明治十二年の前後は何かと問題の多い時期であった。
明治九年十月には不平士族を代表して前原一誠等が萩の乱をおこし、また、明治十年二月には西郷隆盛が鹿児島で乱をおこした。
世の中が動きに動いた時代であった。
また明治十二年には大小区制が廃止され、県下は十二郡一区として郡役所・戸長役場をつくり、新たな組織づくりがなされた。
このような時代に、鷲頭寺住職河村明範師は妙見宮鷲頭寺の繁栄と存続を考え、下松町に移転の決意をする。
だが、この移転は周防一円の真言寺院と河内村・下松町の住民をあげての賛成・反対の大騒動に発展した。
移転賛成派は下松町の住民で八百余名の賛成連署をもって住職河村明範を助け、西市の正福寺住職中村一現師とともに移転の準備をした。
一方、反対派は河内村の住民で村の盛衰にかかわると考え、周辺の真言宗寺院の住職と反対の〝のろし〟をあげた。
その移転反対の上申書とは
―鷲頭寺移転之儀ニ付上申書―
今般本国都濃郡河内村鷲頭寺ヲ以テ同郡西豊井村下松町ニ移轉致シ度旨ニ付即御本山之御副書ヲ得テ地方廳ニ出願候趣ニ御座候得共、本ヨリ当寺ニ安置之妙見大菩薩者数百年来村内人民之信仰者勿論近郷一般帰依之尊像ニテ諸人参詣モ数多御座候虚右様移転ニ相成候テハ、人民之信力ヲ失スルノミナラズ自然村内不繁栄之一瑞トモ相成候ハ必然御座候ニ付結衆ヲ始メ村方一統連署ヲ以テ右移転之儀双方熨儀ニ相成候迄御延引被成下度目今地方廳ニ歎願中ニ御座候
右当寺移転ニ付テハ前以テ結衆ヲ始メ村内人民ニ示談可有之筈之處現今住職河村明範一巳之料簡ヲ以テ正福寺住職中村一現ナルモノト相謀リ擅断至極之取斗ニ御座候間村内之苦情不輙カラ結衆之僧侶モ傍歓ニ不堪候条、何卒双方熨儀候迄御本山之御副書モ一先御取消ニ相成候様当地方廳ニ御駈合被成下度此段結衆一統連署ヲ以テ歎願仕候也
山口県下周防国都濃郡河内村鷲頭寺結衆
明治十二年十月二十一日
仁和寺
執事御中
以上のような文章を真言宗の結衆寺院から移転反対の書面を受けた仁和寺は移転許可を出したことを反省し、移転を引き伸ばすように地方廳に書面を出す。
山口県周防国都濃郡河内村
鷲頭寺
右寺移転之儀ニ付先般副書致シ候処都合之次第モ有之候門追而否相定候迄御採用御延引被下度候也
大本山
明治十二年十月二十三日
仁和寺住職 冷泉元誉 印
山口県御廳
その後、また反対派の結衆寺院は大本山仁和寺に反対文書を送っている。