(1)妙見社鷲頭寺と毛利元就

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 大内氏の滅亡により妙見社は少しさびれる。
 しかし、毛利元就は永禄四年(一五六一)尼子氏滅亡の宿願によって社殿を修理し、御神與三體と御太刀・木馬などを寄進するなど妙見さまに対する信仰は大内氏に譲らず、次で七坊の一つである宮司坊を毛利元就の命によって鷲頭寺と改め、山号を妙見山と称し、これによって現在の妙見社鷲頭寺が出現する。
 その後、毛利元就は永禄九年尼子義久を出雲富田月山城に攻め降すのである。
 御寄附願書には
 一、御與 三體 一、御太刀 一、木馬
 干時永禄四年辛酉天、社奉行大庭加賀守平賢兼
 御神與の御棟札には
 奉新造、防州都濃郡鷲頭妙見山 御與三丁
 永禄四年辛酉九月十三日
 護持大檀那 従五位下右馬頭大江元就朝臣並備中守大江朝臣隆元、武運長久国家安全故也
 宮之坊宥樹・宮司坊源嘉・寳棟坊宥善・寳樹坊尊就・當山奉行弘中丹後入道道怡・大工藤井飛彈守盛直・金物師後藤入道・塗師長尾源兵衛秀勝

棟札

 永禄十二年にも、また毛利氏は上宮の再建を行っている。
 その御棟札記には
 奉造立妙見山鷲頭寺上宮御社檀一宇
 御遷宮導師、宮司、権僧都源嘉、大檀那毛利陸奥守従四位上行大江朝臣元就並大江輝元
 為武運長久国家安全祈所
 永禄十二年己巳十二月十五日
 衆徒中之坊宥寳・宮之坊尊就・寳樹坊尊秀 寳積坊宥善・寳蔵坊尊快・寳泉坊宥厳
 社奉行、大庭加賀守平賢兼
 修造奉行 弘中丹後入道道怡
 大工飛彈守藤原守直、鍛冶 治郎左衛門
 また上宮虚空蔵菩薩の玉殿裏札記には防州鷲頭寺上宮御本地虚空蔵奉造立開眼
 宮司坊 權小僧都 源嘉
 大檀那 大江朝臣元就・輝元
 干時永禄十二年己巳十二月十五日と記してある。
 永禄四年と十二年はいったいどのような時であったか。
 弘治元年に陶軍を破った毛利氏は、その後、大内氏の名を継いだ大友氏(大友義長)を長府の長福寺(後功山寺)で永禄三年に滅ぼす。
 また永禄十二年には大内輝弘を佐波郡浮野峠付近で打ち破り、茶臼山で自殺せしめている。
 これらのことを考えると、時の権力者の寺社建立の裏には血なまぐさい戦いの影があり、そのザンゲの為に建立された寺社の多いことに気づく。
 毛利氏によって再建された妙見社は慶長十三年二月六日夜、火災が起こって、上宮を始め中宮拝殿・仁王門・五重塔・七坊・寳蔵・經蔵まで悉く焼失し、僅かに中宮本社を残すのみであった。
 その後上宮内社を建立、元和年中、徳山藩領となり、同藩主毛利就隆が赤坂の宮を宇吉原に遷して若宮と呼ぶに至ったのである。

鷲頭寺旧跡(吉原)