(4)鷲頭寺火災にあう

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 これでようやく移転の波が静かになったかに見えた。
 その後、河村明範師は鷲頭寺の住職を正福寺住職中村一現師に明治二十四年一月十一日付でゆずり、鷲頭寺隠居となり鷲頭寺で頑張る。
 しかし、不幸にも明治二十七年四月十一日夜、鷲頭寺は火災にあう。
 そして鷲頭寺住職中村一現僧正はその責任をとり辞任し、豊浦郡豊田町の神上寺の住職としておもむく。
 中村一現僧正の後、明治二十七年五月二日付をもって白松真應師が鷲頭寺の住職となる。
 しかし、河村明範師は明治三十一年十二月十七日、六十八歳にて他界するまで鷲頭寺の隠居として住していた。
 その後、白松真應師は朝日山真照院にて明治四十年一月十四日に亡くなり、その弟子である厚東旭應師が住職となり、昭和三十年九月十七日の命日まで住職として在職。
 その子、厚東正宣師が住職となるが、短命にて昭和三十七年九月六日に亡くなる。
 その後、六年間住職が在住せず、正福寺住職上田元夫師が兼務しており、昭和四十三年寺澤大英師が住職として来寺する。
 寺澤大英師は昭和五十六年九月一日付をもって隠居し、昭和五十六年九月十七日付にて現住職杉原孝俊大僧都が住職となる。

鷲頭寺、住職の墓(妙見山)


妙見宮奉賛会総代(昭和56年2月節分祭)