『鷲頭寺は古来より維新のきわまで妙見宮別当なる処で神仏判然の節、本村の信者輩当寺観音堂に妙見さまを安堵し、遠近の差別なく信者の多きは己前にもまして多く、これ妙見宮安置の仏体なるをもって、しかるになお移転しようとはなにごとであるか』等々の内容である。
このような状態の中、明治十二年十二月十七日に下松町中市に御遷座した。
下松市教育委員会発行の『下松市の石造文化財、祈りと生活』の中の〈昭和通松心寺の山門に入ると、その山門にほとんど並んで左右に二基の宝篋(ほうぎょ)印塔が立っている。
宝篋印塔
二基とも高さは大体同じで約三四〇センチぐらいである。
東側 亨和三年癸亥年正月吉日(一八〇三)
鷲頭寺現住恵亮代
願主 磯部清右衛門・磯部弥四郎・原田友右衛門・磯部吉左衛門
西側 文化五戊辰年九月吉日(一八〇八)
鷲頭寺 現住恵実代
願主 清木善右衛門・清木七左衛門・清木彦右衛門
の二基の宝篋(ほうぎょ)印塔が松心寺に残っている。
この宝塔は明治十二年に中市に妙見宮を遷座するとき河内村の住民の反対のため松心寺の籔の中にかくした。
その後、昭和二十五年山田氏により松心寺に組み立てそこにおかれるようになった〉と記してある。
このような悲しい出来事は二度とあってはならない。
その後、明治十五年十月三日付で仁和寺本山より通達がくる。
先般八百余名の連署をもって移転されたわけであるが、大変不都合なことをいたしました。
移転されて後、直に盛大を来たし、寺は繁栄されているとのこと、今回、更に転地の書面等、記載し寄付地所並びに維持資本金等に寺付属の物を入記して本山に至急連絡するよう通達する。
明治十五年十月二日
大本山 仁和寺
執事 印