(1)妙見さま中市に御遷座

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 防長の二国は倒幕のため上を下への大さわぎであった。
 大内義長が毛利氏によって亡ぼされた地・功山寺(前長福寺)では高杉晋作が三条実美ら五卿を前に毛利の佐幕派打倒のため挙兵した。
 京都では、小松宮様や有栖川宮様達が幕府打倒にかつぎ出される。
 小松宮様は、当妙見宮鷲頭寺の本山・御室仁和寺の第三十世楞嚴定院御室一品純仁法親王様である。

仁和寺(江戸時代)


純仁法親王御画像

 親王様は四歳で仁和御室を嗣ぎ、弘化五年四月五日仁孝天皇の御猶子となり、安政五年三月二十三日、御名を嘉彰と賜わり親王の宣下があり、同年九月二十五日、法名を純仁と稱し奉り、元治二年二月二十九日に一身阿闍梨の宣下あり、三月、仁和寺の法流を嫡傳される。
 しかし、御年二十三歳、慶応三年十二月九日勅命にて還俗された。
 そして官軍の長となり、仁和寺の霊明殿の水引きの幕の菊の御門が官軍の御旗として輝き、江戸にむかわれた。
 しかし、明治元年(一八六八)新政府が樹立されるや、明治政府は王政復古を国政の基本として神道を思想的な中核とする天皇制国家の建設を考え、神仏分離令を出した。
 仁和寺の末寺は、江戸時代まで全国に四千餘ヵ寺あり、石高は千五百石あまりあった。
 しかし、明治になり、その末寺は千ヵ寺程度になり、明治四年には寺領の上地を命ぜられ、わずか六六五石七斗というあわれな状態になった。
 明治四年には郷社定則が発せられ、郷社・村社の社格が定められた。
 明治五、六年には仏教に対して弾圧政策がつぎつぎに打ち出された。
 明治五年政府は教部省を設置して社寺を監督させ、教則三条を発布し、大教正より権訓導にいたる十四級の職制を設けた。
 明治五年、六年は廃仏毀釈の運動が広がり、下松の妙見宮鷲頭寺も、その荒波の中にのみこまれてしまった。
 妙見社には別当の鷲頭寺をはじめ、上宮・中宮・若宮とあり、その内の中宮が郷社に列せられた。
 明治五年に神官はすべて教導職に補すという発令が出され、妙見社鷲頭寺の住職、河村明範師は教導職試補となった。
 江戸時代まで続いた住民の寺請制度が廃止され、国民のすべてが居住する氏神社の氏子となり、氏子札を受けることになる。
 氏子札は身分証明の役目をしたが、明治八年でこの制度はなくなった。
 特に廃仏毀釈の波を受けたのは、真言宗であり、長州藩であったということは皮肉なものである。
 下関市の真言宗阿弥陀寺は古くからあり、壇之浦合戦後、安徳天皇の遺影を奉葬し、耳無法市などで有名な寺であった。
 しかし、明治の神仏分離令をもろに受け、住職は神官にならされ、明治八年(一八七五)に官幣中社になり、社号も赤間宮と改称し、仏像その他を処分し、寺の姿を消し去ってしまった。
 もちろん神官になった住職はやめさせられ、新しい神官が採用された。
 そして昭和十五年官幣大社となり、阿弥陀寺は影も形もなくなり、ただ阿弥陀寺陵という名前が残っている。
 明治十年一月に教部省を廃し、内務省社寺局を設置して、神道を中心とする国体の教化をはかり、神体として祭られていた仏像を取り除き、菩薩・権現などの仏語の神号はすべて改められた。
 このため、上宮・中宮の本尊である、虚空蔵菩薩と妙見大菩薩を千数百年間鎮座されていた場所より、鷲頭寺の観音堂に遷座することになった。
 宮司であり住職であった河村明範師は、この時、どのような思いがしたであろうか。
 明治三年の遷座より九年目、明治十二年十二月十七日、上宮・中宮の全ての御本尊と鷲頭寺の御本尊を、現在の地、下松市中市に御遷座した。

御遷座の絵