序論

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 妙見社への御縁は山口県下関市の故郷で第一歩を踏み出していた。妙見菩薩がお祭されている部落で庄屋である杉井家の古い地蔵菩薩を修理したことからはじまった。
 修理中、大内氏の姫御前の切腹の場面と念持仏の修復の完成を喜んでくださる夢を拝したのです。その後数年を経て、下松市の妙見社(宮)鷲頭寺の住職になった。
 住職になる数ヶ月前、私が過去七代の住職達の前でゴマを修行しているのである。ゴマを修し終えると過去の住職達は、お前でもよいであるうと判断を下された。
 先住はまだ私が住職になるには数年後だと云われていた。しかし、その年、台風があり本堂の屋根が崩れ落ち、修復することになったのです。先住は高齢で本堂修復のエネルギーはなく、すぐ私に引継ぎたいとの事になり住職になることになりました。
 私が住職になってすぐする仕事は本堂の修復工事であった。
 住職になり、この寺が大内氏の氏神である妙見さまをお祭りする寺であり宮であることを知り、妙見社(宮)鷲頭寺の歴史を調べることになりました。
 住職になって数年後、『妙見さま』の事を書いた本を出版したのですが、歴史的事実を十二分に調べる事もなく情熱で書き上げ、もう二十数年になり、再度挑戦してみようと考えたのです。
 この二十数年の間、多くの方々が大内氏と妙見社との結びつきを書かれてきました。
 しかし、当寺の住職が誰よりも歴史的事実に基づいて知るべきだと考え、高野山大学の大学院の通信教育の始まりを知り、よい機会だと判断し、大学院に入学したのです。
 大内氏の太祖琳聖太子、妙見さま降臨日の伝説は永遠の謎であります。
 永遠の謎がおこりうる歴史的事実も存在し山口県各地に伝説として今なお語り継がれて来ております。
 その伝説の上に信仰が継続されている事実を認識し、千数百年が流れて来ました。
 調べれば調べるほど、伝説を歴史的事実と関連づけながら解き明かすことの困難さを痛感しました。伝説は伝説としてとらえ、事実から出発すればよいのですが、伝説の中にも歴史的事実が隠されているであろうと判断したのです。
 しかし、なんとか十二分とはいえませんが、中村本然先生の御指導を得て妙見社の姿が見えて来たのではなかろうかと考えています。