当社の伝記は、弘法大師空海をさかのぼる事、約二百年前の物語であり、山口県都濃郡の鷲頭庄(下松市)の青柳浦の松の木に北斗七星尊星王、妙見菩薩として降臨された物語である。
縁起というのは往々にして事実と脚色が交わりながら一つの文章が完成する場合が多い。ここでとりあげる妙見社の社寺伝には三種類の記録が残されている。
社寺伝には三点の大きな相違がある。それは隕石の落下の日時の違い、琳聖太子の渡来日時の相違、登場人物の存在、非存在の問題であり、最大の問題は山口県の権力者であった大内氏の太祖と結びついていることであり、また権力者との結びつきがなければ歴史的資料は存在しなかったであろうという事実である。
妙見社に関する史料として『鷲頭山妙見縁起』、『鷲頭山舊記』、『妙見山古記』の三点が残っている。
①『鷲頭山妙見縁起』は神主である近藤左衛門の書写である。
「敏達天皇御賢称、戊戌(つちのえいぬ)之秋(七年=587年)、鷲頭庄豊井浜と申所に虚空より大なる星降下、松の梢(こずえ)に宿リ在(いま)し、昼夜光を放、世界に赫々たり、口(ソ)俗希代之思を動し男女不審之心懐(いだ)く、于(その)時童子出現せり、爾(しか)も神通之瑞相と見たり、其故地を去て七尽虚空に住す、加之託宣して曰、吾則妙見尊星也、今七年経て異国より太子来朝に可渡、彼太子を守護せんが為、此所に来たると云々、北辰松に下り坐すに依て下松と申也、同秋新宮に遷申也、然るに琳聖太子鏡常に年申辰(きのえのたつ)渡朝と云々…」
②『鷲頭山舊記』鷲頭寺 には以下のようにある。
「抑日本最上北辰尊星王之降臨者、人皇三十四代推古天皇之御宇三年乙卯(きのとう)九月十八日、周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦松樹大星天降而七日七夜、赫々面不絶輝御人奇異之成疑慮、于(その)時託巫人吾是北辰也、今經三年百済国之皇子可為来朝其擁護北斗于此為下降云々仍而国司江奏之、多々良傅記云「百済国之高祖薀祚王漢之鴻嘉(こうか)三年発亥(みずのとい)春郡を河南国に開きて馬韓と號す。百済玉璽を以て王位に立つ、是皇極と云ふ、北斗を祀(まつ)て符を以て萬物に示す是王法と謂、温祚王三十九世之孫武王(名を璋明と号す)璋明三子あり、第一子義慈王、第二子阿佐太子、第三子琳聖太子、太子拝北斗事年久、一夜夢中老翁来而海を示し、東海に日本の国名あり、是国之王子 聖徳太子と号す、即生身観世音菩薩也、是国に到む王法を傳之国家を治めしむべしと、吾即斗なりと謂ひて去る。茲に因て琳聖太子渡海せんと欲す」
③『妙見山古記』 鷲頭寺 には、多々良氏譜牒日からはじまっている。
「推古天皇御宇十七年己巳(つちのとみ)周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦有大星、留在松樹上而七昼夜赫不絶、国人成奇異之思也、時託巫人曰、異国太子来降て日本、為其擁護北辰下降云々、因改其此曰、下松浦、祀星奉称妙見尊星王大菩薩社以祭之、経三年辛未(かのえひつじ)歳百済国斉明王第三皇子琳聖太子来朝…乃琳聖謁て聖徳太子荒陵、割周防大内県以為菜邑(おお)之地、賜姓多々良爾来(じらい)綿々不絶、其後妙見大菩薩従下松浦移于(その)柱木宮、今宮洲也」
以上三種類の寺伝が存在し、大星が鷲頭庄の青柳浦に落下し、星の信仰がおこり、琳聖太子を擁護する為に降臨したのであるが、日時に敏達天皇、推古天皇三年、推古天皇十七年と相違がある。多々良氏譜牒は山口市の興隆寺の寺伝をもとに大内氏が書き上げたもので、『妙見社縁起』は『鷲頭山舊記』でもって完成したといってもよい。
山口県史の中に登場してくる琳聖太子の存在である。一般的には百済国の武王の子供には第一子義慈、第二子阿佐、そして第三子琳聖である。
『鷲頭山妙見之縁起』の敏達天皇七年の時の④『日本書紀』の記録と七年後の記録を調べてみると、敏達天皇七年の記録には百済国に関する記録はなく、敏達天皇六年夏五月五日の記録は「大別(わけ)王と小黒吉士を遣れして、百済国に宰とした。冬十一月一日、百済国王[威徳王]は、還り使の大別王らに付して、経論を若千巻、また律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工、六人を献った。けっきょく難波の大別王の寺に安置した。」とあり、七年後の前後の記録を見ると、敏達天皇十二年秋七月一日、「紀の国造の押勝と吉備の海部直の羽島と百済に遣(つか)って[日羅]呼んだ。冬十月、紀の国造の押勝らが、百済から帰国した。朝[廷]に復命して、「百済国主が日羅を惜しまれて、[天皇に]上るのを許そうとしないのです」といった。この歳、ふたたび、吉備の海部直の羽島を百済国に遣わして、目羅を召した。」
敏達天皇十三年秋九月、「百済から来た鹿深臣(ふけ)(名字欠く)が彌勒の石像を一躯もっていた。佐伯連(名字欠く)が仏像を一躯もっていた。この歳、蘇我馬子宿禰は、その仏像二躯を請い、仏殿を修治(しゅうじ)った。仏法の初めはここからおこったのである。」
『鷲頭山舊記』、『北辰妙見菩薩霊応篇鎮宅霊符縁起集説』に記す大星降臨の日を推古三年九月十八日と定め、琳聖太子来朝を推古五年三月二日説を取るのは百済国の王子阿佐太子の来日である。
『日本書紀』の巻第二十二には「推古三年五月戌午(つちのうま)の朔丁卯(ひのとう)に、高麗の僧、慧慈帰化。則ち皇太子、師としたまふ、是歳、百済の僧、慧聰来けり。此の両の僧、佛教を弘演めて、並に三寶棟梁と爲る。五年夏四丁丑朔(ひのとうしついたち)、百済王遣王子阿佐朝貢」
「妙見山古記 鷲頭寺」は、多々良氏譜牒を主に考え、推古十七年、降臨日、推古十九年琳聖太子渡来としている。
『日本書紀』には推古十七年の記録には夏四月四日「筑紫[福岡県]の太宰が奏上して、「百済の僧が、道欣(どうこん)、恵彌(えみ)を頭にして、十人、俗(人)が七五人、肥後[能本県]の葦(あし)北の港に泊まっています」といった。そこで、難波吉士、徳摩呂、船史龍を遣わして、問うて、「百済王が命じて呉国に遣わしました。その国に乱があり入(国)できませんでしたと。そこで本郷(国)にひき返そうとすると、たちまち暴風に逢い、海中を漂流しました。しかし大きな幸があって、聖帝の辺境に泊(は)てました。よろこびにたえません」といった。…」
「推古二十年夏五月五日、この歳、百済国から[帰化]して来る者があった。さてまた百済人、味摩之が帰化した。」
聖徳太子と阿佐太子の出会いの物語が三宝絵や聖徳太子伝等に書かれている。
聖徳太子と日羅と出会い、聖徳太子と阿佐太子の出会いの物語は、『日本書紀』よりはじまり(八二二年)、『聖徳太子傳』、⑤『三宝絵』、⑥『今昔物語集』等々に語られている。
『日本書紀』には「推古五年、夏四月一日、百済王が、王子阿佐を遣わして、朝貢した。」とある。
『三宝絵』と『今昔物語集』には「また御姑(しゅうと)推古天皇位につきたまひぬ。国の政をばみなことごとく太子につけたまへり。百済国の使にて阿佐という王子来れり。太子を拝みて申さく。「敬礼救世大慈観世音菩薩、妙教流通東方日本国。四十九歳伝燈演説」と申す。太子この時に眉間より白き光を放ちたまふ。長三丈(さんじょう)ばかり、しばらくありて縮り入りぬ」これは先きの敏達朝の時、帰国した日羅と出会った時の言葉を思い出す。
「敏達八年の冬新羅国より仏像を献れり。太子申したまふ、「西国の聖釈迦牟尼仏の像なり」と。百済国より日羅と云ふ人来れり。身に光明あり。太子ひそかに幣(やつ)れたる衣着て緒の童に交じりて難波の館に至りてみる。日羅太子を指して怪しぶ。太子驚きて去る。日羅地に跪きて掌を合せて云はく、「敬礼救世観世音、伝燈東方(粟散王(ぞくさんおう))と申すほどに、日羅おほきに身の光を放つ。太子また眉間より光を放ちたまふ。」
以上の文章から推するに日羅
も阿佐太子も聖徳太子の仏教者としての偉大さを表現していると同時に予言を与えている人物を仏教伝導者、陰陽道的背景を持ちながら伝えている聖人としてとらえられている。
聖徳太子と阿佐太子の物語は⑦『聖徳太子傳記』で完結している。
「夏の比、百済国の儲君阿佐太子来朝す也、鎮西に自、使者に馳奏す、遙に聖徳太子の神異無ふを方承す結縁爲めに奉来朝す、伏して願天恩聴許し給へ、時に天皇 太子及郡に詔曰く、傅へ聞く大国の宮闕は金銀を鏤(チリバメ)、珠玉を交へ瑠璃の瓦は秋月の光浸す、珊瑚の甍は春日の影を曜す、本朝の内裏に檜杉を良材と爲し、銅石を結構(けっこう)爲す、鸞城鳳闕に只有のみ名、龍門鶴樓は更に無し實、爭力は大国の儲君を此軽賤之皇居に請(ニ)待し、吾朝之耻辱於此在り、云何と勅給ければ、群臣皆不能辨也、太子奏そ曰、夏の禹は宮室に崇せず、周文は臺池を修せず、而とも共に賢王の名を於古今(こきん)揚める、聖主〓そ貨殖を好む、方に今陛下の徳威、遠く海外に被る、故を以て、三韓の春宮に格止(イタリイ)たる、何そ差(さ)有ん、耻か澤田の宮を荘嚴して之請待したまう宜申玉ければ、天皇大に御感有て使者に勅して曰く、万里の波濤を凌て来儀す、其懇誠謝ても餘有ん、小国宮城其憚有といえども、不忍辞るし早く入洛有らんと、宣給しkっれば、阿佐太子大に悦て参内の儀式(ぎしき)調り也、上下三百人余人(よにん)召し具し奉る、山城國泉河自り、奈良坂に縣て、京着とそ聞へける、洛中洛外見物貴賤雲霞の如し、時に太子は三輪山の北の麓に隠忍て之を伺給に、阿佐太子は王の輿に乘り、紫さ盖(サヤ)白盖を差し、供奉の官人は馬に騎荘す、紅旗青旗を靡す、錦袍玉冠夏の景を照して、前後に諍曰く、彼山上に紫雲有り、如盖、是れ聖人の気也、恐は聖徳太子彼山脚(あし)隠て、我等を伺ひ玉へるかとて、玉の輿を舁居(カキスエ)、成なし禮玉ければ、三百餘人の官人も悉皆下馬し禮を成しけり、時の人咸く大国の儲君之有て眼を稱(シ)し、本朝の太子無感隠を也、既而そ阿佐太子参内(さんだい)被に、太子兄弟三人同色の御装束にて御對面ありければ、阿佐太子左右に無(な)し、、見分け奉まつることできず、時に太子の両手の掌を開き玉ふ、中に秘文有り、口傅云 大慈経文也、遠江国橘本西福寺御事文保元年七月十四日太子元現玉ヘリ阿佐太子奉見之、即ち生身の観自在菩薩と知つて、即く座より起て、右の膝着て地に合掌し禮拜して唱云
合掌敬禮 救世大士 観音菩薩 妙教流通 東方日本 四十九歳 傅燈演説 大慈大悲 敬禮菩薩
爾時、太子御感應(たいしおんかんこた)有て、眉間より自ら金色の光を放て阿佐太子の頭を照し玉へば、百済国の供奉の官人、本朝の月卿雲客、各信伏随喜の思を成し、恭敬尊重之誠を抽けるなり、其後並て榻を委曲に談話し過去未来事一、畢て阿佐太子辞し、本国に歸る、太子は名殘を惜し給て播摩の国明石浦まで御送ありけり、爾時、阿佐太子曰して言く、此までの御送行生前の大幸只此事に在る、早々に還御あるべし、身は山川千里の外に處といえども、心は必金襴一室の中に在とて、被ければ流二感涙一、太子も哀に思食し、御衣の袂を沾し玉へり、還御之後大に歎じ曰く、阿佐は吾先生の弟子也、師弟之契の深に依て、万里を遠とせず、来て我を謁(ス)す。悲哉や、昔は死の別れを示し、今は生の別を告げて、深く愁涙し給けり、時に卿相雲客歎じ曰く。抑阿佐太子者は戒善の薫習に依て、大国の儲君と成(ナ)る。而先生師資之禮義忘れず、遠く險浪を凌て、恩願を拜し奉る給へる事、之有難ためしなり様也とぞ申合ける、時妹子の大臣臼して言ク、殿下は大聖の権化、壽命は松栢千を年(ヲ)限らず、二(フ)利益を施し給うべき也、阿佐太子之敬禮の文に、四十九年傅燈演説と曰(ゆ)う、何ぞや也、太子曰く、壽命の長短は時に依り機に随て定まらず、拘留孫佛は六万歳の益物施(シ)し、迦葉佛は二万歳の化導を示し、釋迦文佛は八十で涅槃入也、共に是れ常住不滅の法身如来といえどもなしがたし、随類應化の利生は巳に區也(マチマチナリ)、今吾託生せる国は粟散の辺地也、人に信心無(シ)し、時は濁乱悪世也、法に障碍多(シ)し、何ぞ長壽壽の利益施すに堪ん、仍て本朝の化導は四十九年を以て限となす、阿佐カ禮の不虚と勅し玉ければ、妹子乃群臣大歎して曰、太子今年は巳二十六歳、叡算早く半は過玉へり、往事を案ずるに、昨夢(ノ)の如し、此後の光景那其(ソレ)久哉ヤ。兼て奉て御餘波惜む、感涙徹肝難し忍び、汎ヤ其期おいてやとて、皆袖を混すのみ也。」
聖徳太子には数多くの御名がある。一は厩戸の皇子、二は八耳の皇子、三は上宮太子、等々であるが、仏教の伝道者としての呼び名尊敬語である聖徳太子が有名である。
聖徳太子の建立した有名な寺で四天王寺がある。四天王寺の金堂の救世観音を詠じた眞宗の親鸞が作した『皇太子聖徳奉讃』に「阿佐太子の勅使にて、わが朝にわたしまひし金銅の救世観音敬田院に安置せり、この像つねに帰命せよ、聖徳太子の御身なり、この像ことに恭敬せよ、弥陀如来の化身なり」とのべている。またこの寺には聖徳太子が愛用した剣が国宝として殘つている。国宝七星剣である。これは北斗七星を剣に表現した妙見信仰の象徴の宝剣である。この剣は百済制であると伝えられている。阿佐太子が聖徳太子に献上した宝剣ではなかろうか、ここにも阿佐太子の妙見信仰の伝道者の姿が浮かんでくる。妙見信仰の中にはかならず琳聖太子という名前が出てくる。聖徳太子伝に出てくる阿佐太子も仏教の伝道者であり、妙見信仰の中では仏教的尊敬語として琳聖太子と呼び琳聖太子を妙見神と成長させたのではなかろうか。
山口県で阿佐太子の史料があるかといえば阿佐太子の母の伝説が厚狭地方に残っているのみである。
鴨神社の⑧『鴨社略縁起』に阿佐太子の母で聖明王妃がわが子に会いたい母の一念で百済の港から舟で玄海灘をわたり、周防国の厚狭川口に着き厚狭の地で薨じた話である。
鴨神社の祭神は主神として中央に下、上の鴨大明神二柱、そしてその左右に1百済聖明王、2聖明王妃(宝鏡をまつる)3北辰妙見(琳聖太子)4琳聖太子妃5苦労大権現(銘石)6十一面観世音の六柱を祀った。ここでは阿佐太子、琳聖太子、北辰妙見が三位一体としてとらえられた。
ここで山口県各地に伝えられた琳聖太子の伝説をとりあげることにする。
伝琳聖太子の伝説の大部分は周防灘に面した地域に集中しているが、しかしただ一か所だけ島根県の鹿足群に琳聖太子伝がありそれも下松の妙見菩薩の事が縁起として書かれている。まず初めに山口県各地に伝わる琳聖太子伝を取り上げることにする。
現在下関市豊田町江良の真言宗高野派の神上寺の由来である
⑨『神上寺由緒記』 江良村 神上寺 豊浦郡江良
-琳聖太子之御持来、観音堂の本尊是也-
⑩『寿光山浄念寺由来書』 厚狭郡棚井村
-当寺儀は往古禅宗ニテ、琳聖太子御建立の古跡の由申伝候…
⑪禅宗嵯峨天竜寺末寺 不動山 永興寺
-当寺開基ハ延慶二年大内十五代周防権介弘幸建立して延請仏国国師開山とす。琳聖太子齊来の不動尊像を安置して本尊とす。 至徳二年四月七日(一三八五)
⑫末信村 広福寺 『由来覚書』
-厚狭郡中山村明王山広福寺本堂本尊観音也、往古抑仁王三拾四代推古帝の御時、琳聖太子御来朝の時節、従百済御所持の聖観音なり。
⑬山口町 宇野令村 医王寺 『医王寺縁記覚』
-大内ノ元祖琳聖太子百済国馬韓皇帝斉明五第三ノ皇子也、常ニ医王山ノ薬師如来信心マシマシテ…然処ニ推古天子十七年防州都濃郡鷲頭庄青柳ノ浦ノ大星…
寛保元西十月 医王寺現住泰玄
⑭吉敷郡御堀村 『永上山由緒書』 真光院
永光由緒書
-当山開基仁王三十四代推古天皇二十一葵酉年、今至于寛保元辛酉一千百廿九歳、草創願主大内元祖琳聖太子也…
一、鎮守 北辰妙見菩薩
最初建立年月不如、大内五代孫茂村都濃郡鷲頭より被移、当山山半に上宮あり、麓に下宮あり、推古天皇十七年己巳有大星…
文明十八年丙午十月二十七日
従四位下 多々良朝政弘
⑮『吉敷郡山口戈判御堀村由来書』 乗福寺
-当山大内元祖百済国聖明王第三之王子琳聖太子遺廟之地也、太子木像并九重之石塔子今有之
建武三年四月二日
民部将
⑯大島郡八代村 『真言宗宮之坊由緒書』
異国より渡候由申伝候事
一五大尊 一幅
一愛染明王 一幅
一琳聖太子 一幅
但三幅共ニ琳聖太子の御筆と申伝候事
⑰伊保庄南村 無動寺
-本尊は琳聖太子百済国より御承来の不動毘須躅摩の御作と并金迦羅制多迦の三童子同作
⑱塩田村 神護寺 『石城山由来書』
縁起伝書
抑当山は人王第二綏靖天皇即位五年初春日金輪際より涌出せる霊地なり…
人王十四代仲哀天皇百済国聖明王と相親て琳聖太子をこふて太子来朝の時…
明暦二年 住持法印宥誉
琳聖太子に由来する伝説をもっている寺社は周防灘に面している地方が多い。他の地区で見られるのは島根県鹿足郡や熊本県の八代地方である。もう少し詳しく調べれば別の地域でもあるやもしれない。あるとすれば妙見信仰の伝説と関係しながら展開し、また鉱山技術者の関係を経ながら伝播していったように思える。昔から妙見様がお祭りされている場所には鉱脈があったという伝説がある。特に金・銀・水銀等である。
⑲島根県阿賀村 『崎所大明神縁起』
石川鹿足郡 崎所大明神縁起
崎所大明神縁起事
そのかみ大和国人皇にうつり久しけれて…
〓号賢称丁酉(ひのととり)とかやの時…百済琳中皇帝中林聖家之太子、こころさし有て五ヶ年の後…聞召なり彼大日尊八防州都濃郡とゑいの洗の一ツ松の木来に光明十余町…吾ハ是西しやう百済国の大日之化神、此後は妙見菩薩と申へし…」
琳聖太子の渡来伝説は山口県地方だけではなく、妙見信仰の一大拠点熊本県八代市にも伝えられている。
ここにも⑳『神宮寺縁起』と21『妙見宮社記』とがある。
「琳聖太子、明州より日本へ來航したまい高田郷、竹原と申すところに、しばらく御仮住に相なり」(八代市東町、光武家文書)
「天武天皇の御宇、百済国定居元年、聖明王第三の王子琳聖太子、亀蛇に乗じ本朝に渡りたもう。北辰尊星の精霊なり。中略はじめ肥後国、八代の荘、八千把村、竹原の津に着きたもう。」(妙見社伝旧記)
「初代琳聖の孫の尊孫にあたる数代目の琳聖が猫谷の光武袈裟松の案内で、横獄にうつりここで寂し、つぎの代の琳聖があとをつぐ。」
妙見宮の社殿の草創について
「桓武天皇、延暦十四年(七九五)己亥(つちのとい)、勅願によりて社殿を草創らしむ。」妙見宮実紀項
神宮寺の草創
「神宮寺の儀は、妙見宮経始以来の執行職社僧にて、文治二年下宮御草創の節、いまの寺地(宮地小学校)に移され候(中略)千年余相勤め来り申し候。云々」(妙見社伝旧記)
「神宮寺白木山(中略)往古より社僧十五坊の第一として、上宮経始以来の宮司坊たり。後鳥羽帝文治二年下宮草創の節、当寺もいまの寺地に構営す。」国志
「神宮寺は妙見の右に並ぶ。すなわち妙見宮寺の長たり。(中略)白木山と号す。旧横獄にあり。始祖を慧覚僧都という。(天長八年七月十五日寂)
『妙見社伝旧記』には
「当所妙見大菩薩は白凰九年、天武天皇の御宇、百済国定居元年、聖明王第三の王子琳聖太子、亀蛇に乗じ、本朝に渡りたもう。北辰尊星の精霊なり。ここをもって妙見尊星王菩薩と勧請奉り候。…」「琳聖家が二家に分かれる。神主家と神宮寺家である。神宮寺家が連綿して、この家から執行を出す。慧覚。智俊法印(貞観二年三月十四日寂(850))灌徴法印(寛平元年十月二十八日寂(880))中興、慈恵大師(永観三年一月三日寂(985))
平安朝の中ごろから、神宮寺家から二坊家が分かれ出て、社僧三坊となる。それが江戸期に復興した院主と一乗坊の起こりではあるまいか。
八代の荘では源氏勢力下に妙見下宮が創建されたことから以来四百年間、妙見宮の全盛時代を現出し、その荘園は、八代、益城両郡に散在すること六二町余、妙見宮は一個の荘領主として、他の八代の封建領主の間に隠然たる勢力をもつようになった。その神社としての動きは、八代に妙見信仰の不動の基礎をすえ、社会的には八代最初の都市を出現させ八代の文化の各方面に大きな足跡をのこした。以上の事を考えると、八代地方ではもうすでに九世紀には琳聖太子の名が妙見信仰とともに知れわたっていた事を示している。
(注)
①鷲頭山妙見縁起
②鷲頭山舊記
③妙見山古記
④日本書紀
⑤三宝絵 校注者 江口孝夫 発行所 現代思想社。九八四年尊子内親王の出家生活における仏教教養書
⑥今昔物語 編者公卿源隆国、寛治四年(一〇九〇年頃)
⑦山陽史話二 編著 山陽町郷土史研究会 発行 山陽町教育委員会
⑧聖徳太子傳記 顕真著、一二三九年頃
⑨防長寺社由来 第一~六巻 編集・発行 山口県文書館
⑩防長寺社由来 第四巻 P239 編集・発行 山口県文書館
⑪防長寺社由来 第七巻 P15 編集・発行 山口県文書館
⑫防長寺社由来 第四巻 P237 編集・発行 山口県文書館
⑬防長寺社由来 第三巻 P551 編集・発行 山口県文書館
⑭防長寺社由来 第三巻 P308 編集・発行 山口県文書館
⑮防長寺社由来 第三巻 P312 編集・発行 山口県文書館
⑯防長寺社由来 第二巻 P142 編集・発行 山口県文書館
⑰防長寺社由来 第二巻 P7 編集・発行 山口県文書館
⑱防長寺社由来 第二巻 P161 編集・発行 山口県文書館
⑲防長寺社由来 第二巻 P251 編集・発行 山口県文書館
⑳八代市史 著者 八代編纂協議会 発行 八代教育委員会
21八代市史 著者 八代編纂協議会 発行 八代教育委員会