(15)大内氏の滅亡

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 大内氏は大内義隆の死によって滅亡することになる。
 妙見宮鷲頭寺蔵の〝北辰妙見菩薩霊應編、(天明六年=一七八六年)京都・近江屋佐太郎発行〟には『文亀年中、足利義植将軍の時、前左京太夫大内義興、九州の大軍を引率し忠戦して、永正五年、義植将軍を再び皈洛さし、義真は天下の執事となる。
 同八年八月、洛北舟岡山の合戦のとき逆敵細川政賢を討ち、武威四海を震はし、天下の貴賤、尊敬帰伏する。

妙見尊像と大内義真の絵

 この大内義真は別して北辰尊仙王を恭敬し、常に甲(かぶと)の天邊に北辰妙見の金像をいただく故に、應仁記中国軍記後太平記等に曰く、永正八年細川石馬頭政賢同阿波守政国等謀反のとき、大内左京太夫義興大将をして、洛北舟岡山にて合戦のとき、その軍装をみるに紺系威の鎧は陽六の五枚、甲(かぶと)の天邊は金像の北辰妙見尊星王を安置し、赤地蜀江の錦は直垂に左折の緑塗を着し、北辰尊星の幡をさし、誰れも此の軍中の大将軍を見損ねることはないと記してあり、是の如く、大内家代々元祖より北辰妙見尊星王を信念恭敬することによって家門繁昌し武威天下に輝きぬ。

大内氏滅亡の絵

 然るに廿八代目大内兵部卿義隆といえる人、元祖より北辰妙見神仙の加護あるを以て、従五位より正三位の侍従を越え、遂に二位大納言に叙任よろしく、二位大納言兵部卿兼太宰大貮多々良義隆と称せり、その上に肥・豊・筑・紀・泉・和・長・防・石州の都(すべ)て十二州の国守となりて威勢冨貴誰れ比ぶ者なからん。
 然るに忽ち、北辰妙見尊星の神恩を忘れ、もっぱら詩歌管絃をもてあそび北辰の祭祀星供を退轉し、勤行信念を懈怠せしこと、家臣陶尾張守晴賢・同五郎隆房・内藤下野守隆世・野上修理太夫政忠等大内家の滅亡を悲之諌言すれども用ひず、遂に家臣陶晴賢等の為に害せられ、大内家二十六代にて断絶す』と記されている。
 ただただ人間の業縁の深さに驚く以外にない。
 義隆最後の地は長門市深川の大寧寺である。

長門市大寧寺

 この寺は下松の領主であった鷲頭弘忠が長門守護代となり長門深川城に入った時、妙見社とともに建立した寺であった。
 鷲頭弘忠は文安五年(一四四八)大内教弘と戦い深川城で戦死し、大内氏の支族であった鷲頭氏は亡ぶ。
 その後百年にして家臣である陶晴賢におわれ、九州にのがれようとして仙崎港から船に乗ったが、大風がおこり航海できず、義隆主従はむなしく深川の大寧寺に行くことになり、鷲頭氏の建立した寺で、天文二十年(一五五一)九月一日、四十五歳でこの世を去る。
 義隆の嫡男義尊も俵山で翌二日に殺され、大内家の正統は二十八代義隆をもって断絶した。
 その後、大内氏を亡ぼした陶氏も毛利元就によって弘治三年(一五五七)四月三日、長府の功山寺で亡ぶ。
 そして、この功山寺から三〇〇年後、現在の日本を造りだした事件、高杉晋作の一大義挙がおこった。