陰陽五行思想は百済を経由して続々と日本にももたらされはじめる。その担い手は、まず初めは五経博士、易博士などの専門学者であり、法師尼、日羅、阿佐太子、慧慈、慧聰であり、のちには陰陽五行思想に通じた渡来僧観勒などが、天文、占筮、遁甲(兵法に関する占術)、相地(土地の吉凶を占う占術)、暦法などの陰陽道関係の書籍とともにこれを伝えた。阿佐太子は聖徳太子に七星剣を献上したといわれている。
聖徳太子を片腕として即位した女帝、推古天皇の十年(602)には、百済僧の観勒が来朝。暦本や天文、地理書、遁甲、方術書を献上した。
とくに注目されるのは天文、遁甲および方術の書である。まず遁甲だが、これは五行の気の展開である十干、十二支と、乾(けん)、兌(だ)、離、震、巽、坎(かん)、艮(ごん)、坤(こん)の八卦にもとづく干支術一種で時空間に配置された干支(神や星に置き換えられる)が、時間の経過とともに移動してゆく姿をとらえ、どの方位、どの日に天地の冥助が得られるかを探ることを目的とした軍陣兵法用の占術、およびそれにともなう呪術である。
また方術とは天地神明、鬼神らと気脈を通じ、気を自在に調整することによって不思議の術をおこなう道教仙術や呪術技能の総称だが、こうした魔術的テクノロジーはかつて日本文化の中には存在しなかったものであった。
天文観象術とは、天を区画する二十八宿、日月および木火土金水の五星などの運行を読み取り、その吉凶を占うことによって王政を補佐することを目的とした。今まで日本には知られていなかった。
原始妙見信仰は天皇制を確立するために利用されたと考えられる。
①「紫徴宮の中に北極五星があり、その最も尊きものが北辰である。泰一という。泰人の後にあるのが四星で、末の大星を正妃とし、余の三星を次妃、後宮の属とする。北辰は天子の位をいい、四星は后妃の位をいう。
②中国では『天皇大帝北辰星也』等と古典に見え、天皇が北極、北辰の神とされたことを示している。弘法大師空海も『請来目録』の中に、③「代宗皇帝は北極を屈して厭はず」とか④『金剛頂経開題』の中に「各々大日の垂択に奉ふること象星の北辰に共ふが如し」⑤『性霊集』に「今を見れば北辰の阿衡たり」、⑥『仁王経』を講ずる願文には「所以に朝廷の変怪を鎮め、元尺の塗炭を済はんが為に、謹みて紫徴の極殿、青春の鳳楼…」
北斗の住する紫徴宮という天界の世界を人間界の世界におきかえる思想では中央集権国家を創造していくやりかたである。
天にある天帝を至上神として尊び、天空上の諸現象は天帝が地上の王に示す意思を反映したものとされ、それを読み説くのが占星術であった。天地の現象は相互に感応し、その中心が北極星、北斗七星であった。
このことは逆にこれらの星の運行を観相することにより、異変に対処する策を得ることになり、政権の正統性の可否を問うことになったから古代律令体制下において原則として占星術は禁止、または厳重に管理された。
このような占星術は推古十年(601)に百済僧観勒が伝えたのが最初とされ、その後、百済の滅亡などのおり、陰陽に詳しい角福牟など多くの百済の貴族、学者の亡命により紹介されたと考えられる。
それが、天武朝に陰陽寮が設置される機縁にもなっていった。このように、北極、北辰が天にあっては太一神として天の中心をなすように、日本では北極、北辰が地上の天皇に重ねられてイメージされ、また神話においては天御中主神として天上至高の神に比定されたのである。
北辰尊星供は初め、推古朝に百済から伝わり、平安朝に入り、陰陽道、宿曜道が勢いを得るにつれ、星祭りがしだいに盛んになり、中期から後は特に北辰と北斗七星の崇拝が最も盛んになって、朝廷で星に燈明を捧げる祭事を御燈といった。
近江大津の宮において制定された永遠不変の律令にしたがって万機を総攬するという⑦宣言は元明、聖武、孝謙の三帝の即位の宣命に言挙げされたところであり、君主たるべき者は「賢き人の能き虎の補佐によって天下を平安に治め得る」ということから賢能を任用するという方針は、淳仁、光仁両帝の即位の宣命でもあった。桓武天皇の即位の宣命には、その一つは、⑧「天日嗣高座業(あまつひつぎたかくらのなりわい) 掛畏(かけまくもかしこき)近江大津宮 御宇天皇初賜(はじめたまう) 定賜法随」に行うという宣言であり、桓武天皇が、歴史的な天位に即くに当たって、律令政治維持推進の主導者たる自覚を新たにし、律令政治を天智天皇の近江令に基づく施政以来の歴史的なものとしてとらえ、律令政治を天皇の座において反省し、この政治の推進強化を窮行しようとする旺盛な意味が窺える。
その二は⑨「天下治賜君者賢人能臣得天下平安治物在奈聞行」というもので、それは、律令政治を推進し窮行しようという桓武天皇の盛り上がるような精神意欲を支えた北辰妙見の⑩「国有賢能 当徴召之」なる教導に対する恭順であり、北辰妙見に対する信敬を告白したことに他ならない。
桓武天皇の即位の宣命には、元明天皇から孝謙天皇に至る歴朝の即位の際の宣命に見える⑪「近江大津の宮に御宇しろしめしし天皇の始め賜へる法のまにまに」国政をとることと、淳仁、光仁両帝の即位の宣命に見える。
つまりそこには⑫『北辰妙見菩薩呪』に出た「君は賢き人能き臣を得てし天の下をば平けく安けく治むるものにあるらしとなも」という廷臣任用の方針とが併記されているとみられる。
光仁天皇がみずからの自覚において、みずからを妙見菩薩になぞらえたのは、養老七年二月十四日の詔に⑬「北辰に儀する者は時に順って以て涵育せん」とあるのが初見である。
⑭延暦四年(785)十一月十日、桓武天皇は河内国交野で天神を奉賽し、さらに二年を経て、同六年十一月十五日、大納言藤原継縄に命じて再度交野に天神を祭られた。
両回とも天神の祭祀であったのであるが、前祭の祭文では「天神に告ぐ」とあってもしかるべきであったと思われるのに、その箇所には「昇天上帝に告ぐ」となっている。
このことは天神と昇天上帝とが同一であることを示しているわけです。他方、鄭玄(ていげん)は⑮「昇天上帝は、冬至於二円丘一、所の祀天皇大帝星」とも「天皇は北辰なり」とも註解しています。交野(かたの)には、妙見山があり、⑯星田神社(龍降院)という妙見尊降臨の霊場が残っている。
桓武天皇祭祀の天神は北辰であったと考えられる。さらに、この祭文には⑰「臣、〓命(けんめい)に膺(よ)って鴻基(こうき)を嗣(し)守す」という一節があって、桓武天皇が北辰に対して臣の立場をとり、皇位にあることを北辰の子恵としていられたことが明らかにされている。(桓武天皇は一度臣下になられて、その後天皇になった方である)
この祭祀は燎火を焚いて営む⑱「燔(ばん)祀之義」であったことを伝えている。
昇天上帝の燔祀は、隨の煬帝の営んだことが隨書に見える。
したがって桓武天皇の天神賽祀は、前記両回とも、中国風の摂取であったことが一応考えられる。
しかし、桓武天皇の延暦六年以後には天神を燔祀されることなく、平安遷都後、⑲延暦十五年(796)三月三日至って北山霊巌寺(元妙心寺)の辺りに臨幸の上天皇みずから燈を捧げて北辰を祀られました。(「公事根源」)
貞観十年(868)以後、天皇の北辰献燈は「御燈」といわれるに至る。⑳(「三代実録」)
桓武天皇の宮廷政庁には百済人を初め、帰化人系の人々が多くおりました。皇太后の母は百済国純陀太子の末であり、天皇の外戚は百済王武鏡、理伯等がいた。
宇多天皇は八、九才の頃から、僧職を切望して、星辰尊重を説く延暦寺まで長年修行されたのであった。21『宇多天皇御記』の寛平二年正月朔日の修には「后士乃五星」を拝された様子が記されていたという。后士は『五帝本紀』に出た王者統治の地という意味であり、五星とは22『抱朴子』等でいう「螢惑星は火の精、朱雀を生ず。北辰は水の精、玄武を生ず。歳星は木の精、青龍を生ず。大白星は金の精、白虎を生ず。鎮星は土の精、乗黄を生ず」の意である。
属星拝は焼香を伴ったということは多かれ少なかれ仏教的であったことが察せられる。
天皇の元旦の四方拝は桓武天皇に源流した北辰献燈が儒教の混合化成であったのと帰一したものであって内典外教帰同の思想の時勢の顕現とみることが出来る。
宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇を経て村上天皇の代になると御燈とともに、妙見供、北斗供、尊星五供と変化して行った。
23妙見供は、妙見菩薩を中心に北斗七星二十八宿などを配した曼荼羅を懸け、その前に壇を設け、護摩を焚いて妙見を供養する修法であり、北斗法は、曼荼羅を中心部に妙見の代わりに、仏眼または一字金輪を描いたもの、すなわち美術史の領域でいわゆる星曼荼羅の供養であった。
しかし、24尊星王供とは、天台宗寺門派は独自の供養で祖師円珍(智證大師)の著作と伝えられている。
『顕密一如本仏』に「星宿王者とは尊星王也、尊星王を以て 妙見と名く」とあるところから、天台宗山門派(比叡山)及び真言宗でいうところの妙見供、北斗供を尊星王供と称していたのである。
北斗供には、平安後期二百年の間に、幾多の新儀が生じたことから推定すると尊星王供にも多少の変遷があったとも考えられるが、それはとにかく、25『尊星王供の儀軌』は「真言宗家ノ所為に非して、陰陽家ノ作法を以て拠りどころとす」(『阿婆縛抄』第一四四)しかして、この三つの修法は天皇が営ませることを原則としていた。
それは御燈が天皇の行事であったことと同一の精神に出たものと見られる。もちろん例外はあった。
白河院は、晩年、鳥羽院、待賢門院を伴って、加茂河岸に臨幸、史上に例を見ぬ華麗な河岸御燈祓のペイジエントを営み26(『長秋記』)犬治四、三、三)北辰信敬の上で、前後に比類なき新儀を展開された。
白河院は仁和寺の成就院寛助に命じて大北斗法を編成させようと考えられた27(吉祥真雄氏「北斗曼荼羅に就いて」宗雲第一七号所蔵)
大北斗法修法は天永元年(一一一〇)正月十日から十七日間営まれたのを最初とするが「真言院後七日御修法」それ以後長寛二年(一一六四)まで五十年余年間に修せられたもの28『東寺長者補任』に見えるだけを拾ってみても二十回が数えられる。
白河法皇の29北辰御祭文は代表的なもので、「南謄部州日本国大上皇、謹んで北辰玄宮無極天皇大帝尊星に臼す」で始まっている。
後白河法皇撰の30『梁塵秘抄』の今様には、「妙見大悲者は、北の北にぞおはします。象生願ひを満てむとて、空には星とぞ見えたまふ」とある。
これはこの菩薩が眼晴特に清らかで、よく物を照らし、象生の善行悪行を見通すために妙見といい、空では北極星と現ずると信ぜられたからだという。
平安中期になると妙見さまは眼疾回復に霊験あらたかということになり、三條天皇、鳥羽院の眼病回復に修法された。
鳥羽院の院政約三十年間には、白河院の意向で創始された大北斗法も、たびたび白河院の鳥羽院の御所で修せられた。31(「東寺長者補任」)鳥羽院と共に妙見を尊んで、当代を北斗供の世代たるかのような観あらしめたのは待賢門院であった。
待賢門院(たいけんもんいん)の法金剛院建立と同院における北斗曼荼羅供修法32(『仁和寺御伝上』)は白河院崩御(大治四年)の翌年(一一三〇)であり、待賢門院が白河院の猶子(ゆうし)だったことから推して、それは、白河院の冥福を祈るための建立と追想される。
長承四年(一一三五)三月、待賢門院の法金剛院寺内に造建した北斗堂落慶時に、待賢門院は鳥羽院ともども臨行し、白河院第四の皇子覚法法親王を導師としたとこの新堂供養(『仁和寺御伝』33『百錬抄』)には、待賢門院の白河院の冥福祈願、鳥羽院の長寿息災宿祓が籠められていた心情が掬み取れる。
この北斗堂は、周防の国司であった34藤原憲方が鷲頭の庄を寄進したことにより出来た。
長承四年(一一三五)八月一日、鳥羽殿より法金剛院に還幸(かんこう)せられた待賢門院は、八月十日まで北斗法を修し給う。35(『長秋記』)
(注)
①「白楽天詩解」P97 著者 鈴紀虎雄
②春秋緯合誠図 星の信仰
③請来目録 弘法大師著作全集第二巻 P32 編集者 勝又俊教 発行所 山喜房佛書林
④金剛頂経開題 弘法大師著作全集第二巻 P258 編集者 勝又俊教 発行所 山喜房佛書林
⑤性霊集 弘法大師著作全集第三巻 P238 編集者 勝又俊教 発行所 山喜房佛書林
⑥拾遺雑集(『仁王経』を講ずる願文) 弘法大師空海全集第七巻 P163 発行所 筑摩書房
⑦妙見信仰の史的考察 著者 中西用康
⑧続日本紀 平安初期の歴史書、六国史の第二、四〇巻菅野真道、藤原継縄らの編、文武天皇から桓武天皇まで
⑨北辰妙見菩薩経
⑩北辰妙見菩薩経
⑪続日本書紀
⑫北辰妙見菩薩経
⑬懐風藻 奈良時代ノ漢詩集、淡海三船撰天平勝宝三年(751)成立
⑭星田神社(妙見山・龍降院)・密教占星法・神社名鑑・続日本紀
⑮鄭玄(ていげん)(127~200)中国後漢の経学者 毛詩箋 周禮、儀禮、禮記の注(後漢書)
⑯密教占星法上編 森田龍僊著 P409・神社名鑑・神社本庁P559
⑰続日本紀
⑱柴の上に玉〓を加えて之を燃やして天を祭る儀式
⑲公事根源 一条兼良著(応永三十年(1423)頃成立、宮中における一年間の公事の起源、沿革をのべたもの)
⑳日本三代実録(清和、陽成、光孝天皇の三代。すなわち天安二年(858年)~仁和三年(887年)八月まで二十九年あまりを収録する。宇多天皇の勅による。)
21宇多天皇御記(宇多天皇の日記。江戸時代後期の中津広昵遍の「宇多天皇御記」あり)
22抱朴子
23中院流の研究 著者大山公淳
24阿娑縛抄 巻第百四十四
25阿娑縛抄 比叡山極楽房承澄撰
26長秋記 権中納言源師時の日記
27北斗曼荼羅について 吉祥真雄著 宗雲第十七号所蔵
28東寺長者補佐次第とも言う。弘仁十四年かた貞治六年(1367年)東寺内外でおこった重要事項を記した。
29星と伝説P19 著者 野尻抱影 発行 角川文庫
30梁塵秘抄 後白河院勅撰 日本の古典 小学館P163 巻第二287
31東寺長者補任
32仁和寺御伝(仁和寺の代々の御室の年譜。尊海(文亀四年(1504年)が寛平法皇(宇多天皇)から第十八代後光台院(静寛)その後、第三十代純仁親王(慶応三年)1867年までを含む)
33百錬抄 編年史 冷泉天皇の代から亀山天皇即位の正元元年(1259年)十二月まで
34防府史 藤原氏族の姓氏事典P274 千葉琢穗編 藤原氏族系図 藤原憲方 周防国司(大治三年(1128)~保延元年(1135))
35長秋記 (権中納言源師時の日記。皇后宮権大夫の職にあったため、長治二年(1105)より保延二年(1136))