七〇八)発行の〝霊符縁起集説〟の中に《国司多々良二位の義隆神言に背(そ)むき、国を失い、身を滅すこと、周防国司多々良二位義隆にいちいち背き玉ひ、此の時、星供(せいぐ)の司(つかさ)多々良正忠諌言(かんげん)を加ふといへども義隆諌めを用いず、一千餘歳より天降(あまくだ)り玉ふ、太一尊星(妙見さま)も降臨し玉はざれば五百の衆徒七日七夜まで招請の壇法を修すといえども甲斐(かい)なし、別當尊光法師も當山(鷲頭山)を辞し、星供の司正忠は當家の師範諌臣に定め置し、剰(あまつさ)へ星供の検使代官なれば憤(いきどお)り安からず、是れも遁世して高野山に入りければ、其の身、義隆も数代の国を失ひ、数代の家臣に殺されぬ》と記してある。